万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

雑記的なやつ 1

 もうかれこれ一ヶ月は外に出ていないんじゃないかなあ。誇張ではなく、本当に敷地内どころか玄関の外にすら出ていない。異常だ。まるで引きこもりになった気分である。それもこれもコロナのせいではあるのだけれど、元より僕は引きこもりがちな生活を送ってきたのでそうおかしなことでもないような気がしてくる。しかし少しも外出していないとなると多少は気が塞いでしまうもので、そろそろ遊びに行きたいなあ。美術館に生きたいなあ。本屋に行きたいなあ。近くの本屋は先月末まで休業していたが、今月に入ってから営業を再開したらしい。新刊を見に行きたいものです。そんなに言うのなら行けばいいじゃないか、という話だけれど、かといってわざわざ本を物色するためだけに外出するのも気が引ける。ここまで来たのだから外出自粛せずによい段階になるまで家から出ないべきではないのだろうか。幸いにも? 積読はいっぱいあるのだし、それを読めばいいだけの話なのだ。それに家にいるからといって何もやらなくていいというわけにもいかぬ。僕は一応学生なのだ、まだ授業は(オンラインでも)開始されていないけれど、授業が始まる前に論文とか読まないといけない。予備知識を蓄えてから研究に臨まなければならないはずなのだ。しかしどうして最近は意欲が湧かない。平坦な生活環境が、意欲を平たく伸ばしてしまったのだろうか。だがそんなこと言ってられぬ、やらねば何も得られない、というのが世の常で、果報は寝て待てなんていうけれど、何も行動していなのいであれば凶報はあれど吉報なんでくるはずがないのである。だから僕は今日から勉強をしたいと思います。一日一本くらいは英論読みたいです。読みたいです、なんて消極的なことを言うのではなく、読みます、と言い切るべきところでしょうか。でも自分に自身がないから断言できないのである。

 嗚呼、こんなところが僕の駄目な部分なんだろうなあ。行動に対して逐一言い訳になるような空きを与えてしまう。逃げ道がないと不安でたまらなくて何も行動することができない。今までも、おそらくこれからもそうなのだろう。何かに飛び込んで挑戦するってことができないんだ。破滅願望があるくせに、臆病で、君は一体何をしたいのだろうか。人生をどう使いたいのだろうか。自分の願望の達成のため? あはは、君にそんな大層なものなんてないじゃないか。なかった。常にペシミスティックな君は希望なんて抱いてやしない。強大な妄想ばかりがあって、それは楽観的な部分もあったけれど、決して希望なんかじゃあない。怠惰で、なにか自分に良いことが降り掛かってこないかなあ、なんてバカバカしい世迷い言を大真面目に妄想して、そんなわけがないと憂鬱になって、それのどこが希望なんだい。いい加減に現実を見たほうがいいよ、君は徹底的に駄目な人間なんだよ。

 蕭条な日々に疲れ果てて、トランキライザーくらいにしか希望を見いだせなくて、しかしそれはさっきも言ったように虚妄だよ。君に良いことなんて起こりやしないんだ。虚心になるべきだね。僕はそう思うんだ。もっと純朴な気持ちで世の中を見つめ直すべきなんだ、内側にばかり向かう視線を外側に向けてやらないと、君はいつまで経っても成長できないままだ。

 

 近頃は空気の入れ替えを兼ねて窓を全開にしているのだけれど、光に誘われてか羽虫がやってくるのでたまらない。大きな奴、特に羽音を喧しく鳴らしてブゥンブゥンと飛び回るやつ、あれはいけないね。どうも意識がそっちに向かってしまう。今も僕の部屋では羽虫が電灯に向かって体当たりをしている。ああなんて愚かなのでしょうか。あんなことをしても何にもならないというのに、可愛そうだなあ。可愛そうだなんて全く思っていないけれど、僕はそんなことを無表情で書いている。もしかしてあの虫は大きな光に対峙しているのではなかろうか。そうだとすれば偉大だなあ、尊敬に値するよ、決して届かない光を追い求める姿ってのは惚れ惚れしてしまうね、自分の羽が溶けてなくなるかもしれないっていうのにどうして近づいてしまうんだろうね、すごいなあ、本能的なものなのかなあ、だけどその本能で死んでしまったらこれは愚かだよなあ、電灯を覆うプラ板には死んでしまったであろう先達が転がっているというのに、どうしてそんなにも近づいてしまえるんだい? 蟷螂の斧というのは格好いいかもしれないけれど、無謀だってことも理解したほうがいいんじゃないかなあ、君だって子孫を残したいだろう、永久に届かない、あるいは届いたとしても死が待っているようなところへいこうとするだなんて本当に愚かでしか無いよ、遺伝子がそうさせるのなら、君の遺伝子はきっと劣っているんだね、他の君の仲間よりも。そう思うとなんだか親近感が湧いてきたよ。君となら友だちになれるかもしれない。ああ、いいなあ、友達だって、うん、いいなあ。とそんなことを考えているうちに虫はどこかへ行ってしまった。どこへ行ったのだろうか、諦めて外へ逃げたのか、それとも光に囚われて死んでしまったのかしらん。おお、ゆうしゃよしんでしまうとはなさけない。

 

 君は彼女が欲しいと言うけれど、それはセックスがしたいからというわけではなく――もちろんそういう側面もあるのだろうが――、崇拝する対象を欲しているだけなんだよ。だというのに、あるいはだからこそなのかな、君は女性に対して奥手だし、それは君が女性という存在を大きなものとしてリスペクトし過ぎているからで、病的に女性に触れることに怖がっているのに触れたいと思っていて本当に気持ち悪い、AVを全く見ないわりには二次元のエロい画像でオナニーばかりしている――しかも陵辱もので!――お前みたいな奴は死んだほうがいい。僕としても全く汗顔の至りだよ、君の歪んだ女性観を基準に物を書くから変な文章になるんだよ。だからどの登場人物も歪んでしまうんだ。君の無意識が恐れているから、君の書く女性はリアリティがなくて不気味なんだよ。いい加減にしたほうがいいよ、前にも言われたじゃないか、たとえば風俗にでもいって女性を知ったほうがいいって、でも君にはそんな度胸なんてないから、行くわけがない。お金の無駄だと言い、セックスは愛する人とする神聖なものだからと恥も外聞もなく嘯くけれど、そんなの本心ではなくて、ただ怖がっているんだ。女性と触れ合うことに。昔、小学生の頃に公園である女の人に怒られたことを未だに引きずっているんだろう? その女は君の知らない人だった。知らない人だと言うのに、君はなぜか近づいたんだ。興味があったのかな、女に? 違うか、君はその女をしている行為に惹きつけられたんだ。女は小さな東屋で自慰をしていた。彼女の足元には煙草の吸殻が散乱していた。何かの象徴のように、煙草の吸殻は苦しげに身体を歪めて、その上で女が変な声を出していた。その図形が気になった君は近づいた。頭の中では近づいてはならないと思っているのに、君は近づいてしまった。女と目があった。君は恐怖して動けなくなった。女は何かを言い、服を正した。君は動かなかった。女は君を叱った。君は怖くなってその場を逃げた。君は逃げている間ずうっと頭の中で目にした光景が反復していた。気持ち悪いくらいに同じ景色が繰り返され、煙草が、女が、歪みがあって、君は逃げた。その光景が何度もフラッシュバックすることがあっただろう、それで起きてしまって、酷い汗をかいていた。馬鹿みたいに。今や爛熟したあの景色に君は慣れてしまっているけれど、やっぱり怖いと思っているんだ。だから煙草も怖がる。作品に煙草を登場させる時、それは象徴的なものだからそうしているんだろう。

 

 昔、あれは僕が中学生だった頃かな。すこぶる美味しい焼き魚を食べたことがあった。たしか鯖だったはずだ。鯖を一本まるごと焼いたもので、君は一人でそれを食べようとしたけれど、結局食べきれずに親に食べてもらった。美味しかったなあ、でも嫌な感じだった。骨が喉に刺さってしまった。痛みはないけれど、違和感がずっと残る。次の日もその違和感は残った。親に相談して病院に連れて行ってもらうことも考えたが、そうしなかった。恥ずかしかったのだろう、その理由はもうよくわからないけれど、君は魚の骨が喉に刺さり続けていることが酷く恥だと思った。その次の日も、違和感は残ったままだった。ずっと気になったままだった。もしかしたら永遠に残り続けるかもしれないと思った。だというのにいつの間にかその違和感は消えてしまった。なんだったんだろうね、あれは一体。求めていたことが起こったというのに、何一つ充足感はなかった。僕に去来した望んだはずの風景は、見ればとても悲しく色褪せたものだった。求めた結果だけがあり、達成した瞬間がない。とても、とても寂しいことだった。

憂鬱な日々に

 昔から僕は自分を虐める傾向にあったように思う。陸上の長距離を中高で続けていたのもそうだし、今は誰に課されたわけでもないにも関わらず自転車通学のタイムトライアルをしているのもそうだ。苦しいのに、どうして自分を虐め続ける。おかしいとは自分では思うのにやめられないのはもしかしてどこかおかしいのかしらん。苦しみに快楽を見出しているわけではない、断じて違うと僕は思っている。違うんだよ、ただ理由はわからないけれどなぜか僕は自分を損なってしまう。しかしそんなことをしたところで僕は満足できていない、常に虚無感があり、いつまでも空っぽな感覚を抱きながら生きている。苦しいなあ、そう思っても、言葉にしてみても、解決しない。いつまでこの気分が続くのだろうか、一生かもしれない、それなら嫌だなあ、僕は幸せに笑っていたいなあ。

 

 何かになりたい、何かになれさえすれば僕は生きていられるのではないだろうか。何かである自信の中で、僕であることを保ち続けることさえできれば僕は生きていられるように思う。でも、その何かが分からない。靄々する。苛々する。僕はまだ何者でもない、僕は透明だ。

 

 こんな悩みはどこにでもある普遍的なものだとは思う、でも、誰かが同じように苦しんでいるからと言って僕が救われるわけじゃない。僕が僕を救うためには、埒外を見下すのでは足りなくて、足りないと言うか無駄で、自分自身を新たにしなくてはいけない。新しいことに臨むのは酷く恐ろしいことだ、足が竦んでしまう。僕は昔から消極的な人間だった、既に持っている価値観に囚われて、新しいものが自分の内面を掻き乱してしまうことをとても恐れている。何かが壊れてしまいそうで、壊れた先に同一性があるのか分からなくて怖かった。でも破壊されない限り生み出されないものだってあるのは知っている、密生した森林で老木が倒壊しない限り若木が大きくなれないように。生まれたギャップからのみ発生する新たしさというものがある。でも新しいものは弱いから、周りにある強いものにいとも簡単に遮られて、潰されてしまうから。

 

 水面を眺めるのが好きだ。コップの水でも、川面でもなんでもいい、とにかく水であれば見るだけで落ち着く。揺れて、騒いで、しかしやがて元の形に戻って行く様子が。いや、元の形なんてないのだけれど、常に続いている感覚が好きだ。流れに思いを寄せ、水滴に心躍らせ、水分子を想像し、循環を感じながら僕は一体感というものを見る。それがとても落ち着くのだ。

 

 今年の一月に亡くなった(父方の)祖父に手を合わせるために近畿へ行ってきた。僕は乗り気ではなかったのだけれど、母がどうしてもというので仕方なく連れられて。祖母は酷く老け込んでおり、特に髪などは三年前に見た時よりも更に白く、また父の髪も白くなっていた(父と母は離婚しているのもあって三年ぶりに会ったのだ)。時の流れは残酷だと、なんとなく思った。父が僕の体つきや顔つきをみて正義感の強い(つまり自分の意見を正しいとする傾向がある)人だと言った。僕はそれを聞いてまあそうだろうなあと思ったのだけれど、少しだけ苛立った。もちろんユング的な分析を否定しているわけじゃあない。ただ人を外見で分析するのだとすれば、例えば体癖も見るべきだし、顔つきでも他に目の大きさや顎の形も見て、それらを踏まえて分析するべきだと思ったから。人はそんなに単純な生き物じゃあない。

 

 生きている目的や意味が分からない。自分の望まない苦痛から逃げることの叶わないこんな世界に意味はあるのか、こんな狭苦しい鳥籠からどうやって出ていけばいいのだろうか、そんなことを昔から考えて、しかし今もまだ答えは見つからない。自ら苦痛を求めて、傷ついて、楽しくもないのに笑みを浮かべて、ああなんてつまらないのだろうか。息苦しいなあ、内臓が死ぬ間際の小鳥みたいに鳴いているよ、気管の細い隙間からひゅるひゅると息を絶え絶えに出して、ああ死んでしまいたいなあ。でも怖いなあ。どうすればいいのでしょうか。

 僕はこんな苦しい世界から逃げるように本を読むようになった、それはドストエフスキーだったりサルトルだったりしたわけで、もちろん救われた部分もあったが完全に救われたわけじゃない。僕は先人たちの偉大な骨の山の上に立っているが、光明は酷く遠い場所にあるように思える。光が見えない。光のようなものは感じるけれど、しかしそれが本当に光なのかは怪しいものだ、これだけの遺骨が積み重なった場所にいるというのにまだまだ出口が分からない。いっそのことここから飛び降りてみようか、そうすれば新しい発見があるかもしれない。でも、こんな場所から飛び降りたら骨折してしまう、足が割れてしまってもう二度と動けなくなって、苦痛の中で絶望してしまうかもしれない。僕が登ってきたこの骨塚は間違いだっただなんて思いたくない。いよいよ僕は分からなくなってきた、深刻に、残酷に。僕はこのままこの骨の山の上で干からびて、彼らと同じように白骨死体となるのかもしれない。ありふれた骨の一つに。

 ありもしない幻想を求めているだけなのだろうか、本当はこの世界に緩和なんてなくて、常に藻掻き苦しむしかないのかもしれない。本に書かれていた蠱惑的な救いの言葉、それは僕を一部で救ってくれたが、一部ではまた更に深い恐怖を与えた。

 物語に埋没しているとは言え言葉は人の根幹をなすものだから、そして人は複雑なものだからか様々な感情を起こしてくる。

 人は物語を求める。例えば暗記などは単純な言葉の羅列よりも物語性を持たせた方が覚えやすかったりする。物語を求めるからとはいえ、ただ物語にもに没頭してしまったらきっと何かを見失ってしまうのだろう。最近はもっと現実に目を向けなければならない、と思う。苦しくても、その苦しい現実までをも愛してやらないといけないのだと。amare amabam 愛することを愛する 苦しい現実を愛する自分を愛することで初めて見えるものがあるのかもしれない。

 

 憂鬱な日々に、僕は死んでしまいたくなる。それでも僕はこの憂鬱も愛したいなあ。できるか分からないけれど、愛してやりたいなあ。

解体/破壊

 すっかり更新していなかった。何があったのかと言えば別に何があったからと言うわけでもないのだけれど、あえて挙げるとすれば卒論発表があった。その準備で少し忙しかった。なおまだ卒論は提出していない(デッドラインはまだまだ先なのだ)。しかしまあ卒論発表が終わり、少しだけ心に余裕が生まれた今日このごろ、余裕があるからといって憂鬱でないとは限らない。むしろ少しだけ生まれた隙間に今まであえて考えようとしていなかったことが染み込んできて苦しくなる。忙しい時の方が忙しさに熱中できて楽だったというのはなんとも皮肉な話ではないかしらん。まあ卒論発表が終わったところで僕はこのまま院に進むので忙しいことには変わりないのですが……春休み、無いんですよね。恐らく二三月も研究室で実験に明け暮れていると思います。でもいいんですよ、それだけ忙しければまだ直面したくないことから顔を背けていられるから、いいんです。僕は様々なことから逃げて生きてきました。妥協して生きてきました。だってそうじゃなきゃ壊れてしまいそうだったから。だからこれからも、そうあれる限りそうして生きていきたいなあ。嫌なことは嫌なことなんだから目をそらして生きていきたいのだ。

 

 解体。何かをばらばらにしてみること。

 解剖。分解して分析すること。腑分け。

 僕は昔から何かを解体/破壊することが好きだった。例えば廃棄されていたラジオを壊して基盤を取り出し、コレクションしていたし。例えば大きな石を石にぶつけて割り、内部の断面を見るのが好きだった。しかしそれはもう昔のことでここ十年くらいはそのようなことをしていない。 しかしその当時の名残は今もある、少しだけだけど石をコレクションしている(原石に限る)。最近はしていないけれど骨格標本もいくつか作った。肉を取り除いて骨だけにする快感は実際にしてみないと分からないだろう、美しく着飾っていた命が剥がれ落ち、しかし中にもまた美しい白い根幹がある光景は。僕はたまに自分の右腕が腐り落ちてしまう夢を見る。僕はその腕を拾って、骨にするのだけれど、その骨はなぜか黒ずんでいて酷く悲しい気持ちになる。なんであんな夢を見るのだろうか、夢は抑圧された願望の現れだとフロイト先生は言っていたけれど、もしそうならば僕の夢は何を意味しているのだろうか、僕は落ちぶれて、腐り、どうしようもなく救われなくなることでも望んでいるのだろうか。そうだったら嫌だなあ、僕は幸せに生きたいのだ。決して破滅なぞしたくない……が、それでも破滅願望があるにはある。迫りくる電車を見、線路に飛び込んでみたくなったり、目の前の人に殴りかかりたくなる(そして誰かに押さえつけられて「ああ、僕は終わりだ」と叫びたい)ことがある。末期だな。

 

 なにかの弾みに僕はふと「どうしだろう」という疑問が思い浮かぶ。そして「どうしてだろう」と独りごちて虚しくなる。どうして僕は生きているのだろう、どうして僕は……そんな漠然として虚無的な感覚の集約がこの「どうしてだろう」という言葉なのだろう。足枷が付けられて、重々しく脚を引きずっている感覚。動きたくても満足に動けなくて、まるでベンゾジアゼピン系の薬を飲んだときの頭が(身体全体が)重くなるような感覚。時間の流れがゆっくりと流れているような気がし、しかし驚くほどに時間は早く過ぎ去ってしまい、僕は依然として動けない。脚を切り取られた蟻のようだ。何かを徐々に喪失してしまっているような気がしてならない。普通に生きているだけでも空気の粒子が内側の何かを削り取ってしまっているのではないだろうか。雪が降り頻る風景を想起する、雪はアスファルトに吸い込まれて消えてしまう。しかし雪も強ければ積り、堆積物を形成する。でもやがて降ってくる雨に、足に、タイヤに、削られ、消えてしまう。くだらない、ばからしい、そんな言葉が頭の中で回って、雪が溶けるように消えて、しかしまた現れる。くだらない、くだらない、僕の人生はくだらない。

 

 ある夜に自分の手を壁に叩きつけたことがあった。痛かった。そして猛烈に泣きたくなった。痛くて泣きたいわけではなく、意味もなく泣きたかった、痛むからという理由を隠れ蓑に泣きたかった。でも泣かなかった。泣けなかった。昔は泣き虫だと言われ、バカにされたけれど、最近は泣けない。心が死んでしまったようだ。

 叩きつけた手は妙に赤い色をしていて、僕は自分でしたことのはずなのに「どうして」と思った。どうして僕の手は痛むのだろう、どうして僕はこんなことをしてしまったのだろう。ばからしい。空を仰ぐと雲の切れ目から月が覗いていた。苦しそうだと思った。雲に圧迫されて、苦しげに光って助けを求めているのだと。でも僕にはどうしようもないよね、だって月だよ、手が届くわけないじゃないか、どれだけ離れていると思っているのだい? 君は自分でも分かっているのだろう、僕のような小さな存在に助けを求めたってどうにもならないことなんて。止めてくれよ、そんな風に見ないでくれ、懇願しないでくれ、今の僕は弱っているんだ。

 

 夜道を逍遥し、街頭に淡く照らされたコンクリートの壁がまるで堡塁のようだと思い、センチメンタルになった。この高い壁は家族を守っているのだろう。ふと僕の家族が壊れたのは壁を壊したせいなのではないかと思った。

 僕が昔、まだ関西に暮らしていたときのこと、当時住んでいた家の前にレンガ製の壁があった。正確には家の前に一区画が壁で仕切られて物置のようになっていた。その家には駐車場があったのだけれど、父がなぜかその壁を崩してもう一つ駐車場を作った。軽自動車がなんとか入るくらいの小さな駐車場と言えもしない駐車場だ。壁を無理やり崩したこともあり、段差があって駐車する際は毎回大きく車が揺れた。前からあった駐車場はといえば、そちらも駐車場として機能していた。そう、両親は共々車を買ったのだ。それは父と母の休日が合わないから車で買い物に行くにも不便だったからというのもあるのだろうが、それ以外にも母が父の車を嫌ったというのもあった。父の車は大きな四駆が自慢のジムニーで、中には仕事道具(作業着や機材、寝袋)が乱雑に置かれたいた。父は車をある種の生活拠点にもしていたのだ。あるいはその頃から既に父と母との間に不和があったのだろう。ジムニーの中にはいつも何かしらのゴミが散乱しており、綺麗好きな母はそれを嫌った。今でも母は父親の愚痴を零す際に片付けができない奴だったと腐す。

 壁が崩されたといえども完全ではなく、一部適当に残された部分もあり、そこに車をぶつけて傷つけたこともあったように思う。そんな残っていた部分はやがてセメントで補強されたのだけれど、尖った部分を覆う程度も適当な仕事だった。恐らく今もまだ歪なまま存在しているに違いない。一度壊してしまったものは戻らないものだ。防壁が崩れ去った先にあるのは破滅のみだ。

 コンクリートの壁に手を触れ、冷たさに背筋を震わせる。遠くに目を遣り、等間隔に並ぶ光の柱に苛立ちを感じた。「どうしてだろう」

 

明けましておめでとうございます

 もう2020年。早いものだなあ、ついこの間はまだコミケの準備であくせくと作業していたというのに、コミケは終わって、新しい年。おかしいなあ、体感ではまだ2019年なのに、カレンダーは2020。もしかしてカレンダーがずれているのかしらん、でもデジタルのカレンダーなので間違っていないのでしょう、ああどうしてこんなにも時間が過ぎ去るのは早いのでしょうか、僕は取り残されてしまいそうで怖いです。こんな調子だと気が付けばよぼよぼのおじいさんになっているかもしれない。やや、それはまずいなあ、僕だって若い間にやりたいことがあるのだ、ゲームとか。しかし僕がおじいさんになるまで暮らせているかどうかが怪しいので考えても無駄ですね、もしかしたら僕は30半ばで死んでしまっているかもしれないし。

 新年ということなので今年の抱負でも書こうかしら、しかし去年書いていたように昨年の振り返りをしていないので取り敢えずは去年を振り返ろうか 。しかし思い出そうとしてもても案外思い浮かばないものだ。去年の1月とか何をしていたっけ? ああ、あの時期に『贖罪と命』のシナリオを執筆していたのだったかしら。なんとなくそんな気がする、でもその時の情景は思い浮かばない、ただ僕が執筆したという記憶があるだけで、している現象の記憶がない。もしかしたら本当は僕が書いたのではなくて、違う人が書いたのかもしれない。ゴーストライター。そう思ってしまうと新作の方も自分で書いたのか怪しくなる。いや、書いたんだよ、割と最近のことなので覚えてる、ワードが吹っ飛んで数万字がおじゃんになったことも覚えてる。しかし不思議だよね、読み返してみると自分で書いた気がしない、僕ってこんな言葉知っていたっけ、とかこんな表現どうして思いついたのだろうって部分が結構ある。僕は僕として連続しているのだろうけれど、しかし過去の自分の文章を読むとどうもそんな連続性が揺らぐような気がするのだ。もしかしたら僕の中に別の人格があって、文章を書いているのかもしれない。でもそれだったら気持ち悪いなあ、自分が自分でないっていやだなあ。まあそんなことはないはずです、僕は僕として成立しているはずです。……というか去年を振り返っていたはずなのは早くも話が脱線している、おかしいなあ、僕は真面目に振り返ろうと思ったのに、あれれ。まあいいか、気を引き締めて去年を思い出そう……が、2月は何をしたのか全く覚えていないし、3,4,5,6,7,8,9あたりも殆ど覚えていないのです。僕は健忘なのでしょうか、全然光景が浮かばないのです。ああ、絶望的だ。僕の過去が嘘っぽく思えてしまう。教えてくれ美しい魔女よ、僕の過去は本当に会ったことなのでしょうか。というか気持ち悪いなあ、僕の文章気持ち悪いなあ、なんだよ教えてくれ美しい魔女よって、ボードレールなんて口ずさんでさあ、気持ち悪いったらありゃしないよ、わかるよ、ボードレールの詩は凄くいいよ、でもさボードレールの一節を覚えているような人間って気持ち悪いよ、というか詩を一節を覚えているのが気持ち悪い、めまいがするやう。詩なんて覚えるんじゃなくて、もっと音楽のフレーズとか覚えればいいのにさ、ああ、本当に恥ずかしい人間だよ、僕は。自尊心ばかりが肥大して、それなのに表に出ようとしなくて、なに、生きている意味あんの? 死ねばいいのに。

 ああ、新年早々死にたくなって、でも僕にそんな度胸はないのです。ODする勇気も、過食と嘔吐を繰り返す勇気もないのです、だって僕は平凡だから。気持ち悪いだけで平々凡々の、普通の、何者にも成れなかった人間なので。ちょっと厭世的な部分と、自己否定的な部分があるだけで、特に取り柄があるわけでもなく、たまに僕の文章を褒められることもあるけれど、自分で読み返してしまえば吐き気がして、どうしてこんな気持ちの悪いものを世に出してしまったのだろうと死にたくなる。ああそういえば新作だけれどDL版を発売するつもりはさらさらありません、だってこれ以上僕の作品を他の人に知られるのが死にたくなってしまうから。焼いた分だけはまあ仕方ないと販売しているけれど、さすがにそれ以上は無理です、心が死にます。だったらなんで創作なんかしているんだよって話になるのかもしれないけれど、僕にだってそんなの分からないよ、たぶん人から認められたいと思っている部分はあるよ、多分じゃなくて絶対あるよ、でもさ僕を認めてくれるような人がいる世界が僕にはとても悲しくて、気持ち悪く思えてしまうんだ。だって僕の文章って――自分で言うと恥ずかしくて死にたくなるけれど――とてもじゃないが明るくなくて、どんよりと濁った沼底の水みたいな色をしているじゃないか、そんなものが世界に存在しているだけでもなんだか申し訳なくなるし、殻にこもりたくなる。

 ああ、嫌だなあ、まともに振り返りが出来ないところもだけれど、こんな風に暗いことを書く自分も嫌だなあ。

 そうだ、そうです、新年の抱負でも書いて明るい気分になろうじゃないですか、そしてアハハと笑って、はい、テンポ正しく握手をしませう。……しかし抱負はなかなか思い浮かばないものだ、今年の自分は何がしたいのかなあ、と考え、自分が無いのでなにもない。自分の中を見ても暗い闇ばかりで、絶望的な気分になるだけで、ああ希望を持とう持とうと思ったところで灯が付けられないのです。僕に足りないものはたくさんありすぎてなにを照らせばいいのかわからないのです。ひとつひとつ何かを得ようとすればいいのでしょうか、雑然とした部屋を想像したらわかるように、何から手を付けていいのかわからない、ひとつゴミを片付けたところで部屋の印象は全く変わらない。もしも部屋がきれいになるまで部屋の状況に意識を向けないのであれば綺麗にできるのでしょうが、僕は僕が進んだ道を、それが本当に正しかったのか一々確認しないと気がすまないたちなので、一々気にしてしまい、気が滅入って、手が止まってしまい、全く綺麗にならないのです。ああ、虚無。

 なんだろうなあ、漠然と考えて、特にそうしたいとは思っていないけれど今年はもう一つは作品を作りたいなあ、でもそんなことをしたところで僕はどうせ満たされないんだろうなあ、むしろ死にたくなるんだろうなあ、ストレスで酷い目眩に苛まれるくらいに頑張ったところで意味がないんだよ、更に自分を苦しめようとするのは本当に馬鹿の所業だよ。でも苦しいから僕は僕の存在を実感出来る気もする、生きているのは苦しいことだから。

 はい、ということで新年の抱負は作品作りです。またどうせサウンドノベルになると思います。絵を用意するの苦痛だし。だれか僕の文章に絵を提供してくれる人はいないかしらん。自分で描くのに限界を感じてきた。しかし人に絵を提供してもらえるほど佳い文章を書けている気がしないので自分で補うしかないんだろうなあ。

 ああ、そうだ、腕試しとして小説を一つ新人賞に出してみよう、新潮新人賞。と書いたところで自分の浅はかさとか自尊心に吐き気がした。気持ち悪い。

 というかなんだこれ、新年一発目の記事で暗すぎやしないか。はあ。

憂鬱な寄る辺

 今日はとても嬉しい情報があった、だから僕の心は躍っているはずなのに、なぜか憂鬱だ。でもこの暗くて冷たい気分は少しだけ落ち着く。だが良くない兆候な気もする、でもなんだかどうでも良いような気もする、僕は今、抑鬱気味なのだろう、気分が晴れない。その嬉しい情報には一時とても興奮したのだけれど、なぜか抑圧されてしまった。ああ、本当ならあの晴れやかな気分でいたいのに、僕は暗い気分になっている。

 切っ掛けは無い、無いけど憂鬱だから困っている。いや、困っていはいないか、いつものことだし。でもこの気分のままだと作業に支障をきたすので、最低限動ける程度にはなりたい。今はこうして文章を書いては消してを繰り返して、暗い瞳で薄く笑みを浮かべるしか出来ないのだけれど、やるべきことがあるのだ。新作のスチルを描く。でも気が進まない。元々絵を描くのにはとてもエネルギーを使うから好きじゃないんだ、だから月に一回絵を描けば良い方で……ああ文章を書くのも疲れてしまった。

 今日は色々なことが続かない。

 もう何日前のことかは忘れてしまったのだけれど、ブログの感想記事以外の記事を消した。正確には下書きに戻しただけなのでデータはまだ残っているが、今の所再掲するつもりはないので実質記事は削除されました。まあそれで困る人はいないと思うのでどうでもいいことだけど。

 僕にとってブログは憂鬱な寄る辺だ。憂鬱な気分だからブログを書くのか、あるいはブログを書くから憂鬱になるのかは分からない、だけれどブログを書いている時はいつも気分が滅入っている。漠然と死にたいなあ、って考えている時は寝るか文章を書いているような気がする、下書きにはいくつもの記事になりそこねた文章の羅列が眠っているし、エバーノートやメモにもそのような未完の言葉が眠っている。でも僕は掘り起こすつもりがない、掘り起こしたところでその言葉たちはきっと腐敗している。僕から遠く離れてしまった言葉だから。昔は僕と一致していたのかもしれない、だけど今の僕にとって昔の言葉は遠いものなんだ。眺めて改めて自分を俯瞰する切っ掛けにはなるだろう、僕も前に自分の昔のブログを読んで驚いたこともある……

 やっぱり今は文章が続かない、色々な言葉が去来して思考を乱す、多分僕は焦っている、多分というのは判然としないからそう形容しているだけで、ちょっと遠くから自分を見てみれば焦らないわけがない。例えば冬コミだったり、卒論だったり、他にも色々あるけれど。

 冬コミといえば、そう、新作を出します。拙作『贖罪と命』の外伝的作品『慈愛と祈り』。佳い作品になっているかは分からない、だけどシナリオは結構頑張って書いたので佳い作品になっていると良いなあ、って思う。自分で読み返しても良さは正直分からない、まるで自分の自慰動画を見せつけられているようでまともに読めたものじゃないから。自分で陰鬱な作品と称したけれど、正直なところそれほど暗くはないのではないか、と思い始めている。でも前作がそんなに暗くないよなあ、と思っていた部分があるので多分僕の認識が歪んでいるのだと思います、新作は恐らく暗い作品です。

 僕の作品を好きと言ってくれる人がいるのは素直に嬉しい、嬉しいけれども僕の作品を好きな人がいる世界であることはあまり嬉しいことではないと思う。自意識過剰か。

 新作は今の所DL版を出すつもりはないのだけれど、もしも焼いた分が捌けて、しかも要望があれば出すかもしれない。

 

 冬コミは四日目ヤ-31bで待ってます。当日来られる人がおりましたらどうぞよろしくお願いします。

内臓の収縮と[amare amabam]

 内臓の熱い収縮のせいで息ができなかった。布団をかぶっていたから、吸う息、吐く息どれも熱く、地獄のようだった。でも外の青い空気を吸っても気分は紛れないのだから、むしろ乾燥しているので辛くなった。

 風邪を引いた。引いていた。火曜の午後から少し喉が痛いなあと感じ、この痛みは恐らく風邪の前兆だろうなあと思っていたのだけれど、案の定翌日に風邪を引いて寝込んだ。つい2ヶ月前にも風邪で苦しめられたばかりだというのにも関わらず、どうして僕は風邪を引きやすいのだろうか、元々の免疫力がないのかもしれない、幼い頃から僕は比較的病気になりやすかったから。あるいは健康的な生活を送っていないからだろうか、自分でも寝不足だったり、急激な気温の変化に対応する服装をしないことが多いのは分かっている。それにしても2ヶ月に一回ペースで風邪は多過ぎるのではないかしらん? 

 風邪を引いている時に辛いのはなにも熱や頭痛、喉の痛みだけではない。むしろ寝すぎて起こる腰の痛みが僕にとって途轍もなく辛いことだ。寝たいのに、痛みが寝かしてくれない。僕のベットは少し硬いからなのかもしれない、もしも一人暮らしをすることになったらベッドは柔らかいものを買いたいと思う。

 

 そういえばコミケに受かったのだった。四日目南ヤ-31bで頒布することになる。完全に後に引けなくなった。まだシナリオは半分ちょっとしか完成していないはず(はず、と言葉を濁すのはシナリオの長さが不透明だからだ)で、そろそろ急がなければ間に合わなくなってしまう。それなのに風邪を引いてすっかりやる気が消え去ってしまった。だが僕は頑張らなければならない。頑張らなければならないはずなのに、こうしてブログを書いていたり、ゲームに逃避したり(あ、デススト発売されましたね。早速何時間かプレイしました)している。死にたい。自分がないんだよ、僕にはね、これこれしたいって欲望はあって、そのために少しは手を出すのだけれど、完全に自分を没入させることができない。凄いことだと思う、何かになれる人というのは。僕にはなにもないから。なにもないから、なにもないなりに、なにかを作ろうとしているけれど、それでなにかが自分の中に出来るわけではなく、ああ、これって僕の自己肯定感が酷く低いからなのかもしれない、でも仕方のないことじゃないか、僕の性格は昔からこうだったのだから、小学生の、いやもっと小さな幼稚園児の頃からこうだった、だから友達もできなかったし、いじめられたのだ。人は弱い生き物に目をつけては、傷付け、自分の満たされない部分を相手の血で満たす。何者にもなれない、といえば思い出すのは『輪るピングドラム』、「さようなら。何者にもなれなかった私」ってセリフ。まあどうでもいい。

 シナリオを書くための参考に僕は最近キリスト教関連のものを読んでいる。聖書だとか、トマス・アクィナスとか、そのせいで思考が少し引っ張られている。神のことはあいも変わらず信じてはいないけれど、自分を損なってでも何かに尽くしたいという歪な考えに支配されてきている。仏教関連の本を読んで蚊を殺せなくなったことを思い出す、僕は本に影響されやすい。悪いことでは無いと思うのだけれど、しかしこうも意志が弱くてはそのうち大きな間違いをしでかすのではないだろうか、なんて考えてしまう。

 アウグスティヌスの『告白』に好きなフレーズがある[amare amabam]これはラテン語なのだけれど、日本語で[amare]は「愛する」で、[amabam]は[amare]の未完了時制の一人称単数なので「私は愛していた」となり、[amare amabam]は「私は愛することを愛していた」となる。本当はもう少し長いフレーズ[nondum amabam, et amare amabam](nondumは「まだ」という意味」)だがまあその部分は割愛してもよろしいだろう。この「愛することを愛していた」は恐らく新作の主人公、谷口佳奈の思想の核になると思う。なっている。でも僕のこのフレーズへの理解が不完全だから歪な解釈になっているのではないかと怯えながら執筆をしている。風邪で遅れた分(風邪は言い訳でしかない)を取り戻すために執筆に戻ろうと思う。

予定は予定。達成できないことがほとんどで……

 本来ならば今月中に新作のシナリオを書き上げたかったのだけれど、どうもそうはいかないようである。というか自分でもシナリオがどの程度の長さになるのか分かっていないのだからいつまでかかるかは未定なのである。もう前作の5万字を超えた、おかしい、外伝の方が長くなっている。せめて10万字には収めたいところなんだけれど、いかんせんプロットがないのでどのようなイベントが在り、どの程度の長さになるかは全く掴めていないのでこの体たらくに陥っているわけで、本当に予定を完遂する能力がないなあ、と痛感している。一応日に3千字掛けば一月で約10万字いくから期間的にはいけるだろうと、高をくくっていた。僕の悪い癖だ、できもしないのに大きな目標を立ててしまうこと。幸いまだコミケまで二ヶ月以上あるし、なんとかなるだろうと思っている自分がいる、駄目だよ、僕、そんな考えではいつまで経ってもシナリオが完成しないじゃないか。え? コミケに落ちる可能性もあるのだから多少は気楽にしろよって。いや、駄目だろ、もしも受かってたらどうするんだ。自分の首を自分で締める結果になるんだよ。それもそうか、ごめん。

 今書いているシナリオが面白いのかどうか分からなくて、筆がなかなか進まない、いつもこうだ、自分に自信がないのもあるけれど、基本的に自分を疑う人間だから。悪い癖なのは分かっている。だけど、もうこれは稟性としか言いようがなく、直しようが無いんじゃないかなあ。人と関われば僕も変われるのだろうか、なんてことを思わないでもないけれど、いや、人と関わるのが苦手な時点で色々と終わっている。というか女性視点の話だから難しく考えているのもあると思うし、少なからず期待されていることを思うと萎縮してしまっている僕がいる。自分を肯定できない人間だから他人からの肯定を素直に受け止めることが出来ないんだ、だからこんなブログ(文章)を書いてしまう。書いても意味のないことだとは分かっているというのに、書いたところで何か与える/与えられるわけでもないのに。後ろ向きな部分はせめてブログだけにしようと、いや、日常生活でもそうなんですけどね、ツイッターくらい少しは前向きでいようと思いながら、暗い自分をここに書き出しているのであってですね。誰に言い訳しているんだろう、僕は、他者を想定しているわけじゃないのに、やはり自分に言い訳しているのだろうか。無残だ、笑えない。

 ところで先日横浜美術館に行ってきた。オランジュリー美術館コレクションを見るためだ。僕はルノワールが好きだったし、スーティンも好きだったので行くしか無いということで行ってきた。それと、運良く優待券を貰ったのもある。ちょうど今書いている新作のシナリオでも絵画のことが出てくるので、ちょうどいい機会だとも思った。特にルノワールの描く幸福で生命感の溢れる絵なんて実物を見ない限りその偉大さが分からないのだから。ルノワールの噎せ返るほど圧倒的な幸福な風景は見ていてくらくらした、なんだか僕には合わないような、でも好きなのは変わらない、バロックあたりも古典主義あたりも好きではあるけれど、やはり一番は印象派だと思う。単純に綺麗だと感じられるのが大きいのだろう、僕みたいな美術初心者にとっては、特にそうだと思う。モネの絵も良かった。でもスーティンの絵が見ていて一番落ち着いた。彼の描く鮮烈で歪んだ風景や、動物の死骸はなんだか僕と波長があっているように思う。こんなことを書くと僕がまるで暗い人間だと思われてしまうかもしれない(合っているのだけれど)、でも好きなのだから仕方がないじゃないか。

 そういえば絵の説明のところどころでアポリネールの名前が出ていたのを思い出した。また読んでみるのも良いかもしれない、詩は、心の、特に感性の部分に適応した栄養だと思う。最近またボードレールを読んだけれど、偉大な詩人というのをひしひしと感じさせられた、言葉が美しいのもあるけれど、言葉の鋭利さがなによりも魅力的だった。人の暗い部分を美しく切り取るメスのような……

 来週辺りに神保町のブックフェスティバルに行きたいと思っているけれど、そんな体力あるかなあ。予定は予定、達成できるかは未定だ。

自己肯定感が低いのは分かっている

 ここ一週間のブログのアクセス数が多くて驚いている、というか少しだけびびっている。更新した日でもないのに一日で100を超えた日もあったし、更新した日を除けば一日10もアクセスがあれば異常な僕のブログなのに、この一週間は当たり前のように10を超えている。何があったのだろうか。少しだけ、怖い。なんというか僕の内面を多くの人に見られている気がして。それなら書くなよ、という話なのだけれど、書くことによって精神衛生を保っている部分も少なからずある僕にとって止めるというのは無理な話だ。こうしてブログのアクセス数が多いことを不安に思って記事を書いているように。アクセス解析を覗いてみれば、ツイッターからのブログトップへのアクセスが多いみたい。この前までは『真昼の暗黒』の感想がトップだった。僕がブログのURLを載せているのはプロフィールのところなので、そこからアクセスしているのだろう、それにしたってどうしてアクセスするのだろうか。意味が、分からない。僕のツイッターのフォロワーは3桁に満たないし、僕のツイートが話題になったわけでもない。それに僕は名前を絵文字にしているから検索にもなかなか引っかからないだろう。あとハッシュタグも滅多に使わない。一体誰が見ているのか。

 最近起こった出来事といえばノベコレの開催だと思うのだけれど、僕が投稿した感想の解析を見てみても、プロフィールのクリック数は多くて3なのでそこからきているわけではなさそうだ。ではどこから? 本当に訳が分からない。拙作の感想、あるいは作者へのリンクを辿って来ているのかもしれない。というかそれ以外に考えられない。例えば僕の作品をプレイして、「うわ、気持ち悪い文章だ。こんなのを書く作者なんてきっと内面が複雑に歪んでいる」と考え、見世物小屋にいる珍奇な生物を見るように、僕のツイッターへ飛んできているのかもしれない、そこで貼ってあったブログへのリンクを踏んでいるのだろうか。作者の内面を見て冷やかそうと考えながら。あるいはブログになにか感想のようなものがあるのではないかと考え、見に来ている人もいるかも知れない。しかし残念だったな、僕は殆ど感想を書かない。ブログで書くような長い感想なんてのは本当に心を動かされた作品にしか書かない。別に今までツイートで済ませていた作品には感動してないと言っているわけではないが。そもそも感想を書くのって本当にエネルギーを費やすのよね、僕は省エネ主義の人間であるから、基本的に感想を書かない。プレイして、唸った作品でも感想を書いていないものなんていくらでもある。本当に。

 タイトルを考えるために書いた文章を眺めていると、自己肯定感が低いと感じる。まあ、そうですけど。自己肯定感を高めるために自己啓発本でも読みましょうか。僕は読みませんが。

 

 今書いている新作は拙作の一応続編? 外伝か。に位置する作品なのだけれど、書くにあたって過去作をプレイしなければならないのではないかと思い始めた。あの主人公捻くれすぎてて少し嫌悪感を抱いてしまうし(同族嫌悪なのかもしれない)、そもそも自分の文章を見返すのは好きではないから乗り気ではないのだけれど、しなければ繋がりを描けないからなあ。若干諦観しつつ僕は今日も執筆をします。今月中にどこまでいけるだろうか、本当なら今月中にシナリオを完成させるつもりなのだけれど、なんだか完成するビジョンが見えない。まあ僕が忙しさにかまけて頑張らなかったからなのだけれど。先の見えない執筆作業はまあ当然のように苦痛なのだが、拙作の主人公が言うように時には苦痛をも愛するのが人間というものです、作業を愛しながら頑張りたいと思います。いや、無理だろ。愛するってなんだよ、僕には分からない。今書いている作品で愛とはなにか問うているけれど、未だに結論は思い浮かばない。執筆という思索を通して結論を見つけれればいいのだけれど。

 

 タイトルの話を少し書き足そうかと思って、さて何を書けば良いのだろう。自己肯定感が低いのは自分での重々承知していることだ。というか自己肯定感が高ければ今頃院に行く選択の上に立っているのではなく、就職するという選択に立っていたことだろう。なにがエントリーシートだ、何が自己分析だ。僕の内面をそのまま書いたESを出したところで取りたいと思う企業があるのだろうか。というか、誰にだって倒錯的な部分はあるはずで、隠して生きているとは思うのだけれど、一体ESでそれを隠して自分の何が表現できるのだというのだろうか。企業が取りたいのは虚偽の仮面で笑みを繕う人材だけなのだろうか。意味はあるのか。