万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

雑記的なやつ2

 Twitterの繋がりなんてボタン一つでどうにかなる空虚なもののはずなのに、溢れている言葉の中には鋭さを持ったものもあり、意図せずとも触れてしまったら簡単に傷ついてしまう。痛い、と思った時にはすでに時遅く、慌ててミュートにしても血がだらだらと流れている。止血しようにも止血の方法を知らないから、自然に止まってくれるのを待っているのだけれど、目には見たくもないトゲだらけの言葉が滑り込んできて、ますます傷ついてしまう、血が、どんどん流れ出てしまう。失血死。ぎゃあ。

 フォローしました! みたいなリプライを送られても困惑する。勝手にフォローしとけば良いのではないだろうか、別に事後承諾を取る必要なんてないだろうし。それともフォローしたことを認知して欲しいのだろうか、私はあなたをフォローしました、だからあなたもフォローを返して下さい、と言外に伝えているのだろうか。でも困るなあ、フォローされてもありがたいわけじゃないし、興味のない人をフォローしたくもない。まあフォローしてと言われても僕はフォローするわけじゃないんですが。

 空気を読むことは酷く苦手だ。言葉にしてもらわなければ分からないことを平然と伝わっている(だから)察しろというのはあまりにも不条理ではないかしら、だって言葉だって気持ちが十全に伝えられる便利なツールではなく、不完全なもので、その言葉で伝えるのをやめたことをどうしてこちらが受け取らなければならないのだろう。せめて伝える努力をしてから相手に何かを望んでくれないと双方が不幸になるに決まっているではないか、ノリが悪い? 知ったことか、そんなノリなんて曖昧なものに乗って当たり前/しかるべきという風潮の方が悪なんだ。だからといって雰囲気を全く気にしないことはできないもので、しがらみを無視できない自分に苛々する、無視しなくても苦手な自分に苛々する、はたからみれば自分の苦手なことに対してただ文句を言っているだけな自分に苛々する、苛々している自分に苛々する、くそが。

 数ヶ月前から僕はツイッタースマホから消している。簡単に開いてしまえるものの中にあるのが耐えられなくなっていた。誰かの言葉を見たい、そんな欲求に負けて、結局自分が傷ついてしまうことを知っているのに、何度も同じことを繰り返しているのをやっと断ったのだけれど(まるでヤク中だ)、パソコンにはアプリが残っているわけで、わざわざ嫌な気持ちになるのが分かっているのにいつもトレンドの先を覗いたりして本当に馬鹿みたい。もうアカウントを消してしまおうか、なんてことは数え切れないくらい考えたけれど、繋がりに飢えた僕は、こんな仮想的な繋がりにすら固執してしまって、結局アカウントを消してはいない。他人と触れ合うから傷つくのだ。それは分かっているのに、傷つくことを無視してでも熱を求めてしまう、人と人とが触れ合う時に生じる摩擦熱はどうして甘美なのだろうか。人間は他者があって初めて存在することができるというのはよく聞く話で、それは観測する人がいて初めて存在輪郭が作られるという意味もあるのだろうけれど、そもそも人間というのは生まれからして不完全であり、誰かの庇護がなければ生き延びることすらできない存在だからというのもあるのだろう。草食動物のように生まれて一時間も経たぬ内に走り回ることはできず、自分で餌を摂ることもできない。類人猿であるオラウータンの新生児とヒトのそれが同等の機能を持つようになるのは生後9ヶ月とも言われていて、人間はマイナス9ヶ月の状態で胎内から放り出される生き物とみなしてもよいだろう。未発達なまま世界に放り出される僕たちは、どうしても他者の助けが必要で、食物連鎖の頂点に立っているとは思えないほど弱い。いや、強いからこそ弱いまま生まれることを許されているのだろう。もしもヒト種がこれほどまでに技術を持たず、旧人類やオラウータンと同じように危険の蔓延る世界の中で生きることを強いられていたのならば、早熟なまま生まれることを許されているはずがないのだ。生まれてすぐに危険を生き延びることができなければ淘汰されてしまう。

 人間は生後9ヶ月から視線触発が働くと言われる。つまり生後9ヶ月までの人間は眼差し=他者の存在を感じることができず、目が合わない。それまでは他者を風景の一つ、あるいは物としか感じていないのだろう。生後9ヶ月経って初めて存在を認める/認められるこの構図は不安になる。それまではあまりにも無防備だということだから。きっと生後9ヶ月までの僕たちは敵を認識しない、しないようにできていて、自分の周りにあるものを全て信じてしまう愚直さを持っていて、一見して無垢で天使的だと思うけれど、騙されやすいことと同意義で、だけどそんな生をあたりまえに享受していて、ほんとうに馬鹿みたいで、でも羨ましいなあ、そんな無防備で生きられるのはどれだけ楽なのだろう、悩みがないのはそれはそれで人間的では無いのかもしれないけれど、そう言ってしまえば人間的とはどういうことなのか自分にも分からないので、ただ純粋に羨ましいなあ、って。でも案外純粋な感覚の世界に生きていることはそれだけで苦痛なのかもしれない。

 意味もなく、吐きたくて、泣きたくて、隠れてしまいたい。ああ嫌だなあ、こんな風にぐちゃぐちゃになりそうな自分が嫌だなあ、言葉にして吐き出さないと自分を保てない。周りが怖い、システマチックに動く社会が怖い、自分なこんなにも不安定なのに、整然と動き続けている姿、それに僕は圧迫感を感じる。責められている、とも思う。知らないことが多すぎて、知らないことを悪とする風潮が恐ろしくて、ああ、思い出したけれど、チコちゃんに叱られる!って本当に下劣な番組だよなあ、無知を悪とし、またチコちゃんというキャラクターがあたかも全てを知っているかのような、彼女の知識が常識であるかのような振る舞いは吐き気を催す。チコちゃんが間違ったことを流布していたのは一回や二回じゃないだろうし(鯛焼きや湯船の件)、番組として以前に道徳的にどうなのだろう。面白おかしく見る分(視聴者が楽しめるなら)には良いのかもしれないけれど、僕には到底そんな見方はできないし、そもそものコンセプトが気に入らないからあんな番組なくなってしまえ、と思う。無知を許容しない圧力を笑いに転化するだなんてあんまりだ。普通に知識を広める番組じゃあ駄目なのだろうか。

 濡れ場を書く時にいつも思うのは、女性の誘い方ってどうするんだろう、セックスでどう誘導して至るのだろうってこと。世の中には普通にそんな行為が公然と行われているけれど、僕はそんなシステムを知らない。世界は僕の知らないシステムばかりで、嫌だなあ、誰も教えてくれなかったから知らないし、異性とのムードの作り方とか知っていたとしても実践できないだろうし、きっと僕は結婚できないのだろうなあ、日本はどうして結婚することが前提で、かつ善であるかのようにシステムが整っていて、独身だと損するだなんて、狂っているとしか言いようがないよね、独り身は敵なんですか、まあそうだよね、こんな少子化の時代で子供を増やしてくれるかもしれない方を優遇するのは国家、種、として当然で、でもそれじゃああぶれた方はのたれ死ねってか? 存在価値がないってか? 

 自分を保つために、ひたすらに無根拠な大丈夫を繰り返し、それでもそんなものは一時しのぎにすらならなくて、不安定な土台はいつもぐらぐらと揺れていて、酔いをもたらす。頼りない三半規管は永遠に続くと思われる揺れにまいってしまい、視界は飴のようにぐねぐねと歪み、呆然とするしかない。脆い精神は既にボロボロで、物が食べられなくなりつつある今の自分は多分やばいんだろうなあ、って他人事に感じるくらいしか対処できなくて、そんなんじゃ根本的な解決にならないことなぞ承知の上。確固たるなにか、そう、自我の水晶宮を築かなければならない、と思う。揺るぎない芯はいらない、牢固な壁もいらない、天高く聳える柱もいらない、ただ透徹な、あり続ける骨さえあればいいのだ。