万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

内臓の収縮と[amare amabam]

 内臓の熱い収縮のせいで息ができなかった。布団をかぶっていたから、吸う息、吐く息どれも熱く、地獄のようだった。でも外の青い空気を吸っても気分は紛れないのだから、むしろ乾燥しているので辛くなった。

 風邪を引いた。引いていた。火曜の午後から少し喉が痛いなあと感じ、この痛みは恐らく風邪の前兆だろうなあと思っていたのだけれど、案の定翌日に風邪を引いて寝込んだ。つい2ヶ月前にも風邪で苦しめられたばかりだというのにも関わらず、どうして僕は風邪を引きやすいのだろうか、元々の免疫力がないのかもしれない、幼い頃から僕は比較的病気になりやすかったから。あるいは健康的な生活を送っていないからだろうか、自分でも寝不足だったり、急激な気温の変化に対応する服装をしないことが多いのは分かっている。それにしても2ヶ月に一回ペースで風邪は多過ぎるのではないかしらん? 

 風邪を引いている時に辛いのはなにも熱や頭痛、喉の痛みだけではない。むしろ寝すぎて起こる腰の痛みが僕にとって途轍もなく辛いことだ。寝たいのに、痛みが寝かしてくれない。僕のベットは少し硬いからなのかもしれない、もしも一人暮らしをすることになったらベッドは柔らかいものを買いたいと思う。

 

 そういえばコミケに受かったのだった。四日目南ヤ-31bで頒布することになる。完全に後に引けなくなった。まだシナリオは半分ちょっとしか完成していないはず(はず、と言葉を濁すのはシナリオの長さが不透明だからだ)で、そろそろ急がなければ間に合わなくなってしまう。それなのに風邪を引いてすっかりやる気が消え去ってしまった。だが僕は頑張らなければならない。頑張らなければならないはずなのに、こうしてブログを書いていたり、ゲームに逃避したり(あ、デススト発売されましたね。早速何時間かプレイしました)している。死にたい。自分がないんだよ、僕にはね、これこれしたいって欲望はあって、そのために少しは手を出すのだけれど、完全に自分を没入させることができない。凄いことだと思う、何かになれる人というのは。僕にはなにもないから。なにもないから、なにもないなりに、なにかを作ろうとしているけれど、それでなにかが自分の中に出来るわけではなく、ああ、これって僕の自己肯定感が酷く低いからなのかもしれない、でも仕方のないことじゃないか、僕の性格は昔からこうだったのだから、小学生の、いやもっと小さな幼稚園児の頃からこうだった、だから友達もできなかったし、いじめられたのだ。人は弱い生き物に目をつけては、傷付け、自分の満たされない部分を相手の血で満たす。何者にもなれない、といえば思い出すのは『輪るピングドラム』、「さようなら。何者にもなれなかった私」ってセリフ。まあどうでもいい。

 シナリオを書くための参考に僕は最近キリスト教関連のものを読んでいる。聖書だとか、トマス・アクィナスとか、そのせいで思考が少し引っ張られている。神のことはあいも変わらず信じてはいないけれど、自分を損なってでも何かに尽くしたいという歪な考えに支配されてきている。仏教関連の本を読んで蚊を殺せなくなったことを思い出す、僕は本に影響されやすい。悪いことでは無いと思うのだけれど、しかしこうも意志が弱くてはそのうち大きな間違いをしでかすのではないだろうか、なんて考えてしまう。

 アウグスティヌスの『告白』に好きなフレーズがある[amare amabam]これはラテン語なのだけれど、日本語で[amare]は「愛する」で、[amabam]は[amare]の未完了時制の一人称単数なので「私は愛していた」となり、[amare amabam]は「私は愛することを愛していた」となる。本当はもう少し長いフレーズ[nondum amabam, et amare amabam](nondumは「まだ」という意味」)だがまあその部分は割愛してもよろしいだろう。この「愛することを愛していた」は恐らく新作の主人公、谷口佳奈の思想の核になると思う。なっている。でも僕のこのフレーズへの理解が不完全だから歪な解釈になっているのではないかと怯えながら執筆をしている。風邪で遅れた分(風邪は言い訳でしかない)を取り戻すために執筆に戻ろうと思う。