万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

2020年の終わりに

 もうすぐで今年が終わる。これを書き始めた現在は21時11分なのであと3時間弱で今年が終わるということになる。特に感慨深いことはないが、改めて一年を振り返ると後悔ばかりの一年だったように思う。結局新作を公開することは適わなかったし——しかも全然進んでいないのだ!——、私生活でも多忙にかまけて失敗してしまったこともあった。失敗の度に僕はなんて駄目なヤツなんだろうと落ち込み、自殺という単語が頭の中で空転し、憂鬱になった。でも死ぬのはせめて一人暮らしを始めてからにしようと思っているからあと数年は生きてやろうと自殺という考えは頭の隅に追いやった。だけれども最近は頻繁に自分を損なってしまうことを想像し、行動の一歩手前までいくこともあり、危機感を多少は持っている。だから大切なものを増やそうと思った。また大切ではなくとも少なからず執着できるものを近くに置こうと思った。パソコンを買い替えたことも——これは元々使っていたPCが若干不調だったというのもある——そうだし、もう長いこと買っていなかったぬいぐるみも買った。ぬいぐるみはたまに抱いて寝るが、それでも大切には遠く及ばない。PCがもしも壊れてしまえば悲しくなると思うがしかし執着を抱けてはいない。所詮は便利な道具に過ぎないのだから。

 もしかしたら生き物を買えば(飼えば)僕は生きることに執着できるかもしれない。だけど自意識を持たない生き物を縛りつけ、愛玩の快楽に浸ることに、僕はもう疲れていた。昔は犬を飼っていたこともあったけれど、その子のことを可愛いと思いながら一方で世話が面倒だと思っていた。一方的に愛を押し付けることに罪悪感を感じたことはなかったが、時に言うことを聞かない愛犬に憎しみともつかない負の感情を抱くのは辛かった。昔に読んだ小説に飼っていた犬——もしかしたら猫かもしれない——を誤って殺したシーンがあった。その小説の主人公は少年で、たしか犬の頭にスキレットを落とし、殺してしまっていた。どのように隠蔽し、発覚したかはもう覚えてはいないけれど、僕は愛犬を憎らしく思うとき、きまってスキレットに潰されてぐちゃぐちゃになった犬の顔を想像した。そんな想像をしてしまう自分も嫌だった。

 あるいは恋人ができたらいいかもしれない。同じ動物でも種の同じ人ならば僕だってきっと大切に思えるだろう。でも何かを愛するとは結局縛りつけることに他ならないのだから、僕はそのせいでやはり苦痛を覚えてしまうかもしれない。相手が人であるならなおさら、相手の心を裏を必要以上に勘ぐってしまったり、疑いを抱いてしまうことなど容易に想像がつく。そもそも僕は恋人を大切にできるかも怪しいのだ。昔、恋人に対し酷い仕打ちをしてしまったのは今でも悔やむところだ。愛情の有無に拘わらず、"恋人"である以上それに縛られて恋人として振る舞わなければならないことは苦痛だ。それが嫌で僕は相手を傷つけてしまった。僕に恋愛事は向いていない。

 

 尾篭だが僕はセックスをしたことがない。そりゃあ当然のことだ、ろくに恋愛もできていないし、お金をかけてまでセックスしたいとは思わないから。でも思った、セックスすらしていないのに僕はどうして愛なんて語っていたのだろうかと。なんだかとても薄っぺらく感じてしまった。以前拙作の感想を頂いたのだが(【不定期】第三回ノベルゲーム感想日記 『慈愛と祈り』|お風呂かこ|note)そこで「何度も、何人とも身体を重ね合っても一時的には快楽に満足できるでしょうが、直ぐに虚無感が胸の裡に去来する」というセリフへのコメントがあり、共感を示されていた。僕はセックスしたこともないというのに、ましてや他人を強く愛したこともないというのに、大仰に語ってしまったことが酷く恥に思えた。嘘を吐いたつもりはないけれど。

 

  僕は自分でも不器用な人間だとは思う。書籍は紙に拘っているし——心情的に漫画は電子媒体でもいいかなとは思うが——、その他した方がメリットがあることでも個人的に気分が良くないからしない——例えば宣伝、たまにするけどほんとは極力したくない。面倒なヤツだとは自分でも感じるし、実際相手にして凄く疲れるだろうとは思う。僕に笑顔を向けてくれる人だってきっと裏では蔑んでいるのだ、陰口を言っているのだと思ってしまう。ほら、やっぱり面倒だ。僕だって自分のことが嫌いなのだ、でも仕方ないじゃないか、僕は僕でしかいられないのだから。もちろん対応する人に対して仮面を付け替えるよ、それでも滲み出る僕という悪い部分は消し去れない。強力な臭気のようについて回るものだから。

 

 今年の抱負確か、新作を作ることと、「差異と反復」と「存在と無」を読み返すことだったけれど、結局できたのは存在と無を読み返したくらいのものだった。やっぱりサルトルはいいなあ、僕に佳く馴染むので好きです。そして僕は抱負の半分も満たしていないのである。時間はあったはずなのに、していないのは意志薄弱としか言い様がないよね。来年こそは新作を公開したいと考えているのだけれど、それならばこのブログを書かずにシナリオを進めればいいというだけの話だ。それができないからやはり僕は駄目だ、このまま本当に目標を達成できるのだろうか。いい加減疲れた。

 2020の終わりに僕はやはり暗鬱とした気分を抱えているのだった。どうして気分が

晴れないのは稟性がそうなのか、あるいは単純に気分を病みがちだからか。どうすればいいのだろう。

 

近状報告とその周辺、慈愛と祈りという作品について少し

 夏が終わるにつれて一層深まっていく抑うつ希死念慮。最近は(というか最近も)生きるのをやめたいという気持ちが擡頭してばかりで、やる気がなにも起きない。でも本は読むことができているから、まだ大丈夫だとは思う。本当に、何もできなくなってしまったら、ベッドから動けなくなってしまったら、天井を眺めて二日も経っているようなことがあったらもう限界だと思うけれど、まだ動けているし、電車には乗れているし、通学はできているし、実験もできているし、スライドの作成もできているから大丈夫だ。一方執筆は全然進んでいない。どうしてかテキストソフトを開く時間がめっきり減ってしまった。そう、今の制作状況はドッペルゲンガーの子供が何回か書き直しをしてやっと第一部が書き終えることができた。約150,000字だけど一年でこれしか書けていないかと思うと憂鬱だ。第二部はまだざっくりとした道筋しか書いていないし、第三部は草稿段階だし、第四部に関しては頭の中に霧状の塊があるだけで今年に完成させるのは難しそうだ。FRAGILEsはEp1が半分くらい書けている。2021年の一月から隔月で一章づつ公開できたらなあ、とは考えているけれどさて僕は頑張ることができるのかしらん。FRAGILEsはありふれた不幸をありふれた家族の形で表そうとしている作品で、というか私小説的な側面がかなり強い作品だからエネルギーの消費量が多い。自分の過去を見つめると嫌なことばかりが浮かんできて、ああ僕はダメな人間だなあ、と思ってしまう。実際僕という人間は悪辣だとは思うけれど、結局のところ他人に本質的に冷たい、何を考えているのかわからないやつだと言われるような人に善人なんていないんです。

 夏が過ぎ、身体を巡る倦怠は汗とともに蒸発してしまうと思ったが、血流に残り続けるアルコールのように秋になっても倦怠は消え去る気配がない。さらに強い頭痛が脳という変換器を通ってきた心音とともにどぅどぅと増幅し、頭の中で痛みが弾け、身体が重くなっていく。どろどろに脳が溶けていく様子が浮かぶ、身体も溶けてしまうのだろうか。重いなあ、ほんとうに重いなあ、動きたくないなあ。どうして動かなくてはいけないのだろう、止まっていてはいけないのだろうか。消えてしまいたい。存在があまりにも軽く、僕は自分の存在が無価値にか思えない。誰かが僕を頼る、でもその信頼が重い。誰かが僕に期待する、でもその期待が痛い。どうして高く評価する人がいるのだろう、こんな人間を。どうして愛するふりをするのだろう、その愛に浮かれて、しかし偽物だと知って絶望する人がいるというのに。無邪気に何かを信じることができた少年時代、先に広がるのは広大な海のように可能性に満ち溢れた未来で、波間のきらめきがごとくの小さな幸福に酔いしれると信じて疑いがなかったのに、裏切られ、幸せを感じれば感じるほど不幸の影が恐ろしくて、この幸せが本物ではなく、贋作にしか思えなくなってしまった青年時代、他人に理想を押し付け互いに不幸になり、その時のメランコリックな陶酔を壊れ物のようにいつまでも抱き続ける、馬鹿みたいに、それが唯一の宝物であるかのように。脆弱な精神状態。

 

 

jeuxdeau.booth.pm

 

 慈愛と祈りという作品は「愛」について僕なりに向き合って書いた作品だ。執筆中に常に浮かんでいたのはサルトルアウグスティヌスの言葉。

「愛する」とは、その本質において、「愛してもらおうとする企て」である。

J-P.サルトル存在と無

 Nondum amabam et amare amabam et secretiore indigentia oderam me minus indigentem. Quaerebam quid amarem, amans amare.

アウグスティヌス「告白」 

 日本語訳にすると「私はまだ愛してはいなかった。愛することを愛していた。そして、もっと深い苦痛によって自身を憎悪していた。なぜなら、私の苦痛は十分ではなかったから。愛することを愛しつつ、愛すべき対象を求めていた」となる。amare amabam、愛することを愛していた、このフレーズが僕の頭から離れなかった。アウグスティヌスが告白に書いたこの宗教的愛に対する挫折の吐露は生々しく、僕を捉えて離さなかった。この言葉は全ての愛に対して通ずるものがある、と僕は思う。一方的だからこそあらゆるものに対して適応される愛は絶望的で、だけど、だからこそ美しい。

愛というのは無我の感情で、一方通行なのだ。(中略)なぜなら愛とは、一つの反射と、その実体とのあいだに生まれるものだから。

ヨシフ・ブロツキー「WATERMARK」

 ブロツキーは詩情あふれる文章でそれを的確に指摘している。事物が存在する、存在するからには反射が生じる。網膜に映る全ては何かの反射に過ぎない。太陽光でさえも空気の粒の反射した結果届いたものだ。色とはそもそも反射された一部の光なのだから。

 

 登場人物に関する話。例えば佳奈を引き取った親戚のおじさん、僕は彼をハンバート・ハンバートのなりそこないとして書いた(ハンバートはナボコフ 「ロリータ」の主人公)。例えば死刑囚の永田は宮崎勤永山則夫をモティーフにして書いている。悪辣な家庭環境で育ち、どこか無垢なまま大人になってしまい、歪な精神状態で人の道から外れてしまった人間。これは洸太郎のもしもの姿を重ねて書いてもいる。もしも保護されることもなく、弟を殺すこともなくそのまま育ってしまったら洸太郎も永田のようになっていたかもしれない。

 全ての登場人物に原型がいるわけではないけれど、半数以上は何かしらの原型を持っている。それは僕のプライベートに関わりのあった人かもしれないし、そうではないかもしれない。

 谷口佳奈という人間は僕も巧く捉えきれていない人物だ。自分で書いた作品の主人公だというのに、彼女は僕から酷く遊離している。でも彼女を書く上で意識していたのはただの役割を与えられた人間ではないということ。前作贖罪と命ではある意味で主人公にとって都合の良い人物をして描かれていた彼女だが、彼女にも人生があり、価値観があり、生きているということを書きたかった。ガルシア・マルケスの作品に登場するようなただの役割に過ぎない人物ではなく、彼女も一人の人間であることを意識していた。

 

 慈愛と祈りにの一貫したテーマは愛だが、第二のテーマとして幸福がある。これは愛を語る上で外せなかったのもあるし、前作で提示しきれなかった部分を書こうと思って書いたからでもある。洸太郎は幸福であることを拒んでいた人間だが、そんな彼に幸福を与えたかったという作者のエゴもある。エゴ、という単語は作中で何回か登場していたように思うがまあそれはそれで置いておく。

 シーシュポスの神話は本作を書くにあたってかなり影響を受けた本だ。というか僕はカミュにかなり影響を受けている人間だ。途中でシーシュポスの神話についての話もあるし、最後にはシジフォス的循環という言葉も出している。これにはいくつもの意味を込めている。もしも暇のある方がいれば僕が込めた意味を探してくれれば嬉しい。きっと谷口佳奈という人物を知る手がかりにもなるだろう。

ロゴを一新した

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前のは前でシンプルで良かった。……前の方が良くないか? いや、せっかく作ったしやめるのは嫌だなあ。長く見ていると愛着がわくというし、そのうち慣れるんじゃない? 



 万年筆と神経毒のロゴを一新した。ロゴを弄っていてなんとなくいい感じのができて気に入ったので当分はこれを使っていこうと思う。こういうのを作ると改めて何かをつくることの難しさを実感する、フォトショの使い方はもちろんのこと、頭にあったものを形にすることの大変さはいつまでも変わらない。

 ちなみにデザインのパクリ、もといオマージュ元は英語版の『罪と罰』の表紙。一から何かをつくるなんて僕には不可能で、僕が創作する場合には何かしらのオマージュ元がある。例えば『贖罪と命』だったら『罪と罰』がそう。

 

 新作VN『ドッペルゲンガーの子供』について少々。現在はまだシナリオの執筆中で、第一部〈gnōsis〉が半分くらい書けていて、第二部の〈その存在の消し方〉の少しずつ書き出しているところ。つまり全然進んでいないのだけれど、ちまちまと頑張っていこうと思う。できれば今年中に完成させたいなあ。第一部はタイトルから分かるようにグノーシスに結構触れている。第二部は……そうだ、今作はミステリーの味がある作品にしたいと思っている。昔からミステリーを書きたいと思っていた、だから今回はそれに挑戦したい。でも僕はあまりミステリーを読んでいないから、ミステリー風の何かになるかもしれない。でもミステリーといったところでこの単語が指す意味は複数あって、推理小説の場合もあるが不可思議なものを指すこともあるし、語源であるギリシャ語では秘儀を意味しているように推理小説という意味のミステリーではないかもしれない(秘儀といえばエレウシスの秘儀が思い浮かびますね。エリアーデ世界宗教史は名著なのでぜひ読んで下さい。ダイマ。そういえばグノーシス主義を知ったのも世界宗教史だった気がする)。第一章のタイトルであるgnōsisグノーシス主義を指すだけでなく、ギリシャ語で認知を意味する。今作は複数の意味を繋げていくような作品にしたいなあ。

 

 イケアでサメのぬいぐるみを買った。もうここ最近はずっとそれを抱き枕の代わりに使って抱いている。あの大きさが身体にフィットしてちょうどいいし、ふわふわしてるのやばくない? 気持ちいい。抱く麻薬だなあ、なんて思う。あれを使い始めたら他の物を抱いて寝ることが考えられなくなってしまった。

 

 先日某空間にあった拙作『慈愛と祈り』の感想を読んだ。かなり痛烈な意見で読んだあとしばらく動けなかった。いいお話を書けたと思っていたから自信を無くしたし、落ち込んだ。もう無理をして創作をしなくていいんじゃないか、死にたい、もう嫌だ、そんなことを思って、今も思って、ちょっとだけ進捗を出して、死にたくなって、空虚で、憂鬱で、でもまだ創作をしている自分が不思議だ。なにかに縋らないと生きていけないから、おそらく僕は、こうして何かを作ろうとしている自分という姿に縋っているのだろう。それが沈没しかけの泥船だとしても、まともに見えてしまって、陶酔しているのだろう。でもそれでいいじゃないか、死んだところで何があるわけでもなく、まあ究極的には生きていて何かがあるわけではないけれど、だけどこの一瞬が素晴らしいと一人讃嘆していればそれなりに楽ではあるのだからそれでいいじゃないか。

 

 ロゴを改めてみると、やはりごちゃごちゃ感が否めない。しかしどう改善すればいいのか全く分からない。何が良くて何が悪いのかもわからない。何もわからない。

 悪いように見える一方で、いいように見えるし、僕が信じられない。自分の感性を信じればいい話だけれど、でも自分が良く書けたと思った作品を酷評されるし、本当に自分が正しいのかという保証なんてないから僕はいつまでたっても自分を疑い続けている。

希薄

 現実感が希薄で、どんな喜びも、どんな悲しみでさえも感覚器を掠めただけで消えてしまう。薄膜を隔てた先に世界があって、衝撃はそれに吸収されているのではないだろうか。魂を揺さぶる、この言葉が意味するところが分からない。涙が出るほど感動する? これも分からない。どれだけ感動的な作品であろうと、僕はどうして無感動なままで、面白いとは感じても感情の波紋はしかし瞬きの合間に消え去ってしまう。

 火傷をした。熱したガラスに不用意に触れてしまい、すぐに冷やしたが指先に水ぶくれができた。何もしなくともジンジンと痛み、不快だった。同時期に口内炎もできた。舌の裏に、まるで宿痾のように居座る爛れ。咀嚼するたびに痛みを伴い、憂鬱になった。これらの痛みは長く続き、消えてくれないのかと不安になりもしたが、しかし気がつかぬ内に去ってしまった。今ではもうあの痛みは幻だったのではないかと思い始める程度に、感覚が薄かった。

 生きていることも、死ぬことも、どうでもいい。今、唐突に死のうが、構やしない。生きたいとも思えないし、死にたいとも思えない。なにもかもが嫌で、憂鬱で、質量のなさが辛い。実感がない。他人の肌に触れたときの甘い痺れも、キーボードを叩く硬質な響きも、鳴き始めた蝉のかまびすしさもそこにあるだけで、僕からは遠く感じてしまう。食欲も、睡眠欲も、性欲もわずわらしくて仕方がなくて、でもそれらを失ってしまったらきっと存在はもっと軽くなってしまうだろう。舫いはどこにもなく、無感覚で、不確かで、でも生きているのは不思議でたまらない。

 だからだろうか、僕は怒ることが少ない。怒った?と聞かれる時もあるが、大抵はそんなこと全くなく、どうやら僕の目つきは酷く悪いらしい。親戚からも目付きが悪いとよく言われる。まあそんなことはどうでもよく、僕は怒らないというよりも、怒れない。怒り方が分からない、自分が不快になったところで、怒ってどうするのだろう。怒った何かが解決するのならば喜んで怒るよ、でもそうじゃないじゃないか。怒りは自分だけでなく周りも不快にする。人を不快にするくらいなら、僕一人が嫌な気分になればいい。僕の犠牲でうまく回転するのなら、それでいいじゃないか。奉仕の気持ちになることなんです。奉仕の気持ちになることなんです。そのもののために、そのもののために、奉仕の気持ちにならなきゃあならない。そう、奉仕の気持ちでいることが大切なんだなあ。強い感情というのは現実において不愉快な事態を引き起こす、だから常に虚心でありたい。なにものにも動じず、なにものにも不可侵な心を持ちたいなあ、だが心っていうのは分からんもので、自分がいくら意識したところで容易に揺れてしまう。どうにもならないから、うまくこの心ってやつと付き合っていければいいなあ。

 こうして軽薄な言葉を垂れ流している自分に嫌気が差す。

 僕はもしかしたら人を好きになったことがないのかもしれない。僕が好意だと思っていたものは、尊敬や打算的な情の発展型でしかなく、好きであるために好きになった(と信じ込んでいる)状態で、好意を持つ一方でくだらなく感じてしまうのはそのためなのかもしれない。

 自分が信じられない。自分の感情が主体を裏切っているような気がしてならない。

 ベンジャミン・リベットのある実験では意識に発生が行為に先立つことが示されている。その実験によると、行為をしようと思った0.35秒前にはすでに脳内で電位が上がっているという。また彼の別の実験では、脳は知覚の選別を行なっていることが示されている。こちらの実験では外界からの感覚刺激は脳の受容する部分に到達してから0.5秒以上続かないと知覚は意識に上らないという結果が得られている。加えてこれらの時間差は認識されないという。私たちの脳は認識プロセスの遅れをなかったものとし、しかし平然とそれが今この瞬間だと知覚している。世界は意識に先立つ。わずかな差かもしれないが、そこには明確に差があり、この差の中で意識は統合される。

 身体に明確な徴をつけたい。この身体が自分のものであることの証明としての傷を。例えば刺青や、ピアスなどのそういう自らの意志で傷を与えるもの。だけど痛いのが嫌な僕はそれをする勇気がない。自分で自分すら傷つけることができないのだ。 

 昔小学生のいじめられていた頃、いじめ相手に言われたことで印象に残っていることがある。僕は彼女に「笑ってんじゃん、きも」と言われた。「こうやっていじられるの喜んでるんでしょ?」とも言われた。僕は泣きたくなった。というのもそれは一部で本当だったから。僕はいじめ相手のことが好きだった。そしていじめられることを望んでいた。今思えばそれは異常で、一般的な好きではなかったように思う、彼女だけは僕に積極的に接してくれる相手だったから勝手に好意を抱いていただけなのだから。そして彼女が僕をいじめていたのは反応が面白かったからなのだろう。あの頃の僕は泣き虫で、オーバーにリアクションをするような子供だったから。そして小学生だった当時の僕はその好きを普通なものではないとは判断出来なかった。だから彼女にいじめられているときの暗い快楽を求め続けていた。いじめられることの息苦しさも、痛みも全て存在の肯定に思えて、笑っていたんだ。

雑記的なやつ2

 Twitterの繋がりなんてボタン一つでどうにかなる空虚なもののはずなのに、溢れている言葉の中には鋭さを持ったものもあり、意図せずとも触れてしまったら簡単に傷ついてしまう。痛い、と思った時にはすでに時遅く、慌ててミュートにしても血がだらだらと流れている。止血しようにも止血の方法を知らないから、自然に止まってくれるのを待っているのだけれど、目には見たくもないトゲだらけの言葉が滑り込んできて、ますます傷ついてしまう、血が、どんどん流れ出てしまう。失血死。ぎゃあ。

 フォローしました! みたいなリプライを送られても困惑する。勝手にフォローしとけば良いのではないだろうか、別に事後承諾を取る必要なんてないだろうし。それともフォローしたことを認知して欲しいのだろうか、私はあなたをフォローしました、だからあなたもフォローを返して下さい、と言外に伝えているのだろうか。でも困るなあ、フォローされてもありがたいわけじゃないし、興味のない人をフォローしたくもない。まあフォローしてと言われても僕はフォローするわけじゃないんですが。

 空気を読むことは酷く苦手だ。言葉にしてもらわなければ分からないことを平然と伝わっている(だから)察しろというのはあまりにも不条理ではないかしら、だって言葉だって気持ちが十全に伝えられる便利なツールではなく、不完全なもので、その言葉で伝えるのをやめたことをどうしてこちらが受け取らなければならないのだろう。せめて伝える努力をしてから相手に何かを望んでくれないと双方が不幸になるに決まっているではないか、ノリが悪い? 知ったことか、そんなノリなんて曖昧なものに乗って当たり前/しかるべきという風潮の方が悪なんだ。だからといって雰囲気を全く気にしないことはできないもので、しがらみを無視できない自分に苛々する、無視しなくても苦手な自分に苛々する、はたからみれば自分の苦手なことに対してただ文句を言っているだけな自分に苛々する、苛々している自分に苛々する、くそが。

 数ヶ月前から僕はツイッタースマホから消している。簡単に開いてしまえるものの中にあるのが耐えられなくなっていた。誰かの言葉を見たい、そんな欲求に負けて、結局自分が傷ついてしまうことを知っているのに、何度も同じことを繰り返しているのをやっと断ったのだけれど(まるでヤク中だ)、パソコンにはアプリが残っているわけで、わざわざ嫌な気持ちになるのが分かっているのにいつもトレンドの先を覗いたりして本当に馬鹿みたい。もうアカウントを消してしまおうか、なんてことは数え切れないくらい考えたけれど、繋がりに飢えた僕は、こんな仮想的な繋がりにすら固執してしまって、結局アカウントを消してはいない。他人と触れ合うから傷つくのだ。それは分かっているのに、傷つくことを無視してでも熱を求めてしまう、人と人とが触れ合う時に生じる摩擦熱はどうして甘美なのだろうか。人間は他者があって初めて存在することができるというのはよく聞く話で、それは観測する人がいて初めて存在輪郭が作られるという意味もあるのだろうけれど、そもそも人間というのは生まれからして不完全であり、誰かの庇護がなければ生き延びることすらできない存在だからというのもあるのだろう。草食動物のように生まれて一時間も経たぬ内に走り回ることはできず、自分で餌を摂ることもできない。類人猿であるオラウータンの新生児とヒトのそれが同等の機能を持つようになるのは生後9ヶ月とも言われていて、人間はマイナス9ヶ月の状態で胎内から放り出される生き物とみなしてもよいだろう。未発達なまま世界に放り出される僕たちは、どうしても他者の助けが必要で、食物連鎖の頂点に立っているとは思えないほど弱い。いや、強いからこそ弱いまま生まれることを許されているのだろう。もしもヒト種がこれほどまでに技術を持たず、旧人類やオラウータンと同じように危険の蔓延る世界の中で生きることを強いられていたのならば、早熟なまま生まれることを許されているはずがないのだ。生まれてすぐに危険を生き延びることができなければ淘汰されてしまう。

 人間は生後9ヶ月から視線触発が働くと言われる。つまり生後9ヶ月までの人間は眼差し=他者の存在を感じることができず、目が合わない。それまでは他者を風景の一つ、あるいは物としか感じていないのだろう。生後9ヶ月経って初めて存在を認める/認められるこの構図は不安になる。それまではあまりにも無防備だということだから。きっと生後9ヶ月までの僕たちは敵を認識しない、しないようにできていて、自分の周りにあるものを全て信じてしまう愚直さを持っていて、一見して無垢で天使的だと思うけれど、騙されやすいことと同意義で、だけどそんな生をあたりまえに享受していて、ほんとうに馬鹿みたいで、でも羨ましいなあ、そんな無防備で生きられるのはどれだけ楽なのだろう、悩みがないのはそれはそれで人間的では無いのかもしれないけれど、そう言ってしまえば人間的とはどういうことなのか自分にも分からないので、ただ純粋に羨ましいなあ、って。でも案外純粋な感覚の世界に生きていることはそれだけで苦痛なのかもしれない。

 意味もなく、吐きたくて、泣きたくて、隠れてしまいたい。ああ嫌だなあ、こんな風にぐちゃぐちゃになりそうな自分が嫌だなあ、言葉にして吐き出さないと自分を保てない。周りが怖い、システマチックに動く社会が怖い、自分なこんなにも不安定なのに、整然と動き続けている姿、それに僕は圧迫感を感じる。責められている、とも思う。知らないことが多すぎて、知らないことを悪とする風潮が恐ろしくて、ああ、思い出したけれど、チコちゃんに叱られる!って本当に下劣な番組だよなあ、無知を悪とし、またチコちゃんというキャラクターがあたかも全てを知っているかのような、彼女の知識が常識であるかのような振る舞いは吐き気を催す。チコちゃんが間違ったことを流布していたのは一回や二回じゃないだろうし(鯛焼きや湯船の件)、番組として以前に道徳的にどうなのだろう。面白おかしく見る分(視聴者が楽しめるなら)には良いのかもしれないけれど、僕には到底そんな見方はできないし、そもそものコンセプトが気に入らないからあんな番組なくなってしまえ、と思う。無知を許容しない圧力を笑いに転化するだなんてあんまりだ。普通に知識を広める番組じゃあ駄目なのだろうか。

 濡れ場を書く時にいつも思うのは、女性の誘い方ってどうするんだろう、セックスでどう誘導して至るのだろうってこと。世の中には普通にそんな行為が公然と行われているけれど、僕はそんなシステムを知らない。世界は僕の知らないシステムばかりで、嫌だなあ、誰も教えてくれなかったから知らないし、異性とのムードの作り方とか知っていたとしても実践できないだろうし、きっと僕は結婚できないのだろうなあ、日本はどうして結婚することが前提で、かつ善であるかのようにシステムが整っていて、独身だと損するだなんて、狂っているとしか言いようがないよね、独り身は敵なんですか、まあそうだよね、こんな少子化の時代で子供を増やしてくれるかもしれない方を優遇するのは国家、種、として当然で、でもそれじゃああぶれた方はのたれ死ねってか? 存在価値がないってか? 

 自分を保つために、ひたすらに無根拠な大丈夫を繰り返し、それでもそんなものは一時しのぎにすらならなくて、不安定な土台はいつもぐらぐらと揺れていて、酔いをもたらす。頼りない三半規管は永遠に続くと思われる揺れにまいってしまい、視界は飴のようにぐねぐねと歪み、呆然とするしかない。脆い精神は既にボロボロで、物が食べられなくなりつつある今の自分は多分やばいんだろうなあ、って他人事に感じるくらいしか対処できなくて、そんなんじゃ根本的な解決にならないことなぞ承知の上。確固たるなにか、そう、自我の水晶宮を築かなければならない、と思う。揺るぎない芯はいらない、牢固な壁もいらない、天高く聳える柱もいらない、ただ透徹な、あり続ける骨さえあればいいのだ。

瞬間の暫定措置と墓

 なんか色々と駄目になってしまったので『慈愛と祈り』のDL販売を停止した。どうせ誰も手に取らないからどうでもいいと思うんですけどね。日に日に憂鬱が酷くなり、不眠からくる眠気が取れず、常に疲労困憊で頭痛と吐き気がする。生きていることを身体に拒否されているみたいだ、僕が僕のことを拒否してしまったらそれはもう終わりではないかしらん。どうしてこうも苦痛ばかりが続くのだろう、これは避けることができないのだろうか、もしも生きているだけで避けがたい苦しみについて回られるような人生だとすれば、そんな人生にしがみつく価値なんてあるのだろうか。多分無いのだろう、畢竟価値なんてものは見せかけの、砂上の楼閣のようなもので、あるように感じる、けれど本来は存在しないものだから。苦しい、苦しいとのたうちまわりながら生と死の壁にぶつかってしまい、混乱する。死にたくはない、されど生きていける気がしない。

 こんな行き場のなさの中では不安ばかりがぶくぶくと太り、何もかもが嫌になってしまって、もうどうしようもなくなってしまう。カフェイン錠で眠気を、ロキソニンで頭痛を誤魔化し、なんとか生きていく日々を続け、こんな薬漬けの無感覚の中で脳はこんなのは間違っていると呻き、声は頭蓋の空洞でこだまし、音楽だけがそれを紛らわしてくれるからとヘッドホンを付けてその声をぼかし、思考や意思を騙しながら空想に逃げて、もうたくさんだと声が大きくなるのを無視して、こんなものは瞬間の暫定措置でしかないことは分かりきっているけれど、それでもどうしようもないのだからと音楽のボリュームを上げ、あらゆる物事を音の向こうへと遠ざけ、自分を緩和しながらしかし声は消えてくれない。こんな生き方でいいのだろうか、こんな生き方しかできないのであれば、それは自殺と比べてどれほどまともに見えるのだろうか、こんな自分でも認めてあげなければならないのだろうか、愛してやらなければならないのだろうか、自分を愛する、それはとても正しいことのような気がするけれど、違和感を抱く自分がいる。もしも愛そうとして、しかし愛することができないのであれば、自分を愛さないことを肯定してやらなければ生きていけないだろう。生きる生きるってうるせえなあ、そんなに僕は生きたいのか? 生きたいのだ。だけどその方法が分からないのだ。何もかもが不明で、暗さばかりに惹きつけられるけれど、だからこそ生きてやる、という意志の力が必要なんだろうなあ、そうでもしないと落ちてしまうんだろうなあ。

 不意に思ったけれど、僕は彼女が欲しいのではなくて、適度に温かい、時には依存させてくれる相手を欲しているのだろう。自分だけでは抱えきれなくなったものを共有しなくてもいい、相手がいるという現実が負担してくれているという幻想さえ作り出してくれればそれで大丈夫な気がする。僕が昔彼女を作った時、僕はその人を好きだったから付き合ってほしいと言ったのではなく、ただ彼女という存在が欲しかったから告白したのだった。帰り道に、ただ何となく彼女が欲しいと思って、僕は〇〇のことが好きなんだと言った。彼女は驚いて、目を丸くしていたけれど本当に人の目というのは丸くなるもんだなあ、その目がなぜだか面白くて薄くだけど笑ってしまった。彼女と一回デートしたきり興味が薄れていったのは彼女としたいイベントを終わらせてしまったからなのだろう。そういえば未だに僕はキスをしたことがない、セックスもいわずもがな。当時はキスとかそういう性的なことにあまり魅力を感じていなかったのかもしれない、あるいはその彼女とはデートが僕の求める関係の上限で、それ以上を求めるつもりはなかったのかもしれない。今となっては当時の自分の気持は分からないけれど、クリスマスですら彼女から誘われないと出かけなかったのだから相当冷えていたのだろう。

 自分の酷い行いに嫌気が差す。本当に生きていてごめんなさいと、地に額を擦り付けで五体投地したい気分になる。こんな屑は生きている価値がないのです! 僕は女性の敵です! ろくな死に方をしないんだろうなあ、例えば心臓麻痺で自分でも知らないうちに死んでしまう、あるいは慣れない酒を飲んで気を失って頭を強く打ってそのまま死んでしまう、とか、あまりにもだらしない死に方。でもそれってなんかいいかもしれない、僕らしくないですか、何にも役に立たない、他人を不幸せにしてしまう僕にはぴったりでは? だらしなく死んだ僕は、ゴミ捨て場にだらしなく放置され、だらしなくゴミ処理場で焼かれるんですよ、火葬場なんて似合わない、ゴミと一緒の方が似合ってると思いませんか? ゴミと一緒に皮膚を糜爛させて、灰となるんです! 灰になれたら海に撒いてほしいなあ、海流とともに世界を旅したいなあ、というか墓って意味あるんですかね。僕には全く良さがわかんないんですよ、骨の上に夏になれば恐ろしく熱くなるギラギラに磨かれた石を乗せて、なんですか、鉄板ならぬ石板焼きでもするんですか、死者を弔うふりをしながらバーベキューパーティーですか、でもそれって一石二鳥かもしれない、故人を悼みながらもパーティーができるなんて、いっそのこと墓場をバーベキュー場に変えるのはどうでしょうか、いい考えだと思います。墓の存在意義が後世に自分の存在を後を刻むことだとしてもですよ、自分の名前を刻んだところで百年もすれば顔を覚えている人なんていないわけで、名前はただの識別記号と化し、そもそもの話、死んでしまったら当の本人は墓を見ることもできないわけで、自己満足にしたって無意味すぎやしないだろうか。本当に理解できないなあ、それに死んでまで名前を晒されるのって屈辱的だったりしませんか?

 こう思ってしまうのは僕が卑屈だからなのだろうか、まともではないからなのだろうか、でも墓なんかにこだわる姿がまともだとすれば、僕はまともでいたくはないなあ。屑として立派な星となって輝いていたいなあ、命を燃やして、消えていきたいなあ。

LINEとブロックと罪悪感と

 LINEにはどうしてツイッターで言うところのフォロー解除が無いのだろうか。同じように[ともだちをやめる]のボタンがあってはいけないのだろうか。例えば高校の時の部活の先輩や、ちょっと繋がる必要があって[ともだち]になった人などのもう繋がりが希薄になった、これから連絡を取ることがないであろう人との関係をブロックするのは忍びないし、かといって非表示にして水面下で繋がったままでいるというのもなんだか違和感がある。非表示にするくらいならブロックしてしまえばいいのに。

 ブロックするのは好きではない。ボタン一つで簡単に繋がりを断つ行為に忌避感がある。だがそれは対面せずとも簡単に繋がりを保てるようになった現代において、無用なトラブルを回避するには、あるいは面倒で複雑化した関係を正すという意味では必要なものなのだろう。僕はそもそも人とあまり関わろうとしない人であったから、関わってしまった/関わった人との繋がりは貴重でだからこそできるだけ大切にしたいと思う。今となっては凝り固まった価値観でしかないのかもしれないが。

 ブロックを多用することに引け目を感じるのは以上の理由だけではなく、僕がもしブロックをするようになったら、そしてブロックすることの快/不快に慣れてしまったらきっとブロックしまくる予感があるからというのもある。あまりにも容易に自閉できるなら、もし僕が他者がいることに嫌気が差して、煩わしくなり、衝動的にあらゆる関係を閉ざしかねない。そして自分の行為を後悔するまでが手に取るようにわかる。

 今日はふりーむで『贖罪と命』の公開を停止した。ツイートを消すように、衝動的に。もう既に若干後悔しているが、しかしどうせ誰もプレイしないだろうし、まだノベコレには残ってるのだし、そもそも再公開すればいいだけのことなのだからそう大きな出来事というわけでもあるまい。……最近どうも自分の破滅的な傾向が大きくなりつつあるように感じる。些細なことで鬱になって、気持ちの整理のつかなさを紛らわすようにわざと肉体を痛めつけ、ミミズ腫れした皮膚を見て気持ち悪いなあ、へへへ、と後悔しながら笑って、それでも依然と鬱な傾向は緩やかに加速し、惨めな気分となりながらツイートを消す。少しだけ何かが緩和されたような気がし、だがそんなものはただの錯覚だというのは分かりきっていて、それでも僕はただこの暗い泥沼から抜け出したいのだと、抜け出す方法も分からないまま藻掻いている。底なし沼は藻掻けば藻掻くだけ足を取られ、引きずり込まれる。ああ僕はどれほど沈んでしまっているのだろうか、この希死念慮はいつになったら消え去ってくれるのだろうか、トランキライザーだけが一瞬だけ救いをくれるが、それも結局まやかしでしかなく、加速した衝動はいずれ自分自身を破壊するまで収まらないのかもしれない。誰かの愛が欲しいのです、と叫んでみようか。どうか僕を助けてください、愛して下さい、愛させて下さい、僕は誰も傷つけたくないのです、ただ誰かを心から愛し、暖かくなりたいのです。実際に声を出そうとすると喉元にアイスピックを突きつけられたような感覚がし、固まってしまう。その冷徹な鋭さが内蔵を掻き乱すのを想像し、自分の死滅を望む自分と対峙するともう冷静ではいられない。僕はただ幸せになりたいのだ。苦しみたくはない、生きていたい、でも死にたいと思う自分もいて、どれだけ乖離してしまうのだろう、辛い、寂しい、冷たすぎるじゃないか、この乖離の中でしか僕は存在できないのだろうか、幸せでしたと胸を張って生きていたいのに、それを許されない罪なことだと僕は思う。僕はあまりにも人を傷つけて来ました、家族が壊れてしまったのも僕のせいなんです、僕はむやみに家出なんてするから裁判の費用も掛かって、家計を圧迫し、誰も幸せにはなれず、家族は離散し、祖父の死に目すら立ち会えない。やはり僕は人と関わると駄目なんだろうなあ、その人を不幸せにしてしまうんだろうなあ、いっそのこと誰か殺してくれやしないだろうか、でも僕を誰かが殺したらその人が罪に問われてしまうわけで、なれば僕は自殺するしかないのでしょうか、それとも生きていてもいいのでしょうか。

 暗いことを書き出して、気持ち悪いと思いつつそれを公開することに意味はあるのでしょうか、おそらくあると無意識で感じているからそうしているのだと思いますが、あまりにも虚しい行為に感じられてたまりません。こうして内面を吐露して、僕はまだ大丈夫だと無根拠に言い聞かせているけれど、愚かさはますます深みをまして、ドス黒い水溜りを作り出している。水面は黒すぎるあまり鏡じみたものとなり、僕の醜い心裡を反射し、それを見つめている僕は映るバケモノに顔を顰めて「気持ち悪い」とか「さっさと死ねよ」と言い、その声が自分に反射していることに絶望するんです。誰もが自分のことを嫌いになり、嫌悪し、排撃しようとする。そんな自意識過剰な思いがそうさせるのでしょうか。しかし一体いつから他人は自分のことが嫌いであり、それは自分が周りを不幸にしてしまうからという確信を抱くようになったのだろう。今までに僕は手ひどく裏切られ、あらゆる物事を憎んでしまうような経験をしたことが……そういえばあった、親に半強制的に留学させられ、里親の元へ送られた時。僕は見捨てられたのだと心から思った。そして一晩中泣き続けていた。当時のことがトラウマとなって僕にこんな無根拠な確信を抱かせるまでに至ったのかもしれない。でも、少なくとも今僕の周りにいてくれている人は僕のことを好いてくれているのだろうし、だから関係し続けてくれているはずで、僕だってこの好意を信じたい。でも信じれば信じるだけ罪悪感が生まれる。こんな僕に付き合ってくれていいのだろうか、そう思えて仕方がない。思えば高校の時に付き合っていた彼女と距離ができ、やがて冷え切ってしまったのも僕のその罪悪感からくる不器用さと、避けようとする気持ちが行為に現れていたからなのかもしれない。僕は根本的に恋人関係を作るのに向いていないのだろう。たった一度デートをしただけで何かが違うと思い、自分が幸せを感じていることに苦痛で仕方がなかった。彼女には本当に悪いことをしたと思う、歩み寄ってくれたというのに、その好意を裏切ってしまった。本当に後悔している。こんなところで懺悔したところで彼女を傷つけた事実は変わらないし、彼女も救われない。家族を壊してしまったあの時からまるで成長していない。

 友達が少ないのも傷つけてしまうのが怖いからなのだろう。どうしても人と接する時は壁を作ってしまい、相手に指摘されてから不器用に壁を崩し、やっと対等に話すことができる。そんな関係を築くのに時間がかかってしまうから、その前に友達未満のまま離れていく人も少なくない。そういった部分が反映されているのだろう、どうせ連絡をしないのだからと僕はLINEであまり[ともだち]を作らない。中学三年の頃からスマホを使っているけれど、現在のともだちの数は56、多いか少ないか比較していないのでわからないけれど、多分少ないと思う。

 唐突に誰彼構わず謝罪したい気分になる。LINEを開いて、数少ないともだちのトークの片っ端から浅はかな言動の数々や、考え方、そもそも自分が存在しているということ、傲慢にも生きて怠惰を貪っていることを書き連ねて懺悔したくなる。鬱な気分が緩やかに膨張していくのを感じ、愚かなことだとは思いつつもしかし僕はメモ帳にそんな送れない謝罪文を綴り、数時間後には消している。この文章もいつか消す時が来るかもしれないなあ、と思い、その時の僕は何に憂鬱になっているのだろうとわかるわけのない未来の自分に思いを巡らせるのだ。

弱さ

 自分が弱っていると感じる時、誰かに甘えたいと思う自分がいる。他人の言葉で、自分からは発せられないような別の言葉で神経を撫ででもらいたいと切に思う自分が。人と触れ合うことを避けて生活しているような僕だけれど、心の奥底では人との交流を希求しているんだろうなあ。だからといって僕は今までその寂しさを紛らわそうと他人に声を掛けたことがないわけで、ビビリな僕は寂しさを伝染させるんじゃないかと酷く恐れている。意図しないことで誰かを傷つけてしまうのではないかと常に不安だ。

 今までに僕はきっと多くの人を傷つけてきたのだろう。相手を損なおうと思っているわけではないのに、無自覚に言葉のナイフで刺してきたことだろう。永久に表が出ないコイントスをしているように、僕の行動は不都合な結果を伴っているかもしれない。誰かを愛そうと思い、誰かを憎もうと思い、誰かを無視しようとする、そのような心の動きがあるだけで、つまり感情が存在しているただそれだけのことで、増幅された波が無造作に周りを巻き込んでいく。傷つけ、傷つけられ、それが繰り返されて摩耗していく。もういいんじゃないか、こんな世界に固執しなくても誰も文句を言わないんじゃないか、あまりにも苦痛。あまりにも非人間的。とても僕にはこの世界に存在することを許容できやしない。早く僕は消えてしまいたい。落ちてしまいたい。死んでしまいたい。

 僕は今、弱っているのだろう。この弱さは僕は生来身につけていたものなのだろうか、あるいは外的な要因によって引き起こされた、僕に何も責任のない現象なのだろうか。しかしどちらにしても救いようがないじゃないか! 

 もしも今、誰かが僕に救いの手を差し伸べたとしても、僕はその手を振り払ってしまう確信がある。誰かの慈愛でさえ今の僕にとっては苦痛足り得る。人に優しくされたい、そう思っているはずなのに、それを拒絶してしまう自分がいる。甘い果実はその芳醇な薫りで虫や獣を誘引する。そんな果実もやがて熟れ、発酵し、アルコールを内側に湛えながら徐々に腐敗していく。美しかったものはその美しさを崩壊させながら消えていく。無情な世界に溶け込んでしまう。盛者必衰の理。いっとう輝かなものであるほど、その終焉は惨たらしく、それを想像してしまう僕は優しさの終わりに恐怖する。一時の悦楽のためにその先にある不可逆でグロテスクな光景を僕は見たくないのだ。僕は綺麗なものだけを見ていたい。しかし瘧を見ることに繋がるのならば、今いる普遍的な渺々たる砂漠の中で僕は死んでいきたい。オアシスを追い求め干からびて死んでいった亡霊になるよりも、熱に足を焼かれ、爛れた方が何百倍もマシだ。

 求める心と拒絶する心、無関心な自分、複雑に乖離した心の中で今日も生きていくしかないのだろうか。こんなに苦しいのならば、もういっそのことやめてしまおうか。そんなことを考える。こんな苦しさは誰もが(全く同じではないにしても)持っているはずだと僕は信じている。根拠のない信心だけが僕をまだ生きることに引きとどめてくれる。白雲母のようにフラジャイルでいともたやすく剥離される精神は、血を流しながらも幾層もかさぶたを形成する。僕はそれを鬱陶しいからと何度も剥がしてしまうけれど、そんな僕の行動に反抗するようにかさぶたは再生し続ける。僕はまだ生きなければならないのだろうか。こんなに生きづらいのなら生きている意味なんてないんじゃないのか。そもそも生きている意味とはあるのだろうか? セックスして子孫を残すことが生物としての生きる意義だとしたら、あまりにも虚しくはないだろうか。子供を残して、血脈を受け継いで、それがなんになる。もうたくさんだ。性ひとつとっても問題ばかりが取り沙汰されて、もういっぱいいっぱいなんだ。どうして人はいがみ合っているのだろう、どうして傷つけ合っているのだろう。肌の色、血の繋がり、身分、性別、そんな些細なことで罵り、嘲笑し、見下し、人間は地獄というのは本当のことなんだなあ。色があるかないか、どこに住んでいるのかいないのか、必要以上に過敏なって、不適だと判断するとまるで自己免疫疾患のようになんでもかんでも排撃しようとし、それが正しさだとするのなら、この世界に希望なんて見出せやしない。