暑いから気分が滅入るんだと思ったんですが

 気分が逼塞しているのは夏の暑さのせいだろう、なんて思っていたのだけれど、しかし僕は日がな一日クーラーの効いた部屋に蟄居しているのだから暑さとは無関係なのであり、この裡で蠢く暗くて冷たくてドロドロとした鬱屈した感情は生来のものなのかもしれないと思うと怖くなり、怖くなるから不安で更に寂寥が胸を領すわけですが、だからといって逃げ道があるわけでもなく、いや、逃げ道はアルコール――僕は飲めないですが――やソラナックス向精神薬)があるわけで、でもそれを逃げ道にしたところで袋小路のような気がしますから、逃げ道とは見做さないので、さて僕はどうすればいいのかわからなくなるのです。生きているだけで苦しいのはきっと誰もが感じていることなのでいまさら、という感じですけれど、でも苦しいものは苦しいわけで、なにか僕のことを救ってくれるものはないかと心の暗渠の中を覗き込んでみたところでやはりそこには救いなんてものはなく、であれば空を見上げればいいと思い、見上げてみても見えるものと言えば重く垂れ込める鈍色の雲でありまして、ああ、僕の裡には救いなんてものは無いのだなあ、と半ばあきらめているところです。とまあこんな暗いことをうだうだと書いている僕だけれど、なんだかんだで明日は誕生日なんですよね、しかし誕生日といえこの歳になってくると特別感なんてものが稀薄で、ああまた歳を経てしまったなあ、と感慨に耽ることしかできないのであります。昔は誕生日で喜んでいたのだけれど、そんなのは本当に遠い昔で、今はまったく喜べないのは歳のせいか、はたまた僕の精神衛生が頗る悪いせいなのか。まあそんなことわかりっこねーですけど。誕生日なのだからもう少し喜ぶべきなのでしょうね、きっと周りもそう望んでいます。誕生日を期に未来に視線を据えて、人生に腰を据えて、これからの輝く未来に陶然とすべきなんです、しかし僕に見える未来なんてものはオニキスのような昏い輝きであって、どうもダイヤモンドのように鋭く、鮮明に輝いてくれるわけではなさそうです。いや、輝きを昏いと表現してしまうのが駄目なのでしょう、もっと明るく表現しなければなりません、でないと更に更に昏い方へ思考が靡いてしまいます。幼い頃、ピカチュウの誕生日ケーキで大喜びしていた頃の僕は、ああどれほど人間的であったか、それに比べて今の僕は希望なんてものがなく、後ろ向きで、まるで生気が感じられない……非人間的、あまりにも非人間的ではありませんか? ニーチェは感情は気まぐれだと言っていましたけれど、僕の感情ももう少し気まぐれになって明るくなってくれませんかね、僕は笑って生きたいんです。何も考えずに、ただ享楽の内に肯定したいんです。さあさあ、行動を起こそうではありませんか。今、直ぐに! たとえば、そう……小説でも書きましょう。しかし行動は約束できても感情は約束できない! ああ、そうですよ、全くに正しいことです。たとえ行動を約束したところで感情が変わってしまえば行動までも変化してしまう、常に揺らいでいるんです、だから行動を約束したところで、感情によっては約束は反故となってしまう。感情を制御することさえできれば……しかしそんなことは無理だ、神様でもないのに。あるいはロボトミー手術でもすれば感情を制御する必要がなくなるかもしれないが、しかしそれは感情を喪うことだから制御とは程遠い。

 今はサーキュレータが必死こいて僕のことを冷やそうと羽をぶんぶん回している。でも眼が乾燥するから、サーキュレータが僕になにか恨みを抱いているのではないかと思ってしまう。そんなことはないはずなのに。アニミズムに毒されて、サーキュレータにまで魂が宿っていると思っているのだろうか、たしかにサーキュレータは夏場しか働かないし――しかも酷使している――、冬場なんて押入れの中でホコリを被っているので恨まれても仕方がないと思うが、だからといってサーキュレータにまで気を使うのはどうかと思う。眼球が乾燥したので目薬を挿す、ロート製薬の少し高いやつ。高いだけあって効果は凄く佳いので重宝している。目に染みる感覚が爽快で、もはや手放せない存在となっている。ありがとう、ロート製薬。そういえばロート製薬の公式VTuberがいたけれど、彼女の動画は最初の数本だけ見て残りは見ていない。今も活動しているのだろうか、企業のVといえばサントリーにもいたけれど、サントリーのはロートの彼女とは違い随分積極的に活動しているように思う、動画は見たことがないけれど。ロートの方が先に活動を始めたというのに、サントリーの方が知名度も登録者数も上なのだから世知辛い。VTuberは前はよく見ていた――ハニスト(蒼月エリ)がほとんどだったが――のだけれど最近はあまり見ていない。というのも蒼月エリが引退して、それでハニストの配信を見るのが辛くなったからである。しかし今でも切り抜き程度なら見る。それでも配信自体を見ることはもうなくなってしまった……いや、周防パトラのASMRなら見たか。見る、というよりも聴くだけれど。ASMRは不眠症にもってこいと言いたいところだけれど、僕がおすすめするならASMRよりも音楽だなあ、ジャズとか結構寝れると思う(当社比)。僕が最近良く聴いているのはブラッドメルドーだけれど、彼は天才だと、いつ聴いても思う。

 そういえばコミケが開催されていますね、僕はサークル参加を二年前に一度したきり一般参加しかしていないのだけれど(サークルが崩壊したから)、そろそろサークル参加したいなあ、と思った。思ったと過去形なのは、サークル参加してもなあ、と思ったからである。新作を作ってはいるし、このまま作っていれば今年中には公開できるとは思うのだけれど、でもコミケにもって行くほどかなあ、と思ったから。僕の作品は文字と背景だけだし(しかも画面が文字に埋め尽くされる)、キャラクターの絵はないし、およそ手にとってもらえる作品ではないから。以前どこかの記事で同人ゲームについてかいたことがあったけれど、どれだけシナリオを頑張ろうとも、ゲームの第一印象は絵で決まるわけであり、絵すら無い作品は自ずと人を選ぶわけで、きっと手にとってもらえないだろうから。え、後ろ向きだって? でも仕方がないじゃないですか、自己肯定感があるのならば僕がこんな記事書いているわけないでしょう? コミケは明日、明後日と一般参加するつもりですが、サークルチェックをまだしていません。徐々にコミケに対する熱量というものが失われているのかもしれません、あるいはオタク文化に対する熱量の低下か? とにかくコミケに対して意欲が湧かなくなってきているのは確かですし、なんならエロゲに対するモチベが低下しています。最近は先月にアオイトリをクリアしたくらいで、それ以降は同人エロrpgしかしていません。あ、でも同人eroRPGに積極的に触れているのだからオタク文化への熱量の低下は虚構だと思います。きっと僕は二次元に囚われ続けるでしょうから。幽明界を異にするまで。

 僕は罪の意識にも常に囚われている、それは僕が今までに積み重ねた些細な罪の集積だけれど、時に当時の記憶がフラッシュバックして僕を苛む。どうして悪い記憶ばかりがフラッシュバックするのだろうか、人に備え付けられた機構だとでも? 罪を意識しないことには祈りを捧げない人間に対して神が与えたものだとでも? いいや、きっとそれは生物が損失回避をする上で必要な機構なのだろう。バラバのことを忘れさせないために神が定めたものなどではない、神聖ななにかではない、生物学的な何かに決まっている。

 バラバという強盗はナザレのイエス磔刑に処されたかわりに恩赦で釈放されたという。ただしバラバが処刑されていたのならばイエスは処刑されなかった。イエスはバラバの身代わりとなったわけだが、それは民衆がイエスの死を望んだからである。どうしてバラバとイエスの命が等価交換されたのだろうか、聖書が示しているのはイエスの死によりバラバの罪(人間の原罪)が贖われるということだが、たかが神の子の命で人間の罪が贖われるんだろうか? 僕はそうは思わない。そもそも命で罪が贖われるという考え方に嫌悪感がある。存在が消えればその罪も消える? しかも他人の存在の消滅によって? まさか、そんなわけがあるか……と、これ以上は延々と書いてしまいそうなのでやめにしておく。

7月ももう終わりですね。というか暑くないですか?

 ここ最近は本当に暑くてほとほと参ってしまっている。この前の土日には『天気の子』を観に行こうと思っていたのにすっかりバテてしまって家から出ることが出来なかった。他にもこれから行ってもいい席が無いからいいか、と思っていたのも原因だろうが。まあそれは席の予約していなかった僕が悪い。暑さというのはなんでもかんでもやる気というものを削いでしまうように思う。僕だって席の予約をして映画を観に行きたかったよ、でもさ、暑くてだれてしまって僕はもう予約をする元気すらなかったのだから仕方がないよね、太陽が悪いんだ。あの燦燦と輝くまるで僕の存在を照らし出そうとするかのような忌まわしい太陽が。というか太陽って明るすぎるんだよ、もう少し、ほら月みたいに穏やかな光を発してくれないかなあ。でも月も月で眺めていると狂ってしまいそうな鋭さのある光だから僕はあまり好きではない。太陽よりは好きだけど。全般的に光というものに耐性がないのかもしれない。暗闇の住民、と言ってしまえば厨二病チックなのだけれど、でも案外間違っていないように思う。

 ここ一週間は暑いのもあってかセブンイレブンのソフトクリームを帰りに買うのが常なのだけれど、コンビニアイスも馬鹿にできないなあ、と食べてて思う。というかスーパーで売っているようなアイスよりも断然セブンのそれの方が美味しい。200円弱という少し値の張るだけはあると思う、コクが違うんだ。以前の記事で牧場しぼりが美味しいと書いたのだけれど、僕としては牧場しぼりの倍近い値段なだけあってセブンの方が美味しいと感じている。少し溶け出したときに舐めるのがお気に入りだ、滑らかなクリームが温度の上昇とともに強く感じられる甘みを携えて舌に広がるのだ。一応セブンには普通のソフトクリームとは別に金のワッフルコーンなる税込み300円のソフトクリームもあるのだけれど、実際それを食べてみて美味しいとは思うが300円に見合うかと言われれば微妙なところだ。美味しいのだけれど、普通のソフトクリームを1.5個食べたほうが満足度が高い。

 そう言えば昨日は暑さにやられたのか身体が怠く、ベッドに突っ伏していたら21時には眠りに落ちてしまった。そして起きたのが7時半で朝から時間を無駄にしてしまったような気がして滅入った。そんな今日の始まりだったのだけれど、更に悪いことに起きたら変な格好で寝てしまったのが悪かったのだろう、体の節々が痛み、電車は一本遅れた。なんだか散々な日だった。散々な日だったから更に不幸なことが起こるような気がしていたのだけれど、特にその他に悪いことも良いことも起こることなく……いや、セブンのソフトクリームが売り切れだったという少しだけ悲しい出来事もあったか。まあ、交通事故に遭うような命に関わる不幸がなかっただけマシなのだと思う。

 人間に起こる重大な出来事は畢竟、誕生と死の二つに分けられると思うのだけれど、誕生というものは逆子だったり、へその緒に首を絞められるなどの多少の例外はあれど、基本的に子宮から外に出ることで完了する。しかし死はどうだろうか、誕生はほぼ一つのパターンしかないが死に関しては無数の形がある。事故だったり、自殺だったり、寿命だったり、病気だったり。誕生よりも多くのパターンが有りその上〈死〉というものは傲慢にもその人の人生そのものを決定してしまうように思う。死こそ誕生よりも衝撃的な出来事なのだ。

 もしも、僕が自殺したとしたらどうだろうか、僕を知らない人はきっと彼は苦しんで居たのだろう、あるいは生きることから逃げ出した臆病者だと思うかもしれない(たとえ僕が生きていることに幸福を感じており、実際には自殺ではなく足を滑らせた転落死だったとしても)。もしも僕が事故で死んだとしたらどうだろう、僕を知らない人は彼にはまだまだ幸福な未来があっただろうにと嘆くかもしれない(たとえ僕が希死念慮に囚われていて、わざと車の方へ身を投げたとしても)。あるいは僕が溺れている人を助けてその過程で死んでしまったらどうだろう、僕を知らない人は彼は勇敢な若者だったと称えるかもしれない(たとえ本当の僕は普段から生き物を殺してしまうような劣悪な人間だったとしても!)。

 死というものは強烈で、当たり前だけれど死んだ人は口がきけない。だから死んだ当人がどうであれ周りが勝手に印象を決定してしまう。まるでその人の人生を塗り替えてしまうように。〈死〉とは一種の絵の具のようなものなのだろう、死という絵の具を持って、画家である人たちは死者というカンバスに好きな絵を描く。カンバスが何色だったのかなんてまるで気にしない。多少はカンバスにあった下書きを気にするかもしれないが、塗り重ねることでその人の本来のものを全て塗り替えてしまう。〈死〉は傲慢だと言ったけれど、それ以上に自分勝手なイメージを付与する画家も傲慢なのだろう。しかし画家はそんな自分自身の傲慢さには気づかない。なぜなら彼の世界の出来事こそ真実で、時間の止まってしまった、口すら聞けない死者の世界なんてものは彼にとってカンバスに過ぎないのだから。筆を走らせる自分こそ、真に正しい姿をしているのだ。

 今日は少し不幸なことがあったけれど、8/1には楽しみなこともある。『ルインズシーカー』というR18同人RPGが発売されるのだ。僕の嗅覚が告げている、この作品は2019年に出るR18同人RPGのなかでもトップ3に数えられる名作になると。体験版も楽しかったし、期待しか無い。8/1の0時に発売開始だから今もかなりウキウキしている。

ノートとゴミ箱の話

 僕は自分で自分のことを捻くれていると思う。斜に構えて、自分に対して起こる物事ですら直視しようとしない。それで不利益を被ったことがあるというのに治そうともしない。そういう自分もなんだか格好いいとか思ってるんだ、きっと。外から見れば気持ち悪いやつだと思う、後ろ向きで、家に引きこもって、牢固な壁を作ってしかし表面を取り繕って人間関係をなんとか保ち、家ですることといえば読書とゲーム(エロゲが多い)、末期だ……。僕は一体いつから歪んでしまったのだろうか、思えば幼稚園の頃から僕は少しおかしな子供だった、と思う(幼稚園児よりの前の記憶はそもそもない)。

 僕の父親は、これはいつかのブログに書いていたので知っている人は多いと思うのだけれど、借金を拵えたり、仕事を転々と変えているような人で、挙句の果てには宗教にハマり、そこで出会った女の人と不倫をし、癌で苦しんでいる祖父に対して民間療法を勧めて更に悪化させるような駄目人間だった、そして父のせいで僕は何回か引っ越す羽目になった。M県に引っ越したのはまだ僕が幼稚園に通っている頃だった。僕はその頃から不器用で人と会話するのが苦手だった。そして当然のように僕は幼稚園で孤立した。遊んでくれる子も居なかったし、僕は遊ぼうと近付いても逃げられた(あれば僕が泥だらけだったのが悪かったのかもしれない)。やがて僕は人と交流しなくなった。だが、僕だって構ってほしかったから、どうにかしようと幼い頭で精一杯考えた。僕が周りに構ってもらえるようにした行動は、自分のノート(一日の始まりと終りに保育士の先生に提出するやつ。内容は覚えていないが、恐らく親との意見交換ノートのようなものだったのだろう。〇〇ちゃんは今日吐きましたみたいな)を自分で隠すことだった。最初の頃は凄く巧くいった、僕が自分でノートを隠したことも知らずに、僕のためにみんながノートを一生懸命に探してくれる、なんだか受容されたような気がした。ノートを隠す時、心臓がバクバクと高鳴り、とても緊張したことを覚えている、同時にその緊張に快感を覚えていた。悪いことをしていると頭では分かっているのにやめられない、僕は悪い子だ、でもそのおかげで僕には居場所が与えられる、このギャップから生じる暖かさが心地よかった。幼い頃から僕は悪いことに依存しやすい体質だったのかもしれない。だがそんなことを何回も繰り返す内に先生や周りの子達に徐々に怪しまれるようになった、当然である。僕の周りでだけ盗難事件が相次ぐのだから。でもどこかで僕という浮いた存在が虐められるのは当然だ、というような雰囲気もあって、僕が直接的に疑われることはなかった。そのせいもあって調子づいていた僕の行動は徐々にエスカレートしていった。最初こそ誰も周りに居ないことを注意深く観察しながら犯行を重ねていたのだが、発覚する前にはもう周りに人がいようとこちらを見ていなければ構わず自分で隠した。隠した、と書いているが隠し方も最初は引き出しの中のような目に見えないところに隠していたが、これも発覚する前には部屋の隅に落としておく(もはや隠すではなく置いている)ようなことをしていた(本当に末期の時は自分の服の中に隠し、皆んなが探してくれている中で床に落として「あった!」と叫んだこともあった。今思えばかなりやばい子供だ)。犯行が発覚したときのことは今でも鮮明に覚えている。その日はなにかの集会があり、体育館のようなところ(正式名称は忘れた)へ全児童が集まった。体育館に行く前に列をつくるのだけど、その時のドサクサに紛れて僕はノートを自分の服に隠し、途中にあったゴミ箱の中へ入れることにした。いつも以上にドキドキした。ゴミ箱に入れることはまだしておらず、それをするとまだ「隠す」という些細な問題であることが「捨てる」という一つ上の問題に発展することが幼くとも分かっていた。恐ろしいことだと思っていたけれど、なんだかそんな状況に発展するのを僕は楽しみにしていた。ゴミ箱を前にし、僕は頭痛がした。抵抗感を感じた。ゴミ箱が僕の前で大きな口を開けて待っている、ノートを入れて欲しそうに、僕がこの先に進むのを楽しみにしているかのように。身体が熱を持ち、服の中からノートを取り出す時、手が震えた。これをしたら僕はどうなってしまうのだろう、と思った。ゴミ箱の青色が眩しかった。そして僕はゴミ箱の中身ゴミが入っていることを疑問に思った。「どうしてゴミ箱の中に紙くずがあるのだろう、僕のノートが入らないじゃないか」混乱していた。自分が何をしたいのか分からなくなっていた。僕はみんなの輪の中に入りたいだけなのに、どうしてわざわざ浮くような行為をしているのだろうか、逆効果なんじゃないか。どうして僕は後ろめたい気持ちになってまで繋がりを求めているのか、苦しいだけだ。酷く口の中が乾燥し、ゴミ箱が大きく見えた。僕はゆっくりと、まるでこの行為を見て欲しいかのようにノートをゴミ箱の上に掲げ、落とした。

 そして僕は先生に見咎められた。

 思えば僕はあの時わざと先生が見張っている前で(背を向けていたけれど)ゴミ箱の中にノートを入れていた。やはりどこかで見つかりかったのだと思う、止めて欲しかったのだと思う。こんな無為な行為をしている自分に嫌気が差していたんだ、いつまで経っても友達との輪に入れないし、むしろ疎外されてすらいた。当然だ、僕と関わると物が盗まれるから。

 僕は先生に見つかった後のことは覚えていない、とにかく頭の中が真っ白になって、思いつくままに自分を弁護するような事を言った。唯一覚えているのは、先生が僕の犯行をみんなの前で発表し、「〇〇くんは、みんなにもうこんなこと(隠すこと)をしないでっていう意思表示でゴミ箱にノートを捨てたそうです。分かりましたか」

 その後の僕はノートを隠すことはなくなった、だからといって輪の中に入ることは叶わなかったが。

 

熟れた梅から漂う甘い香りは人を狂わせる

 冷たい夜風が肌を撫でる、仄かに甘い刺激が肌に残った。つい数日前はストロベリームーンだったらしいが今日の月はいつもと変わらない、紗のかかった白い光を発している。顔を少し上げながら暗い道路を歩いていると、不意に梅の甘い香りが鼻先を掠めた。もう季節は6月、異称は水無月。梅雨です。水無月の由来は諸説あって、田に水を引く時期だからとか、水が枯れるほど雨を降らす時期だからなんてのがある。僕は水無月といえばアマツツミの水無月ほたるが思い浮かんでしまうわけですが、まあエロゲーマーの業というやつなのでしょう。アマツツミほど感動したゲームはなかったので今でもED曲を聞くと感慨に浸ってしまう。『コトダマ紬ぐ未来』は卑怯な曲だ、否が応でも胸が締め付けられる。

 僕は梅雨は嫌いだ。シャツは肌に纏わりつくし、靴の中に水が溜まるしでいいことがないじゃないか。幼い頃は公園に溜まった大きな水溜りで一々喜んでいたけれど、今となってしまえば雨の多く降る梅雨は交通機関を頻繁に麻痺させるので全く喜べない、遅刻してしまうじゃないか。それにもう水溜りで遊ぶ年齢でもない。いつから僕は大人になってしまったのだろう、水溜りに心馳せなくなってしまったのだろう。泥で濁った水面をつつつと滑るアメンボ、それを捕まえようとして躍起になり、捕まえたはいいものの力加減を誤り潰してしまったあの若き日。遠い、遠すぎる。そういえばあの頃の僕の名前には「梅」という単語が入っていたっけ。どうも僕は旧姓に縛られているのか梅という言葉に敏感だ。だからだろうか、梅という単語はあまり好きではない。最初に連想するのが梅毒で、次に連想するのはやはり旧姓。でも梅の匂いは好きだ。甘くて、ああ梅雨なんだなあ、と思わせてくれる。梅干しは嫌いだけれどね。幕の内弁当とかに梅干しが入っているけれど、僕は必ず避けるし、なんなら梅干しの置いてあった白米が赤く変色している部分だってできることなら食べたくない。もったいないから食べるけれど。梅はもったいなくないのかって? あれはパセリみたいなものだよ、彩りだけの存在だから食べなくても良いんだ。僕は間違ってない。……食べ物の好き嫌いはかなり多い、子供の頃は嫌いなものは無理して食べていたけれど、この歳になると嫌いなものを食べなくなる。嫌いなものが子供の頃からほぼ変化してないのは僕がまだ子供だからだろうか、まあどうでもいいけれど。子供舌だということはよく指摘される、苦い、辛い、酸っぱい、みたいな刺激的なものを好まないからだ。嫌いな食べ物なら僕はねばねばとしたもの、例えばオクラや納豆、もずくなんかは嫌い。他にいくらやうにも嫌い、いくらとかみかんに醤油を掛けたやつだし、うにはプリンに醤油をかけたやつじゃん。だから北海道に旅行に行ったとしても僕はグルメに舌鼓を打てなそうだ。残念な舌だと思うよ、ほんと。でもムリなものはムリなのです。蟹なんかも食べるのが面倒だから好き好んで食べたいとは思わないし、寒いのは苦手だしこりゃあ北海道に向いてないのは確実だと思います。でも雪まつりを生で一度でいいから見てみたいとは思う。雪は好きだ、降るたびにワクワクする(もちろん交通機関の麻痺やこれから行うであろう雪掻きには辟易としているけれど)、でも子供の頃ほど新鮮な感情は得られていないように思う。渇いているのだ。欲望をいくら満たそうとしても充たされない、満ち足りない。まるで砂漠の真ん中にいるような、風邪を引いている時のような、水を飲んでも飲んでものどが渇いて仕方がない感じ、水分は充分に摂っているというのに一向に潤わない。欲望というものはきっと満ち足りることはないのだと思う、満たしてもほんの一瞬の満足感を得、そしてより高い快感を求める、際限なく求め続ける、人間とはそういう生き物なのだと思う、傲慢なんだ、傲慢だからこれほど文化が発展していると言えるのかもしれないけれど、僕は欠陥にしか思えない、リコールしたくても出来ない。

 最近は何も出来ていないように感じる、それはもとから僕の感情が割と平坦だからなのかもしれないけれど、でも喪失感ばかりを感じている。なんだか毎日自分の大切な部分を少しづつ喪っているような気がする。核のような部分が風化し、削られている。でも僕にはそれを止める手段が思い浮かばない、ただ削られていくだけ。そういえば最近大学でした「心の健康調査」とかいうアンケートに引っかかったのか呼び出しを食らった、呼び出しには応じてないけれど、そうやって僕をまるで心が病んでいるように言われると落ち込んでしまう。僕の心は、まだ、健康なはずだ。取り返しの付かないところまでは落ち込んでいないと自分では思う、これでも僕はある程度自分の精神衛生を制御している、常に憂鬱だけれど、完全に落ちることはないように調節している。まあ主に本を読むことによってそうしている、ショーペンハウエルの『幸福論』とかサルトルを読むと憂鬱が和らぐんだ。他にも自分に未完成な精神分析を施している、こうしてブログを書いているのも多分僕の精神衛生を保つ上で重要なことなのだろう、思い浮かんだ言葉をそのまま書き出している。意味のない言葉の羅列かもしれないけれど、改めて読んでみると僕がなにを考えているのかがわかるんだ、その情報を基に僕は自分の心のベクトルを少しだけずらす。

 あの優しかった子供の頃の情景は今ではもう吐き気しか催さない、梅を見るとむせ返るような過去の記憶が流れてくる、最悪だ。思い出したくないというのに、勝手に脳が思い出してくる。生き物を殺したこと、ガラスを割ったこと、孤立していじめられたこと……僕の失態を晒してくる。おかしいだろ、どうして幸せな記憶を思い出さないのだ、どうして辛いことばかり思い出すのだ、狂っている。自分を壊そうとしているようにしか思えない。でも幸せだった記憶でさえ僕の中ではもう嫌な思い出にカテゴライズされているからどうしようもないのだが。過去と向き合って平気な顔をしていられる人が信じられない、僕は全然だめだ。君たちはおかしいよ、過去をそうやって後生大事に抱えていられるなんて、狂っている。きっと梅の香りに惑わされているのだ、甘い匂いというのは毒だよ、本当にどうかしてるって。僕がおかしいのか? 狂っているのか、いや、全ては梅の悪いんだ。匂いは好きだよ、でも駄目なんだ、毒だから悪いものを運んでくる。

 そもそも梅雨という季節自体が駄目だよね、ジメジメしているのが悪いのだ、ジメジメしているから心まで腐っていく。梅雨は、嫌いだ。熟れた梅の薫りはもっと嫌いだ。

父の日

 父の日というものは僕にとって嫌な思い出しか無い。というのも僕には現在家に父が居ないことからその背景は薄っすらと伝わるのではないだろうか。そもそも父という言葉自体に嫌悪感を抱くように育ってしまったのだから、父を称揚するこの父の日という文化と相容れないのは当然のことだろう、何回僕が「父の日になにかプレゼントするの」というような話題に対して、薄っぺらい笑みを貼り付けながら、「あはは、なににしようかなあ、迷うよね」みたいなことを言ったことだろうか。内面では「プレゼント以前の問題として僕に父親とか居ないし。……そうやって君たちの当たり前をぶつけられるこっちの身にもなってくれないかなあ、答えられないんだよ」と思っていた。まあそんな僕に父親が居ないという事実を知らない人達はケラケラと幸せそうな顔で笑っています。はあ、僕が悪いんですか。父親が居ないというだけでこんな惨めな気持ちになる僕が間違っているのですか。分かりますよ、父親が居ないって普通のコトじゃないことくらい、本当に普通じゃない。でも知っていますか、日本の約2%は母子家庭なんですよ、2%! 宝くじで高額当選する確率よりもずっと高い。普通でもなければ稀でもない、中途半端なんですよ。

 別に僕は母子家庭だからといって不幸だとは思ってませんし、ああ、そういえば吐き気がするほど憎たらしいのは中学校の時の数学の先生……確か嵯峨とかいう名前だったかな、女性の先生で、教え方が酷く下手だった。あと生徒を贔屓するのがあからさまで嫌いだった。僕は数学が嫌いではなかったのだけれど、彼女の授業を受けてからというもの数学が嫌いになった。どうも人間性からして相容れなかったんだ。僕の両親が離婚調停中のことだけれどね、彼女、嵯峨は僕を呼び出して(確か部活動の合間だったかな)こう言ったんだ「君のご家庭では少し難しい問題があるのかもしれないけれど、何か相談したいことはない? 私は君の味方だからね」と。味方、はあ、味方ですか……授業では僕やその他大勢の生徒をないがしろにして特定の生徒ばかりを贔屓していたあなたがそれを言いますか? まあいいですけどね、心にもないことを言っているのは分かっているんですよ、あるいは可愛そうな子供とでも僕のことを見ていたのでしょうね。それが僕のことを傷つけないとでも、味方が欲しいときもあるけれど、でも少なくともあなたではなかった、絶対に。人が(傍から見れば)不幸になった時になって初めてまるで私は理解者だと言いたげに寄り添ってきて、授業の時とは打って変わってトーンの高い猫撫で声(警戒を解こうとするような、僕は警戒心の強い野生動物なのか!)で僕に話しかける。気持ち悪い。話しかけたくなければ話しかけなければいいのに、どうして僕に構おうとするのか、それが先生であるということだから? 中途半端に関わることしか出来ないのならば腫れ物に触るように振る舞うのではなく、むしろ無視してもらいたかったものだ。

 スーパーには父の日を賛美するかのように生鮮食品や惣菜には特に「父の日」と書かれたシールが貼ってある。目眩がする。スーパーではとにかくイベントごとにちなんだシールを貼りまくるという悪癖がある、資源の無駄なんじゃないかなあ、と思う。シールが貼ってあり、「この商品を買おう!」となるのだろうか、少なくとも僕はない。クリスマスだって、ひな祭りだって、ハロウィーンだって関係ない。というかハロウィーンと生魚(丸物)とか、父の日とチャーシューの細切れってなにか関係あるんですか? なんでもシールを貼っとけばいいと思っているのでしょう。消費者を馬鹿にしている。安く陳列されているというのならば分かるけれど、そんな気配はない。ただシールが貼ってあるだけ。意味がない。

 母の日と比較して父の日というのは影が薄い。カーネーションを用意するような華やかさがあるわけでもないし、そもそも父というのが存在感が薄いのかもしれない(少なくとも僕の場合何年も父と会っていないのだから存在感は薄れている)。可愛そうな存在だ、まあ育児に参加しないというのもあるかもしれないが。

 僕にとっての父親の像はかなり悪いものになっている、だから僕の作品の父親は暴力を振るうのだろう。きっと世の中には宗教にはまらず、暴力を振るわず、養育費を振り込む父親が居るのだと思うのだけれど、僕には想像できない。想像できないことは書き難い。書き難いからどうしても書きやすい姿として父親は悪役として僕の作中に登場する。宗教にはまって、ドロリとした眼で僕を見る父、その後僕に迫るのは罵声だろうか、それとも拳だろうか。

 子供の前で両親が喧嘩するのはきっと教育上よろしくない。子供は変貌した両親の姿を見、怒号を聞き、震え上がる。止めようとしても、止められない。あまりにも非力だ。彼らの問題を前に僕らの立つ場所はない。後になって親権を争うというのに、どうしてあの時僕を遠ざけたのか、意味がわからない。意味がわからないまま両親は親権を争い、弁護士を雇い、金を浪費する。養育費よりも親権のほうがよほど大切らしい。弁護士も嫌いだった。嵯峨のような印象の女性の弁護士で、化粧の強い臭いがした。弁護士の顔はもう覚えいないのだけれど、彼女が待っていた部屋のことは今でも覚えている。鉄の重い扉を開くと、狭くて寒い部屋の中で彼女が待ち構えていた。入り口の側には背の低い棚があり、犬や魚のフィギュアやチョロQ、くまのぬいぐるみ等、統一感のないものが寂しそうに並べられていた。生気のないそれらを見て、僕は恐ろしくなった。きっと子供を食べる部屋なのだと思った。表面では子供を安心させるつもりなのに、本性では子供を疎ましく思っているのだ。繕われた子供への善意。頭痛がした。女は目を細めて笑いかけている。冷たい目だった。背後を振り返ると扉はすでに閉まっていて、僕は女と二人部屋に閉じ込められた。彼女と何を話したのか覚えていない、でも僕はできる限り両親を悲しませないことを話そうと努力していた、彼らに不利な証言をしないようにと、足りない頭で必死に考えた。いつの間にか僕は部屋から出ており、寒い廊下に立っていた。天井では切れかけの蛍光灯が弱々しく点滅していた。その後母に連れられて食べたラーメンはドブのような味がした。紅生姜がイトミミズに見えたんだ、混濁したドブ川の底に住む嫌悪感の象徴。僕は悪くない。

 嫌な記憶が一斉に僕の方へ向かってくるから父の日というのは嫌いだ、一生好きになれる気がしない。

『真昼の暗黒』プレイした(追記あり)

 タイトルの通り、隷蔵庫(Summertime)様の『真昼の暗黒』をプレイした。簡潔に述べるのならばプレイできて良かった。文章がとにかく佳い、ドロドロとしていて、陰鬱な感じがたまらなかった。一々描写が丁寧で、何箇所も唸る部分があった。例えば

団地も、遊歩道も、等間隔に植えられた銀杏の木も、あんず色に溶けている。

夏の夕日はいつだってむせかえるような情景を作り出す。

密かな嬉しいため息を、蝉の鳴き声がかき消した。

夏の前では、私の話す言葉は、全てぬるい空気の中に消えてしまう。

私たちの会話も暴力も争いも、全て夏の1日となって、

コンクリートに撒かれた水とともに蒸発してしまうのだ。 

これとか。好き。嫉妬するくらい。儚いメランコリックな夏の一日の終わりという感じがする。 他にも好きな文章はあったけれど、まあ書くのは面倒だし、そんな引用ばかりしていても意味がないと思うので、これで終わり。はい、次に行きましょう。

 演出もかなり佳かった、色々と書いてしまうとネタバレになってしまうから書かないのだけれど、小説ではなくてゲームとして成立しているのが流石だなあ、何故あのような文章や構成になっているのかが、まさしくゲームだからこそできる表現って感じ。ひえー、よくフリーでこれ公開しているよね、完成させるまでの熱量を思うと目眩がする、僕だったら絶対にできないよね、ただただ圧倒されてた。

 あ、こういう作品にありがちなのだけれど(批判じゃない)(というか僕もそうだし)猫、殺してしまうよね。なんでだろうね、猫って作中で殺しやすいのは。そういうシーンを書くと悲しくなって、苦しくなって、ああ、なんで僕は作中だからと言っても猫を殺してしまったんだ! ごめんよ、本当はそんなつもりはなかったんだ、ごめん、ごめんなさい……ってなる。読んでても、そう。やっぱり辛くなる。僕はもう死んでしまったけれどペットを飼っていたから生き物に対する思い入れはかなりあるためなのかなあ、でも作中では猫を殺しました。ごめんなさい。で、なんで猫を殺してしまうかだったよね、僕が思うに犬よりも猫のほうが(人から離れたものとして)独立した生々しい生命としてありふれているから殺すんじゃないかなあ。生き物ってさ、気持ち悪いじゃん、可愛い可愛いと表象では思うけど、やっぱりどこか不気味で、自分とは別の存在で、無機物とは違って生きている、それで完全には受け入れられないんだよ。猫に限ったことじゃない、人間だってそうだ。他人が生きている、気持ち悪い。でも僕たちって他者がないと存在できないから、そう思うと自分って、生きてるのって、悍ましいよね。吐き気がする。実際には吐いていないけれど、心の中でげえげえ吐いて、喉の粘膜が爛れているんだ。この『真昼の暗黒』もなんだかそんな感じがする。血と、死体と、精液が入り混じった臭いがしているけれど、その奥に吐いた後の饐えた臭いがするんだ。

 物語の登場人物が皆、過去も性格も屈折し過ぎてて、ああやっぱりこの作者歪んでいるなあ(褒め言葉です)、と思った。人のことを言えない? 煩い、黙れ。で、別にこのブログで考察もネタバレするつもりも毛頭ないので、あまり書けないのだけれど、計の性格がかなり好きだった(ミサもだけど)。仮面を貼り付けて、他人の好奇の視線を飄々と躱す感じとか、仮面の下で常に思考していて、毒を吐いて、でもそれを決して表には出さないあの性格。実際にいるよね、ああいった人。僕も昔あったことがある、小学校の先生で、いつも真面目そうな顔をしていて、給食の時なんかは生徒と笑い合っているのだけれど、眼は笑っていなくて、それにしては周囲の人間に慕われていて、でもやっぱり空恐ろしくて、教室を出る一瞬に見せる真顔が凍てついていたあの人。名前は忘れてしまったけれど、僕はあの先生が嫌いだった。特に最悪だったのは家庭訪問で、僕の壊れやすい部分を見通された気がして恥ずかしかった、きっとあの仮面の下で嘲笑しているのだと思った。閑話休題。計で好きだったシーンは弱い部分を晒して、喘いでいるところ。自分の趣味に没頭して盲目的に愛しているところも佳かったけれど、やっぱり弱い部分を見せるのが一番よね、と僕は思った。……文章が滅茶苦茶なのは目を瞑って下さい、今はあまり頭が働かないんです。

 文章と言えば、作者さんかなりの本を読んでいるのだろうなあ、と思った。矍鑠とか普通使わないし……。あと、ヘリンボーンのリンネル(作中は漢字表記だっけ、忘れた)で聖骸布を表現しているところとか知識の深さに驚いた。語彙が豊富だからというのもあるのだろうね、鋭い比喩表現が読んでいて心地よかった。文章が巧いと読んでいて飽きない、内容が佳くても文章が悪いと読み続けるのが苦痛だったりするから、その点『真昼の暗黒』は読んでいて爽快感があった、内容は爽快とは言い難いけれども。小説を読んだ時みたいな読後感で、今もロキソニン飲んだ後みたいな余韻の中にいる。

 

 短いけれど、ここで終わりにしとく。追記するかもしれないけれど、その時はその時ということで。

 本当に佳い体験だった、読んで下さい。

freegame-mugen.jp

 

(2019/06/14 追記)

 

ここからはネタバレ込みで綴っていく。

 計と深沙の関係性がなんだか僕には『虐げられた人々』のワーニャとネリーを彷彿とさせてくれて、こういうのいいなあって、共依存というのかな、でも少し違うか、名前のない関係性。計は深沙が居なくても成立するのだろうし、深沙は……どうなのかな、計が居なければ成立しないと思うのだけれど(でも確実に駄目な方へ向かっているのだろう)、計が居なくなればそれはそれで破滅しそうな臭いがする。どこまでも終わった人間って感じで最高よね、人生が詰んでいる人間は救いを求めて突拍子もないことを行いそうだし、深沙からはひしひしとそれが伝わってきた。埃っぽくて暗くて狭いアパートの一室で、自分を慰めて、嫌悪して、でも計に捨てられたくないから泣いて、しかし計は自分の人生を滅茶苦茶に破壊した人だから憎悪しなければならない、しかし姉を殺されても自分の深い部分には響かなかったような子供であった深沙にとって今の計は(姉や友人を殺したという自己に深く関係する側面が大いにあるのだろう)(ある意味では唯一の理解者)姉以上に大切な存在となっていた、いや、深い部分に響いてなかったというのは嘘なのだろうね、ただ鍵をかけて深い部分に過去を眠らせていただけなんだ。あるいは死体として聖骸布を被せて記憶の川に沈めたとでも言おうか。斜に構えた可愛くない小学生だったミサにとって人生を巧く生きる方法は、人生をわかったふりをして、直接的な苦痛から逃れることだったのだけれど、姉の死や穣介の失踪を期に「私は捨てられた」とどこかで思ってしまった、でもやっぱりそれは受け入れきることの出来ない事柄だったから、深沙はミサとして過去を封じ込めた。ずるずると成人するまで計と不安定な関係性を保ちつつ生きてしまった深沙はもう正常な生き方というものが分からない。この関係性は駄目なのは頭では分かっている、でもそれを今更変えろって土台無理な話じゃない? だからせめて自分を変えようと、手記を綴っていた。幼少期のミサに戻って、過去を、あの自分のすべてを変えてしまった事件について書いていた。でもそれは過去に眠らせた記憶を引きずり出す行為で、傷口を抉って白い神経を取り出すような苦痛を伴うものだったから、混乱してしまい、徐々に深沙は自分が深沙なのかミサなのか分からなくなる、11歳、今度はちゃんと言えた。計もそのことは薄々と感づいていて、やがて深沙のミサとの決別の儀と共にそれは判明するのだけれど、計はそのこと(つまり深沙が告発文を書いていたこと)に関して発表するかは深沙に任せると言う。僕は計が惰性で生きていたからそう言ったのだと思った。計にとって生きることは屍姦することで、しかし年を経るごとに屍姦をする頻度は減少していった(あれ、そうだっけ、記憶が朧気で曖昧だ)、それが意味しているのは生きることへの執着が失くなってしまったからなんじゃないかなあ、でも計が本当に求めていたのは特殊EDや計の過去で語られるマゾヒズムへの傾倒、自分が虐げられることであって、僕が思うに計は生きた死人であったからそもそも生きることへの執着はなかった。計は暑い日だったという理由で(異邦人みたいよね)事件を起こすような少年であったから、僕はそんな論理が飛躍している計の気持ちなんてものは分からない、きっと深沙を引き取ったのだって論理が飛躍していたからだったのだろうなあ、明確な理由なんてものはなく、ただ漠然と引き取ってもいいか、というような理由だったのだと思う。……ああ、もう滅茶苦茶だよ、日を開けて書いているから文章の前後関係がわからなくなっている。とにかく僕が言いたかったのは、計と深沙の関係は最低で最高の関係だったということだ。

信憑性皆無のリークに踊らされて

 どこぞのリーク情報でCyberpunk2077の発売日が11月9日だと書いてあるのを見たのだけれど、それってDEATH STRANDINGと一日違いじゃないですか、やだー。両方とも楽しみにしてるゲームだから購入は確定しているのだけれど、同時にプレイするなんて芸当は出来ないわけで、どちらかを先にプレイするしか無い、するとプレイ出来てない方の情報がネット上に溢れるわけで、無垢なままでプレイしたい僕はどうすれば良いのだろうか。ネットから離れる? 馬鹿言ってはいけないよ、僕みたいな依存症の人間が簡単にやめられるわけないじゃないか。

 とまあ、こんな感じで不確かなリーク情報で悩んでいる僕なのだけれど、それ以上に今書いている新作の展開で悩んでいたりする。困ったものだよ、僕の作品であるというのに、登場人物は勝手に暴走して喋りまくるし、僕の制御下からすっかり離れてしまっている。そもそもプロットを書いていないことが駄目なんだろうね、でも僕はプロットを書いてもその通りに進行した試しがないから結局は好きなように書いて、神(信じてないけれど)とか無意識とかいうものが勝手に辻褄を合わせてくれるのを待っているのだ。実際、書いていて意識していないのに物語が繋がることなんてよくあるわけで、自分でも驚く。彼女の行動理由の裏にこんな思惑があったのか、みたいな感じにね。たぶん僕の頭の中の世界で彼ら登場人物は生きているんだろうね、生きているから勝手に行動するし、行動原理がはっきりしている。僕は外部出力装置にほかならないのだろうか 。でも外部出力装置だからといって悲観する必要はないのだ! だって頭の中でどれだけ世界や言葉で溢れていてもそれを取捨選択するのは僕の役割であって、僕の責任であるのだから。ところで僕がブログを書いているのは何故なのだろうかと思ったのだけれど、それって僕自身の怨嗟を吐き出すためでもあるし、またこの世界の片隅にひっそりと生きる、息苦しさを抱えた人に辛いのは自分だけじゃないんだと少しでも元気になって欲しいからなのだと思うのだよね、たまに綺麗事を並べたりするのはきっとそういう理由があるんだよ。でも実際のところ自分でも自分のことはよく分からない。何のために生きているか分からない、なんて言ってしまえば青年期特有のメランコリックな感傷だと、一笑に付されてしまうかもしれないけれど、本当のことなんだから仕方がないじゃないか。君たちだってどうして自分が生きているのかはっきりと述べることができるのかしらん? どうせ深いところを覗いてみれば何にもなくて、曖昧に笑うくらいしか出来ないんだよ。夢を持っている人はいると思うけれど、でも夢に到達したらどうするの? 夢って山の頂上だよね、山の頂上からの眺望はそりゃあ素晴らしく美しいものだとは思うけれど、山の上って空気が薄いし、生活できる環境を整える事もできないから一瞬しかいられない。下るしか無いんだ。下った後どう生きるかなんだろうね。別に夢を持つなと言いたいわけではないよ、僕だって自分に対して理不尽な期待をし、夢を見ているからね。だって僕はどこまでいっても僕自身なのだから僕を連れて生きていくしかなくて、でも生きていくには少なくとも目標というものが必要であり、じゃないと歩みを止めてしまう。僕は精一杯に生きて、後ろを振り返ってああ、でっかい山だったなあ、これを僕は登ったのか、と感傷に浸りたいんだ。そしてそこらへんで野垂れ死にたい、カラスとか野良犬だとかに死体を食われてしまい、そのまま消えてしまいたい。老後身体が動かせなくなって、家族や友人に看取られて逝くのは絶対に嫌だね、僕は酷く傲慢な性格だから自分の弱っている部分を親しい他人に見せたくないんだよ。自分が格好いいという幻想に抱かれたままに死にたいと思うのは不思議な事だろうか? そうだよ、僕はニヒリストで、ナルシストで、破滅願望のあるどうしようもない人間なんだ。性根が腐っている。それがいけないことだとは自分でも分かるよ、分かるんだ、でも理性で理解していても、それをやめれる気はしない、僕の無意識の部分がね、耳元で囁くんだよ、いけないことといってもそれは他人の意見であり、それがどれほど正しいことなのかは誰にもわからないって。そうだよ、正しさなんてものはまやかしに過ぎないんだ! 僕が今ここで自殺したとしよう、それはいけないことなのでしょうか? キリスト教的にはいけないことだし、多分世間一般でも自殺は悪とされている。最近あったよね、電車に飛び込もうとした少女を助けた青年が称賛されているというニュースが。なんだか少女の意志を尊重しろ(意訳)と非難していた人がいたけれど、多分、いやきっと彼の行動は正しいし、僕だってあの青年と同じ状況に立たされたのならば自殺しようとしていた少女を助けると思うよ、だって目の前で人に死なれるのは嫌なことだからね。人には人固有の正しさがあって、しかしそれは常に変化し続ける。僕がもし青年のような当事者ではなければ少女が自殺しようがしまいが関係ない、むしろ自殺したとしても彼女は自分の正しさの中で死んだのだろうなあ、と肯定的な意見を持つよ。

 こうして無意味な文章を綴っていると悲しくなってくるよね、無意味といえば嘘を吐くことって限りなく無意味だよね、まあ嘘を吐くことで保身となることがあるのは確かなことだけれど、もしも嘘が暴かれてしまった時のことを考えるとあまりにもリスキーな行為だ。こう言っている僕が言うのもなんだけれど、僕は結構嘘を吐くタイプの人間だし、虚言癖とまではいかないまでも自分を大きく見せるために、あるいは構ってもらうために嘘を平然と吐く。いや、平然とはしていないか。嘘を吐く時は過去の発言と矛盾がないかよく考え、暴かれた時のデメリットと今得られるメリットとを天秤にかけて嘘を吐いているからね、そこのところオオカミ少年とは嘘の質が違うよ。オオカミ少年、それは誰もが知っているお話だと思うのだけれど、たまにね、考えてしまうんだよ、オオカミ少年の心ってやつを。彼は自分が構ってもらうために、信用してもらえなくなるまで嘘を吐き続けた。何が彼をそうさせたのだろうか。僕は思うんだ、彼の幼少期は凄惨なものだったんじゃないかって、ネグレクトされていたんだと思うよ。親からの愛を貰えなかった少年は、少しでも構ってもらうためにことを大きく騒いだり、嘘泣きをしたんだ。そうすると愛がなくとも少しは構ってもらえる。そのことが少年のことを大きく歪めた。少年は常に孤独だったんだよ、少しでも孤独を紛らわそうと嘘を吐いて、構ってもらい、しかし充たされない。自分が欲しかったものは愛だったのに、嘘を吐いて得られるのは愛ではなかった。でも少年はそんなことに気が付かないわけだから、充たされるために嘘を吐き続ける。やがて信用されなくなって、誰にも構ってもらえなくなって、最期にはオオカミに食べられる。オオカミに食べられる前の少年は激しく後悔し、痛切な悲鳴を上げたと思うけれど、ある意味で幸福だったと思うんだ。嘘が本当になって、良かったなあって。嘘を吐いていた自分から開放されたのだから。でも少年がもし僕が邪推したように家庭に問題があったとしても、オオカミに食べられたことは自業自得なんだよね。眼の前にオオカミがいる、でも誰も信用してくれない、どうしてだ、それは僕が嘘を吐いたからだ、ああどうして僕は嘘を吐いてしまったのだろうか、僕はオオカミに食べられて死ぬ、誰か助けてくれないか、同情してくれないか、この不幸な僕を、誰か、助けておくれ! 叫びは誰にも届かない、それは彼が信用を失くしてしまったから。きっと少年オオカミに生きたまま喰われ、壮絶に死んだことだろう。嘘を吐いた自分を呪ったことだろう。でも既に遅いのだ。嘘付きである少年の言葉はあまりにも小さすぎた。世の中、声というものは大きくなければ届くことがない、嘘を吐いてもそれが大きければ影響を与える。真偽なんてものは関係ないよ、大きさだけが全てだ。だから部屋の隅で縮こまって、ブルブルと震えていてもなんにも変化しないよ、我慢したところで世の中は変化しない、たとえ偽りで塗り固められていたとしても声の大きな人の意見が通るのだ。つまり選挙には行きましょう。

 久し振り(実にひと月ぶり)のブログの更新ということもあってかいつもの二倍くらいの文量になっていることに気がついた。この文量を今書いている作品に回すことが出来たら良いのに。絶賛筆は止まっている。現在75,000字。今書いている話だけれど、春を売っている女と自閉症の義妹とのハートフル?ストーリーなんだよね、でも妹があまり話せないから会話でなかなか話が進まない。難しい。だからホテルでの話を軸に物語を進めている。……人と人が触れ合う時、互いの人生の断片が触れ合い、音を立てる。すると意図しなくとも物語が生まれる、そういう話を書いていきたい。内面に問題を抱えた人々が一瞬限りの関係だからこそ吐き出せるドラマを通して、主人公が本当の自分に気付いていく物語を。

 ……今思いついたけれど、タイトルは『ドッペルゲンガーの子供(仮)』にでもしようかな。

 

追記(2019/6/10)

 Cyberpunk2077の発売日が4月16日でしたね。杞憂に終わってよかった。