万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

非生産的なGWを過ごしてしまいました

 もうゴールデンウィークは終わってしまったのだから、不規則な生活を改めなきゃあいけないんだよ、神無月君、と僕は言った。しかし彼はパソコンを眺めたまま動かない。何が楽しくてそうパソコンばかり見ているのかなあ、目がチカチカしてたまらないよ。だいいち同じページを開いては閉じてを繰り返してそれの何が楽しいのかな。僕は思うね、君のその行動はきっと君が暇を持て余していて、しかし暇をつぶそうにも能動的な行為をしたくないからしているんだ、ああなんたる怠惰、なんたる傲慢、時間を有効活用したいというのが君の口癖だと言うのに、まさに君の今の姿は時間を浪費する姿そのものではないか、聞いて呆れるよ。僕は彼に言い続けるも彼は僕の方を見向きもしない、ずっと画面を見続けている。まるで憑き物に囚われているようだ。僕はね君のことが心配だから言っているのだよ、君がそのままなにも生産的な行動ができずに一日を過ごしたらきっと後悔するって分かっているからね、僕は君のことなら何でも知っているんだよ、なんだって僕自身なんだからね。

 

 GWが終わって、5月病になるのかなあと思っていたのだけれど、そうでもないようで、僕としては忙殺されるような空間に身をおいた方が憂鬱な思考を追いやれるのだろう。GW中の悪い日なんかベッドから一歩の動けないときもあったのだから、なかなか強制力というものは馬鹿にはできないね。僕は昔から期限が迫らない限り行動を起こさない人だったし、そういう制約的なものがなければ行動できないタイプなんだろうね。でもその制約だってきっと自分で作ったものじゃあだめなんだ、これは本当に僕の駄目な部分を象徴しているのだけれど、自分に課した制約なんてものはあってないようなもので、ついつい甘えては期限を延ばしてしまったりする。自分のこういう部分が嫌だというのに、一向に治そうとしないのは自分でも馬鹿らしい。とことん自分には甘いんだ。

 

 ところで神無月君、君は新作を書いていると言ってたのになぜ全然筆が進んでいないのかな、結局GW中に一万字も書いていないじゃないか。ネトフリでシャーロックを観て、本を読んで、同人RPGをして、それで終わり? 執筆はどうしたんだい、と僕は言った。「別に義務じゃあないのだからするべきわけでもないでしょう、僕にだって僕の都合というのがあるんだよ、だからなかなかできないんだ」はあ、そう言ってるわりには新作の同人RPGをついさっき三週目をクリアしてエンディング回収も済ませているじゃないか、その労力を執筆には回せなかったなかなあ、いや別に非難しているわけじゃないよ、僕にだって怠け癖はあるし、君の気持ちも分かる、だけどね少なくとも一日に一文字くらいは書いてもいいんじゃないかと思うんだよ、だってね君の中にはもうある程度の物語の構想があるわけじゃないか、その構想だって常に思い浮かべていないと崩れてしまうんだよ、特に君の場合はプロットを書きたがらないからね、物語のそのほとんどを頭の中で構築して完結させる悪い癖があるからね、前作だってそうだったじゃないかだから後半になるに連れて息切れを起こして更に描写が必要な部分を分かっていたはずなのに書かなかった、書こうとしなかった……辻褄合わせが面倒だからと言ってね、それじゃあいい作品は作れないよ……いや、分かっているよ君はいい作品を作りたいんじゃなくて満足のいく作品を作りたいだけで、あくまで自慰行為の一つだってことくらいはね、でも消化不良の作品を書いたところでそれで満足できる君じゃあないだろう、僕には分かるんだよ、何回でも言うよ、君は僕自身なんだから。

 

 積読していたファストアンドスローを読んだ。良い読書経験になったと思うし、きっと統計の勉強にもなったと思う。僕は回帰性を意識して生きるべきなんだろうと思った。今はツルゲーネフのはつ恋を再読しているのだけれど、はつ恋ってこんなにも描写が美しい作品だったかしらん。まあ僕が最後にはつ恋を読んだのは高校生のときだったわけで、すでに5年も昔の話なのだから忘れていて当然なんだけどね。今だってこうして読んでいるというのにどんな物語だったかおぼろげだ。でも再読ということもあってか、読めば「ああ、こんなシーンもあったなあ」と思うので、やはり印象に強く残っている作品ではあるのだろうね、どうでもいい作品は再読しても(再読することもほぼないのだが)シーンを思い出しづらいから。さて、はつ恋を読み終わったあとには何を読もうかなあなんて考えている。別の本への浮気だ。でもそういうものだよ、プラトニックな恋愛を読んでいるからこそ浮気してみたくなってしまうんだ。僕にはそういう反対のことをしようとする癖があるからね。今の所敬愛しているドストエフスキーの悪霊でも再読しようかなあなんて思っている。今でも「生は苦痛です、生は恐怖です、だから人間は不幸なんです」というキリーロフの言葉は覚えている。再読しなくとも覚えている言葉なんだからやはりこの言葉は僕にとって大切な言葉なんだ。大切だけど、反抗したい言葉でもある。人間が不幸ならなにが幸福なんだ、人間は幸福になれないのかってね。でもキリーロフはこう言っているけれど、ドストエフスキーは書簡で人生は幸福だとも語っているからなにがなんだかわからないよね。人間と人生じゃあかなり違うと思うけれど、しかし非常に親しいものでもあるんだ。でも同時に相反する二つの意味を持っているものなんだよ思うよ、人生ってやつは幸福と不幸を同時に内包しているんだ。パルマコンなのさ。立場や見方、他にも様々な要因があって、それぞれの瞬間に人生というやつはその姿を幸福にも不幸にも変えるんだよ。まさに幽霊みたいなやつさ、ふわふわして、掴みどころがなくて、不安定で、僕の小さな力じゃどうすることも出来ないやつなんだよ。でも人生を投げ出すことは、投げ出すことを考えてみてもなかなかどうして実行に移せないのだから、きっと手放してはいけないものだってことを、深い部分では分かっているのだろうね。どれだけ人間に絶望しても人生だけは手放してはいけないのかもしれないね。死というのは終わりであり、永遠の停滞を意味することだからそこには幸福も不幸もなくて、きっと虚無しかないんだ。幸福の分だけ不幸になってしまう、逆もまた然りな人生だけれど、それでも幸福を感じられるその事自体に価値があるのだから停滞よりはいいんじゃないかと思うよ、だから生きるべきなんだ。さてちょっとだけ自分の書いてきた文章を眺めると、ぎゃあ、まるでメンヘラみたいじゃないか。嫌だなあ、僕はメンヘラじゃないからメンヘラみたいに思われたくないなあ。

 

 ところで神無月君はいったいどんな話を書こうとしてるのかなあ、いやまあ気になったんだよ、君の筆があまりにも進まないからね。一体何を考えているんだい。「何も考えちゃあいないんだよ、何も考えてないんだ。君が聞いているのは今僕が何を考えているか、ということだろう? あるいは僕は今、君に対して煩いなあと思っているのかもしれないし、やはり何も考えてないのかもしれない。聞くだけ無駄だよ」いや、そうはいっても人間というのは考える生き物なんだからなにか考えているんだろう?「煩いなあ! だいたいなんだよ、口を開けば人間、人間って、ああ僕だってもちろん人間だけどさあ、常にその事ばかり考えていたくはないんだよ。頭が割れてしまう!」そう怒らないでくれよ、怒ったところでなにも変わりはしないんだからさ。なあそろそろ教えてくれないかなあ、次回作はどんな話にするかって、僕だって気になるんだよ、君の中じゃあまだまだ構想の段階かもしれないけどさ、ある程度の形をとってきてはいるんだろう? ならそれを言語化して形に存在をあたえなくてはならないと思いはしないかな。「……一理あるね。まあこれはまだ構想の段階に過ぎないことだけれど、僕としては惨めなセックスを書きたいと思うよ、傷の舐め合いみたいな、惨めで、残酷で、だけど局所的で刹那的な救いのあるセックスをね。前作の主人公がKに誘われたけれどできなかったセックス。でもさそんな話を書いてしまったらそれはR18になるわけじゃない? だとすればどこに公開しようと思うわけ。まあ書いてからそんなことは考えればいいのだけれどね。別に公開できる場はたった2つというわけでもないし。で、セックスのこと以外にも書いてみたいことはいくつかあるのだけれど、やっぱりセックスがあるのだから愛を書いてみたいと思うよね、はつ恋みたいなプラトニックな愛をね。とにかく前作では描けなかったマグマのように熱くて、重くて、煌々と輝く愛を書いてみたいんだよ。人間なんて畢竟生物なのだから、性愛について掘り下げるのは人間について掘り下げるのと同義なんだよ。だから僕は愛を書いてみたいんだ」なるほど、でも筆は進んでないようだね、その理由はあるのかな。まあ君のことだからどうせゲームに忙しかったんだろう?「まあゲームばかりしていたのは認めるよ。セキロの修羅ルートめっちゃ大変だったし、なんかスマブラでジョーカー参戦しちゃったし、アサクリが無料で配布されてたし、まあいろいろとあったからね。でも物語を書く上で悩んでいることもあるんだよ、僕はまだ勉強不足だなあってね。今書いているのは主人公と脳神経外科医(まあ実質精神科医なのだけれど)の対話なんだけれどね、その脳神経外科医が哲学的な話をするんだよ、僕の場合登場人物は勝手に話すし、勝手に動くからね、どしようもないんだ、それで今はフロイトに関する知識を吸収している途中なんだ。他にも主人公は精神分析が趣味でね、精神分析に関する文献も読もうとしているところなんだ、まあフロイト精神分析の大家であるからね」へえ、勉強してるってこと? でもどうせ家ではゲームばかりしてるんでしょ、僕は分かるんだよ君のことはね。だって僕は……

 

 もう今週末はコミティアか。時の流れは早いなあ。

平成を振り返ってみようと思ったんだ

 今日はいわゆる平成最後の日なのだから、なにかそれっぽいことができないかな、なんて考えてブログを書こうかなあと思ったわけだけれど、でも平成を振り返るにしても僕は平成生まれなので、平成を振り返る記事を書いたとしてもそれはいままでの人生を振り返るのと左程変わらないんじゃないのかなあと思い、というかそもそも僕のブログのバックナンバーの初期の方なんて大抵僕の人生の振り返りだったわけで、わざわざ同じことを何度も書くのはちょっと違うなあ、しかしだとすれば何を書けば良いのだろうかと思い悩みながら、さてこのブログの読者の皆様におかれましては何を書けばいいと思いますか、僕の人生を振り返るべきでしょうか、それとも別に僕が何を書こうとも知ったことではない、ああ、そうでしょうね、それが正しいと思いますが、僕的にはわざわざ平成最後のなんて肩書を付けずにいつもどおりの益体のない文を綴ればいいんじゃないかなあと思っているわけで、でも益体のない文がどのような文なのか分からないのだ。

 昨日道路の端にカラスが落ちていた。落ちていた、と言ってもなかなか想像できないと思うのだけれど、カラスが、道路に、横たわっていたんだ。僕は最初黒いビニール袋の見間違いかなんかだろうと思っていたのだけれど、近づいてみればそれはカラスの死骸でびっくりしたわけ。どうしてこんなところにカラスが落ちているのだろうか、誰が落としたのだろうか、交番に連絡すれば良いんだっけ、ああ、でもこれってカラスの死骸だから連絡するべきなのは保健所か。いやしかしこのカラスが誰かのペットであり、たまたま脱走した先で死んでしまったのかもしれないのだ。だとすれば僕はどこへ連絡すれば良いのか、近所の家をまわって「カラス、落としました? 死んでるんですけど」と聞けば良いのか。そんなことできるはずもなく、というかそんなことをしていたら僕が警察に連絡されてしまう。僕は一応常識人だからそんなことをしたら変人に思われて通報されてしまうことは分かっているのだ。僕は、常識人だからね。ではどうしようかと考えてみれば保健所の連絡先を知っているわけじゃなかったし――調べれば分かることなのだけれど、わざわざ調べる手間をかけたくはなかった――それに放置していても僕以外の誰かが連絡してくれるはずだと思ったんだ。だからその場を去ろうと思ったのだけれど、なんだか惜しい気がした。カラスの死骸なんてなかなか見られるものじゃないし、しかも骨折しているかもしれないけれど外傷は見られなかったんだ。僕はせっかくだから持ち帰って骨格標本にしてみようかなあと思った。一応骨格標本は人並みに作れるんだ、昔田舎に住んでいた時に度々作っていたからね。でも内蔵を取り出すのはいつまで経っても慣れないからあまり好きではない、血の臭いがひどいのもそうだし、一番やっかいだと思うのは胃の内容物や糞尿で汚れることだね、死骸は基本的にその筋肉が弛緩してしまっているから――もちろん肛門括約筋も弛緩するからね――糞尿が垂れ流しになってしまうんだ。それが臭いし汚いしで、でもどうせ血みどろの内蔵を取り出す時点で汚れるのは決まっているので改めて考えるとそうでもないのかなあ。畢竟生き物の腹を割き、腑分けする行為はどうしても嫌悪感を伴うから慣れないのも当然のことかもしれない。でも骨格標本が白熱灯の下で白く輝く様はとても美しいから、嫌いでもないんだ。あと時間が経った死骸なんかだととてつもない異臭――いわゆる死臭ってやつだね――がし、しかも例えば腐敗した死骸の液なんかが付いてしまうとその臭いがなかなか取れないんだ。服の繊維の奥底にまで臭いのもとというやつが浸透してしまうのだろうね、一回や二回の洗濯程度じゃ臭いが落ちないなんてことはままある。だから骨格標本を作るのは臭いとグロに耐性がある人じゃないとできないのかもしれない。僕なんかはわりと耐性のない方だと思っているのだけれど、骨格標本を得るには自分で作るのが一番安価だからそうしているんだ。そういえば田舎からこちらへ引っ越してきてからは骨格標本を作っていなかった。まあ日常的に死骸が落ちている場所でもないし、そもそも死骸があってもそれは大抵車に轢かれてぐちゃぐちゃになっているし、すぐに近隣住民が連絡を入れるのか保健所が回収するのに時間はそうかからない。田舎――森が隣接している――なんかでは死骸が落ちているのが日常茶飯事と言えないが、というかそんな市街地にまでやってくる動物はそんなにいないから田舎も都会も道路に死骸が落ちている頻度なんてそう変わらないんじゃないかなあ。落ちている死骸って猫か鳥くらいのものだからね。でも森のなかには割と頻繁に動物の死骸があるわけ。人がなかなか踏み入らないから取り放題だしね。それに田舎なだけあって家には大きな庭があって、近隣住民の迷惑が考えずに標本作りができた。今住んでいるところは住宅街だし、そんな強烈な臭いを振りまくわけにはいかないからそもそも標本作りなんてできないのでした。そんなわけでカラスの死骸を家に持って変えるわけにもいかず、僕は後ろ髪を引かれながらも家に帰った。あのカラスはどうなっただろうか。まあ流石に回収されているのだろうなあ。

 平成の振り返りを書こうと思ったのになんか少しだけ血腥い話になっているのはどうなのかと思い始めた。生前退位なのだからもう少し明るい話題を書いていきたいところだよね、と思ったのだけれど最近明るい話題なんてあったかなあ、ケロ枕のくじだってうまい棒も3本セットはあたったのだけれど、参加賞の色紙の方はほぼかぶりだったし、サク刻の色紙はなかったりで踏んだり蹴ったりなのだから割と鬱気味なんだよね。気分転換に好きなものについてでも語ってみようかなあ。あ、僕はポテトチップスは堅揚げポテトのうすしおが好きです。それ以外は飽きてしまってあまり好きではない。でもふつうのポテトチップスならのり塩かなあ。うすしおは味気ないから好きではない。堅揚げとふつうのとで好みが分かれるのはなんか変な気分。あるいは堅揚げポテトに味の種類が少ないかななのかもしれない。だけれど、やっぱり堅揚げポテトはうすしお以外はあまり好きではないから、根本的なところで僕は薄味好きなのかもしれない。

 僕にとって平成の最後だとか、令和だとかどうでもいいんだよね。そんな年号が変わるだけで大きくなにかが変化するわけではないと思うし、とりわけ僕個人が変化するわけないんだから。いずれにせよ年号なんてしったことじゃあないんだよ。結局さ、年号が変わったところでなにか得られるわけではないのだしね。はあ、令和になって僕が変われるのならどれほどよかったことか。なんか新作を書いているとは言ったのだけれど、進みは微々たるものでもう二ヶ月くらいまともに書いてないので、これでいいのだろうか、こんな非生産的な日常をすごして僕に何の価値があるのだろうか、ああこれでいいのかなあ、少しでも動くべきなんじゃないのかなあ、こんな僕に生きている価値はあるのかなあ、と思う今日このごろですが、こうやってうだうだ悩んでいるよりさっさと動けと言う話なんだろうね、でもそう簡単に動くことができればこうやって思い悩むわけでもないし、本当のところ自分のことですら定かでないのだ。というかきっと僕は現実を直視できないでいるのだろうね、自分の惨めな姿をみたくないんだ。自分が惨めでその姿を見ると、ますます自分のことが嫌になってしまうから。そしてますます自分のことを嫌いになった僕はきっと自殺してしまう。自殺はよくないよ、でももう生きていられないって思ったら自殺するしか無いと思うんだ。で、僕は自分のことを直視したくないから薬を飲みます、ソラナックス。気分がちょっと落ちついて、ああ生きているんだなあって思えるんだ。生きていることは辛いことだけれど、薬飲んだときばかりはなんだか大丈夫な気がしてくる。でもそのままではいけないことも漠然と分かってはいるんだ。きっと明日も、明後日も、僕はソラナックスを飲んで、天井で眩くLED電灯をぼーっと眺めるんだ。網膜に張り付く緑色に対して煩わしく思い、電灯の下に溜まっている小さな虫を見て嫌悪して、自分の現状を情けなく思い、自分の罪を電灯に対して告白し、そんな自分も嫌になって、あらゆるものに呪詛を吐き出すんだ。告白と呪詛、シオランかよ、あはは。って何が面白いのだろうね、全然これっぽちも面白くはないのに、でも笑っていたいなあ、僕は笑っていたいんだよ。別にライムギ畑の捕まえ役になれなくてもいい、僕は笑っていきたいんだ。あははって、陽気な気分になって、握手をしましょう、ハイってね。ああ、笑っていたいなあ。なんでもいいよ、気狂いみたいにでも笑っていられればそれはそれで気分がいいのだろうなあ。まことに人生、一瞬の夢なんだから楽しく生きないと。でも楽しいってなんだろうね、笑っているだけでは楽しいとは限らないと思うんだ。冷笑って言葉もあるし、笑いにだっていろいろな種類があるのだから、ああ、煩いなあ。僕の隣の部屋、まあリビングなのだけれど、そこではGWということもあってか親戚が来ている。彼らは昼間からビールを飲んで、楽しそうに、それはもうとても楽しそうに高い声で笑っている。その声が扉を一枚隔てた僕の部屋にまで届いてくるんだ。というわけで僕はなにかひとつ文句でも言ってやろうと思ったわけ、思ったわけなのだけれど、思っただけで行動が起こせないのである。だから僕はヘッドホンを被って『血の決戦』(ランス10のBGM)を聞く。ああ、いい曲だなあ。ランス10一応終わったのだけれどやりこみはしてないから少ししようかなあ、でもそんなことしていたら書くスピードは更に遅くなるわけで、むしろ書かなくなってしまうからあまり良くないだろうなあ、でも毎月2本はR18同人RPGを崩しているのでそれを一本にすれば時間はあるのだろう。あ、『プロナントシンフォニー』はプレイして下さい、名作です。そういえばかなりの数の作品をしてきたわけだけれど、おすすめの作品を紹介する記事は書いていなかったなあ、そのうちおすすめのR18同人RPGを紹介する、なんてタイトルで記事を書いてみても良いかもしれない。でもそうなるとスクショとか用意したくなるわけで、それはなんだか面倒だから乗り気にならない。僕はなんというか面倒事が嫌いなんだ。いや、面倒事が好きという人の方が少ないのだと思うけれど、僕は度を越して面倒事が嫌いなんだ。エネルギーの消費を限りなく少なくしたい、省エネ思考の人間なんだ。動かなくて良いのなら限りなく動かないし、だから外出だって最低限に収めている。基本的には引きこもり基質の人間だ。だから気が塞ぐことが多いのかもしれない、僕の部屋には空気の淀みというものがあって、それが滞留しているから僕は窒息しそうになっているんだ。酸素を使い果たした先には死が待っている。でも僕は動きたくない、死んでも動きたくないわけじゃあないのだけれど、むしろ死ぬのはあまり気分の良いものじゃないから遠慮したいのだが、動きたくないんだ。死が面前に迫ってやっと動くような人間なんだ。死にたくないとか言っておきながら、頭の中は希死念慮でいっぱいになっているわけで、さてどうすればこの矛盾は解消されるのでしょうね、やはり笑えば良いのでしょうか、あはは。ああ、虚しいなあ。

 今日の昼ごはんはナポリタンでした。親戚が来ているためか底の深い大皿に載って、思い思いに自分の皿に取るという形式でした。ナポリタンにしては少し水分が多いように感じたのだけれど、まあ皿の影響のあるのだろうね、あとうちのナポリタンはケチャップじゃなくてトマト缶を使うから必然的に水分が多くなるんだ。真っ赤な液体に浮かぶパスタは血を吸っているようで、どことなく不気味だ。それに酸味が強いから僕は少し苦手なところがあるのだけれど、でも美味しいことには変わりないので食べます。美味しいです、でも真っ赤なのは目に悪いなあなんて思いました。僕は頭の中でナポリタンに話しかけます。

「結局さ君はナポリタンなんて姿になっているわけだけれど、それって屈辱なんじゃないの。だってナポリタンは日本の創作パスタだし、君みたいな生粋のイタリアっ子には汚されたって気分になるんじゃないの。僕だったら屈辱で泣きたくなるね、自分のアイデンティティを否定された気持ちになるのだもの。でもパスタに過ぎない君に反抗することはできないのだろうね、パスタは喋らないし、動かない。ああ、そういえば食べ物が動く映画があったなあ、あの下品なやつ。あれ最初はオモシロイと思っていたのだけれど、徐々になんか受け付けられなくなってきたんだよね、重い、というか胃にもたれる。もう一度見たいかと聞かれれば、もう見なくていいって映画。豚骨ラーメンみたいだ。博多とんこつラーメンズなんてアニメがあったなあ、見てないけれど。ラーメンと言えば僕は塩はなんだけれど、豚骨は苦手なんだ。脂っぽくって胃にもたれるし、あの濁ったスープを見ているとドブ川を見ている気分になる。食べ物にたいしてその表現はいかがなものか、でも僕は豚骨ラーメンは味はともかくとしてドブ川に見えるんだ。ドンブリに張り付いた海苔は苔を連想させるし、卵は腐卵臭、つまり腐敗したものを想起させるし、麺は底に溜まったヘドロだし、スープは言わずもがな。こう豚骨ラーメンをこき下ろしているけれど、別に嫌いってわけじゃあない、苦手意識はあっても美味しいことには変わりないのだから。ああ、君の、ナポリタンに対しての話だったね、ええとなんの話をしていたのかすっかり忘れてしまったのだけれど、ナポリタンって血って感じだよね。僕はたまーに動物の解剖をすることがあったのだけれど、鮮やかな赤はなぜだか動脈血を想起するし、ナポリタン、君に至っては小腸を想起するんだ。うげえ、気持ち悪いなあ。小腸を見せつけたあの獣医め許さないぞ、あれは割とトラウマだったんだ。死んでいる動物の内臓ならまだいいよ、でも生きている動物の内臓は嫌悪感しか湧かない。僕はきっと医者には向いていないだろうなあ。でもまあナポリタンは死んだパスタなので美味しく食べますよ、あはは」

 で、昼食を食べ終わったら僕はすぐに自分の部屋に引きこもってこのブログの続きを書く。書いている。でも別にネタがあってそれを言語化しようとこの記事を書き始めようとしたわけではないのでもうネタ切れだ。そもそも最初からなにを書くか決めずに、思いのままにブログを書くのが僕の基本だからいつもと変わらないのだけどね。最近はなんだか読んだ本の影響もあってか一文一文が長くなってきたように感じるし、それはきっと僕の言葉遣いのせいでもあるのだけれど、それでも冗長な僕の文章を読んでいる人がいることに感謝している。でも恥ずかしい。僕の脳内をそのまま文章にしたようなものなので、それは僕の内面を見られているのと同義な気がしてくるからだ。というか一日で60PVもあった日があったのだけれど、一体どこからこのブログをみつけてやってきているのだろうね。そうそう検索に引っかかるものでもないと思うんだ。別にタグ的なのも付けてないし、意図的に付けないようにしているからひと目にはつきにくいはずなんだ。あとこんな読みにくい文章、少なくともブログっぽい文章を書いているわけじゃあないからリピーターも少ないと思うんだ。あと更新頻度もそう多くない――ちなみに60PVがあったのは最終更新から一週間くらい経ってからのことだ――のに。まあ奇特な人がいるもんだ、程度に思っておきましょう。誰が僕のブログを見ているかなんてわからないのだしね。僕はブログこそこうやってうだうだと綴るわけだけれど、ツイッターだとあまり呟かない。呟いても2秒後に消してしまったりと、文章を残すことを嫌っているわけじゃないけれど、どうしてもツイート数は少ない。それに引き換えブログはどうしてこう、気分的に書きやすいのかなあ、と思えばやはり「いいね」の影響があると思う(ふぁぼにもどして)。最近話題になっていたけれど、いいねは承認欲求を満たすのもそうだし、一方でいいねにとらわれるという側面がある。僕はその側面が少しだけ気に入らないからツイートが少なくなってしまうんだと思うんだ。別にいいねをされて嫌な気分になるわけじゃないよ、むしろ僕なんかのツイートを見てくれているんだと嬉しくなるし、だから一概にいいねを嫌悪しているわけじゃあない。ただなんの気兼ねもなく綴れるブログという形が一番僕にあっているだけなんだ。ああ、そういえばツイートの文字数制限があるのもきっと僕があまりツイートしない要因でもあるんだろうね。ほら、僕はこうして長い文章を書くタイプの人間だから、いちいち考えて140字の中に収めようとする労力を疎ましく思うんだ。まあつぶやきなんだから140字制限はツイッターに合っているのだけれど。承認欲求と羞恥との間で僕の場合は羞恥の方がどうしても気になってしまうんだ。

 さて平成最後の日だから言うのだけれど、僕は今まで夢とか希望だとかそういったものをないがしろにしてきました。夢、といえば小学校の頃に卒業文集で考古学者になりたい、と書いていたような気がするのだけれど、小学校の頃の夢なんてものは彼らの見てきた狭い世界の中で見える輝きを夢と形容しているだけであって、本当の夢ではないことが大半なのですが、実際僕も考古学者になりたいと文集に書いたのは当時よくみていた「世界ふしぎ発見!」――あのー木なんの木で有名な――の影響があったからで、TVを通してみる世界の奥ゆかしさとか、神秘そういった輝きに惑わされていたから書いただけであって、それを本気と捉えてもらうのは正直侮辱に思ってしまう。だから小学校の頃に埋めたタイムカプセルみたいなのはあまり好きではないし、というかタイムカプセルに詰まっているのは過去の残滓であって、夢とか希望じゃあ無いと思うんだよね。夢というものは知識や自分の見える世界が大きくなる(増える)ことで往々にして変化するもので、常に一定の夢なんてものは、本当に愚直に自分のことを信じられる人しか持てないんだよ。僕の昔の同級生にプロボクサーになりたいと言っていた人が居たなあ、彼は今頃どうしているだろうか。僕とあまり関わりはなかったのだけれど、少なくとも僕にはない夢への渇望があって、その輝きに嫉妬していたことはあったからよく覚えているんだ。あの人の夢は今も続いているのだろうか、あるいは変わってしまったのだろうか。僕にそれを確かめるすべはない、だってその人の名前を忘れてしまったから。まあ存在自体はともかくとして、顔も曖昧なほどなのでやっぱりどうでもいいです。もしも僕に夢とか希望があればいまごろ変わっていたのかなあ、もっとキラキラとして人生を歩んでいたんじゃないかなあ。苦しくても前を向いて生きていられる、そんな人間。でもそんな僕は僕じゃない気がする。いや、僕じゃないんだ。でもifの自分も見てみたいような気もする。夢があれば、なんてことは何度も思った。夢があれば努力ができるようになっていたのではないか。夢があれば自分の方向性を明確に定められたのではないか、と。では今から夢を持てばいいと言う人もいるかも知れない。そう簡単に夢を持てればこうして夢について吐露していないわけで、夢アレルギーである僕からすれば夢を持たなくても生きているだけじゃだめなのかと言ってみたくなる。あれ、そもそも夢を話題を出したのは自分なのだから自分に言ってやればいいじゃないか。鏡に向かって、おい自分、いつまで夢にこだわっているんだ。そうやってうだうだこだわるから自分はいつまで経っても何者にもなれないんだと。うるせえ、お前に何が分かるんだ。あ、自分か、自分なら自分のことくらい分かるか。でも黙って欲しい。僕だって悩んでいるんだ。悩んでいるからこうして長ったらしく、シミったらしく文章を書いているんだ。本当は何も考えずにアハハって笑っていたいんだ。

 僕は、笑って生きたいんだ。

Lで始まる暗い川の水を中途半端に飲んでしまったのだろうか

 嫌な経験、例えばいじめられた経験なんてものはいつまでも残っているもので、しかし幸福な経験というものはなぜか思い出すことができず、思い出すことができたとしてもそのときの幸福な景色はぼやけていてほとんど見ることはできないが、嫌な経験に関して言えば、鋭い悪意の矛先が自分に向かっていることが手に取るようにわかる、そういった心象風景に限らず、フェンスの錆だとか、すっかり古びて哀愁を漂わせている東屋や風でそよいでいた草などといった取るに足らない物理的風景をある程度鮮明に覚えているもので、それは繰り返し嫌な目に遭うことを回避するための学習、つまり人間にもとより備わっている生理学的な反応と密接に関係しているのだろうけれど、でも僕としてはそんな動物としての機能がいまだに僕のことを苦しめることには納得がいかないのだが、しかし悲しいかな生得的な本能に意識してその本能の働きを停止することなどできないわけで、しかしできないからといってそこで思考停止はならないと思うのだけれど、でも考えればなにか変わるのかと言われれば、変わらないかもしれないので、でもできないならできないなりに僕たちは考えることで新たな発見、あるいは自分を納得させることのできる答えが見えるのではないのだろうか、なんて思い考えてみるけれども答えは依然として見つからないまま今日も苦痛な記憶を想起する。

 ところで嫌な経験についてよく思い出すーーそれは発作的なトラウマの想起の場合もあるし、意識して思い出すこともあるーーことがあるのだけれど、僕の場合はその僕に嫌なことをしている人の顔が見えない――顔だけが不明瞭で、周りの景色やどのような暴力をされたか、なんてことは分かるのだ。それは僕の中で経験の核となる行為の部分だけが色濃く残り、残りの人の部分だけが死んでしまったのからではないだろうかなんて思う。時間が経つに連れて記憶が薄れていっているのはあると思うのだけれど、しかし人の部分だけが消えているというのは、経験に重要なのがそれに何が関与したかではなくて、何が起こったかなのだという証左なのかもしれない。

 神話の話なのだけれど、例えばダンテの『神曲』やバイロンの『ドン・ジュアン』なんかでその名前が出てきたりする、冥界にある川のひとつにレテ(レーテー)というものがある。レテは忘却や眠りの象徴として扱われているのだけれど、それはレテの水を飲むと記憶を失うとされているからで、古代ギリシアなんかでは転生前にレテの水を飲まされるから前世の記憶を失ってしまうと信じられていたらしい。閑話休題

 僕の嫌な記憶からは人の顔が消えている、その人達はどこへ行ったのだろうか。いや、どこへも行ってはいなくて、もとより僕の中にはいなかったのかもしれない。思えば僕は人の顔と名前を覚えるのが酷く苦手で、やっと顔を覚えられたとしても、しかし服装が変わってしまうと少し分からなくなるので、生来の特性として人の顔を覚えることが苦手なのだろう、だから僕の記憶からは人の顔が度々抜け落ちる。それはもしかしたらレテの雫を口に含んでしまったからなのかもしれない。しかし中途半端にレテの水を飲んだから、完全には記憶が消えて無くて、人の顔、そういうほんの一部分だけ消えてしまうのだろうか。なれば僕は一体どこでその雫を口にしたのか。もしかしたら夢の中でかもしれない。夢の中での出来事は夢から覚めたあと直ぐに思い出さない限り、ややもすれば忘れてしまう。それは夢というものが、僕たちが寝ている最中、無意識がいわゆる神話の世界に飛ぶ現象なのではなかろうか。神話の世界から帰ってくる際(夢から覚める際)、僕たちはレテの飛沫を浴び、そのせいで夢の記憶というものは忘れやすいのではないか。そのレテの飛沫の蓄積がいわゆる忘却であり、しかし飛沫は飛沫でしかないため忘却はわずかにとどまるのだ。

 嫌な記憶を消したいと思えど、しかしその記憶があるからこそ今の僕があるのであり、記憶の蓄積がある意味で人間存在と言えるのだから安易に記憶を消したいなどと思わないほうが良いのかもしれないのだけれど、嫌なことは嫌なので、このトラウマというべき記憶を消すまでいかなくとも、その想起の頻度を和らげたいとは思う。

 だけど、その方法は分からない。

桜が咲いていた、蜜柑も実っていた

 春休み中は基本的に家に引きこもっていたので、久々に家を出、五分咲きの桜並木を見て驚いた。いつの間にか季節は移り変わり、春となっている。比較的寒い日が続いていたからか、それともただ引きこもりのせいなのかまだ冬という認識が抜けきっていなかった僕は季節に取り残されたかのような感覚を抱いた。僕の目の前では五分咲きだというのに桜を写真に収めようと革のジャケットを羽織った若い男がスマホを空に掲げている。彼もこの日初めて桜が咲いている事に気が付いた同族なんだろうか。でも、写真を取るという行為を意識すると彼と僕とでは大きな差があるように思えた。

 もしもこの桜が満開の時、僕が木の下を通り抜けたらゴーゴーと音が聞こえ、気が狂ってしまうのではないだろうか。桜の木々の隙間に見える冷ややかな虚空に囚われてしまうのではないだろうか。

 桜を見上げ続けていると、そんなことを思ってしまい、少し怖くなった。桜は一瞬の輝きを放つなんていうけれど、そういう儚さが僕にとって怖いのかもしれない。輝いたあとには散り、側溝なんかに溜まって茶色に変色し、見るも無残な汚らしい桜の残骸が出来上がる。輝きのあとに待つのはただただ醜悪な未来しか無いのだろうか。僕たちはきっとそんな桜の残骸に目を留めることもなく通り過ぎる、あるいはその汚らしさに舌打ちをするんじゃないかなあ。美しさで楽しませてくれたことなんてすっかり忘れて、嫌悪するんだ。

 桜といえば大学の敷地内の桜も咲いていた。僕の住んでいる地域の桜とは異なり、空高くまで聳える、大きな桜だ。きっと敷地があるから必要以上に枝を切る必要がなく育つことが出来ているのだろう。街の桜は大きすぎると建物やその下を通る人に迷惑がかかるから、適度な大きさに保たれるよう切られているんだ。仕方のないことだとはいえ、少しだけ悲しくなる。木が切られることに悲しくなるのではなくて、切られなかった場合の壮大な虚構の桜並木を想像し、その姿を見ることが出来ないことに悲しくなるんだ。

 はらりと散る一枚の薄桃色の花びら。くるりくるりと空を踊る様を眼で追って、なんとなく春の感傷に浸る。風で髪が僅かにそよぎ、煩わしく思っていれば桜の花びらのことなんて忘れてしまい、気が付いたらどれが眼で追っていた花びらなのか分からなくなってしまった。きっと春という季節はそういうものなんだという気がし、それは春が出会いと別れの季節であるということと密接に関係しているのではないかと思った。なんの根拠もない思考の断片。

 そういえば近所の蜜柑の木ではたわわに実った橙色の実が朝日に照らされて黄色く輝いていた。あの蜜柑は酸っぱいのだろうか、それとも甘いのだろうか。僕はなんとなく酸っぱい蜜柑のほうが食べたいと思った。冬は甘い蜜柑のほうが良いけれど、春みたいな温かい時には酸っぱいものが食べたくなるんだ。

 蜜柑の黄色と桜の桃色。その色彩の間に僕はなんとなく春の始まりと終わりを感じた。

公開したゲームについて少しだけ書きたいと思った

 「贖罪と命」の感想が嬉しくて飛び回っている僕ですが、まあ文章力が高いと評されれば自己肯定感の低い僕からしたら最上級の褒め言葉なので別におかしな行動ではないでしょう。一方でどの感想でも難解だったと言われているので、僕としては分かりづらかったのかなあと不安になるばかりです。でも僕が書きたかったエンタメではなくて文学寄りの作品が書けたのでその弊害かと思うと安心できるような、できないような。しかし難解だと言われたままわだかまりを残していくのもどうかと思ったので、でも作者が解説するのは蛇足だと思う僕ですから、解説未満の蛇足にならない程度のなにかを書こうとこうしてブログを開いたわけです。これは感想を読んだ感想なのだけれど、実際のところ皆さんの推察が鋭いことに驚かされてばかりだったりする。まあこの作品のプロットは40文字程度、短編を想定したもので、率直に言えば至極単純なので割と分かりやすいと思っていた自分がいたのは確かなのだけれど、難解だと言われたのできっと難解だったのだろう。でも構造としては本当に単純なんですよ。一つ目の手記が「悪」をテーマとして、2つ目の手記が「人間」をテーマにしていて、三つ目の手記は「救い」をテーマにしている。4つ目は結びなのでとくにテーマは無いのだけれど、あえて言葉にするならタイトルと同じだと思う。

 さて、ここから少し踏み込んだ話をするのだけれど、僕はあの作品を書くにあたって常に意識した言葉がある。これはツイッターでも呟いていたが

「もしも人類が生存し続けて行くとするなら、それは単に生まれてきたからというのではなく、その生命を存続させようという決意をするがゆえに存続しうるということになるだろう」

サルトル『大戦の終末』

 この言葉だ。この作品において主人公は死を(表面的には)願っていたのだけれど、死の間際に見え隠れする抵抗に困惑していた。最終的には(様々な意味で)抵抗することを選択するわけだけれど、その選択の決意に繋げるために僕はこの言葉を意識していた。

 僕はなんというかディレッタンティズムな姿勢で哲学を嗜んでいるわけだけれど、そのなかでもとりわけ僕の内面に強く響いている実存主義には思い入れがあり、その思考の一端がこの作品には現れているはずだ。そのことも思考の端にでも置いてもらえると理解の一助になるんじゃないかなあなんて思う。

 感想の鋭さに唸っている僕だけれど、どれかと言えばNaGISAさんの言及した死ぬような暴力を振るわれてきた主人公の自然な姿が死であるってところや、九州壇氏さんの言及した「『他者には理解しがたい自己』を愛する心」について等がそうだ。思考の余地を残すためにも明言は避けるけれど、そういうことです。

 ……ここまで書いてて不安になっているのだけれど蛇足になってないかなあ。作者が自作品を説明することほど興が冷めることはないと思うんだよね(考察ゲーでもない限り)。

 でもこれ以上は流石に蛇足かな。しかし最後にひとつだけ言わせてもらうと、作中にはいくつもメタファー(自分ではそう思っている)があるので(例えば熱帯魚のシーン)、そういうところも踏まえて考えてみれば発見があると思うのです。

 

 

チョコレートを食べたら無罪になると思ったのに無期懲役だったので水死体になりたい。

 甘いものは総じて好きなんだけれども、その中でもチョコレートは飽きずに食べることが出来ているので好きなのだと思う。正直本当に好きかどうかを問われると自信はないのだけれど、そもそも自分が好きなものって分かると思えない。好きだと思っていても常に好きのボルテージがマックスな状態に置かれることはないわけで、それは好きではないという感情が混じっているからでは無いかしらん。チョコレートだって食べ過ぎるともう食べたくないと思うし、チョコでも板チョコは最近飽きてきた。毎日バリボリ食べていたというわけでもないのに、板チョコはくどいように思う。味が単調なんだ。最近は「神戸ショコラ」と「生クリームチョコレート」にハマってる。美味しいからね。でもそのブームだってそのうち過ぎ去ってしまうのだろうし、過ぎ去ってしまったら僕が好きなものってなんだろうって思うわけで、数ヶ月前はじゃがりこにはまっていたのに今はもうそれほど食べたくはないのと同じ様な気持ちになるんだろうなあ。好きとは一体? 

 ユウという好きなキャラクターがいる。Re:LieFのサブヒロイン(僕としてはメインヒロインなのだけれど)。僕は彼女が好きだから時々FAを投稿したり、bot を作って話しかけたり、バレンタイデーだからと自分にチョコ味のたい焼きをプレゼントしたり(ユウちゃんはたい焼きが好きなんだ)と、まあオタクっぽいことをしている。いや、っぽいというかオタクなんだけれど。でも最近は彼女の顔を見るのが辛くなってきた。好きな気持は変わらないし、他のキャラにも靡かないくらいには愛していると思う。でも辛い気持ちが出てきてる。それは相手が二次元だから触れられないというのがあるのかもしれないし、でも僕は好きが行き過ぎて拒絶に転向してきたんじゃないかなあと思っている。限界というやつだ。困ったものであるけれど、それって僕が板チョコをくどいと思っているのと同じことなんじゃないかなあなんて思うのだ。彼女はゲームのキャラクターで、ゲームの中に存在しているから(現実世界にタペストリーがあるけれど)、不変だ。年も取らないし、新しい表情が追加されることもない。新作も発売されてないから、彼女の他の面を見ることも叶わず、僕は単調な彼女の存在を享受し、自分の中で膨張させている。板チョコは同じメーカーのなら常に同じ味で、僕みたいな貧乏舌にとってはリニューアルしたってきっと同じ味に感じられるのだろうから単調なんだ。どちらも単調で、僕の中でその好きを維持しなければならないものなんだ。

 好きとは感情であり、感情は波であり、波を維持するにはエネルギーを必要とする。僕は単調なものにはエネルギーを割きたくないと思っているのかもしれない。単調という永遠の暫定措置。僕はチョコを食べたら快感の中で溺れるものだと思っていたのに、実際は飽きという無期懲役が迫ってくるのみだった。でも飽きなんてのはチョコに限らずあらゆるものに付随してくるものなので、僕はエネルギーを注いで好きを好きのままにしなくてはならないのでしょう。一瞬の快楽ならばエネルギーを使ったことに気が付かないが、長い快楽を維持するのにはエネルギーが消費されているのだと気が付くのは当然のことに違いない。

 今も神戸ショコラを口に含みながら文章を綴っているのだけれど、前食べた時はもっと美味しかったように思う。香ばしくて、苦味と甘味の調和が快感をもたらしてくれたはずなんだ。きっと飽きが近付いているのだろうなあ。でも味に対する好きを維持しようと思ってもそれはなかなか難しいことで、むしろ不可能なのかもしれないので、僕は味ではないものを好きでい続けたいなあと思うのでユウちゃんのことを想い続けたい。早く新作が出てくれないかなあと心待ちにしている。

 好きに囚われた人間なので僕は好きに溺れて水死体になりたい。

 

コートが暑い

 なんだか先週の終わりくらいから暖かくなってきた。夜中や朝方はまだ寒いけれど、昼間はコートなんて羽織っているとじっとりと汗が滲む。もうそろそろ冬も終わりなのだろうか。今年は関東圏で雪が膝下まで積もるなんてことはなくて平和だったと思う。それとも温暖化の影響で雪が降らなかったのだろうか。でも僕としては雪かきは疲れるし面倒だしで少しも良いことがないのでそれで良かったと思ってる。別に温暖化を称揚してるわけじゃない。

 今日は(日付的には昨日)朝から映画を観に行った。『女王陛下のお気に入り』。イギリス、スチュアート朝のコスチュームプレイ映画で、前々から気になっていた。その内容もそうだし、来月にテューダー朝のコスチュームプレイである『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』が公開されるからというのもある。どちらも時代こそ違えどイギリスのコスチュームプレイで、かつ時代が近いため流れを意識しながら観るのを楽しみにしている。スチュアート朝テューダー朝とでは後者のほうが時代的には先にくるので映画を観るのはふたりの女王の公開後に時間軸に沿って見ようかなあと思っていたのだけれど、我慢ならず観てきてしまった。やっぱり映画は良いものだなあと再確認した。アン女王の寵愛を得ようとドロドロの感情をぶつけあうのがこの映画の核となる部分なのだけれど、その表現が実に巧妙だった。役者の演技もあるし、(耳鳴りのようなあの)効果音も登場人物の心象風景を描き出すのに一役買っていた。最後のあの……これ以上は言わないほうがいいかもしれない。実際に映画を見てもらえれば分かることだし。で、この映画を見るに当たって少しはイギリス王朝の勉強をしたのだけれど、これがまたこんがらがっていて理解に時間がかかった。無数にいるメアリー、お前らのことだ。僕は世界史には疎いから勉強し直したのだけれど、割と面白いのね。映画を見て更に思ったのだけれど、出来事とその背景を想像するのが楽しい。何が起き、それが何を引き起こし、そのせいで更に何が起こったのかとか、その裏で暗躍した人の感情とか。そういえば『女王陛下のお気に入り』のホームページ、これがまた秀逸だよね。あの一枚絵が意味深だから、そこに込められた意味とか意図を想像せずにはいられない。

映画『女王陛下のお気に入り』公式サイト

 映画の話はここまでにして、映画を観終わったあとのことだ。家具屋を冷やかした帰りに路上で荷物を広げている二人組の女を見た。最初は何をしているのかなあと流し目していたのだけれど、その意味が分かったら思わず吹き出してしまった。彼女らは陽のあたる場所で白い紙袋(商品を入れてたやつだろう)の上にコスメやら何やらを並べていて、他の通行人の奇異な視線をものともしない。これは単に鈍感なのか胆力があるのか、はたまた自分たちの行為に酔っているのだろうか。まあそれはどうでもいいのだけれどね、女の1人がスマホを取り出したので、ああこれが俗にいう「インスタ映え」を狙った写真を撮ろうとしているのだろうと察しがついたわけ。僕が吹き出しても彼女らは意に介さず楽しそうに笑っていた。あんな人が本当にいるのだね。僕はてっきり想像上の、あるいはネット上の架空の存在だとばかり思っていたのだけど、実際に目にすることになるとは。あんな人にはなりたくないなあ。別に迷惑だとは思わなかった。逆に奇特なものを見せてもらえて感謝してるまである。僕としては自分の欲望のままに行動して嘲笑の的にされるというのは嫌なんだ。あの女性たちはインスタに写真をアップして何を得たかったのだろう。承認欲求を満たすことだろうか。でもそのために自分の価値を損なうようなことをして、一体何が楽しいのだろうね。

 しかしその時の僕にはそんな面白い光景のことなんてあまり気にならなかった。暑さのほうがもっと気になっていた。時刻は2時くらいだろうか、ちょうど日が真上にきて一日で最も暑い時間帯だった。朝は寒かったというのになんだよ、太陽というのは気が利かないやつだなあと愚痴を頭の中で呟いていた。僕はコートを羽織っていて煩わしく思っているのに、手で持つのも躊躇われたので羽織ったままにしてたわけ。前は開けて風にはためかせていたのだけど、そんなに風の強い日じゃなかったから暑いは暑い。あ、コートは風にはためいていたのではなくて、僕が早歩きをしていたからふわふわと浮いていたのだろうね。風の弱い日だった。逃げるように商業施設(高島屋だったかな)に入ったわけだけど、その中も暑い。コートを脱げばいいのに、僕は手に持つのはどうしても嫌だったから頑なにコートは羽織ったままにしていた。受付のお姉さんが笑顔で僕に会釈した。僕はその笑顔の下で暑いのにコートを羽織っていることを馬鹿にしているのだと思った。きっとあの人は仕事をして、僕には何の感情も抱いていなかったのだろうね、でも僕は意味を勝手に付与して自分が傷ついた。ああ、嫌だなあ、これだから人のいるところにはあまり行きたくないのだ。でも最新の映画を観るためには映画館に行くしか無く、映画館に行くには電車に乗り、街中を歩き、商業施設の中を徘徊しなければならない。困ったものだけれど、こればっかりは避けられないことなのでしかないのだと言い聞かせながら僕は映画館に行くのだ。やはり映画館が併設されるような複合商業施設に勤めている人は雰囲気が穏やかだと思う。最寄りの駅みたいに変な宗教勧誘をする人も死にそうな顔で電話をする社会人もいないからギスギスとしていないからかなあ。大抵このような複合商業施設の民度は高い。良いことだ。店員が常に笑顔を絶やさない、まあ張り付いた仮面みたいな不自然な笑みではあるのだけれど、そんなところもまた良いことなのだろうか。でもあんな笑顔で見られると僕は赤面してしまうわけで、それは僕みたいな笑顔を浮かべることの少ない人が歩いていて良いのだろうかと罪悪感からくるものなのだけれど、それでも笑顔を見ると人間ていいなあと思う。笑顔は良いことだよ、ビバ・スマイル。それでも家族連れが多いところにいるのは良くないんじゃないかなあ、あの赤子に僕が悪影響を与えはしないだろうかなんて思う。なんだか幸せそうな家庭の姿を見ると、僕との間に膜を感じるんだ。

 連絡通路を歩いていると叫び声が聞こえた。幼稚園児が何かを叫んでいた。近付いてみると、アンパンマンやキティー等のキャラクターの顔が前面に張り付いている車があった。樹脂製の幼稚園児が1人乗れるくらいの小さな車。プレートには「この階でのみお使い下さい」と注意書きがしてあり、「ははあ、さてはこれから別の階に行くのに子供はとにかくこのキャラクターの付いた車に乗りたいから駄々をこねているのだな」と思った。可愛いものだなあ。子供というのは。僕も生来は子供を飼いたいなあなんて思ったけれど、面倒のほうが多そうで、しかも父親のような親になることが怖いので子供はいりません。そのまえに結婚が必要なのだろうけれど、とうてい結婚できる気もしないので子供以前の問題でした。

 早々に叫ぶ子供のところから去って、伊東屋に赴いた。ペンケースが欲しくてショーケースを眺めていたのだけれど、あまりしっくり来るものがない。まあアマゾンで物色すればいいかなあと思い、何か万年筆とかボールペンの珍しいものはあるかなあと見ているとペリカンのヴァイブラントブルーのボールペンやアウロラのアクアの万年筆がある。珍しいなあ、欲しいなあと思っても、まあ学生の身分でおいそれと買えるものではないので眺めるだけ。でもパーカーディホールドの蒔絵「流水」万年筆があったことには驚いた。日本限定販売77本で36万円のやつ。ここまでくるとただの嗜好品に過ぎないんだろうなあと思った。僕もまあ5万くらいの万年筆(オーシャンスワール)を持っているのだけれど、ぎりぎり実用品の域に入っていると思うので、一生モノとしてはこれで十分かなあ。

 そろそろ就活が本番なので手帳を買おうかな。でも良いものは高いから悩みどころ。

ブログの名前変えた

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 万年筆と神経毒ってサークル名義で新作を出したので、まあちょうどいい機会だと思ってブログの名前を変えた。前は沈んだ木笛ってクァジーモドの詩からとったやつだったので――まあそれも気に入っていたのだけれど――自分で考えた名前をと思ったわけ。僕自身、万年筆で文字を書くことはもちろん、収集も好きだし、大学で研究する分野が生物毒ってこともあってこんな名前。あと神経毒みたいに人に強く影響する文章を書きたいっていうのもあるのかなあ。自分でもよく分からない。でも万年筆と神経毒でどちらも漢字三文字だから丁度いいってのもある。

 

 先に少し触れたけど、ふりーむで新作を公開した。『贖罪と命』ってタイトルのサウンドノベルスクリプトはまだ初心者だから、いや文章を書くのだってまだ初心者なんだけれど、自分でプレイしてみると粗が目立つ。まだ更新しなきゃなあ。でも自分一人だけである程度の形にすることが出来たのは進歩だと思う。こうやって公開したのもそうだし、完成させたこともそうだ。意味があるかどうかなんてわからないけれど、僕は自分の中で何かが変化したような気がした。続けるかは、分からない。ゲーム作りは楽しいかと聞かれればそうではないし、文章を書くのだってそうだ、むしろ苦しいまである。僕は楽しくもないことを望んでしている。不合理だ。でも、昔からそうだった。苦しいことを望んで行い、そこに何かを感じる行為。その何かは自分の存在の確かさかもしれないし、全くの別物かも知れない。それでもよく分からないものを苦しんでまで望むのだから、きっと僕が生きる上で大切なことなんだと思う。新作はそんな生きづらさを書いたつもりだ。書けていればいいな、と思う。

 書いた中で特に気に入ってるのは、主人公が自分の首を絞めるシーン。自分で自分の首を物理的に締めて書いたんだ。首を絞めると、凄く苦しくなる。もう生きていけないって感じて、思わず首を絞めるのを緩めてしまう。そして酸素を慌てて取り込むわけだ。そんなことわかりきっていたのでけど、実際にやってみると想像の何倍も苦しいのね。苦しかったからわざと笑ってみたのだけど、そうするとなんだか楽しい気分になってくる。行為が先にあって感情が出てくるんだ。おかしいよね、でも笑うのをやめたら一層虚しくなってまた首を絞めたくなる。無限ループだ。怖くね? あれを何回も続けていたら僕は間違って死んでしまったかもしれないね。それは事故死になるのかなあ。僕としては事故なんだけれど、はたからみれば立派な自殺なわけで、これは自殺じゃないんだと説明したくても死んだ人間にはものをいう口が無いので、僕は自殺したことになります。生命保険も受け取れません。ぎゃあ。虚しいなあ、虚しいなあ。虚しいので月に話しかけましょうということで外に出てみました。ですが月は雲に隠れて出てきそうにありません。真っ暗。こんな時間なので外に人影もなく、まるで僕だけが世界に取り残されたような暗い、そんな気分になる。でも街灯は煌々と光り、闇を照らしているわけで、随分と仕事熱心なことで、立派だなあと思うわけですよ。僕しかいないのに道を照らしてくれるだなんてね。でも本当はその光りも僕だけのものじゃないってことは分かりきっているので虚しくなります。虚しさの無限ループ。そこで僕はこの虚しさと世界中の人々に伝えたいなあなんて思うわけですよ。でも周りに人はいない。少しくらいこの虚しさに恐れをなして外を走り回っている人がいてもいいんじゃないかしらん。

 

 それにしても最近は酷く寒い。一昨日には雪少し積もった。今も足元で電気ストーブを点けながらブログを書いているが、上半身はどうにも寒いので毛布を被っている。だが、一昨日はそれでも身体が冷えたから相当寒かったのだろう。この程度の寒さで堪えているので、到底僕には北海道で生活することなどできないと思う。僕は冬は嫌いだ。手を出していると冷たくなり、動かなくなるのが特に恨めしい。本を読んでいると手がかじかんで頁を捲り辛くなるもの耐えがたい。冬はあらゆる活動を遅らせてしまう。遅れるのは冬のせいだからと布団から出られない自分も恨めしい。でも、チョコは溶けないし、飲み物もぬるくならないので悪い事ばかりというわけでもない。ただ、僕にとって都合の悪い部分が多いだけの事なんだ。