万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

LINEとブロックと罪悪感と

 LINEにはどうしてツイッターで言うところのフォロー解除が無いのだろうか。同じように[ともだちをやめる]のボタンがあってはいけないのだろうか。例えば高校の時の部活の先輩や、ちょっと繋がる必要があって[ともだち]になった人などのもう繋がりが希薄になった、これから連絡を取ることがないであろう人との関係をブロックするのは忍びないし、かといって非表示にして水面下で繋がったままでいるというのもなんだか違和感がある。非表示にするくらいならブロックしてしまえばいいのに。

 ブロックするのは好きではない。ボタン一つで簡単に繋がりを断つ行為に忌避感がある。だがそれは対面せずとも簡単に繋がりを保てるようになった現代において、無用なトラブルを回避するには、あるいは面倒で複雑化した関係を正すという意味では必要なものなのだろう。僕はそもそも人とあまり関わろうとしない人であったから、関わってしまった/関わった人との繋がりは貴重でだからこそできるだけ大切にしたいと思う。今となっては凝り固まった価値観でしかないのかもしれないが。

 ブロックを多用することに引け目を感じるのは以上の理由だけではなく、僕がもしブロックをするようになったら、そしてブロックすることの快/不快に慣れてしまったらきっとブロックしまくる予感があるからというのもある。あまりにも容易に自閉できるなら、もし僕が他者がいることに嫌気が差して、煩わしくなり、衝動的にあらゆる関係を閉ざしかねない。そして自分の行為を後悔するまでが手に取るようにわかる。

 今日はふりーむで『贖罪と命』の公開を停止した。ツイートを消すように、衝動的に。もう既に若干後悔しているが、しかしどうせ誰もプレイしないだろうし、まだノベコレには残ってるのだし、そもそも再公開すればいいだけのことなのだからそう大きな出来事というわけでもあるまい。……最近どうも自分の破滅的な傾向が大きくなりつつあるように感じる。些細なことで鬱になって、気持ちの整理のつかなさを紛らわすようにわざと肉体を痛めつけ、ミミズ腫れした皮膚を見て気持ち悪いなあ、へへへ、と後悔しながら笑って、それでも依然と鬱な傾向は緩やかに加速し、惨めな気分となりながらツイートを消す。少しだけ何かが緩和されたような気がし、だがそんなものはただの錯覚だというのは分かりきっていて、それでも僕はただこの暗い泥沼から抜け出したいのだと、抜け出す方法も分からないまま藻掻いている。底なし沼は藻掻けば藻掻くだけ足を取られ、引きずり込まれる。ああ僕はどれほど沈んでしまっているのだろうか、この希死念慮はいつになったら消え去ってくれるのだろうか、トランキライザーだけが一瞬だけ救いをくれるが、それも結局まやかしでしかなく、加速した衝動はいずれ自分自身を破壊するまで収まらないのかもしれない。誰かの愛が欲しいのです、と叫んでみようか。どうか僕を助けてください、愛して下さい、愛させて下さい、僕は誰も傷つけたくないのです、ただ誰かを心から愛し、暖かくなりたいのです。実際に声を出そうとすると喉元にアイスピックを突きつけられたような感覚がし、固まってしまう。その冷徹な鋭さが内蔵を掻き乱すのを想像し、自分の死滅を望む自分と対峙するともう冷静ではいられない。僕はただ幸せになりたいのだ。苦しみたくはない、生きていたい、でも死にたいと思う自分もいて、どれだけ乖離してしまうのだろう、辛い、寂しい、冷たすぎるじゃないか、この乖離の中でしか僕は存在できないのだろうか、幸せでしたと胸を張って生きていたいのに、それを許されない罪なことだと僕は思う。僕はあまりにも人を傷つけて来ました、家族が壊れてしまったのも僕のせいなんです、僕はむやみに家出なんてするから裁判の費用も掛かって、家計を圧迫し、誰も幸せにはなれず、家族は離散し、祖父の死に目すら立ち会えない。やはり僕は人と関わると駄目なんだろうなあ、その人を不幸せにしてしまうんだろうなあ、いっそのこと誰か殺してくれやしないだろうか、でも僕を誰かが殺したらその人が罪に問われてしまうわけで、なれば僕は自殺するしかないのでしょうか、それとも生きていてもいいのでしょうか。

 暗いことを書き出して、気持ち悪いと思いつつそれを公開することに意味はあるのでしょうか、おそらくあると無意識で感じているからそうしているのだと思いますが、あまりにも虚しい行為に感じられてたまりません。こうして内面を吐露して、僕はまだ大丈夫だと無根拠に言い聞かせているけれど、愚かさはますます深みをまして、ドス黒い水溜りを作り出している。水面は黒すぎるあまり鏡じみたものとなり、僕の醜い心裡を反射し、それを見つめている僕は映るバケモノに顔を顰めて「気持ち悪い」とか「さっさと死ねよ」と言い、その声が自分に反射していることに絶望するんです。誰もが自分のことを嫌いになり、嫌悪し、排撃しようとする。そんな自意識過剰な思いがそうさせるのでしょうか。しかし一体いつから他人は自分のことが嫌いであり、それは自分が周りを不幸にしてしまうからという確信を抱くようになったのだろう。今までに僕は手ひどく裏切られ、あらゆる物事を憎んでしまうような経験をしたことが……そういえばあった、親に半強制的に留学させられ、里親の元へ送られた時。僕は見捨てられたのだと心から思った。そして一晩中泣き続けていた。当時のことがトラウマとなって僕にこんな無根拠な確信を抱かせるまでに至ったのかもしれない。でも、少なくとも今僕の周りにいてくれている人は僕のことを好いてくれているのだろうし、だから関係し続けてくれているはずで、僕だってこの好意を信じたい。でも信じれば信じるだけ罪悪感が生まれる。こんな僕に付き合ってくれていいのだろうか、そう思えて仕方がない。思えば高校の時に付き合っていた彼女と距離ができ、やがて冷え切ってしまったのも僕のその罪悪感からくる不器用さと、避けようとする気持ちが行為に現れていたからなのかもしれない。僕は根本的に恋人関係を作るのに向いていないのだろう。たった一度デートをしただけで何かが違うと思い、自分が幸せを感じていることに苦痛で仕方がなかった。彼女には本当に悪いことをしたと思う、歩み寄ってくれたというのに、その好意を裏切ってしまった。本当に後悔している。こんなところで懺悔したところで彼女を傷つけた事実は変わらないし、彼女も救われない。家族を壊してしまったあの時からまるで成長していない。

 友達が少ないのも傷つけてしまうのが怖いからなのだろう。どうしても人と接する時は壁を作ってしまい、相手に指摘されてから不器用に壁を崩し、やっと対等に話すことができる。そんな関係を築くのに時間がかかってしまうから、その前に友達未満のまま離れていく人も少なくない。そういった部分が反映されているのだろう、どうせ連絡をしないのだからと僕はLINEであまり[ともだち]を作らない。中学三年の頃からスマホを使っているけれど、現在のともだちの数は56、多いか少ないか比較していないのでわからないけれど、多分少ないと思う。

 唐突に誰彼構わず謝罪したい気分になる。LINEを開いて、数少ないともだちのトークの片っ端から浅はかな言動の数々や、考え方、そもそも自分が存在しているということ、傲慢にも生きて怠惰を貪っていることを書き連ねて懺悔したくなる。鬱な気分が緩やかに膨張していくのを感じ、愚かなことだとは思いつつもしかし僕はメモ帳にそんな送れない謝罪文を綴り、数時間後には消している。この文章もいつか消す時が来るかもしれないなあ、と思い、その時の僕は何に憂鬱になっているのだろうとわかるわけのない未来の自分に思いを巡らせるのだ。