万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

予定は予定。達成できないことがほとんどで……

 本来ならば今月中に新作のシナリオを書き上げたかったのだけれど、どうもそうはいかないようである。というか自分でもシナリオがどの程度の長さになるのか分かっていないのだからいつまでかかるかは未定なのである。もう前作の5万字を超えた、おかしい、外伝の方が長くなっている。せめて10万字には収めたいところなんだけれど、いかんせんプロットがないのでどのようなイベントが在り、どの程度の長さになるかは全く掴めていないのでこの体たらくに陥っているわけで、本当に予定を完遂する能力がないなあ、と痛感している。一応日に3千字掛けば一月で約10万字いくから期間的にはいけるだろうと、高をくくっていた。僕の悪い癖だ、できもしないのに大きな目標を立ててしまうこと。幸いまだコミケまで二ヶ月以上あるし、なんとかなるだろうと思っている自分がいる、駄目だよ、僕、そんな考えではいつまで経ってもシナリオが完成しないじゃないか。え? コミケに落ちる可能性もあるのだから多少は気楽にしろよって。いや、駄目だろ、もしも受かってたらどうするんだ。自分の首を自分で締める結果になるんだよ。それもそうか、ごめん。

 今書いているシナリオが面白いのかどうか分からなくて、筆がなかなか進まない、いつもこうだ、自分に自信がないのもあるけれど、基本的に自分を疑う人間だから。悪い癖なのは分かっている。だけど、もうこれは稟性としか言いようがなく、直しようが無いんじゃないかなあ。人と関われば僕も変われるのだろうか、なんてことを思わないでもないけれど、いや、人と関わるのが苦手な時点で色々と終わっている。というか女性視点の話だから難しく考えているのもあると思うし、少なからず期待されていることを思うと萎縮してしまっている僕がいる。自分を肯定できない人間だから他人からの肯定を素直に受け止めることが出来ないんだ、だからこんなブログ(文章)を書いてしまう。書いても意味のないことだとは分かっているというのに、書いたところで何か与える/与えられるわけでもないのに。後ろ向きな部分はせめてブログだけにしようと、いや、日常生活でもそうなんですけどね、ツイッターくらい少しは前向きでいようと思いながら、暗い自分をここに書き出しているのであってですね。誰に言い訳しているんだろう、僕は、他者を想定しているわけじゃないのに、やはり自分に言い訳しているのだろうか。無残だ、笑えない。

 ところで先日横浜美術館に行ってきた。オランジュリー美術館コレクションを見るためだ。僕はルノワールが好きだったし、スーティンも好きだったので行くしか無いということで行ってきた。それと、運良く優待券を貰ったのもある。ちょうど今書いている新作のシナリオでも絵画のことが出てくるので、ちょうどいい機会だとも思った。特にルノワールの描く幸福で生命感の溢れる絵なんて実物を見ない限りその偉大さが分からないのだから。ルノワールの噎せ返るほど圧倒的な幸福な風景は見ていてくらくらした、なんだか僕には合わないような、でも好きなのは変わらない、バロックあたりも古典主義あたりも好きではあるけれど、やはり一番は印象派だと思う。単純に綺麗だと感じられるのが大きいのだろう、僕みたいな美術初心者にとっては、特にそうだと思う。モネの絵も良かった。でもスーティンの絵が見ていて一番落ち着いた。彼の描く鮮烈で歪んだ風景や、動物の死骸はなんだか僕と波長があっているように思う。こんなことを書くと僕がまるで暗い人間だと思われてしまうかもしれない(合っているのだけれど)、でも好きなのだから仕方がないじゃないか。

 そういえば絵の説明のところどころでアポリネールの名前が出ていたのを思い出した。また読んでみるのも良いかもしれない、詩は、心の、特に感性の部分に適応した栄養だと思う。最近またボードレールを読んだけれど、偉大な詩人というのをひしひしと感じさせられた、言葉が美しいのもあるけれど、言葉の鋭利さがなによりも魅力的だった。人の暗い部分を美しく切り取るメスのような……

 来週辺りに神保町のブックフェスティバルに行きたいと思っているけれど、そんな体力あるかなあ。予定は予定、達成できるかは未定だ。