万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

近状報告とその周辺、慈愛と祈りという作品について少し

 夏が終わるにつれて一層深まっていく抑うつ希死念慮。最近は(というか最近も)生きるのをやめたいという気持ちが擡頭してばかりで、やる気がなにも起きない。でも本は読むことができているから、まだ大丈夫だとは思う。本当に、何もできなくなってしまったら、ベッドから動けなくなってしまったら、天井を眺めて二日も経っているようなことがあったらもう限界だと思うけれど、まだ動けているし、電車には乗れているし、通学はできているし、実験もできているし、スライドの作成もできているから大丈夫だ。一方執筆は全然進んでいない。どうしてかテキストソフトを開く時間がめっきり減ってしまった。そう、今の制作状況はドッペルゲンガーの子供が何回か書き直しをしてやっと第一部が書き終えることができた。約150,000字だけど一年でこれしか書けていないかと思うと憂鬱だ。第二部はまだざっくりとした道筋しか書いていないし、第三部は草稿段階だし、第四部に関しては頭の中に霧状の塊があるだけで今年に完成させるのは難しそうだ。FRAGILEsはEp1が半分くらい書けている。2021年の一月から隔月で一章づつ公開できたらなあ、とは考えているけれどさて僕は頑張ることができるのかしらん。FRAGILEsはありふれた不幸をありふれた家族の形で表そうとしている作品で、というか私小説的な側面がかなり強い作品だからエネルギーの消費量が多い。自分の過去を見つめると嫌なことばかりが浮かんできて、ああ僕はダメな人間だなあ、と思ってしまう。実際僕という人間は悪辣だとは思うけれど、結局のところ他人に本質的に冷たい、何を考えているのかわからないやつだと言われるような人に善人なんていないんです。

 夏が過ぎ、身体を巡る倦怠は汗とともに蒸発してしまうと思ったが、血流に残り続けるアルコールのように秋になっても倦怠は消え去る気配がない。さらに強い頭痛が脳という変換器を通ってきた心音とともにどぅどぅと増幅し、頭の中で痛みが弾け、身体が重くなっていく。どろどろに脳が溶けていく様子が浮かぶ、身体も溶けてしまうのだろうか。重いなあ、ほんとうに重いなあ、動きたくないなあ。どうして動かなくてはいけないのだろう、止まっていてはいけないのだろうか。消えてしまいたい。存在があまりにも軽く、僕は自分の存在が無価値にか思えない。誰かが僕を頼る、でもその信頼が重い。誰かが僕に期待する、でもその期待が痛い。どうして高く評価する人がいるのだろう、こんな人間を。どうして愛するふりをするのだろう、その愛に浮かれて、しかし偽物だと知って絶望する人がいるというのに。無邪気に何かを信じることができた少年時代、先に広がるのは広大な海のように可能性に満ち溢れた未来で、波間のきらめきがごとくの小さな幸福に酔いしれると信じて疑いがなかったのに、裏切られ、幸せを感じれば感じるほど不幸の影が恐ろしくて、この幸せが本物ではなく、贋作にしか思えなくなってしまった青年時代、他人に理想を押し付け互いに不幸になり、その時のメランコリックな陶酔を壊れ物のようにいつまでも抱き続ける、馬鹿みたいに、それが唯一の宝物であるかのように。脆弱な精神状態。

 

 

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 慈愛と祈りという作品は「愛」について僕なりに向き合って書いた作品だ。執筆中に常に浮かんでいたのはサルトルアウグスティヌスの言葉。

「愛する」とは、その本質において、「愛してもらおうとする企て」である。

J-P.サルトル存在と無

 Nondum amabam et amare amabam et secretiore indigentia oderam me minus indigentem. Quaerebam quid amarem, amans amare.

アウグスティヌス「告白」 

 日本語訳にすると「私はまだ愛してはいなかった。愛することを愛していた。そして、もっと深い苦痛によって自身を憎悪していた。なぜなら、私の苦痛は十分ではなかったから。愛することを愛しつつ、愛すべき対象を求めていた」となる。amare amabam、愛することを愛していた、このフレーズが僕の頭から離れなかった。アウグスティヌスが告白に書いたこの宗教的愛に対する挫折の吐露は生々しく、僕を捉えて離さなかった。この言葉は全ての愛に対して通ずるものがある、と僕は思う。一方的だからこそあらゆるものに対して適応される愛は絶望的で、だけど、だからこそ美しい。

愛というのは無我の感情で、一方通行なのだ。(中略)なぜなら愛とは、一つの反射と、その実体とのあいだに生まれるものだから。

ヨシフ・ブロツキー「WATERMARK」

 ブロツキーは詩情あふれる文章でそれを的確に指摘している。事物が存在する、存在するからには反射が生じる。網膜に映る全ては何かの反射に過ぎない。太陽光でさえも空気の粒の反射した結果届いたものだ。色とはそもそも反射された一部の光なのだから。

 

 登場人物に関する話。例えば佳奈を引き取った親戚のおじさん、僕は彼をハンバート・ハンバートのなりそこないとして書いた(ハンバートはナボコフ 「ロリータ」の主人公)。例えば死刑囚の永田は宮崎勤永山則夫をモティーフにして書いている。悪辣な家庭環境で育ち、どこか無垢なまま大人になってしまい、歪な精神状態で人の道から外れてしまった人間。これは洸太郎のもしもの姿を重ねて書いてもいる。もしも保護されることもなく、弟を殺すこともなくそのまま育ってしまったら洸太郎も永田のようになっていたかもしれない。

 全ての登場人物に原型がいるわけではないけれど、半数以上は何かしらの原型を持っている。それは僕のプライベートに関わりのあった人かもしれないし、そうではないかもしれない。

 谷口佳奈という人間は僕も巧く捉えきれていない人物だ。自分で書いた作品の主人公だというのに、彼女は僕から酷く遊離している。でも彼女を書く上で意識していたのはただの役割を与えられた人間ではないということ。前作贖罪と命ではある意味で主人公にとって都合の良い人物をして描かれていた彼女だが、彼女にも人生があり、価値観があり、生きているということを書きたかった。ガルシア・マルケスの作品に登場するようなただの役割に過ぎない人物ではなく、彼女も一人の人間であることを意識していた。

 

 慈愛と祈りにの一貫したテーマは愛だが、第二のテーマとして幸福がある。これは愛を語る上で外せなかったのもあるし、前作で提示しきれなかった部分を書こうと思って書いたからでもある。洸太郎は幸福であることを拒んでいた人間だが、そんな彼に幸福を与えたかったという作者のエゴもある。エゴ、という単語は作中で何回か登場していたように思うがまあそれはそれで置いておく。

 シーシュポスの神話は本作を書くにあたってかなり影響を受けた本だ。というか僕はカミュにかなり影響を受けている人間だ。途中でシーシュポスの神話についての話もあるし、最後にはシジフォス的循環という言葉も出している。これにはいくつもの意味を込めている。もしも暇のある方がいれば僕が込めた意味を探してくれれば嬉しい。きっと谷口佳奈という人物を知る手がかりにもなるだろう。