万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

希薄

 現実感が希薄で、どんな喜びも、どんな悲しみでさえも感覚器を掠めただけで消えてしまう。薄膜を隔てた先に世界があって、衝撃はそれに吸収されているのではないだろうか。魂を揺さぶる、この言葉が意味するところが分からない。涙が出るほど感動する? これも分からない。どれだけ感動的な作品であろうと、僕はどうして無感動なままで、面白いとは感じても感情の波紋はしかし瞬きの合間に消え去ってしまう。

 火傷をした。熱したガラスに不用意に触れてしまい、すぐに冷やしたが指先に水ぶくれができた。何もしなくともジンジンと痛み、不快だった。同時期に口内炎もできた。舌の裏に、まるで宿痾のように居座る爛れ。咀嚼するたびに痛みを伴い、憂鬱になった。これらの痛みは長く続き、消えてくれないのかと不安になりもしたが、しかし気がつかぬ内に去ってしまった。今ではもうあの痛みは幻だったのではないかと思い始める程度に、感覚が薄かった。

 生きていることも、死ぬことも、どうでもいい。今、唐突に死のうが、構やしない。生きたいとも思えないし、死にたいとも思えない。なにもかもが嫌で、憂鬱で、質量のなさが辛い。実感がない。他人の肌に触れたときの甘い痺れも、キーボードを叩く硬質な響きも、鳴き始めた蝉のかまびすしさもそこにあるだけで、僕からは遠く感じてしまう。食欲も、睡眠欲も、性欲もわずわらしくて仕方がなくて、でもそれらを失ってしまったらきっと存在はもっと軽くなってしまうだろう。舫いはどこにもなく、無感覚で、不確かで、でも生きているのは不思議でたまらない。

 だからだろうか、僕は怒ることが少ない。怒った?と聞かれる時もあるが、大抵はそんなこと全くなく、どうやら僕の目つきは酷く悪いらしい。親戚からも目付きが悪いとよく言われる。まあそんなことはどうでもよく、僕は怒らないというよりも、怒れない。怒り方が分からない、自分が不快になったところで、怒ってどうするのだろう。怒った何かが解決するのならば喜んで怒るよ、でもそうじゃないじゃないか。怒りは自分だけでなく周りも不快にする。人を不快にするくらいなら、僕一人が嫌な気分になればいい。僕の犠牲でうまく回転するのなら、それでいいじゃないか。奉仕の気持ちになることなんです。奉仕の気持ちになることなんです。そのもののために、そのもののために、奉仕の気持ちにならなきゃあならない。そう、奉仕の気持ちでいることが大切なんだなあ。強い感情というのは現実において不愉快な事態を引き起こす、だから常に虚心でありたい。なにものにも動じず、なにものにも不可侵な心を持ちたいなあ、だが心っていうのは分からんもので、自分がいくら意識したところで容易に揺れてしまう。どうにもならないから、うまくこの心ってやつと付き合っていければいいなあ。

 こうして軽薄な言葉を垂れ流している自分に嫌気が差す。

 僕はもしかしたら人を好きになったことがないのかもしれない。僕が好意だと思っていたものは、尊敬や打算的な情の発展型でしかなく、好きであるために好きになった(と信じ込んでいる)状態で、好意を持つ一方でくだらなく感じてしまうのはそのためなのかもしれない。

 自分が信じられない。自分の感情が主体を裏切っているような気がしてならない。

 ベンジャミン・リベットのある実験では意識に発生が行為に先立つことが示されている。その実験によると、行為をしようと思った0.35秒前にはすでに脳内で電位が上がっているという。また彼の別の実験では、脳は知覚の選別を行なっていることが示されている。こちらの実験では外界からの感覚刺激は脳の受容する部分に到達してから0.5秒以上続かないと知覚は意識に上らないという結果が得られている。加えてこれらの時間差は認識されないという。私たちの脳は認識プロセスの遅れをなかったものとし、しかし平然とそれが今この瞬間だと知覚している。世界は意識に先立つ。わずかな差かもしれないが、そこには明確に差があり、この差の中で意識は統合される。

 身体に明確な徴をつけたい。この身体が自分のものであることの証明としての傷を。例えば刺青や、ピアスなどのそういう自らの意志で傷を与えるもの。だけど痛いのが嫌な僕はそれをする勇気がない。自分で自分すら傷つけることができないのだ。 

 昔小学生のいじめられていた頃、いじめ相手に言われたことで印象に残っていることがある。僕は彼女に「笑ってんじゃん、きも」と言われた。「こうやっていじられるの喜んでるんでしょ?」とも言われた。僕は泣きたくなった。というのもそれは一部で本当だったから。僕はいじめ相手のことが好きだった。そしていじめられることを望んでいた。今思えばそれは異常で、一般的な好きではなかったように思う、彼女だけは僕に積極的に接してくれる相手だったから勝手に好意を抱いていただけなのだから。そして彼女が僕をいじめていたのは反応が面白かったからなのだろう。あの頃の僕は泣き虫で、オーバーにリアクションをするような子供だったから。そして小学生だった当時の僕はその好きを普通なものではないとは判断出来なかった。だから彼女にいじめられているときの暗い快楽を求め続けていた。いじめられることの息苦しさも、痛みも全て存在の肯定に思えて、笑っていたんだ。