『真昼の暗黒』プレイした(追記あり)

 タイトルの通り、隷蔵庫(Summertime)様の『真昼の暗黒』をプレイした。簡潔に述べるのならばプレイできて良かった。文章がとにかく佳い、ドロドロとしていて、陰鬱な感じがたまらなかった。一々描写が丁寧で、何箇所も唸る部分があった。例えば

団地も、遊歩道も、等間隔に植えられた銀杏の木も、あんず色に溶けている。

夏の夕日はいつだってむせかえるような情景を作り出す。

密かな嬉しいため息を、蝉の鳴き声がかき消した。

夏の前では、私の話す言葉は、全てぬるい空気の中に消えてしまう。

私たちの会話も暴力も争いも、全て夏の1日となって、

コンクリートに撒かれた水とともに蒸発してしまうのだ。 

これとか。好き。嫉妬するくらい。儚いメランコリックな夏の一日の終わりという感じがする。 他にも好きな文章はあったけれど、まあ書くのは面倒だし、そんな引用ばかりしていても意味がないと思うので、これで終わり。はい、次に行きましょう。

 演出もかなり佳かった、色々と書いてしまうとネタバレになってしまうから書かないのだけれど、小説ではなくてゲームとして成立しているのが流石だなあ、何故あのような文章や構成になっているのかが、まさしくゲームだからこそできる表現って感じ。ひえー、よくフリーでこれ公開しているよね、完成させるまでの熱量を思うと目眩がする、僕だったら絶対にできないよね、ただただ圧倒されてた。

 あ、こういう作品にありがちなのだけれど(批判じゃない)(というか僕もそうだし)猫、殺してしまうよね。なんでだろうね、猫って作中で殺しやすいのは。そういうシーンを書くと悲しくなって、苦しくなって、ああ、なんで僕は作中だからと言っても猫を殺してしまったんだ! ごめんよ、本当はそんなつもりはなかったんだ、ごめん、ごめんなさい……ってなる。読んでても、そう。やっぱり辛くなる。僕はもう死んでしまったけれどペットを飼っていたから生き物に対する思い入れはかなりあるためなのかなあ、でも作中では猫を殺しました。ごめんなさい。で、なんで猫を殺してしまうかだったよね、僕が思うに犬よりも猫のほうが(人から離れたものとして)独立した生々しい生命としてありふれているから殺すんじゃないかなあ。生き物ってさ、気持ち悪いじゃん、可愛い可愛いと表象では思うけど、やっぱりどこか不気味で、自分とは別の存在で、無機物とは違って生きている、それで完全には受け入れられないんだよ。猫に限ったことじゃない、人間だってそうだ。他人が生きている、気持ち悪い。でも僕たちって他者がないと存在できないから、そう思うと自分って、生きてるのって、悍ましいよね。吐き気がする。実際には吐いていないけれど、心の中でげえげえ吐いて、喉の粘膜が爛れているんだ。この『真昼の暗黒』もなんだかそんな感じがする。血と、死体と、精液が入り混じった臭いがしているけれど、その奥に吐いた後の饐えた臭いがするんだ。

 物語の登場人物が皆、過去も性格も屈折し過ぎてて、ああやっぱりこの作者歪んでいるなあ(褒め言葉です)、と思った。人のことを言えない? 煩い、黙れ。で、別にこのブログで考察もネタバレするつもりも毛頭ないので、あまり書けないのだけれど、計の性格がかなり好きだった(ミサもだけど)。仮面を貼り付けて、他人の好奇の視線を飄々と躱す感じとか、仮面の下で常に思考していて、毒を吐いて、でもそれを決して表には出さないあの性格。実際にいるよね、ああいった人。僕も昔あったことがある、小学校の先生で、いつも真面目そうな顔をしていて、給食の時なんかは生徒と笑い合っているのだけれど、眼は笑っていなくて、それにしては周囲の人間に慕われていて、でもやっぱり空恐ろしくて、教室を出る一瞬に見せる真顔が凍てついていたあの人。名前は忘れてしまったけれど、僕はあの先生が嫌いだった。特に最悪だったのは家庭訪問で、僕の壊れやすい部分を見通された気がして恥ずかしかった、きっとあの仮面の下で嘲笑しているのだと思った。閑話休題。計で好きだったシーンは弱い部分を晒して、喘いでいるところ。自分の趣味に没頭して盲目的に愛しているところも佳かったけれど、やっぱり弱い部分を見せるのが一番よね、と僕は思った。……文章が滅茶苦茶なのは目を瞑って下さい、今はあまり頭が働かないんです。

 文章と言えば、作者さんかなりの本を読んでいるのだろうなあ、と思った。矍鑠とか普通使わないし……。あと、ヘリンボーンのリンネル(作中は漢字表記だっけ、忘れた)で聖骸布を表現しているところとか知識の深さに驚いた。語彙が豊富だからというのもあるのだろうね、鋭い比喩表現が読んでいて心地よかった。文章が巧いと読んでいて飽きない、内容が佳くても文章が悪いと読み続けるのが苦痛だったりするから、その点『真昼の暗黒』は読んでいて爽快感があった、内容は爽快とは言い難いけれども。小説を読んだ時みたいな読後感で、今もロキソニン飲んだ後みたいな余韻の中にいる。

 

 短いけれど、ここで終わりにしとく。追記するかもしれないけれど、その時はその時ということで。

 本当に佳い体験だった、読んで下さい。

freegame-mugen.jp

 

(2019/06/14 追記)

 

ここからはネタバレ込みで綴っていく。

 計と深沙の関係性がなんだか僕には『虐げられた人々』のワーニャとネリーを彷彿とさせてくれて、こういうのいいなあって、共依存というのかな、でも少し違うか、名前のない関係性。計は深沙が居なくても成立するのだろうし、深沙は……どうなのかな、計が居なければ成立しないと思うのだけれど(でも確実に駄目な方へ向かっているのだろう)、計が居なくなればそれはそれで破滅しそうな臭いがする。どこまでも終わった人間って感じで最高よね、人生が詰んでいる人間は救いを求めて突拍子もないことを行いそうだし、深沙からはひしひしとそれが伝わってきた。埃っぽくて暗くて狭いアパートの一室で、自分を慰めて、嫌悪して、でも計に捨てられたくないから泣いて、しかし計は自分の人生を滅茶苦茶に破壊した人だから憎悪しなければならない、しかし姉を殺されても自分の深い部分には響かなかったような子供であった深沙にとって今の計は(姉や友人を殺したという自己に深く関係する側面が大いにあるのだろう)(ある意味では唯一の理解者)姉以上に大切な存在となっていた、いや、深い部分に響いてなかったというのは嘘なのだろうね、ただ鍵をかけて深い部分に過去を眠らせていただけなんだ。あるいは死体として聖骸布を被せて記憶の川に沈めたとでも言おうか。斜に構えた可愛くない小学生だったミサにとって人生を巧く生きる方法は、人生をわかったふりをして、直接的な苦痛から逃れることだったのだけれど、姉の死や穣介の失踪を期に「私は捨てられた」とどこかで思ってしまった、でもやっぱりそれは受け入れきることの出来ない事柄だったから、深沙はミサとして過去を封じ込めた。ずるずると成人するまで計と不安定な関係性を保ちつつ生きてしまった深沙はもう正常な生き方というものが分からない。この関係性は駄目なのは頭では分かっている、でもそれを今更変えろって土台無理な話じゃない? だからせめて自分を変えようと、手記を綴っていた。幼少期のミサに戻って、過去を、あの自分のすべてを変えてしまった事件について書いていた。でもそれは過去に眠らせた記憶を引きずり出す行為で、傷口を抉って白い神経を取り出すような苦痛を伴うものだったから、混乱してしまい、徐々に深沙は自分が深沙なのかミサなのか分からなくなる、11歳、今度はちゃんと言えた。計もそのことは薄々と感づいていて、やがて深沙のミサとの決別の儀と共にそれは判明するのだけれど、計はそのこと(つまり深沙が告発文を書いていたこと)に関して発表するかは深沙に任せると言う。僕は計が惰性で生きていたからそう言ったのだと思った。計にとって生きることは屍姦することで、しかし年を経るごとに屍姦をする頻度は減少していった(あれ、そうだっけ、記憶が朧気で曖昧だ)、それが意味しているのは生きることへの執着が失くなってしまったからなんじゃないかなあ、でも計が本当に求めていたのは特殊EDや計の過去で語られるマゾヒズムへの傾倒、自分が虐げられることであって、僕が思うに計は生きた死人であったからそもそも生きることへの執着はなかった。計は暑い日だったという理由で(異邦人みたいよね)事件を起こすような少年であったから、僕はそんな論理が飛躍している計の気持ちなんてものは分からない、きっと深沙を引き取ったのだって論理が飛躍していたからだったのだろうなあ、明確な理由なんてものはなく、ただ漠然と引き取ってもいいか、というような理由だったのだと思う。……ああ、もう滅茶苦茶だよ、日を開けて書いているから文章の前後関係がわからなくなっている。とにかく僕が言いたかったのは、計と深沙の関係は最低で最高の関係だったということだ。

断片を見ゆ〈VA-11 Hall-A 感想・レビュー〉

◆はじめに

 『VA-11 Hall-A』について語る前に1つ個人的な話をしておきたい。題で興味を持ってこのブログを閲覧した方には申し訳ないのだけれど、しばし付き合って欲しい。

 

 愛してやまない本がある。小説ではない。それは決して何かを教えてくれる本ではなく、ただ読者を深淵へと導き、惑わせる本である。だけれども、その惑いが残した違和感が私を惹きつけてやまない。

 その本の名を『断片的なものの社会学』という。

 社会学者である岸政彦氏が書かれた本で、内容はというと、テーマも統一感もないため内容らしい内容はない。彼は社会学者として様々な人々から聞き取り調査を行ってきたのだが、その中には分析も解釈もできないものがある。そんなとりとめのない「人々の語り」、言い換えれば一般化も全体化もできない人生の断片、そんな語りを言葉にしたものである。内容がないこと、それ自体が内容なのかもしれない。

 人生とは様々な断片が積み重なったものである。その断片1つ1つは無意味で、一見すると取り上げるには値しないものかもしれない。しかし、世界というものはそんな無意味な断片が積み重なってできていることを想像して欲しい。道端に転がっている石1つにしたって、そこに存在するまでに過程があったはずだ。瓦礫を大量に積んだトレーラーから零れ落ちたのかもしれないし、もしかしたら小学生の集団が石蹴りをしてそこまで運んできたのかもしれない。途中、アスファルトによってその身を削られたことだだって想像がつく。こんな風にどれほど無意味そうなものにも背景がある。この本はそんな道端に転がる石に焦点をあてたような物語の集成なのだ。

 そんな一見すると無意味だけれど魅力に溢れる本、その中の数ある話から1つ私が好きなものを選べと言われると困ってしまう。どれも不可思議で、だけれども魅力のある話なのだ。しかし、1つ取り上げるとすれば……「海の向こうから」であろうか。

 私たちには、「これだけは良いものである」とはっきり言えるようなものは、何も残されていない。私たちができるのは、社会に祈ることまでだ。私たちには、社会を信じることはできない。それはあまりにも暴力や過ちに満ちている。

 私たちはそれぞれ、断片的で不十分な自己のなかに閉じこめられ、自分が感じることがほんとうに正しいのかどうか確信が持てないまま、それでもやはり、他者や社会に対して働きかけていく。それが届くかどうかもわからないまま、果てしなく瓶詰めの言葉を海に流していく。

 岸政彦『断片的なものの社会学

 これは「海の向こうから」から一部抜粋したものだ。この文章を読んで何を思っただろうか。何も感じないし、何も思わなかった? それでもいい、何を思うかどうかなんて人それぞれだ。

 

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 

 

 

 

 ◆『VA-11 Hall-A』について

 その退廃的な世界観だけでなく、当意即妙な会話や示唆に富んだ台詞が魅力的な本作。私は最近、ふとしたきっかけで再プレイしたくなり再プレイした。そこで何か文字に残したいと思い筆を執ったわけだ。

 『VA-11 Hall-A』についての感想・レビューを綴っていくその前に本作について軽い説明をしておきたい。『VA-11 Hall-A: Cyberpunk Bartender Action 』は2016年にSukeban Gamesが発売(日本語版は2017年に発売)したVisual Novelである。

 政府は腐敗し、大企業(財閥)は癒着し、民衆は暴徒と化し、犯罪は蔓延している、そんなサイバーパンクディストピア「カラカス」グリッチシティ」の片隅に存在するバー「VA-11 Hall-A」が本作舞台だ。また、そこに務めるバーテンダーのジルが本作の主人公である。このバーには世の中の喧騒から逃れてきた人々が、まるでオアシスを求めるかのようにやってくるのだが、このゲームでは主人公となって、そんな彼らにカクテルを振る舞うことで進行する。いわゆるサイバーパンクものにありそうな、主人公に降りかかる不条理な厄災や手に汗握る熱い展開はない。ただ客にカクテルを提供し、彼らの話を聞き、たまには自分の話をする、それだけである。これだけ聞くと、つまらない、と思う人もいるかもしれないが、その結論に達するのは些か早計であろう。人には人それぞれのドラマ(歩んできた人生)があり、それはもちろん主人公にしたってそうだ。私たちプレイヤーはそんな彼らを覗くことで彼らの人生に入り込み、そこに介在する生への欲求を目のあたりにするのである。

 

 できるだけネタバレは防ぐつもり……と言いたいところだが、残念ながらできそうにもない。だが、恐らくこのゲームに致命的なネタバレというものはほぼ存在しないと思うので多少は安心して欲しい。前述のようにこのゲームには主人公に降りかかる不条理な厄災も無ければ、手に汗握る熱い展開もない。あるのは彼ら登場人物達の人生とそこから派生する祈りだけである。もしも彼らの人生を、そして祈りをその目で見たいという方がいれば、ここでお引き取り願いたい。ではそろそろ本題を綴ろうか。

 

 

 

◆VA-11 Hall-Aとはどのような場所であるか

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 バーという空間は不思議なもので、自分の秘密をポロリと零してしまうことがある。それはお酒が入っているからなのかもしれないし、その空間(雰囲気)がそうさせるのかもしれない。あるいは、対面している相手が赤の他人であるからこそ話せる秘密があるのかもしれない。

 「VA-11 Hall-A」には様々な客がやってくる。ハッカー、賞金稼ぎ、大企業の令嬢、治安部隊の隊員、犬、アンドロイド、ガラス容器に入った脳など……。彼らは彼らの赴くままにこのバーにやってきて、カクテルを飲み、語る。その語りは彼らの人生の断片そのものだ。誰しも過去があり、悩みがあり、欲求があり、 希望があり、想いがある。もちろん主人公にだってそうだ。主人公のジルは彼らの人生の断片を汲み上げ、雰囲気に沿ったカクテルを提供することで相手の語りを促す。バーカウンターという境界があるからだろうか、客は彼らの抱えている何か、柔らかい部分を見せてくれることもある。その姿を俯瞰する私たちプレイヤーは何を思い、何を考え、何を想うだろう。

 

 薄々お気づきの読者の方もいらっしゃるだろうが、はじめに『断片的なものの社会学』を取り上げたのは、この『VA-11 Hall-A』というゲームがまさに断片的なものの社会学であったからだ。内容らしい内容はなく、存在するのは登場人物らの人生とほんの少しのストーリー。だけれども、この鬱屈とした街の片隅で紡がれる群像劇が惹きつけてやまないのだ。閑話休題

 

  例えば、序盤(一日目)から登場するキャラクターでイングラムという男がいる。正直はじめの印象は良くないのだが、その理由が分かれば見方も変わってくる。彼は娘を亡くし、その原因であるGNB(ボリバル国軍)ホワイトナイト(治安部隊)を憎んでいた。そんな彼は殺し屋を雇ってそのホワイトナイトを殺害、だが彼が充たされることはなかった。全ての感情を失ってしまっていた。憎しみを燃やし尽くした先には何も残っていなかったのである。

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  そこで彼は何でもいいから感情を抱けないかと少女を雇った。彼女に娘と同じ服を着させ、同じ振る舞いをするようにと。

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  悲痛な嘆きを吐き出すイングラムに対してジルは慰めの言葉をかけるのだが、その後彼は今の話は真っ赤な嘘なのかもしれないとジルをからかい、店を去ったのであった。

 彼の話の真偽はどうでもよい(進めればおのずと分かるので)。私が言いたかったのは、このように「VA-11 Hall-A」には悩みを抱えた人(だけでないけれども)がやって来ては、懺悔をするかのように自分の過去や悩みを語る。それを引き出すのがジルなのだ。が、ここで読者に対して質問がある。あなたがたはバーテンダーについてどのようなイメージをお持ちだろうか。カルテルを作るのが巧い人? なるほど確かに間違いではない。しかしそれだけだろうか、カクテルを作ることが巧ければそれでバーテンダーであると言えるのだろうか。欧米ではどうやらそうではないらしい。もちろん日本が劣っていると言いたいわけではないのだが、日本は技術を重視する傾向にある一方で、欧米では客の機微を察して(たとい技術が稚拙だとしても)カクテルを出すことを重視する傾向にあるそうだ。このゲームは海外製であり、バーテンダーに対するイメージもそれに準拠するのだろう。ときには客が頼んだカクテル以外のカクテルを出すものバーテンダーの務めなのである。

 「VA-11 Hall-A」とは、抑圧的で緊張が絶えない世界において、鬱屈した感情を抱えた人々がカクテルを飲んで気分を紛らわし、過去を吐露することで瞬間的だがしがらみから開放される場なのだろう。少しメタな発言をすると、開発元のSukeban Gamesはベネズエラのインディーズであるのだが、ベネズエラという国は現在進行系で政治や経済が混乱しており、治安が悪い。崩壊へ向かっているのだ。そのせい、いや、だからこそだろうか、本作で描かれる狂った世界でも普通の生活を送ろうとする人々の苦悩や生への渇望はリアルで、読者に感銘を与える。

 リアルといえば、主人公であるジルの生活もリアルだと思う。彼女は有望な学生だったのだが、恋人とのとある諍いで「VA-11 Hall-A」へと逃げてきた(正確には飛び出してたどり着いた)。彼女の現在へ至るまでの経緯とその悩みもリアルだがそれは置いておこう。実際にプレイしてもらうのが良いと思う。彼女はバーテンダーという将来性のない仕事(しかし仕事ではあるのだ)をしており、決して裕福とは言えない。例えば、ゲーム中でクリスマスパーティがあるのだが、(ジルだけではないのだけれど)ふさわしい服装として仕事着を着てきている。ここから彼女が高価な服を買う余裕が無いことが伺える。しかし、ちょっとしたインテリア程度なら買う余裕はある(この散財癖が彼女を家賃滞納という窮地に立たせているのだが)ようだ。裕福ではないけれど、小さな満足を買う彼女の姿は、私たち読者も思うところがあるのではないか?

 なお、ジルの最初の所持金がゼロなのはフォア(ジルが飼っている黒猫)の去勢手術をしたためである。

 

 ベネズエラについて興味のある方はこちら(https://venezuelainjapanese.com/)のサイトを覗いてみるとベネズエラに関する見識が深まることだろう。また、『VA-11 Hall-A』を別のperspectiveから読むことができ、穿った見方ができるかもしれない。

※約2年前で更新は止まっているが、ゲームの開発当時のベネズエラの情勢は分かるだろう。

 

 

 

◆ドロシー・ヘイズ

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 ドロシー・ヘイズはリリム(アンドロイドのこと)であり、セックスワーカーだ。作中ではロボット3原則は廃止されており、そのことについてドロシーが言及するシーンがあるのだが、そのシーンが本作に於いて私のお気に入りのシーン1つ――そのシーンに限らず、ドロシーの過去や悩み、それに性格までも気に入っている。要はドロシーがお気に入りのキャラの1人――なのだ。

 

「ロボットは人間に危害を加えてはならない。人間に危害を加えろという命令でないかぎり人間に服従しなければならない……人間に危害を加える結果にならない場合にかぎりロボットは自らの身を守ることができる」

まったく…。最初のAIっていうのは人間にとってただのお役立ちツールだった。

でも、AIが自我に目覚めたあとも同じ原則を使い続けるなんて無茶だよ。

マトモな神経の人は古い本に書いてあることだけが正しいだなんて思わないでしょ?

 この台詞を初めて読んだとき、私は感動して思わず唸った。その頃はたしか、AIに関する本を多く読んでいた時期だった。私の興味はAIの有視点的世界の獲得と自我の成立にあり、AIが自我を持ったその後のことにはほぼ無関心であったように思う。なるほど確かに3原則という旧態依然とした考え方に固執しているのは改めて考えると馬鹿らしい。いつまでも特定の考え方から離れられないのは宗教めいた思考であるとも言えるのではないだろうか。

 また、ジルはドロシーの話を聞いて、3原則に関して以下のように言及している。

(前略)後世の作家たちはそれを物理の基本原則か何かのように崇めた。そして他の例に漏れず自分にとって都合のいい箇所だけを精選し、誇張し…その3原則を利用した。 

 3原則とは過去の遺物であり、それ自体人間のエゴによるアンドロイドを組み敷くためのものであった。やはりそのような考えはアンドロイドにとって許容できないものであったに違いない。アンドロイドがリリムとして成立するまでにどのようなことがあったのかは想像するしかない。しかし私は、この『VA-11 Hall-A』という世界観の断片から深い部分を想像することこそ本作の醍醐味だと思うのだ。

 

「何だかユーウツになってきたから、話題を変えよう」

 

 私は『VA-11 Hall-A』をプレイした後、(かなり期間は開くが)『トリノライン』※R18 というVNをプレイした。この作品でもアンドロイドが登場するのだが、その世界では3原則が適用されていて、アンドロイドには人権がなかった。私は『VA-11 HALL-A』をプレイした余韻がまだ残っていたこともあってか、アンドロイドが危険な存在であるとされている『トリノライン』はどうにも肌に合わなかった。「機械と人間の差をいかに超えるか」がメインテーマにあったと思われるので致し方のないことなのだろうが。閑話休題

 

 また、ドロシーはリリムとして視点から死や自分の存在について考える場面があった。そのことがドロシーが本作の中で生きていると思えたのだ。

リリムの全データベースは定期的に〈コレクティヴソース〉にバックアップされてる。

リリムは、肉体が破壊されても元の性格と記憶を完全に保持したまま再稼働できる。

だから…あたしたちが考える”死”はちょっとかわってるかもしれない。

でも、死への恐怖はあるんだよ…

 

 アンドロイドと死……そういえば『トリノライン』でもそんな話があったなあ、生きている時間の差を埋めようとして……

 

 

 

 

◆フォア

 ジルは本作の主人公であり、基本的に彼女の主観に基づいてゲームは進行する。もちろん読者は彼女に移入すると思うのだが、ときには別視点からジルを見ることがあるのも本作の特徴と言っていいのかもしれない。ジルにはフォアという黒猫のペットがいるのだが、彼女が家にいる時、彼女はフォアと話をする。例えば掲示板で「ヴァルハラとかいうバー」というスレを覗くのだが、その際に

ジル:私って自己中?

”フォア”:だね。

  と短いながらも会話をする。この会話がジルの妄想なのか否かは判断がつかない。が、犬がしゃべる(なお、そのための装置がある模様)世界なのだから猫が話しても何の不思議もないだろう。

 さて、このフォアなのだが、彼は本作に於いてジルというキャラクターの客観視という非常に重要な役割を果たしている。もちろん作中での他キャラとの会話でジルというキャラクターの輪郭は形作られているが、フォアによってジルがより濃く描写されるのである。それがよく分かるのはゲームが始まってから直ぐ、バーへ出勤する前の部屋での会話だろう。ジルは手紙を発見するのだが、

”フォア”:で、誰からの手紙?

ジル:誰でもない。

 と会話するのである。この些細な会話からジルが何かを隠しているのが分かる上、それが人ではないフォアにすら話せないことだと想像できるのだ。

  

 このようなキャラを立たせるための丁寧な作りは他のキャラにも当てはまり、物語を重厚なものに仕上げている。

 

 

 

◆ 終わりに

 「VA-11 Hall-A」ではカクテルの提供を介してその相手話を聞き、内面を見る。そこにあるのは歪められた自己であり、断片である。バーテンダーとなった私たちはその断片を拾い集め、重ね合わせる。何が見えるかは実際にプレイして確認していただきたい。きっと、少なくとも1つは、自分の琴線に触れるものがあることだろう。

 他者が存在し、彼らにも生活があるとすれば、そこには社会が形成される。『VA-11 Hall-A』は「グリッチシティ」という架空の未来都市を舞台に、そこで形成されている社会を、人々を通して描写している。そこにあるのは世界に対する絶望や憂悶の物語ではない、前を向いて生きようとする人々の祈りの物語である。

 

 最後に、そこに生きる彼らと、この生きづらい世界に住む私たちに、この一言を捧げたい。

 

「一日を変え、一生を変えるカクテルを!」

 

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『親愛なる孤独と苦悩へ』を読んで Part1(Part2は未定)

 新生活への不安や恐怖が和らぎ一息つけた人も多いだろうゴールデンウィークが過ぎ去った今日此の頃。そんな一方で未だに人間関係や環境の変化、その他にも様々な事柄に関する懊悩を抱えている人も多いのではないだろうか。

 心の安寧を得られていない人、今にもストレスに押し潰されてしまいそうな人、そんな自分を責めてしまう人色々といるだろう。人というものは自分が思う以上に弱かったりするものだ。そんな生き辛さを抱えている人々に「幸せとは?」という問題に対する解答への些細な道標を提示したい。

 

『親愛なる孤独と苦悩へ』は同人サークルである楽想目(http://rakusomoku.web.fc2.com/)で制作されたヴィジュアルノベルである。

 

 この作品との出会いはTwitterにてとあるフォロワーがプレイした感想を投げているのを見て私もやってみようと思ったからであるのだが、予想を佳い意味で裏切る作品であったために多くの人にこの作品を知って貰えればと筆を執った次第である。まあともかく私なりの感想?を綴っていこうと思う。

 

 

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 科白や独白がかなり内省的でリアルな印象を抱く本作。人間の不器用さや生き辛さ、不条理を扱った物語は私自身にとっても特別な作品であった。

 

 

 

・カウンセリングという名の視点変更〈人生を観よう〉

 

 本作の主人公は内田姫紗希、那古龍輔、都宮海の3人である。彼らはそれぞれが異なった懊悩を抱いていた。それを相談するために「カウンセラー」と検索をかけたインターネットの海の中、その39ページ目。簡素なHPと何故か無料のカウンセラー橘真琴(以下まこちゃん)と出会う。

 この3人に対してまこちゃんがカウンセリングを行うことを通して物語が進行する。が、このカウンセリングが彼らにのみ対応しているわけではない。私たち読者も同様にカウンセリングを受けることができるのである。是非とも”読み進める”のではなく”入り込んで”欲しい。

 

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opのとあるフレーズ

 

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 まこちゃんはカウンセリングを通して主人公らに心の声(観念)を深く、最果てまで見つめるように促す。その声の主は何者なのかどこからくるものなのか、最初はAだと思っていたことがBであることなど(自分でも自覚していない感情の正体)が分かり、彼らは自己を改めて捉え直すのである――と同時に私たち読者は彼らに自分を投射して同様に自己を捉え直すのである。

 ヴィジュアルノベルにカウンセリングを導入することはなるほど、熟読するのであるならば読者に感銘を与えるのであろう。

 

  私たちは案外自身のことを見つめきれていないのである。

 

 病気とまではいかないまでも悩みを持つ人がプレイして悩みが無くなるとは言わないし、悩みを解決する糸口になるとは断言しないが、プレイして損はない作品であることだけは断言できる。

 

 

以下からネタバレを含みますので、未プレイの方は読まない方がよろしいかと。

ですがその1では致命的なネタバレをできるだけ避けるよう書いているので読んで貰っても構いません。自己責任でお願いしますよ、自己責任。

 

 

 

 

・他者との関係と自分の役割、或いは自己同一性

 

case1.内田姫紗希

 内田姫紗希は優秀な姉と比較され、親に構って貰えないことを嘆いていた。一方で姉は何故自分ばかりが親から期待され続けるのだと不満を抱いていて、その不満をぶつけられた姫紗希は姉の懊悩を知るのであった。

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 姉が出ていった後、親が姫紗希に求めたのは姉をいないものと扱い、姉の代わりになるよう勉学に励むことだった――ここで今までの自分を否定され、姫紗希の自己同一性が崩れ始めるのである(正確には姉の死ねの一言だろうが)。

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  今までろくに家族の愛情を注がれなかった姫紗希が姉のように、いやそれ以上に優秀になれと歪んだ愛情を注がれた。最初の頃はその注がれる愛情に喜びを抱いていたのだが、なにをどう頑張ってもそれ以上を求められ認められることはなく、むしろそれでは駄目だと叱咤された。

「ある人間が、他の人間に、お前はなにかをなすべきだと伝え、同時にもう一つの水準でお前はそれをなすべきではないとか、お前はそれと相いれないほかの何かをなすべきであると伝える。状況は、さらに、彼もしくは彼女が、その状況から脱出したり、それについて批評することによってそれを解消したりすることを禁じる命令によって、<犠牲者>に対して封鎖される。<犠牲者>はそれゆえ、<安住しえない境地>に置かれる。彼は、破局を起こさずには身動きができない」(R.D.レイン『自己と他者』)

 

畢竟、姫紗希は親とその教育に対する恐怖と憎しみを抱き、それを正そうと教育者を目指したのである。

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そうして歪な動機で教育者目指す彼女は思い通りに立ち回れず、(こうあればならないという強迫観念によって)憂鬱に沈んだのであった。

 

 

 

 case2.那古龍

 那古龍輔が格ゲーを続ける理由は妹を喜ばすためのものであった。幼いころ”兄として振る舞わねばならない”という意識のもと、あまり反応しない妹が唯一食いついたために格ゲーを続けていたのである。

 兄としての役割を妹の中に確立し続けるにはそれしか無かったのだ。

 

 龍輔が言っていたようにゲームで食べていくのは「現実的じゃない」。そこで格ゲーしか熱中できるものが無かった龍輔は(自分のやる気の淵源が妹だなんて知る由もない)将来のビジョンが見えなくなっていた。

 けど実際……。

未来に希望が持てなくて、いい気分じゃないのはかなりある

(就職ねえ……)

(やってみたいと思う仕事なんか別にねーよ……)

(とすれば、俺にとって仕事ってのは、ただやりたくないことを毎日強制されるためだけのものじゃねーか。誰がそんなの望むってんだよ)

「就職……全然したいと思わねーな……」

                        那古龍

 龍輔がいくら格ゲーが上手いといってもそれは現実的でなく、選ぶことに後ろめたさがあった。かといって就職する意欲もなかった。

 

 まこちゃんのカウンセリングを受けることでプロになりたいと願っても良いのだと龍輔は思えるようになった。その気持ちで臨んだ大会、そこで龍輔は初戦敗退してしまう。彼の口から出た言葉はいつもの台詞であった。

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 龍輔のこの言葉は妹にも響いていて、彼女は自身の夢であった小説家を半ば諦めた。ともに小説を書いていた友人の方が彼女より上手かったのが原因だという。しかし切欠は彼のその言葉に他ならない。格ゲーを媒体にして兄妹として強固に結ばれてたが故に、格ゲーの敗北を切欠に才能が全てと切り捨てたその言葉は彼女に深く突き刺さったのだ。

 龍輔にとって格ゲーとはアイデンティティに他ならない。それを容易く踏み躙られていく姿は彼だけでなく妹にも大きな衝撃を与えたのだろう。

 自分の周りに技量が上の人がいる、そんな残酷な世界に彼ら兄妹は立っているのだ。 

「わたしはなくしてしまった なくしたって なにを? どこかで見かけましたか? 見かけたって なにを? わたしの顔を いいえ」(R.D.レイン『好き? 好き? 大好き?』)

 

 

 

case3.都宮海

 色盲の都宮が絵を描き、朽木がその絵を塗る。そんな共依存的な関係性を築いていたのだが、絵を描き続けたい都宮の一方で絵から手を引きたい朽木というすれ違いが起きていた。お互いの主張は平行線をたどるばかりで一向に解決に向かわなかった。

 これは都宮の上手い絵を自分の下手な塗りで穢してしまうという朽木の負い目から生じた問題であった。

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 都宮は幼稚園児の頃から絵が上手かったが、自身が色盲なためにそれを恥じるようにモノクロで絵を描いていた。そんな時に色を塗ってやると提案したのが朽木であった。

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朽木は個性的な絵を描く少年で周りから認められていなかった。そんな時に自分の絵を父親以外で唯一認めてくれた都宮に好感を覚え、そう提案したのだった。

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 その時から「描く都宮」と「塗る朽木」という役割が形成されたのである。

 しかし現実というものは非情なもので、殊芸術という分野に関しては甲乙がはっきりとでてしまう。専門学校へ進んだ朽木はハイレベルな周りの姿を見て、自分は都宮の足を引っ張っているのではないかという疑問を抱くのだった。

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 そこで朽木は他の人に都宮の絵を塗ってもらうことにしたのだ。結果、その塗ってもらった絵は準入選してしまう。朽木の存在意義が揺らいだ瞬間であった。

 

 そして朽木は自分がいなくても都宮はやっていけるのではないかという疑問を抱き、都宮の絵に手を加えずに提出した。そしてその絵も準入選してしまう。現実が朽木が都宮の足枷になっていると示してしまったのだ。それは朽木の死と表現してもいいだろう、絵で頑張ってきた今まで全てを否定されてしまったのだから。

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  普段強気な朽木から流れ出た涙には様々な感情が込められているのだろう。悲痛、寂寞、悔恨、無念……

 この涙で吹っ切れた朽木は絵から――都宮と夢を追うことから――手を引くことを決意したのである。

 

 

 ここまで書いた内容のどこに「幸せとは?」に対する解答の道標があるのかと思う人がいるだろう。それはPart2にて書くことにする。

 

2019/10/10 追記

書こう、書こう、と思いつつ今に至る。が、記事を書けるほどの鮮明な記憶が無くなってしまったせいでPart2を書くことが出来なくなった。いつか再プレイすることがあれば書きたいと思うのだけれどそれがいつになるか分からない。