万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

桜が咲いていた、蜜柑も実っていた

 春休み中は基本的に家に引きこもっていたので、久々に家を出、五分咲きの桜並木を見て驚いた。いつの間にか季節は移り変わり、春となっている。比較的寒い日が続いていたからか、それともただ引きこもりのせいなのかまだ冬という認識が抜けきっていなかった僕は季節に取り残されたかのような感覚を抱いた。僕の目の前では五分咲きだというのに桜を写真に収めようと革のジャケットを羽織った若い男がスマホを空に掲げている。彼もこの日初めて桜が咲いている事に気が付いた同族なんだろうか。でも、写真を取るという行為を意識すると彼と僕とでは大きな差があるように思えた。

 もしもこの桜が満開の時、僕が木の下を通り抜けたらゴーゴーと音が聞こえ、気が狂ってしまうのではないだろうか。桜の木々の隙間に見える冷ややかな虚空に囚われてしまうのではないだろうか。

 桜を見上げ続けていると、そんなことを思ってしまい、少し怖くなった。桜は一瞬の輝きを放つなんていうけれど、そういう儚さが僕にとって怖いのかもしれない。輝いたあとには散り、側溝なんかに溜まって茶色に変色し、見るも無残な汚らしい桜の残骸が出来上がる。輝きのあとに待つのはただただ醜悪な未来しか無いのだろうか。僕たちはきっとそんな桜の残骸に目を留めることもなく通り過ぎる、あるいはその汚らしさに舌打ちをするんじゃないかなあ。美しさで楽しませてくれたことなんてすっかり忘れて、嫌悪するんだ。

 桜といえば大学の敷地内の桜も咲いていた。僕の住んでいる地域の桜とは異なり、空高くまで聳える、大きな桜だ。きっと敷地があるから必要以上に枝を切る必要がなく育つことが出来ているのだろう。街の桜は大きすぎると建物やその下を通る人に迷惑がかかるから、適度な大きさに保たれるよう切られているんだ。仕方のないことだとはいえ、少しだけ悲しくなる。木が切られることに悲しくなるのではなくて、切られなかった場合の壮大な虚構の桜並木を想像し、その姿を見ることが出来ないことに悲しくなるんだ。

 はらりと散る一枚の薄桃色の花びら。くるりくるりと空を踊る様を眼で追って、なんとなく春の感傷に浸る。風で髪が僅かにそよぎ、煩わしく思っていれば桜の花びらのことなんて忘れてしまい、気が付いたらどれが眼で追っていた花びらなのか分からなくなってしまった。きっと春という季節はそういうものなんだという気がし、それは春が出会いと別れの季節であるということと密接に関係しているのではないかと思った。なんの根拠もない思考の断片。

 そういえば近所の蜜柑の木ではたわわに実った橙色の実が朝日に照らされて黄色く輝いていた。あの蜜柑は酸っぱいのだろうか、それとも甘いのだろうか。僕はなんとなく酸っぱい蜜柑のほうが食べたいと思った。冬は甘い蜜柑のほうが良いけれど、春みたいな温かい時には酸っぱいものが食べたくなるんだ。

 蜜柑の黄色と桜の桃色。その色彩の間に僕はなんとなく春の始まりと終わりを感じた。