万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

熟れた梅から漂う甘い香りは人を狂わせる

 冷たい夜風が肌を撫でる、仄かに甘い刺激が肌に残った。つい数日前はストロベリームーンだったらしいが今日の月はいつもと変わらない、紗のかかった白い光を発している。顔を少し上げながら暗い道路を歩いていると、不意に梅の甘い香りが鼻先を掠めた。もう季節は6月、異称は水無月。梅雨です。水無月の由来は諸説あって、田に水を引く時期だからとか、水が枯れるほど雨を降らす時期だからなんてのがある。僕は水無月といえばアマツツミの水無月ほたるが思い浮かんでしまうわけですが、まあエロゲーマーの業というやつなのでしょう。アマツツミほど感動したゲームはなかったので今でもED曲を聞くと感慨に浸ってしまう。『コトダマ紬ぐ未来』は卑怯な曲だ、否が応でも胸が締め付けられる。

 僕は梅雨は嫌いだ。シャツは肌に纏わりつくし、靴の中に水が溜まるしでいいことがないじゃないか。幼い頃は公園に溜まった大きな水溜りで一々喜んでいたけれど、今となってしまえば雨の多く降る梅雨は交通機関を頻繁に麻痺させるので全く喜べない、遅刻してしまうじゃないか。それにもう水溜りで遊ぶ年齢でもない。いつから僕は大人になってしまったのだろう、水溜りに心馳せなくなってしまったのだろう。泥で濁った水面をつつつと滑るアメンボ、それを捕まえようとして躍起になり、捕まえたはいいものの力加減を誤り潰してしまったあの若き日。遠い、遠すぎる。そういえばあの頃の僕の名前には「梅」という単語が入っていたっけ。どうも僕は旧姓に縛られているのか梅という言葉に敏感だ。だからだろうか、梅という単語はあまり好きではない。最初に連想するのが梅毒で、次に連想するのはやはり旧姓。でも梅の匂いは好きだ。甘くて、ああ梅雨なんだなあ、と思わせてくれる。梅干しは嫌いだけれどね。幕の内弁当とかに梅干しが入っているけれど、僕は必ず避けるし、なんなら梅干しの置いてあった白米が赤く変色している部分だってできることなら食べたくない。もったいないから食べるけれど。梅はもったいなくないのかって? あれはパセリみたいなものだよ、彩りだけの存在だから食べなくても良いんだ。僕は間違ってない。……食べ物の好き嫌いはかなり多い、子供の頃は嫌いなものは無理して食べていたけれど、この歳になると嫌いなものを食べなくなる。嫌いなものが子供の頃からほぼ変化してないのは僕がまだ子供だからだろうか、まあどうでもいいけれど。子供舌だということはよく指摘される、苦い、辛い、酸っぱい、みたいな刺激的なものを好まないからだ。嫌いな食べ物なら僕はねばねばとしたもの、例えばオクラや納豆、もずくなんかは嫌い。他にいくらやうにも嫌い、いくらとかみかんに醤油を掛けたやつだし、うにはプリンに醤油をかけたやつじゃん。だから北海道に旅行に行ったとしても僕はグルメに舌鼓を打てなそうだ。残念な舌だと思うよ、ほんと。でもムリなものはムリなのです。蟹なんかも食べるのが面倒だから好き好んで食べたいとは思わないし、寒いのは苦手だしこりゃあ北海道に向いてないのは確実だと思います。でも雪まつりを生で一度でいいから見てみたいとは思う。雪は好きだ、降るたびにワクワクする(もちろん交通機関の麻痺やこれから行うであろう雪掻きには辟易としているけれど)、でも子供の頃ほど新鮮な感情は得られていないように思う。渇いているのだ。欲望をいくら満たそうとしても充たされない、満ち足りない。まるで砂漠の真ん中にいるような、風邪を引いている時のような、水を飲んでも飲んでものどが渇いて仕方がない感じ、水分は充分に摂っているというのに一向に潤わない。欲望というものはきっと満ち足りることはないのだと思う、満たしてもほんの一瞬の満足感を得、そしてより高い快感を求める、際限なく求め続ける、人間とはそういう生き物なのだと思う、傲慢なんだ、傲慢だからこれほど文化が発展していると言えるのかもしれないけれど、僕は欠陥にしか思えない、リコールしたくても出来ない。

 最近は何も出来ていないように感じる、それはもとから僕の感情が割と平坦だからなのかもしれないけれど、でも喪失感ばかりを感じている。なんだか毎日自分の大切な部分を少しづつ喪っているような気がする。核のような部分が風化し、削られている。でも僕にはそれを止める手段が思い浮かばない、ただ削られていくだけ。そういえば最近大学でした「心の健康調査」とかいうアンケートに引っかかったのか呼び出しを食らった、呼び出しには応じてないけれど、そうやって僕をまるで心が病んでいるように言われると落ち込んでしまう。僕の心は、まだ、健康なはずだ。取り返しの付かないところまでは落ち込んでいないと自分では思う、これでも僕はある程度自分の精神衛生を制御している、常に憂鬱だけれど、完全に落ちることはないように調節している。まあ主に本を読むことによってそうしている、ショーペンハウエルの『幸福論』とかサルトルを読むと憂鬱が和らぐんだ。他にも自分に未完成な精神分析を施している、こうしてブログを書いているのも多分僕の精神衛生を保つ上で重要なことなのだろう、思い浮かんだ言葉をそのまま書き出している。意味のない言葉の羅列かもしれないけれど、改めて読んでみると僕がなにを考えているのかがわかるんだ、その情報を基に僕は自分の心のベクトルを少しだけずらす。

 あの優しかった子供の頃の情景は今ではもう吐き気しか催さない、梅を見るとむせ返るような過去の記憶が流れてくる、最悪だ。思い出したくないというのに、勝手に脳が思い出してくる。生き物を殺したこと、ガラスを割ったこと、孤立していじめられたこと……僕の失態を晒してくる。おかしいだろ、どうして幸せな記憶を思い出さないのだ、どうして辛いことばかり思い出すのだ、狂っている。自分を壊そうとしているようにしか思えない。でも幸せだった記憶でさえ僕の中ではもう嫌な思い出にカテゴライズされているからどうしようもないのだが。過去と向き合って平気な顔をしていられる人が信じられない、僕は全然だめだ。君たちはおかしいよ、過去をそうやって後生大事に抱えていられるなんて、狂っている。きっと梅の香りに惑わされているのだ、甘い匂いというのは毒だよ、本当にどうかしてるって。僕がおかしいのか? 狂っているのか、いや、全ては梅の悪いんだ。匂いは好きだよ、でも駄目なんだ、毒だから悪いものを運んでくる。

 そもそも梅雨という季節自体が駄目だよね、ジメジメしているのが悪いのだ、ジメジメしているから心まで腐っていく。梅雨は、嫌いだ。熟れた梅の薫りはもっと嫌いだ。