万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

憂鬱な寄る辺

 今日はとても嬉しい情報があった、だから僕の心は躍っているはずなのに、なぜか憂鬱だ。でもこの暗くて冷たい気分は少しだけ落ち着く。だが良くない兆候な気もする、でもなんだかどうでも良いような気もする、僕は今、抑鬱気味なのだろう、気分が晴れない。その嬉しい情報には一時とても興奮したのだけれど、なぜか抑圧されてしまった。ああ、本当ならあの晴れやかな気分でいたいのに、僕は暗い気分になっている。

 切っ掛けは無い、無いけど憂鬱だから困っている。いや、困っていはいないか、いつものことだし。でもこの気分のままだと作業に支障をきたすので、最低限動ける程度にはなりたい。今はこうして文章を書いては消してを繰り返して、暗い瞳で薄く笑みを浮かべるしか出来ないのだけれど、やるべきことがあるのだ。新作のスチルを描く。でも気が進まない。元々絵を描くのにはとてもエネルギーを使うから好きじゃないんだ、だから月に一回絵を描けば良い方で……ああ文章を書くのも疲れてしまった。

 今日は色々なことが続かない。

 もう何日前のことかは忘れてしまったのだけれど、ブログの感想記事以外の記事を消した。正確には下書きに戻しただけなのでデータはまだ残っているが、今の所再掲するつもりはないので実質記事は削除されました。まあそれで困る人はいないと思うのでどうでもいいことだけど。

 僕にとってブログは憂鬱な寄る辺だ。憂鬱な気分だからブログを書くのか、あるいはブログを書くから憂鬱になるのかは分からない、だけれどブログを書いている時はいつも気分が滅入っている。漠然と死にたいなあ、って考えている時は寝るか文章を書いているような気がする、下書きにはいくつもの記事になりそこねた文章の羅列が眠っているし、エバーノートやメモにもそのような未完の言葉が眠っている。でも僕は掘り起こすつもりがない、掘り起こしたところでその言葉たちはきっと腐敗している。僕から遠く離れてしまった言葉だから。昔は僕と一致していたのかもしれない、だけど今の僕にとって昔の言葉は遠いものなんだ。眺めて改めて自分を俯瞰する切っ掛けにはなるだろう、僕も前に自分の昔のブログを読んで驚いたこともある……

 やっぱり今は文章が続かない、色々な言葉が去来して思考を乱す、多分僕は焦っている、多分というのは判然としないからそう形容しているだけで、ちょっと遠くから自分を見てみれば焦らないわけがない。例えば冬コミだったり、卒論だったり、他にも色々あるけれど。

 冬コミといえば、そう、新作を出します。拙作『贖罪と命』の外伝的作品『慈愛と祈り』。佳い作品になっているかは分からない、だけどシナリオは結構頑張って書いたので佳い作品になっていると良いなあ、って思う。自分で読み返しても良さは正直分からない、まるで自分の自慰動画を見せつけられているようでまともに読めたものじゃないから。自分で陰鬱な作品と称したけれど、正直なところそれほど暗くはないのではないか、と思い始めている。でも前作がそんなに暗くないよなあ、と思っていた部分があるので多分僕の認識が歪んでいるのだと思います、新作は恐らく暗い作品です。

 僕の作品を好きと言ってくれる人がいるのは素直に嬉しい、嬉しいけれども僕の作品を好きな人がいる世界であることはあまり嬉しいことではないと思う。自意識過剰か。

 新作は今の所DL版を出すつもりはないのだけれど、もしも焼いた分が捌けて、しかも要望があれば出すかもしれない。

 

 冬コミは四日目ヤ-31bで待ってます。当日来られる人がおりましたらどうぞよろしくお願いします。