万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

弱さ

 自分が弱っていると感じる時、誰かに甘えたいと思う自分がいる。他人の言葉で、自分からは発せられないような別の言葉で神経を撫ででもらいたいと切に思う自分が。人と触れ合うことを避けて生活しているような僕だけれど、心の奥底では人との交流を希求しているんだろうなあ。だからといって僕は今までその寂しさを紛らわそうと他人に声を掛けたことがないわけで、ビビリな僕は寂しさを伝染させるんじゃないかと酷く恐れている。意図しないことで誰かを傷つけてしまうのではないかと常に不安だ。

 今までに僕はきっと多くの人を傷つけてきたのだろう。相手を損なおうと思っているわけではないのに、無自覚に言葉のナイフで刺してきたことだろう。永久に表が出ないコイントスをしているように、僕の行動は不都合な結果を伴っているかもしれない。誰かを愛そうと思い、誰かを憎もうと思い、誰かを無視しようとする、そのような心の動きがあるだけで、つまり感情が存在しているただそれだけのことで、増幅された波が無造作に周りを巻き込んでいく。傷つけ、傷つけられ、それが繰り返されて摩耗していく。もういいんじゃないか、こんな世界に固執しなくても誰も文句を言わないんじゃないか、あまりにも苦痛。あまりにも非人間的。とても僕にはこの世界に存在することを許容できやしない。早く僕は消えてしまいたい。落ちてしまいたい。死んでしまいたい。

 僕は今、弱っているのだろう。この弱さは僕は生来身につけていたものなのだろうか、あるいは外的な要因によって引き起こされた、僕に何も責任のない現象なのだろうか。しかしどちらにしても救いようがないじゃないか! 

 もしも今、誰かが僕に救いの手を差し伸べたとしても、僕はその手を振り払ってしまう確信がある。誰かの慈愛でさえ今の僕にとっては苦痛足り得る。人に優しくされたい、そう思っているはずなのに、それを拒絶してしまう自分がいる。甘い果実はその芳醇な薫りで虫や獣を誘引する。そんな果実もやがて熟れ、発酵し、アルコールを内側に湛えながら徐々に腐敗していく。美しかったものはその美しさを崩壊させながら消えていく。無情な世界に溶け込んでしまう。盛者必衰の理。いっとう輝かなものであるほど、その終焉は惨たらしく、それを想像してしまう僕は優しさの終わりに恐怖する。一時の悦楽のためにその先にある不可逆でグロテスクな光景を僕は見たくないのだ。僕は綺麗なものだけを見ていたい。しかし瘧を見ることに繋がるのならば、今いる普遍的な渺々たる砂漠の中で僕は死んでいきたい。オアシスを追い求め干からびて死んでいった亡霊になるよりも、熱に足を焼かれ、爛れた方が何百倍もマシだ。

 求める心と拒絶する心、無関心な自分、複雑に乖離した心の中で今日も生きていくしかないのだろうか。こんなに苦しいのならば、もういっそのことやめてしまおうか。そんなことを考える。こんな苦しさは誰もが(全く同じではないにしても)持っているはずだと僕は信じている。根拠のない信心だけが僕をまだ生きることに引きとどめてくれる。白雲母のようにフラジャイルでいともたやすく剥離される精神は、血を流しながらも幾層もかさぶたを形成する。僕はそれを鬱陶しいからと何度も剥がしてしまうけれど、そんな僕の行動に反抗するようにかさぶたは再生し続ける。僕はまだ生きなければならないのだろうか。こんなに生きづらいのなら生きている意味なんてないんじゃないのか。そもそも生きている意味とはあるのだろうか? セックスして子孫を残すことが生物としての生きる意義だとしたら、あまりにも虚しくはないだろうか。子供を残して、血脈を受け継いで、それがなんになる。もうたくさんだ。性ひとつとっても問題ばかりが取り沙汰されて、もういっぱいいっぱいなんだ。どうして人はいがみ合っているのだろう、どうして傷つけ合っているのだろう。肌の色、血の繋がり、身分、性別、そんな些細なことで罵り、嘲笑し、見下し、人間は地獄というのは本当のことなんだなあ。色があるかないか、どこに住んでいるのかいないのか、必要以上に過敏なって、不適だと判断するとまるで自己免疫疾患のようになんでもかんでも排撃しようとし、それが正しさだとするのなら、この世界に希望なんて見出せやしない。