万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

自己肯定感が低いのは分かっている

 ここ一週間のブログのアクセス数が多くて驚いている、というか少しだけびびっている。更新した日でもないのに一日で100を超えた日もあったし、更新した日を除けば一日10もアクセスがあれば異常な僕のブログなのに、この一週間は当たり前のように10を超えている。何があったのだろうか。少しだけ、怖い。なんというか僕の内面を多くの人に見られている気がして。それなら書くなよ、という話なのだけれど、書くことによって精神衛生を保っている部分も少なからずある僕にとって止めるというのは無理な話だ。こうしてブログのアクセス数が多いことを不安に思って記事を書いているように。アクセス解析を覗いてみれば、ツイッターからのブログトップへのアクセスが多いみたい。この前までは『真昼の暗黒』の感想がトップだった。僕がブログのURLを載せているのはプロフィールのところなので、そこからアクセスしているのだろう、それにしたってどうしてアクセスするのだろうか。意味が、分からない。僕のツイッターのフォロワーは3桁に満たないし、僕のツイートが話題になったわけでもない。それに僕は名前を絵文字にしているから検索にもなかなか引っかからないだろう。あとハッシュタグも滅多に使わない。一体誰が見ているのか。

 最近起こった出来事といえばノベコレの開催だと思うのだけれど、僕が投稿した感想の解析を見てみても、プロフィールのクリック数は多くて3なのでそこからきているわけではなさそうだ。ではどこから? 本当に訳が分からない。拙作の感想、あるいは作者へのリンクを辿って来ているのかもしれない。というかそれ以外に考えられない。例えば僕の作品をプレイして、「うわ、気持ち悪い文章だ。こんなのを書く作者なんてきっと内面が複雑に歪んでいる」と考え、見世物小屋にいる珍奇な生物を見るように、僕のツイッターへ飛んできているのかもしれない、そこで貼ってあったブログへのリンクを踏んでいるのだろうか。作者の内面を見て冷やかそうと考えながら。あるいはブログになにか感想のようなものがあるのではないかと考え、見に来ている人もいるかも知れない。しかし残念だったな、僕は殆ど感想を書かない。ブログで書くような長い感想なんてのは本当に心を動かされた作品にしか書かない。別に今までツイートで済ませていた作品には感動してないと言っているわけではないが。そもそも感想を書くのって本当にエネルギーを費やすのよね、僕は省エネ主義の人間であるから、基本的に感想を書かない。プレイして、唸った作品でも感想を書いていないものなんていくらでもある。本当に。

 タイトルを考えるために書いた文章を眺めていると、自己肯定感が低いと感じる。まあ、そうですけど。自己肯定感を高めるために自己啓発本でも読みましょうか。僕は読みませんが。

 

 今書いている新作は拙作の一応続編? 外伝か。に位置する作品なのだけれど、書くにあたって過去作をプレイしなければならないのではないかと思い始めた。あの主人公捻くれすぎてて少し嫌悪感を抱いてしまうし(同族嫌悪なのかもしれない)、そもそも自分の文章を見返すのは好きではないから乗り気ではないのだけれど、しなければ繋がりを描けないからなあ。若干諦観しつつ僕は今日も執筆をします。今月中にどこまでいけるだろうか、本当なら今月中にシナリオを完成させるつもりなのだけれど、なんだか完成するビジョンが見えない。まあ僕が忙しさにかまけて頑張らなかったからなのだけれど。先の見えない執筆作業はまあ当然のように苦痛なのだが、拙作の主人公が言うように時には苦痛をも愛するのが人間というものです、作業を愛しながら頑張りたいと思います。いや、無理だろ。愛するってなんだよ、僕には分からない。今書いている作品で愛とはなにか問うているけれど、未だに結論は思い浮かばない。執筆という思索を通して結論を見つけれればいいのだけれど。

 

 タイトルの話を少し書き足そうかと思って、さて何を書けば良いのだろう。自己肯定感が低いのは自分での重々承知していることだ。というか自己肯定感が高ければ今頃院に行く選択の上に立っているのではなく、就職するという選択に立っていたことだろう。なにがエントリーシートだ、何が自己分析だ。僕の内面をそのまま書いたESを出したところで取りたいと思う企業があるのだろうか。というか、誰にだって倒錯的な部分はあるはずで、隠して生きているとは思うのだけれど、一体ESでそれを隠して自分の何が表現できるのだというのだろうか。企業が取りたいのは虚偽の仮面で笑みを繕う人材だけなのだろうか。意味はあるのか。