万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

架空の存在がいたこともあった

 架空の存在を作り上げて話したり遊んだりした記憶があるのだけれど、今思えばそれは少しだけ普通より逸脱していたのだと思う。それとも僕が知らないだけで誰もが自分とは別の人格を作り出して会話をしたことがあるのかなあ、見えない存在と会話するのはおよそ世間では奇異の視線で眺められるから恥だと思い、ひた隠しにしているのかもしれない。それだったら少しだけ、救われるような気がする。自分だけが逸脱していたわけじゃないのだって、安心できるから。

 僕が作り出した架空の存在、それはイマジナリーフレンドのようで、少し違った。指人形。ソフビでできた、キャラクターを模したやつ。僕は幼い頃、指人形で遊ぶことに傾倒していたのだよね。例えばジェンガや積み木で街を作り、そこで指人形を配置して遊ばせるようなままごとをしたり、指人形同士で戦わせたりしていた。子供っぽいやつだよ。でも僕は指人形の中でも特にお気に入りだったモノに対して名前と、人格を与えていた。あまり外で遊ばない子供だった僕は、指人形で遊び、指人形と会話していたんだ。家には携帯ゲーム機もあったけれど、でもそれは一日の使用時間が限られていたから、僕は暇な時、指人形と遊んでいた。

 僕が人格を与えた指人形の名前は『I』とでもしておこう、『I』は僕が性に混乱する時期まで僕の側にいた。つまりは中学生に上がる直前まで僕の中には『I』がいて、僕と共に生きていた。彼?(性別はなかったように思う)はいつの間にか消滅してしまったわけだけれど、恐らく今でも僕の中に存在しているのだと思う。僕の作り出した存在だから、僕の一部だったものだから。僕は思い悩んだ時『I』とよく相談した。家族とは話せないような内容をよくベッドで布団を被りながら、誰にも話し声を聞かれないようにと。『I』は僕に答えを与えてくれたのだけれど、あれは僕が僕の内面と対話することで答えを出していたのだろうか、それとも『I』という人格が僕とは違った考え方をしてくれて答えを出したのだろうか、今でも疑問だ。『I』の出してくれた答えは、当時の僕にしてはとても思いつくものではなかったから。鍵っ子(Keyではない)だった僕は家に鍵を忘れて締め出されてしまうことが度々あった。その時も『I』と相談したわけだけれど、僕が親を待とうと答えた一方で『I』は排水管を伝って二階の空いている窓から入れと言った。僕は危険だと言ったのだけれど、『I』はその方がいいと急かした。そして僕は『I』の言う通りに排水管を登り、転落した。落ちた先はウッドデッキだったから軽い打撲で済んだのだけれど、もしもそこがアスファルトだったらと思うとゾッとする。あの日以降『I』の存在は薄くなっていた。あるいは僕の中にあった何かが『I』のことを僕に危険を及ぼすものだと認識して排除しようとしたのかもしれない。

 『I』の存在が確かだったのは僕が性に混乱する時期までだったのだけれど、それは『I』もまた僕と同様に性に疎かったからなのだと思う。『I』は決して、僕の性への興味に対して何も言わなかった。静観するわけでもなく、まるで性に興味を持つ僕は今まで『I』が会話していた僕ではないと言うかのように、『I』はただ静かに僕の中で固まっていた。その頃からだろう、僕が『I』の存在を意識しなくなっていったのは。あるいは不必要だと思ったのかもしれない、僕がこれよりも前に進むには邪魔な、過去の遺物だと。それに、その頃の僕はもう人形を遊びをしていなかったのだよね、一応『I』は僕の意識の中にいたけれど。

 今、『I』を思い出そうとしてみたけれど、しかし彼の口調も姿ももう思い出せない。ただ、『I』という存在がいたという霧のような認識だけがある。彼は今、僕のどのへんにいるのだろうか。今の僕は彼に感謝を述べたいと思っている、彼に危険な目に遭わされたこともあったけれど、それでも幾度となく助けられたから。『I』がいなかったら今の僕は存在していないから。だけれども『I』は姿を現さないのだと思う。無根拠だけれど、確信のようなものがある。

視線と地獄

 今日は弟の友人が家に来て、ガレージでBBQをしている。一方の僕は部屋に引きこもってこうしてキーボードを叩いている。カタカタと鳴るキーボードとサーキュレーターのモーター音が虚しく響く。窓の外からは弟達のはしゃぐ声が聞こえ、なんだかみすぼらしい気持ちになった。今日一日はトイレと食事以外に部屋から出ることはなさそうだ。というかトイレに行く時に弟の友人と顔を合わせなければならないのだけれど、それが辛い、僕みたいな人見知りにとってはかなりダメージがある。初対面の人と目を合わせて話すことが出来ない人間だから、それは克服しなければならないとは思っているのに未だに無理なままでいる。

 視線というものを苦手になった契機は何だっただろうかと考えてみても思い浮かばない。恐らく僕は昔から人の目を見て話すことが苦手だった。物静かで、積極的にはなにも行動ができない子供だった。そういえば覚えがある、父親に「人の目を見て話しなさい」と何度も叱られたことを。父親が僕の側頭部を鷲掴みにし無理矢理振り向かせて眼を覗き込んできたことを。あの時ほど視線に恐怖を抱いた覚えはないかもしれない。

 昔いじめられていた頃にズボンを脱がされ衆目にさらされたこともあった、スボンを脱がしたのはまあ当然のようにいじめっ子(二人組)で、僕のようなクラスの輪の中に溶け込めないような人間をいたぶることでしか尊厳を保つことが出来ないような子供だった。あれはいつだったか……小学3年だっただろうか、図画工作の授業が終わった後の中休み(2限目と3限目の間にあった20分程度の長い休み時間)にクラスルームの外に呼び出された。その当時の僕は中休みと昼休みには図書室に行って漫画(学研のひみつシリーズ)を読むことが日課だったのだけれど、その行動が何故か癪に障ったらしい。彼らはとにかく僕に対して嫌がらせをしたいようだった。彼らがどのような要求をしたのかは覚えてないのだけれど、とにかくその要求は飲めなかったことを覚えている。そして彼らの一方が僕を押さえつけ、もう一方がズボンを脱がした。そして脱がしたズボンを持ち去り――確か女子トイレだったかな(当時の物を隠すようないじめでは物を女子トイレに投げ込むことが多かった。何度も上履きを女子トイレに投げ込まれ、どうすることも出来なくて泣いた覚えがある)――、僕は下着のままで放り出される羽目になった。とにかく他人に見られたらたまらないと僕は廊下の端で蹲った。そしてズボンを取り返すことが出来ないまま中休みは終わり、運動場へドッジボールをしに行っていた男子が戻ってきた。彼らは目ざとく蹲ったまま動こうとしない僕のところへ集まり、驚いた様子で僕の醜態を見、笑った。不躾な視線と嘲笑は未熟な僕の心をズタズタにした。それ以降のことはあまり覚えていない。僕がズボンを取り返したのか、はたまた保健室で体操着を借りたのかも分からない。とにかく羞恥のあまり泣いてしまったことだけは覚えている。それから視線が、他人が一層怖くなった。

 見田宗介の『まなざしの地獄』、読んだのはここ一年以内のことなのだけれど、強烈な印象だったので時折思い出す。連続射殺事件の犯人であり、死刑囚であり、獄中で『無知の涙』など幾つかの本を書いた永山則夫についての論考。永山則夫のついては以下の雑記7で少しだけ触れているので置いておく。jeuxdeau.hatenadiary.com

 『まなざしの地獄』では永山則夫の内面を考察することを通して社会について鋭い視点で論じていた。どの頁も読み飛ばすことが出来ないくらい濃密な言葉にあふれているのだけれど、そこから幾つか気に入っている部分を引用したい。

人の現在と未来とを呪縛するのは、この過去を本人の「現在」として、また本人の「未来」として、執拗にその本人にさしむける他者たちのまなざしであり、他者たちの実践である

ボヘミヤの箱は堅固な物質によって、成長する少年たちの肉体を成形してゆく。〈まなざしの地獄〉は他者たちの視線によって、成長する少年たちの精神を成形していく。ボヘミヤの箱とは異なって、それは少年の内面を成形するのであるから、 それは彼らの自由意志そのものを侵食せざるをえない。

 われわれの存在の原罪性とは、なにかある超越的な神を前提とするものではなく、われわれがこの歴史的社会の中で、それぞれの生活の必要の中で、見捨ててきたものすべてのまなざしの現在性として、われわれの生きる社会の構造そのものに内在する地獄である。

  僕たちを縛るのは社会という他者によるまなざしである。まなざし、視線、それはいつも僕たちを縛る。他者が存在しなければ存在し得ない僕たちであるから他者の視線に縛られるのは当然だとしても、やはり恐ろしいものだ。

 これらの言葉に対して僕はE・デュルケームの「神とは社会である」という言葉と通じるものがあると感じた。社会とは超越的なものではなく、私たち自身が創り出すものでしかない、そして時に社会が私から形成されたという酷い事実から眼を逸らす人が居て、そういう人びとが社会に神を見出してしまうのではないかと。

 

 まだ(23:45)弟と友人たちはガレージで騒いでいる。どうやら彼らはうちに泊まるらしい、憂鬱だ。彼らの視線から逃げて、僕は部屋に引き込まったままでいよう。視線に対して挑戦しても、きっと返り討ちにされてしまうから。静かに息を潜めていることにしよう。僕は無害だからと自分に言い聞かせながら。彼らは恐らく夜の間も騒ぐのだろう、僕は眠ることが出来るだろうか。寝なければならない、睡眠不足は全てのやる気を奪ってしまう。

無意味な文

 何か書こうと思ったわけでもないのにブログを開いて、こうして文章を書いている。何も考えてないから当然話題があるわけもなく、さて何を書いたものやら。最近見た夢の話でもしますか、しかし夢というものは起きてすぐに書き出さないと忘れてしまうものなのでそんな夢を言葉にして残すなんてことはしてない僕が覚えている夢は無いのであった。ところで最近はやっと暑さが和らいできて過ごしやすくなったように思う。今年の夏は存外短かった。それは昨年までは夏休みとして休んできた期間も大学に行って研究をしていたからかもしれないし、そもそも夏日が少なかったからかもしれない。とまれ僕の体感としてはこの夏は短かった。今年の夏も例にもれず蟄居していたのだけれど(コミケとかのイベントは行ったが)そのせいで短かったように感じているのもあると思う。単調な生活は時間感覚を狂わせる。今僕が何をして、それにどれほどの時間が掛かっているのかすら曖昧になり、いつの間にか夜になっている。そして一日が過ぎ去る。今日もそうだった、朝起きて寝不足からくる頭痛に憂鬱になって、憂鬱なまま動くことが出来なくてベッドに突っ伏して、ああもう正午、適当に食べ物を胃に詰め込み、水をがぶ飲みし、それからPCに向かってゲームをして、一区切りついたところで読みかけだったトルストイを読んで、読み終わったから次は何を読もうかなあ、アーレント? それともジジェク? でも今は新作のためにももうすこしキリスト教的世界観で脳を満たしたいからそうだなあ、ドストエフスキーでも読もうかしらん、でもカラ兄読むにしても未成年を読むにしても時間が掛かるからなあ、できれば早めに執筆にとりかかりたいのだけどどうしましょうか。……とそんなことをしていたら零時、深夜です。深夜になったので僕は寝ようと思ったのだけれど、しかし目が冴えて寝れないのでこのPCを開いたわけ、そうだ最近のブログのアクセス数はどうなっているのかなあと気にしたら勝手に新しい記事を書こうとしていた。全く不思議なものだ。書きたいことがないにも関わらずこうして文章を書いていることは、本当に奇妙で、自分がおかしくなってしまったのではないかと思う。

 僕は僕自身の行動を制御できないことが多い。と書いてみれば語弊があるので、自分で自分が何をしたいのか分からない、とした方がイメージしやすいかもしれない。いや、自由意志とかそういう話じゃなくて、もっと漠然とした話なのだけれどね、生きている意味だとか、存在している意味だとかが僕の中で全くの虚無になってしまっていて、なにもかも分からなくなっているんだ。生きていることを嘆いているのではなくで、生きていることに不信感を抱いている。なぜ生き物というものは存在しているのだろうか、生殖と進化を重ねた結果、一体何が得られるのだろうか。そんなことを言ってしまえば生きていること自体の意味などすべて消滅してしまう。やがて死にゆく存在なのだから。地球という惑星だって気が遠くなるほど先の未来では消滅してしまうだろう。あらゆる価値はいずれ失墜する。

 死というものは残酷だよ、死の瞬間に死が訪れたものに対して容易に拭えない対外的な価値を付与するのだから。そして死はあらゆるものを奪ってしまう。奪われた対象は死んでいるのだから奪われたという自覚がなく、それが一番恐ろしいんだ。死に全てを奪われ、価値を塗りつぶされてしまう。それなのに生きることに意味はあるのだろうか、(生きることに)意味づけることは可能なのだろうか。意味づけたとして、それはどこまで持っていけるものなのだろう。可能なら僕もシラノのように亡霊から羽飾りだけでも奪われずに持っていきたいものだよ。僕も眦を決して死に立ち向かったら何か見えるのかなあ。見えるにしても運命だけはやだね。

 僕は運命というものを信じないし――運命と人が呼ぶものそれは偶然が重なった結果のしかも都合の良い結果だけを見て名付けているものだ――、神というものも(ここではキリスト教的な絶対神を指す)峻拒している。もしも、もしもだよ、運命とか神だとかいう僕たちの淵源や道筋、末路を決定してしまうものがあったとするのならばそれはどれほど僕たちを馬鹿にしていることなんだろうと思えないだろうか。僕たちの中に充溢する感情が作り物に過ぎないといわれているようなものだよ。まあ人間なんて生き物は虚構の上で生きる存在なのだけれどね。

 虚構の上で生きているというのは意識の中で生きているという意味でもあるし、虚構でしかない経済活動によって生活を成り立たせているというのもある。価値、価値だよ。人間にはあらゆる存在に価値を見出してしまうという性がある。いや、人間に限らないかもしれないけれどね、動物的な本能として醜美や優劣に対して自然と価値の優劣を付与するのは当然なのだから。じゃないとよりよい遺伝子を後世に残すことが出来ない。別に僕は価値に対して嫌悪しているわけではないよ、ただ虚構でしかないなあ、って思ってるだけで。でも虚構でもその上でバランスを取りながら生きていることって素晴らしいことだと思うよ、とても意識のある人間にしか出来ない芸当だ。

 とここまで僕のまとまらない、ただ思ったことだけと精査もせずに披瀝してきたけれどそろそろ眠い、途中から何を書きたかったのかすらわからなくなってしまい、着地点を見失ってしまった。駄目だなあ、物語を書くときくらいは着地点を定めておきたいよね、と教訓にしよう。というか僕は物語を書く時はいつも着地点は定めていないのよね、起こりだけ考えてあとは気の向くままに、矛盾しないように気を張り詰めながら書いている。だからかな、糸が勝手にイメージされてしまうのは。糸を紡ぐような感覚なんだ。幾つもの長い繊維(思考)を撚り合わせて一本の糸にしていくという作業、それが僕にとっての創作なのかもしれない。……いや、創作といえども絵を描く時はそんなこと意識したことなかったからこれは物書きをするときにだけ言えることなのだろう。糸はほつれることもあるけれど、慎重にほぐせばやり直しが効くし、なんなら一度完全にバラけさせてしまっても癖がついているから最初とは比べならない程に簡単に紡ぐことが出来る。

 ほらまた着地点を見失ってしかも迂路に逸れてしまったじゃないか。

暑いから気分が滅入るんだと思ったんですが

 気分が逼塞しているのは夏の暑さのせいだろう、なんて思っていたのだけれど、しかし僕は日がな一日クーラーの効いた部屋に蟄居しているのだから暑さとは無関係なのであり、この裡で蠢く暗くて冷たくてドロドロとした鬱屈した感情は生来のものなのかもしれないと思うと怖くなり、怖くなるから不安で更に寂寥が胸を領すわけですが、だからといって逃げ道があるわけでもなく、いや、逃げ道はアルコール――僕は飲めないですが――やソラナックス向精神薬)があるわけで、でもそれを逃げ道にしたところで袋小路のような気がしますから、逃げ道とは見做さないので、さて僕はどうすればいいのかわからなくなるのです。生きているだけで苦しいのはきっと誰もが感じていることなのでいまさら、という感じですけれど、でも苦しいものは苦しいわけで、なにか僕のことを救ってくれるものはないかと心の暗渠の中を覗き込んでみたところでやはりそこには救いなんてものはなく、であれば空を見上げればいいと思い、見上げてみても見えるものと言えば重く垂れ込める鈍色の雲でありまして、ああ、僕の裡には救いなんてものは無いのだなあ、と半ばあきらめているところです。とまあこんな暗いことをうだうだと書いている僕だけれど、なんだかんだで明日は誕生日なんですよね、しかし誕生日といえこの歳になってくると特別感なんてものが稀薄で、ああまた歳を経てしまったなあ、と感慨に耽ることしかできないのであります。昔は誕生日で喜んでいたのだけれど、そんなのは本当に遠い昔で、今はまったく喜べないのは歳のせいか、はたまた僕の精神衛生が頗る悪いせいなのか。まあそんなことわかりっこねーですけど。誕生日なのだからもう少し喜ぶべきなのでしょうね、きっと周りもそう望んでいます。誕生日を期に未来に視線を据えて、人生に腰を据えて、これからの輝く未来に陶然とすべきなんです、しかし僕に見える未来なんてものはオニキスのような昏い輝きであって、どうもダイヤモンドのように鋭く、鮮明に輝いてくれるわけではなさそうです。いや、輝きを昏いと表現してしまうのが駄目なのでしょう、もっと明るく表現しなければなりません、でないと更に更に昏い方へ思考が靡いてしまいます。幼い頃、ピカチュウの誕生日ケーキで大喜びしていた頃の僕は、ああどれほど人間的であったか、それに比べて今の僕は希望なんてものがなく、後ろ向きで、まるで生気が感じられない……非人間的、あまりにも非人間的ではありませんか? ニーチェは感情は気まぐれだと言っていましたけれど、僕の感情ももう少し気まぐれになって明るくなってくれませんかね、僕は笑って生きたいんです。何も考えずに、ただ享楽の内に肯定したいんです。さあさあ、行動を起こそうではありませんか。今、直ぐに! たとえば、そう……小説でも書きましょう。しかし行動は約束できても感情は約束できない! ああ、そうですよ、全くに正しいことです。たとえ行動を約束したところで感情が変わってしまえば行動までも変化してしまう、常に揺らいでいるんです、だから行動を約束したところで、感情によっては約束は反故となってしまう。感情を制御することさえできれば……しかしそんなことは無理だ、神様でもないのに。あるいはロボトミー手術でもすれば感情を制御する必要がなくなるかもしれないが、しかしそれは感情を喪うことだから制御とは程遠い。

 今はサーキュレータが必死こいて僕のことを冷やそうと羽をぶんぶん回している。でも眼が乾燥するから、サーキュレータが僕になにか恨みを抱いているのではないかと思ってしまう。そんなことはないはずなのに。アニミズムに毒されて、サーキュレータにまで魂が宿っていると思っているのだろうか、たしかにサーキュレータは夏場しか働かないし――しかも酷使している――、冬場なんて押入れの中でホコリを被っているので恨まれても仕方がないと思うが、だからといってサーキュレータにまで気を使うのはどうかと思う。眼球が乾燥したので目薬を挿す、ロート製薬の少し高いやつ。高いだけあって効果は凄く佳いので重宝している。目に染みる感覚が爽快で、もはや手放せない存在となっている。ありがとう、ロート製薬。そういえばロート製薬の公式VTuberがいたけれど、彼女の動画は最初の数本だけ見て残りは見ていない。今も活動しているのだろうか、企業のVといえばサントリーにもいたけれど、サントリーのはロートの彼女とは違い随分積極的に活動しているように思う、動画は見たことがないけれど。ロートの方が先に活動を始めたというのに、サントリーの方が知名度も登録者数も上なのだから世知辛い。VTuberは前はよく見ていた――ハニスト(蒼月エリ)がほとんどだったが――のだけれど最近はあまり見ていない。というのも蒼月エリが引退して、それでハニストの配信を見るのが辛くなったからである。しかし今でも切り抜き程度なら見る。それでも配信自体を見ることはもうなくなってしまった……いや、周防パトラのASMRなら見たか。見る、というよりも聴くだけれど。ASMRは不眠症にもってこいと言いたいところだけれど、僕がおすすめするならASMRよりも音楽だなあ、ジャズとか結構寝れると思う(当社比)。僕が最近良く聴いているのはブラッドメルドーだけれど、彼は天才だと、いつ聴いても思う。

 そういえばコミケが開催されていますね、僕はサークル参加を二年前に一度したきり一般参加しかしていないのだけれど(サークルが崩壊したから)、そろそろサークル参加したいなあ、と思った。思ったと過去形なのは、サークル参加してもなあ、と思ったからである。新作を作ってはいるし、このまま作っていれば今年中には公開できるとは思うのだけれど、でもコミケにもって行くほどかなあ、と思ったから。僕の作品は文字と背景だけだし(しかも画面が文字に埋め尽くされる)、キャラクターの絵はないし、およそ手にとってもらえる作品ではないから。以前どこかの記事で同人ゲームについてかいたことがあったけれど、どれだけシナリオを頑張ろうとも、ゲームの第一印象は絵で決まるわけであり、絵すら無い作品は自ずと人を選ぶわけで、きっと手にとってもらえないだろうから。え、後ろ向きだって? でも仕方がないじゃないですか、自己肯定感があるのならば僕がこんな記事書いているわけないでしょう? コミケは明日、明後日と一般参加するつもりですが、サークルチェックをまだしていません。徐々にコミケに対する熱量というものが失われているのかもしれません、あるいはオタク文化に対する熱量の低下か? とにかくコミケに対して意欲が湧かなくなってきているのは確かですし、なんならエロゲに対するモチベが低下しています。最近は先月にアオイトリをクリアしたくらいで、それ以降は同人エロrpgしかしていません。あ、でも同人eroRPGに積極的に触れているのだからオタク文化への熱量の低下は虚構だと思います。きっと僕は二次元に囚われ続けるでしょうから。幽明界を異にするまで。

 僕は罪の意識にも常に囚われている、それは僕が今までに積み重ねた些細な罪の集積だけれど、時に当時の記憶がフラッシュバックして僕を苛む。どうして悪い記憶ばかりがフラッシュバックするのだろうか、人に備え付けられた機構だとでも? 罪を意識しないことには祈りを捧げない人間に対して神が与えたものだとでも? いいや、きっとそれは生物が損失回避をする上で必要な機構なのだろう。バラバのことを忘れさせないために神が定めたものなどではない、神聖ななにかではない、生物学的な何かに決まっている。

 バラバという強盗はナザレのイエス磔刑に処されたかわりに恩赦で釈放されたという。ただしバラバが処刑されていたのならばイエスは処刑されなかった。イエスはバラバの身代わりとなったわけだが、それは民衆がイエスの死を望んだからである。どうしてバラバとイエスの命が等価交換されたのだろうか、聖書が示しているのはイエスの死によりバラバの罪(人間の原罪)が贖われるということだが、たかが神の子の命で人間の罪が贖われるんだろうか? 僕はそうは思わない。そもそも命で罪が贖われるという考え方に嫌悪感がある。存在が消えればその罪も消える? しかも他人の存在の消滅によって? まさか、そんなわけがあるか……と、これ以上は延々と書いてしまいそうなのでやめにしておく。

7月ももう終わりですね。というか暑くないですか?

 ここ最近は本当に暑くてほとほと参ってしまっている。この前の土日には『天気の子』を観に行こうと思っていたのにすっかりバテてしまって家から出ることが出来なかった。他にもこれから行ってもいい席が無いからいいか、と思っていたのも原因だろうが。まあそれは席の予約していなかった僕が悪い。暑さというのはなんでもかんでもやる気というものを削いでしまうように思う。僕だって席の予約をして映画を観に行きたかったよ、でもさ、暑くてだれてしまって僕はもう予約をする元気すらなかったのだから仕方がないよね、太陽が悪いんだ。あの燦燦と輝くまるで僕の存在を照らし出そうとするかのような忌まわしい太陽が。というか太陽って明るすぎるんだよ、もう少し、ほら月みたいに穏やかな光を発してくれないかなあ。でも月も月で眺めていると狂ってしまいそうな鋭さのある光だから僕はあまり好きではない。太陽よりは好きだけど。全般的に光というものに耐性がないのかもしれない。暗闇の住民、と言ってしまえば厨二病チックなのだけれど、でも案外間違っていないように思う。

 ここ一週間は暑いのもあってかセブンイレブンのソフトクリームを帰りに買うのが常なのだけれど、コンビニアイスも馬鹿にできないなあ、と食べてて思う。というかスーパーで売っているようなアイスよりも断然セブンのそれの方が美味しい。200円弱という少し値の張るだけはあると思う、コクが違うんだ。以前の記事で牧場しぼりが美味しいと書いたのだけれど、僕としては牧場しぼりの倍近い値段なだけあってセブンの方が美味しいと感じている。少し溶け出したときに舐めるのがお気に入りだ、滑らかなクリームが温度の上昇とともに強く感じられる甘みを携えて舌に広がるのだ。一応セブンには普通のソフトクリームとは別に金のワッフルコーンなる税込み300円のソフトクリームもあるのだけれど、実際それを食べてみて美味しいとは思うが300円に見合うかと言われれば微妙なところだ。美味しいのだけれど、普通のソフトクリームを1.5個食べたほうが満足度が高い。

 そう言えば昨日は暑さにやられたのか身体が怠く、ベッドに突っ伏していたら21時には眠りに落ちてしまった。そして起きたのが7時半で朝から時間を無駄にしてしまったような気がして滅入った。そんな今日の始まりだったのだけれど、更に悪いことに起きたら変な格好で寝てしまったのが悪かったのだろう、体の節々が痛み、電車は一本遅れた。なんだか散々な日だった。散々な日だったから更に不幸なことが起こるような気がしていたのだけれど、特にその他に悪いことも良いことも起こることなく……いや、セブンのソフトクリームが売り切れだったという少しだけ悲しい出来事もあったか。まあ、交通事故に遭うような命に関わる不幸がなかっただけマシなのだと思う。

 人間に起こる重大な出来事は畢竟、誕生と死の二つに分けられると思うのだけれど、誕生というものは逆子だったり、へその緒に首を絞められるなどの多少の例外はあれど、基本的に子宮から外に出ることで完了する。しかし死はどうだろうか、誕生はほぼ一つのパターンしかないが死に関しては無数の形がある。事故だったり、自殺だったり、寿命だったり、病気だったり。誕生よりも多くのパターンが有りその上〈死〉というものは傲慢にもその人の人生そのものを決定してしまうように思う。死こそ誕生よりも衝撃的な出来事なのだ。

 もしも、僕が自殺したとしたらどうだろうか、僕を知らない人はきっと彼は苦しんで居たのだろう、あるいは生きることから逃げ出した臆病者だと思うかもしれない(たとえ僕が生きていることに幸福を感じており、実際には自殺ではなく足を滑らせた転落死だったとしても)。もしも僕が事故で死んだとしたらどうだろう、僕を知らない人は彼にはまだまだ幸福な未来があっただろうにと嘆くかもしれない(たとえ僕が希死念慮に囚われていて、わざと車の方へ身を投げたとしても)。あるいは僕が溺れている人を助けてその過程で死んでしまったらどうだろう、僕を知らない人は彼は勇敢な若者だったと称えるかもしれない(たとえ本当の僕は普段から生き物を殺してしまうような劣悪な人間だったとしても!)。

 死というものは強烈で、当たり前だけれど死んだ人は口がきけない。だから死んだ当人がどうであれ周りが勝手に印象を決定してしまう。まるでその人の人生を塗り替えてしまうように。〈死〉とは一種の絵の具のようなものなのだろう、死という絵の具を持って、画家である人たちは死者というカンバスに好きな絵を描く。カンバスが何色だったのかなんてまるで気にしない。多少はカンバスにあった下書きを気にするかもしれないが、塗り重ねることでその人の本来のものを全て塗り替えてしまう。〈死〉は傲慢だと言ったけれど、それ以上に自分勝手なイメージを付与する画家も傲慢なのだろう。しかし画家はそんな自分自身の傲慢さには気づかない。なぜなら彼の世界の出来事こそ真実で、時間の止まってしまった、口すら聞けない死者の世界なんてものは彼にとってカンバスに過ぎないのだから。筆を走らせる自分こそ、真に正しい姿をしているのだ。

 今日は少し不幸なことがあったけれど、8/1には楽しみなこともある。『ルインズシーカー』というR18同人RPGが発売されるのだ。僕の嗅覚が告げている、この作品は2019年に出るR18同人RPGのなかでもトップ3に数えられる名作になると。体験版も楽しかったし、期待しか無い。8/1の0時に発売開始だから今もかなりウキウキしている。

ノートとゴミ箱の話

 僕は自分で自分のことを捻くれていると思う。斜に構えて、自分に対して起こる物事ですら直視しようとしない。それで不利益を被ったことがあるというのに治そうともしない。そういう自分もなんだか格好いいとか思ってるんだ、きっと。外から見れば気持ち悪いやつだと思う、後ろ向きで、家に引きこもって、牢固な壁を作ってしかし表面を取り繕って人間関係をなんとか保ち、家ですることといえば読書とゲーム(エロゲが多い)、末期だ……。僕は一体いつから歪んでしまったのだろうか、思えば幼稚園の頃から僕は少しおかしな子供だった、と思う(幼稚園児よりの前の記憶はそもそもない)。

 僕の父親は、これはいつかのブログに書いていたので知っている人は多いと思うのだけれど、借金を拵えたり、仕事を転々と変えているような人で、挙句の果てには宗教にハマり、そこで出会った女の人と不倫をし、癌で苦しんでいる祖父に対して民間療法を勧めて更に悪化させるような駄目人間だった、そして父のせいで僕は何回か引っ越す羽目になった。M県に引っ越したのはまだ僕が幼稚園に通っている頃だった。僕はその頃から不器用で人と会話するのが苦手だった。そして当然のように僕は幼稚園で孤立した。遊んでくれる子も居なかったし、僕は遊ぼうと近付いても逃げられた(あれば僕が泥だらけだったのが悪かったのかもしれない)。やがて僕は人と交流しなくなった。だが、僕だって構ってほしかったから、どうにかしようと幼い頭で精一杯考えた。僕が周りに構ってもらえるようにした行動は、自分のノート(一日の始まりと終りに保育士の先生に提出するやつ。内容は覚えていないが、恐らく親との意見交換ノートのようなものだったのだろう。〇〇ちゃんは今日吐きましたみたいな)を自分で隠すことだった。最初の頃は凄く巧くいった、僕が自分でノートを隠したことも知らずに、僕のためにみんながノートを一生懸命に探してくれる、なんだか受容されたような気がした。ノートを隠す時、心臓がバクバクと高鳴り、とても緊張したことを覚えている、同時にその緊張に快感を覚えていた。悪いことをしていると頭では分かっているのにやめられない、僕は悪い子だ、でもそのおかげで僕には居場所が与えられる、このギャップから生じる暖かさが心地よかった。幼い頃から僕は悪いことに依存しやすい体質だったのかもしれない。だがそんなことを何回も繰り返す内に先生や周りの子達に徐々に怪しまれるようになった、当然である。僕の周りでだけ盗難事件が相次ぐのだから。でもどこかで僕という浮いた存在が虐められるのは当然だ、というような雰囲気もあって、僕が直接的に疑われることはなかった。そのせいもあって調子づいていた僕の行動は徐々にエスカレートしていった。最初こそ誰も周りに居ないことを注意深く観察しながら犯行を重ねていたのだが、発覚する前にはもう周りに人がいようとこちらを見ていなければ構わず自分で隠した。隠した、と書いているが隠し方も最初は引き出しの中のような目に見えないところに隠していたが、これも発覚する前には部屋の隅に落としておく(もはや隠すではなく置いている)ようなことをしていた(本当に末期の時は自分の服の中に隠し、皆んなが探してくれている中で床に落として「あった!」と叫んだこともあった。今思えばかなりやばい子供だ)。犯行が発覚したときのことは今でも鮮明に覚えている。その日はなにかの集会があり、体育館のようなところ(正式名称は忘れた)へ全児童が集まった。体育館に行く前に列をつくるのだけど、その時のドサクサに紛れて僕はノートを自分の服に隠し、途中にあったゴミ箱の中へ入れることにした。いつも以上にドキドキした。ゴミ箱に入れることはまだしておらず、それをするとまだ「隠す」という些細な問題であることが「捨てる」という一つ上の問題に発展することが幼くとも分かっていた。恐ろしいことだと思っていたけれど、なんだかそんな状況に発展するのを僕は楽しみにしていた。ゴミ箱を前にし、僕は頭痛がした。抵抗感を感じた。ゴミ箱が僕の前で大きな口を開けて待っている、ノートを入れて欲しそうに、僕がこの先に進むのを楽しみにしているかのように。身体が熱を持ち、服の中からノートを取り出す時、手が震えた。これをしたら僕はどうなってしまうのだろう、と思った。ゴミ箱の青色が眩しかった。そして僕はゴミ箱の中身ゴミが入っていることを疑問に思った。「どうしてゴミ箱の中に紙くずがあるのだろう、僕のノートが入らないじゃないか」混乱していた。自分が何をしたいのか分からなくなっていた。僕はみんなの輪の中に入りたいだけなのに、どうしてわざわざ浮くような行為をしているのだろうか、逆効果なんじゃないか。どうして僕は後ろめたい気持ちになってまで繋がりを求めているのか、苦しいだけだ。酷く口の中が乾燥し、ゴミ箱が大きく見えた。僕はゆっくりと、まるでこの行為を見て欲しいかのようにノートをゴミ箱の上に掲げ、落とした。

 そして僕は先生に見咎められた。

 思えば僕はあの時わざと先生が見張っている前で(背を向けていたけれど)ゴミ箱の中にノートを入れていた。やはりどこかで見つかりかったのだと思う、止めて欲しかったのだと思う。こんな無為な行為をしている自分に嫌気が差していたんだ、いつまで経っても友達との輪に入れないし、むしろ疎外されてすらいた。当然だ、僕と関わると物が盗まれるから。

 僕は先生に見つかった後のことは覚えていない、とにかく頭の中が真っ白になって、思いつくままに自分を弁護するような事を言った。唯一覚えているのは、先生が僕の犯行をみんなの前で発表し、「〇〇くんは、みんなにもうこんなこと(隠すこと)をしないでっていう意思表示でゴミ箱にノートを捨てたそうです。分かりましたか」

 その後の僕はノートを隠すことはなくなった、だからといって輪の中に入ることは叶わなかったが。

 

熟れた梅から漂う甘い香りは人を狂わせる

 冷たい夜風が肌を撫でる、仄かに甘い刺激が肌に残った。つい数日前はストロベリームーンだったらしいが今日の月はいつもと変わらない、紗のかかった白い光を発している。顔を少し上げながら暗い道路を歩いていると、不意に梅の甘い香りが鼻先を掠めた。もう季節は6月、異称は水無月。梅雨です。水無月の由来は諸説あって、田に水を引く時期だからとか、水が枯れるほど雨を降らす時期だからなんてのがある。僕は水無月といえばアマツツミの水無月ほたるが思い浮かんでしまうわけですが、まあエロゲーマーの業というやつなのでしょう。アマツツミほど感動したゲームはなかったので今でもED曲を聞くと感慨に浸ってしまう。『コトダマ紬ぐ未来』は卑怯な曲だ、否が応でも胸が締め付けられる。

 僕は梅雨は嫌いだ。シャツは肌に纏わりつくし、靴の中に水が溜まるしでいいことがないじゃないか。幼い頃は公園に溜まった大きな水溜りで一々喜んでいたけれど、今となってしまえば雨の多く降る梅雨は交通機関を頻繁に麻痺させるので全く喜べない、遅刻してしまうじゃないか。それにもう水溜りで遊ぶ年齢でもない。いつから僕は大人になってしまったのだろう、水溜りに心馳せなくなってしまったのだろう。泥で濁った水面をつつつと滑るアメンボ、それを捕まえようとして躍起になり、捕まえたはいいものの力加減を誤り潰してしまったあの若き日。遠い、遠すぎる。そういえばあの頃の僕の名前には「梅」という単語が入っていたっけ。どうも僕は旧姓に縛られているのか梅という言葉に敏感だ。だからだろうか、梅という単語はあまり好きではない。最初に連想するのが梅毒で、次に連想するのはやはり旧姓。でも梅の匂いは好きだ。甘くて、ああ梅雨なんだなあ、と思わせてくれる。梅干しは嫌いだけれどね。幕の内弁当とかに梅干しが入っているけれど、僕は必ず避けるし、なんなら梅干しの置いてあった白米が赤く変色している部分だってできることなら食べたくない。もったいないから食べるけれど。梅はもったいなくないのかって? あれはパセリみたいなものだよ、彩りだけの存在だから食べなくても良いんだ。僕は間違ってない。……食べ物の好き嫌いはかなり多い、子供の頃は嫌いなものは無理して食べていたけれど、この歳になると嫌いなものを食べなくなる。嫌いなものが子供の頃からほぼ変化してないのは僕がまだ子供だからだろうか、まあどうでもいいけれど。子供舌だということはよく指摘される、苦い、辛い、酸っぱい、みたいな刺激的なものを好まないからだ。嫌いな食べ物なら僕はねばねばとしたもの、例えばオクラや納豆、もずくなんかは嫌い。他にいくらやうにも嫌い、いくらとかみかんに醤油を掛けたやつだし、うにはプリンに醤油をかけたやつじゃん。だから北海道に旅行に行ったとしても僕はグルメに舌鼓を打てなそうだ。残念な舌だと思うよ、ほんと。でもムリなものはムリなのです。蟹なんかも食べるのが面倒だから好き好んで食べたいとは思わないし、寒いのは苦手だしこりゃあ北海道に向いてないのは確実だと思います。でも雪まつりを生で一度でいいから見てみたいとは思う。雪は好きだ、降るたびにワクワクする(もちろん交通機関の麻痺やこれから行うであろう雪掻きには辟易としているけれど)、でも子供の頃ほど新鮮な感情は得られていないように思う。渇いているのだ。欲望をいくら満たそうとしても充たされない、満ち足りない。まるで砂漠の真ん中にいるような、風邪を引いている時のような、水を飲んでも飲んでものどが渇いて仕方がない感じ、水分は充分に摂っているというのに一向に潤わない。欲望というものはきっと満ち足りることはないのだと思う、満たしてもほんの一瞬の満足感を得、そしてより高い快感を求める、際限なく求め続ける、人間とはそういう生き物なのだと思う、傲慢なんだ、傲慢だからこれほど文化が発展していると言えるのかもしれないけれど、僕は欠陥にしか思えない、リコールしたくても出来ない。

 最近は何も出来ていないように感じる、それはもとから僕の感情が割と平坦だからなのかもしれないけれど、でも喪失感ばかりを感じている。なんだか毎日自分の大切な部分を少しづつ喪っているような気がする。核のような部分が風化し、削られている。でも僕にはそれを止める手段が思い浮かばない、ただ削られていくだけ。そういえば最近大学でした「心の健康調査」とかいうアンケートに引っかかったのか呼び出しを食らった、呼び出しには応じてないけれど、そうやって僕をまるで心が病んでいるように言われると落ち込んでしまう。僕の心は、まだ、健康なはずだ。取り返しの付かないところまでは落ち込んでいないと自分では思う、これでも僕はある程度自分の精神衛生を制御している、常に憂鬱だけれど、完全に落ちることはないように調節している。まあ主に本を読むことによってそうしている、ショーペンハウエルの『幸福論』とかサルトルを読むと憂鬱が和らぐんだ。他にも自分に未完成な精神分析を施している、こうしてブログを書いているのも多分僕の精神衛生を保つ上で重要なことなのだろう、思い浮かんだ言葉をそのまま書き出している。意味のない言葉の羅列かもしれないけれど、改めて読んでみると僕がなにを考えているのかがわかるんだ、その情報を基に僕は自分の心のベクトルを少しだけずらす。

 あの優しかった子供の頃の情景は今ではもう吐き気しか催さない、梅を見るとむせ返るような過去の記憶が流れてくる、最悪だ。思い出したくないというのに、勝手に脳が思い出してくる。生き物を殺したこと、ガラスを割ったこと、孤立していじめられたこと……僕の失態を晒してくる。おかしいだろ、どうして幸せな記憶を思い出さないのだ、どうして辛いことばかり思い出すのだ、狂っている。自分を壊そうとしているようにしか思えない。でも幸せだった記憶でさえ僕の中ではもう嫌な思い出にカテゴライズされているからどうしようもないのだが。過去と向き合って平気な顔をしていられる人が信じられない、僕は全然だめだ。君たちはおかしいよ、過去をそうやって後生大事に抱えていられるなんて、狂っている。きっと梅の香りに惑わされているのだ、甘い匂いというのは毒だよ、本当にどうかしてるって。僕がおかしいのか? 狂っているのか、いや、全ては梅の悪いんだ。匂いは好きだよ、でも駄目なんだ、毒だから悪いものを運んでくる。

 そもそも梅雨という季節自体が駄目だよね、ジメジメしているのが悪いのだ、ジメジメしているから心まで腐っていく。梅雨は、嫌いだ。熟れた梅の薫りはもっと嫌いだ。

父の日

 父の日というものは僕にとって嫌な思い出しか無い。というのも僕には現在家に父が居ないことからその背景は薄っすらと伝わるのではないだろうか。そもそも父という言葉自体に嫌悪感を抱くように育ってしまったのだから、父を称揚するこの父の日という文化と相容れないのは当然のことだろう、何回僕が「父の日になにかプレゼントするの」というような話題に対して、薄っぺらい笑みを貼り付けながら、「あはは、なににしようかなあ、迷うよね」みたいなことを言ったことだろうか。内面では「プレゼント以前の問題として僕に父親とか居ないし。……そうやって君たちの当たり前をぶつけられるこっちの身にもなってくれないかなあ、答えられないんだよ」と思っていた。まあそんな僕に父親が居ないという事実を知らない人達はケラケラと幸せそうな顔で笑っています。はあ、僕が悪いんですか。父親が居ないというだけでこんな惨めな気持ちになる僕が間違っているのですか。分かりますよ、父親が居ないって普通のコトじゃないことくらい、本当に普通じゃない。でも知っていますか、日本の約2%は母子家庭なんですよ、2%! 宝くじで高額当選する確率よりもずっと高い。普通でもなければ稀でもない、中途半端なんですよ。

 別に僕は母子家庭だからといって不幸だとは思ってませんし、ああ、そういえば吐き気がするほど憎たらしいのは中学校の時の数学の先生……確か嵯峨とかいう名前だったかな、女性の先生で、教え方が酷く下手だった。あと生徒を贔屓するのがあからさまで嫌いだった。僕は数学が嫌いではなかったのだけれど、彼女の授業を受けてからというもの数学が嫌いになった。どうも人間性からして相容れなかったんだ。僕の両親が離婚調停中のことだけれどね、彼女、嵯峨は僕を呼び出して(確か部活動の合間だったかな)こう言ったんだ「君のご家庭では少し難しい問題があるのかもしれないけれど、何か相談したいことはない? 私は君の味方だからね」と。味方、はあ、味方ですか……授業では僕やその他大勢の生徒をないがしろにして特定の生徒ばかりを贔屓していたあなたがそれを言いますか? まあいいですけどね、心にもないことを言っているのは分かっているんですよ、あるいは可愛そうな子供とでも僕のことを見ていたのでしょうね。それが僕のことを傷つけないとでも、味方が欲しいときもあるけれど、でも少なくともあなたではなかった、絶対に。人が(傍から見れば)不幸になった時になって初めてまるで私は理解者だと言いたげに寄り添ってきて、授業の時とは打って変わってトーンの高い猫撫で声(警戒を解こうとするような、僕は警戒心の強い野生動物なのか!)で僕に話しかける。気持ち悪い。話しかけたくなければ話しかけなければいいのに、どうして僕に構おうとするのか、それが先生であるということだから? 中途半端に関わることしか出来ないのならば腫れ物に触るように振る舞うのではなく、むしろ無視してもらいたかったものだ。

 スーパーには父の日を賛美するかのように生鮮食品や惣菜には特に「父の日」と書かれたシールが貼ってある。目眩がする。スーパーではとにかくイベントごとにちなんだシールを貼りまくるという悪癖がある、資源の無駄なんじゃないかなあ、と思う。シールが貼ってあり、「この商品を買おう!」となるのだろうか、少なくとも僕はない。クリスマスだって、ひな祭りだって、ハロウィーンだって関係ない。というかハロウィーンと生魚(丸物)とか、父の日とチャーシューの細切れってなにか関係あるんですか? なんでもシールを貼っとけばいいと思っているのでしょう。消費者を馬鹿にしている。安く陳列されているというのならば分かるけれど、そんな気配はない。ただシールが貼ってあるだけ。意味がない。

 母の日と比較して父の日というのは影が薄い。カーネーションを用意するような華やかさがあるわけでもないし、そもそも父というのが存在感が薄いのかもしれない(少なくとも僕の場合何年も父と会っていないのだから存在感は薄れている)。可愛そうな存在だ、まあ育児に参加しないというのもあるかもしれないが。

 僕にとっての父親の像はかなり悪いものになっている、だから僕の作品の父親は暴力を振るうのだろう。きっと世の中には宗教にはまらず、暴力を振るわず、養育費を振り込む父親が居るのだと思うのだけれど、僕には想像できない。想像できないことは書き難い。書き難いからどうしても書きやすい姿として父親は悪役として僕の作中に登場する。宗教にはまって、ドロリとした眼で僕を見る父、その後僕に迫るのは罵声だろうか、それとも拳だろうか。

 子供の前で両親が喧嘩するのはきっと教育上よろしくない。子供は変貌した両親の姿を見、怒号を聞き、震え上がる。止めようとしても、止められない。あまりにも非力だ。彼らの問題を前に僕らの立つ場所はない。後になって親権を争うというのに、どうしてあの時僕を遠ざけたのか、意味がわからない。意味がわからないまま両親は親権を争い、弁護士を雇い、金を浪費する。養育費よりも親権のほうがよほど大切らしい。弁護士も嫌いだった。嵯峨のような印象の女性の弁護士で、化粧の強い臭いがした。弁護士の顔はもう覚えいないのだけれど、彼女が待っていた部屋のことは今でも覚えている。鉄の重い扉を開くと、狭くて寒い部屋の中で彼女が待ち構えていた。入り口の側には背の低い棚があり、犬や魚のフィギュアやチョロQ、くまのぬいぐるみ等、統一感のないものが寂しそうに並べられていた。生気のないそれらを見て、僕は恐ろしくなった。きっと子供を食べる部屋なのだと思った。表面では子供を安心させるつもりなのに、本性では子供を疎ましく思っているのだ。繕われた子供への善意。頭痛がした。女は目を細めて笑いかけている。冷たい目だった。背後を振り返ると扉はすでに閉まっていて、僕は女と二人部屋に閉じ込められた。彼女と何を話したのか覚えていない、でも僕はできる限り両親を悲しませないことを話そうと努力していた、彼らに不利な証言をしないようにと、足りない頭で必死に考えた。いつの間にか僕は部屋から出ており、寒い廊下に立っていた。天井では切れかけの蛍光灯が弱々しく点滅していた。その後母に連れられて食べたラーメンはドブのような味がした。紅生姜がイトミミズに見えたんだ、混濁したドブ川の底に住む嫌悪感の象徴。僕は悪くない。

 嫌な記憶が一斉に僕の方へ向かってくるから父の日というのは嫌いだ、一生好きになれる気がしない。