万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

5月の言葉(日記的なやつ)

20220514, Sat

 TWININGSのレディグレイが好きだ。柑橘系の爽やかな香りが心地佳く、渋味の少ない味わいはバターをふんだんに使った焼き菓子に特に合う。家には常にティーバッグが常備されており、旅先にでも持っていくほどだ。今も京都のビジネスホテルの一室でこれを飲みながらキーボードを叩いている。

 思えば紅茶を愛飲するようになったのは割と最近のような気がする。少なくとも5年前は紅茶を飲むことはほとんど無くて、飲み物と言えばカルピスか水道水であった。紅茶も多少は飲んでいたが大抵はミルクティーで、ストレートで飲むことは珍しかった。今はもっぱらストレートを好むのだけれど、何の変化だろうね。昔は甘いものを酷く好んで摂取していて、だけど今は甘いものは好みだが量を摂ることが少なくなっていて、自分の好みが少しづつ移行していっているのかもしれない。

 最近はコーヒーに少しだけ興味を持ち始めた。というのも、『Coffee Talk』というゲームを先月プレイしたからで、読了の翌日にはカフェに行ってコーヒーを飲みに行った。何かにすぐ影響されてしまいます。コーヒーはただ苦いだけの飲み物で、何がそんなにおいしいのだろうと思っていたのだけれど、落ち着く香りで、(砂糖を少し入れたものの)口に広がる苦味は嫌なものではなかった。やはり嗜好は変化しているのだろうね、なんでもかんでも甘ければいいと思っていた自分が懐かしい。

 今日から気のままに日記を書くことにした。日記とは言いつつ毎日更新することは無いのだろうけれど、週に二度は更新するつもり。

 

20220515, Sun

 宇佐美りんの『かか』と村田沙耶香の『コンビニ人間』を購入した。出張先で本を買い、荷物を増やしてしまうのはどうかとも思うが、どちらも文庫本なのでまあ許容範囲であろう。にしても芥川賞受賞作を手に取ったのはいつ以来でしょう、金原ひとみの『蛇にピアスを』を四年ほど前(あるいはもっと前)に読んだ以来かな、僕は賞を取っているかや世間に評価されているかはどうでもいいのです、たまたま手に取った作品が何らかの受賞作であった、それだけなので。

 そろそろ電子書籍を検討してもいいのかな、と思いつつやはり紙の本が好きな僕は物理書籍を手に取ってしまう。漫画は少しづつ電子書籍に移行しているのだけれど(基本読み返さない&紙の劣化が早いので)、小説を画面上で読むのはまだまだ先のことになりそうです。けれどもそれでも、遠出した時用に電子書籍リーダーを買っておかなければなりません、先月は『東京の生活史』を旅行鞄に入れて持っていきましたが非常に後悔したので、いや、何度読み返しても佳い本なのですが、流石に外へ持っていく本ではありませんでした。1000頁超え、1.5キログラムの本は荷物です、家でゆっくり読みましょう。

 

20220516, Mon

 目の下のクマが酷くなっていることに最近気付く。このままではただでさえ目つきが悪いことで評判の人相が更に悪化するのではないかと少しだけ焦りを感じる。僕の憂鬱が顔にまで現れているのだろうか、だとすれば取り除く術はないかも知れない、どうしたって僕は鬱っぽく生きていて、この感覚に慣れてしまい、どこか心地よさも感じてしまっているから。気分が暗ければ暗いほどに、身体が重ければ重いほどに、頭痛が酷ければ酷いほどに、マゾスティックな快楽が脳の内側でチリチリと弾け、気怠さに酔いのような感覚を覚える。

 早寝早起きと健康的な生活(食生活は除く)を送っているというのに、僕の目の下は日に日に黒ずむ。あと五年もしたらパンダみたいになるのでは無かろうか。しかしパンダみたいであれば愛らしいかもしれないと思ったが、想像してみるとキモイな、目の周りが黒とかロックアーティストかよ、ヴィランかよ。いつかあまりにも黒く、大きくなったクマからはビームのようなものが発射されるんじゃないかとなぜか思う。ウルトラマン的なのを連想するからだろうか。それにしても目からビーム、じゃなくてクマからビーム、ウケる。自分のツボが自分でも分からないけれど、面白く感じる。愉快だなぁ。

 

20220519, Thu

 ふとした瞬間にもしもの幸せを夢想する。意識を飛ばし、あり得たかも知れない(あり得ないが理想の)自分を見、甘やかな感覚の痺れに陶酔し、現実との落差に絶望し、あなたの不在を知る。

 僕はあなたが沈黙していることを、あるいは存在しないことを知っている。知りながらも大いなる図形の前に跪き、頭を垂れ、届かない祈りをあなたに捧げる。僕は供物だ。

 存在しないあなたに呼びかける。もしも、声が聞き届けられてしまうのならば、それはあなたではない。僕の苦痛も、叫びも決して到達することはなく、暗い水の中へ消え、波の一部になるのだから。

 あなたのプレロマの残滓である僕ですが、あなたに帰依したいとは思いません。あなたは消えてしまっているから、僕は、自由だから。

 僕は自由ではありますが、弱い人間です。あなたが存在しないことを知りながら、あなたが存在することを否定しながら、それでもあなたの影を探してしまいます。卑しい人間です。あまりにも自由であるから恐ろしいのです。降りかかる感覚が恐ろしいのです。まるで僕は海に落とされた一つの水分子。拡散し、消えてしまう。

 

20220521, Sat

 嵐山から小倉山を登り、そのまま清滝、高雄へとハイキングコース歩み、高山寺まで行った。本来なら嵐山を観光して回るだけの予定であったのだが、どうして小倉山への山道を見つけてしまい、寄り道感覚で山頂まで行ってみればそのままホイホイと十キロ近くハイキングをしていた。独りだからこそ自由に旅程を決められるのでしょうが、帰りのことも考えずに行動してしまうのは僕の悪い癖。おかげでもう疲労困憊、くたくたです。

 途中小倉山から清滝へ行く途中、落合橋の手前にて川岸まで降り、岩に腰かけ、なんともなしに急流を眺めながら一時間弱ぼーっとしていた。後から調べてみればあそこらへんは心霊スポットらしいのですが、川を隔てて一方の岸にキャンプ用の椅子がぽつんと、人もいないのに置かれていました。もしかしたらそういうことですか? 僕はその先に行っていないのですが橋の先に暗い隧道がありました、保津峽へ行くか清滝へ行くかで迷い、結局その先へ行かなかったのはちょっと惜しいことをしました。心霊現象体験してしてみたかったのです(高山寺からここまで戻り、保津峽へ向かい、トロッコ列車に乗って帰るというルートも考えてはいたのですが右足首を捻挫してしまったので断念に)。

 

20220522, Sun

 アスタルテ書房にお邪魔してきた。前々から気になっていたのだけれど、京都を訪れる機会はなかったので(あっても滞在時間は限られていた)、念願叶った。アスタルテ書房は京都は三条のマンションの一室にまるで押し込められたかのように存在する古い書斎のような、妖しくも耽美な古本屋で、主に幻想文学や画集を取り扱っている。

 店内ではスリッパに履き替え、軋む床板を踏みしめながらゆっくりと古本たちを眺め、時に手に取り、甘美な空間を味わった。G.バタイユ澁澤龍彦三島由紀夫……彼らの本が特に記憶に残っている。

 気になっていたソレルスの『ドラマ』を購入して店を後にし、書房の雰囲気と本に出会うことの快楽とを反芻しながら帰路へ着いた。

 

20220525, Wed

 金属とガラスのような硬質なものとが擦れるざらついた音が嫌いだ。口の中もざらつく感覚がし、小時間その状態が続く。黒板を引っ掻くような高音はそれほど苦手ではない、音だけで他の嫌な感覚はしないから。音に付随するその他の感覚の受容、これは共感覚的なものなのだろうか、そう思って調べてみるとWikipedia共感覚のページに「音に触覚を感じる共感覚」という項目があった。特定の音や言葉に触覚を感じるそうだが、当てはまるのだろうか、よく分からない。他に音に対して別の感覚が伴う経験があっただろうかと思い出そうとするが、浮かばない。すると僕のこれは共感覚ではなくて、広く一般的な感覚なのかも知れない。

 しかし特定の言葉に色味を感じる(視覚的ではない)ことは昔からあり、例えば『カラマーゾフの兄弟』には緑色を感じ、自分の本名には濃い緑を感じ、神無月ミズハというPN/HNには深縹色を感じる。普通の感覚と思ってきたが、案外これは共感覚の一種なのかも知れない、しかし他人の感覚を共有することは不可能であるから、真相は分からない。

 そもそも誰にだって多少は共感覚的な経験があるのではないでしょうか?

 

20220528, Sat

 信仰というものは人を容易に幸福たらしめる。自分の存在を大きなものに委ねることで、降りかかる困難は試練として、日常に転がる小さな輝きは祝福として受容するようになる。しかし、そんなことで得た幸福にどれほどの価値があるのだろう。僕には信仰で得られるとされるあらゆるものが嘘臭く感じられてしまう。

 救いなんてないのだ。

 人の感情を信仰というスロットマシーンに流し込み、じゃらじゃらと吐き出されるきらびやかな幸福を浴び、快楽を感じて涎を流し、それって正常ですか?

 人生との向き合い方を改めた方がいい、信仰なんかで楽になってはいけません。騙されていますよ、それ。習いませんでしたか、おいしい話には飛びついてはいけないって。冷静になりましょう、その電話、詐欺かも知れません。

 一歩下がった場所から全体像を眺め直し、自分の感情を制御し、それは難しいことかも知れないけれど、よっぽど人間的です。

 

20220529, Sun

 十キロ程歩き通しであったから、のどが酷く渇いておりちょうど目に付いたカフェに入った。先客は白いワンピースを来た女性が一人、店主は見当たらなかった。おや、と思い辺りを見回すが居ない。困った、別の店にしようかと悩んでいると見兼ねた女性が奥にいますと示してくれた。謝意を示しつつ、店の奥を覗くと男の丸まった背中が見えた。どうやら彼が店主らしい。こんにちはと言葉を投げ掛けると返事、柔和な笑顔を浮かべた五十そこそこの男が出てくる。僕はなぜか驚く、そして死んだ祖父に雰囲気が似ていることに気付く。今ではもう顔も思い出せない祖父に。

 居心地の悪さを感じながらも、席に案内されてしまえば退店するわけにもいかないので、せっかくだからとポットでヌワラエリヤと(チーズケーキと迷いつつ)スコーンを頼む。お冷を一口で半分以上減らし、読みかけの本を取り出し、ゆっくりしようと思ったところでやけにBGMが大きいことが気になる。店主が飲み物を用意する音が掻き消えるほどに大きく、しかも一曲をループしているのか途中で妙に長い静寂が訪れる。気が散る。ヒーリングミュージックかどうかは知らないが、音量のせいで神経が苛立つ、休まらない。

 やってきた紅茶は美しい水色で、スコーンもクロテッドクリームにジャムが付いており、嬉しくなる。しかし紅茶を口元へ持っていったところで眉間に皺が寄る。紅茶の香りが、店内の強過ぎる精油の匂いで分からない。せっかくのヌワラエリヤが台無しだ。失敗したなと思う、最初に気が付くべきだったのだ、大き過ぎるBGMと強過ぎる精油の匂いに。

 僕は紅茶とスコーンを片づけ、早々と店を後にする。外の空気は開放的であった。