万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

憂鬱な言語と不在

 なんだか最近、気分が重い。いや、僕が気分の重くなかった時期なんて瞬間的なものを除けば無かったとは思うのだけれど、とりわけ最近は憂鬱だ。あらゆることに対して、意欲がない。三大欲求だってなんだか薄らいでいるような気がする。もしかしたら最近良く見る夢のせいかもしれない。夢とは、睡眠が浅いときに起こる現象だから、僕の睡眠が浅いのが原因なのだろうか。でもしっかり毎晩眠剤を飲んでいるし、毎朝起きてもすっきり……はしていないか。悪いときは寝汗をかいて、動悸がしている。僕は、焦っていたのだろう。夢の大抵は後味が悪いものだ。その細部は思い出せないのだけれど、幸福があって、その先に不幸があるそんな夢だ。一見すると幸せなはずなのに、夢の物語が進行するうちに、まるで泥濘にはまるように、不幸に足をとらわれる。そして、抜け出せなくて、さらに深みへとはまっていく。最後はどうしようもなく動けない状況で、終わりが唐突に訪れる。まるで、その先に待ち受ける顛末を見せることを躊躇うかのように。恥じているかのように。もしかしたらその先は自分の目で、現実で確かめろという意味なのかもしれない。夢だというのに、何か意志のようなものを感じる。この夢は僕の無意識から生まれた存在であるから、もしかしたら僕の意志が何か、僕に対して訴えているのかもしれない。だけど、僕はその訴えが分からない。

 僕の中に何かが足りないという感覚。周りの景色に何かが足りない感覚。僕はそういった「不在」の感覚を昔から感じてきた。居場所のなさ、というのもある種の「不在」の感覚に属するものなのだろう。最近友人らとカラオケに行った。最初こそ久々の遊びに浮かれていたのだけれど、カラオケルームで過ごす内に、孤独感を感じ始めていた。なぜ僕はこの場にいて、楽しくもないのに歌を歌い、他人の歌を聞いているのだろうか。そういった疑問が頭を擡げていた。楽しまなければならないという意識が僕を興奮させ、麻痺させていたから、浮かれているように錯覚していたのかもしれない。例え友人であったとしても、他者の脳にまで訪れることはできないのだから。畢竟、人間なんて孤独な存在ではある。だから孤独感を感じるのも仕方のないことではあるのだが。それなのに、孤独を悪とする風潮が、僕の周りには存在している。人は人と関わり合うことで、存在する。自己と他者の認識が絡み合い、交錯することで新たな認識が得られること、それは確かに一つの真理かもしれないけれど、自分の存在が自分の中で完結していること、それも一つの真理だ。僕は、僕を連れて生きていくことしかできないのだから。他者を完全に巻き込んで、一体化して生きていくことは不可能なのだから。

 鳥はその住処となる森から、基本的に離れることはない。渡り鳥だって、季節になれば、故郷の森へ帰ってくる。サケのような魚だって、母川回帰という習性を持っている。それは、世代を経ても変わらない本質的な、遺伝子に刻まれた本能なのだろう。だが悲しいかな、本能に従うがゆえに、環境の変化に翻弄されていく。森は、人間の手で伐採され、小さくなっていく。それでも鳥は森へ戻ってくる(に留まる)。川は、人間の手で堰き止められ、住めなくなっていく。それでも、魚は川へ戻ってくる。やがて、森や川がなくなったとしても、鳥や魚は「不在」へ回帰する。なにもないはずなのに、本能によって回帰させられる。そこでは繁殖すらできないというのに、本能はそこを指し示しているから、回帰せざるを得ない。本能が矛盾を引き起こす。種を絶やさぬことが根本的な行動原理であるはずなのに。僕たちはその姿を見て「哀れ」と思うだろうか。それとも「滑稽」だと思うだろうか。

 多かれ少なかれSNSに於いて、僕たちは乖離している。SNSで見える個人像はその人の乖離した人格の像であるから、現実のその人と全く同じとは限らない。もちろん、そういう一面を持っているのだろうが、それはネットの中をはじめとするの現実の自分を隠せる空間でなくては存在できない。だからこそ同じような現実には表出できない人格を持つ者同士惹かれ合う。現実世界では見つけることの叶わなかった同族がそこにいること、それはどれほど幸福なことなのだろうか。自分の存在の肯定。「不在」の消滅。SNSは「不在」の感覚を誤魔化してくれるものである。だが、僕はふとした瞬間に「不在」の感覚を得ることがある。それはきっと、画面の向こうの人が他者が僕とは遠い存在であると改めて認識してしまうからなのだろう。SNSの世界は広いように見えて、狭い。だけどその狭さも個人にとって、広漠としている。例えれば、砂丘。僕はSNSというあたり一面が砂に囲まれた地に立っていて、周りには集落がある。確かに集落一つ一つを見ていれば狭いのだろうが、砂丘全体を見回そうとすると、あまりの広さに目が回る。しかしその砂丘だって、大陸からすればほんの僅かな部分に過ぎない。

 たしか、シオランの『告白と呪詛』において「祖国とは国語だ」と述べられていた。僕は僅かばかりだが分析哲学に興味があり、その延長線上で彼の本に行き着いた。この「祖国とは国語だ」その意味を今一度咀嚼してみよう。残念ながら僕にはフランス語に関する教養がないので、独力で原文から改めてその意味を確かめることなんて芸当はできないのだけれど、今はグーグル翻訳という人類の英知があるのでそれを利用してみよう。原文の[on habite une langue]を翻訳してみると、「私たちは言語に住んでいます」となる。私たちは住むが祖国と対応していて、言語が国語と対応しているのは一目瞭然であろう。また、祖国と国語をフランス語にしてみると、前者は[Patrie]で、後者は[language nationale]となる。住む場所が祖国なのは「国語」という言葉に引っ張られたものだと仮定して、なぜ[une langue]は祖国と訳されたのだろうか。ここでシオランについて一つ知っておきたいことがある。彼はルーマニア出身の作家であるが、この『告白と呪詛』はフランス語で書かれている。それは何故だろうか。彼がフランス語を母語と呼ぶ程にフランス語に陶酔していたからであろうか? シオランはまた、『告白と呪詛』にてフランス語を称揚している一方で、フランス語を卑下している。これは一体? ……頭がこんがらがってきた。巧く、言語化できない。この続きはいつか。

 「不在」の感覚の中で僕は酩酊している。僕はこの不在を抱えた僕を疎ましく思っているのと同時に、気に入っている。これは僕なのだから、肯定しなくてはならないという強迫観念のようなものがないといえば嘘になるだろうが、僕は僕を抱えて離さない。生きることは酔うことだと思う。生に酔いしれるから、生きていられるのだと。もしも酔わずに完全に理性だけで生きていようとすれば、狂ってしまうだろう。