万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

 子供の頃、僕には癖があった。それは『ノートとゴミ箱の話』でも書いたような、人の注目を惹くために自分がまるで虐められているかのような振る舞いをするというものだった。実際、泥を塗られたり、仲間外れにされたりと虐められてはいたが、それ以上に惨めな存在であるように僕は自らを装った。他者から僕が惨めな人間であると認識されると思うと、頭がぼうっとし、安心感があった。

 差を、感じていた。彼らと僕の、手を伸ばしても触れることすら出来ない圧倒的な差。家族の転勤で引っ越したばかりでその土地に馴染めずにいた当時の僕は、惨めな人間を装うことで、受け入れられていないことを実感し、役割を担おうと思った。役割、というのは正確ではないかも知れないけれど、その場での役になり切ることで、世界に対処しようと思った。僕が虐められるのは僕自身が原因ではなく、別の土地にやってきてしまったがゆえに以前とは異なる役になってしまったというように。悪いのは全て周りの環境であり、世界と宛てがわれた役による差でしかないのだと考えた。

 僕は役に徹しようと考えた。だから何度も同じようにノートを自ら隠した。ここには論理の破綻があるかもしれないが、当時の僕にとってノートを隠すことは世界への対抗策だった。僕がノートがないと言う時、周囲の人間はまたかというような表情をした。そして僕しか知らないノートの在り処を面倒な表情を浮かべながら探していた。彼らが僕のために動いていると思うと、内側で暗く、安らかな温度が広がった。いつも僕を虐めているグループのやつらも、その時ばかりは僕のために行動していた。全能感ではなかったように思うが、それでも人を動かすことの快楽を味わった。

 そんなことをするような子供であったから、いつまで経っても周囲には馴染めず、僕は役を続けていた。わざとトランポリンで着地に失敗し、足を怪我した。わざと提供された動物型のビスケットを落とし、泣いた。そんな僕を見て周囲は面倒な奴だと思っていたに違いない。それでも僕には他にとれる行動が思い浮かばなかった。

 そのような自損行為の最終形がノートとゴミ箱なのだろう。

 ゴミ箱に落ちているノートを見ると、僕は緊張する一方で、温かい気持ちになった。ノートはまるでそこのあることが正常であるような、昔からそうなることが決まっていたような、必然性を持っているように感じられた。ノートの長方形とゴミ箱の円形が見事に一致しているようだった。これ以上無いほどに、美しく。心臓は痛いほどに鳴っていたが、不思議と心地よさもあった。ノートが僕自身を暗示しているのだとも思った。自分でそうしているにも拘わらず、これが自分の行き着く先だとノートが言っているように感じられた。

 僕の手とゴミの上に落ちたノート、この物理的な距離こそが僕と世界との差だと考えた。いつか僕はこのようにうち捨てられてしまうのだろうか。悲しくなったが、しかし僕は笑みを浮かべていたように思う。

 この行為は結局先生に見咎められることになったけれど、僕はやはりと思っていた。やはり僕は惨めなのだと。自らノートを捨て、構ってもらいたがるようなどうしようもない人間なのだと証明されたように感じられた。

 僕はあの時から成長しているだろうか。人は誰しも少なくとも三つの仮面——自分だけに見せる顔、親しい者に見せる顔、その他の人間に見せる顔——を被ることで他者や世界との正しい距離を保つ。僕はちゃんと仮面を被れているだろうか、正常に見えるだろうか。

 僕には正しい差を見極める能力が欠落しているけれど、それでも生きてもいいのだろうか。