万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

人間は難しい/ピスタチオが流行ですが

 人間をするのは難しいと常々思う。他人と関わる場合、何をするにしても分かるはずもない相手の考えを読み、ストレスを蓄積しなければならない。息苦しく、まるで水の中にいるようだと思う。喘ぐようにして毎日を生きているが、エラを持たない僕は窒息寸前で、今にでも息をする努力をやめてしまいたいと願う。他人の分からなさが恐ろしく、そして吐かれる言葉も(理解が困難で)恐ろしい。

 いまはもう昔、僕がまだ高校生だったころのこと、半年ほど恋人がいた時期があった。初めてのデートは11月が12月、ひどく寒い時期に水族館で過ごしたのだがその帰り、彼女に「また一年後、一緒に行こうね」と言われた。僕はどうしてかその一言を“来年もまだ付き合い続けよう”という約束として受け取ってしまった。悪い癖だった、僕は昔から言葉をそのままに受け取ってしまう、希望的観測でもそれを約束と受け取ってしまう。だから半年後まで、彼女に別れを切り出されるまで、僕は彼女にほとんど構わなかったことに危機感を感じていなかった。次の11月(12月)にまた出掛けると思い込んでいたから。彼女に振られたことよりも自分がその口約束に縋っていたことがショックだった。人間に、向いてないと思った。こんな誰だって本気にしないような、その場の雰囲気で口走ってしまうような言葉に、言葉にだけ拘泥し、その先にいた人間に頭が回らなかった。欠陥品の頭は今でもその約束を反芻する。今みたいに。きっと彼女はそんなことを言った事実すら忘れているだろうけれど、僕は今でも忘れていない。彼女の名前すら消えかかっているというのに。

人間は難しい、表面には取り繕った嘘ばかりがあり、裏に存在する真実を暴かなければならないから。しかし、暴いてはならない真実もあり、その境界が分からない僕はいつも間違いを犯してしまう。他人を不快にするばかりの人生です。

 

 コンビニでも、スーパーでも、飲食店でも、最近なにかとピスタチオ味のものが増えてきた。僕はピスタチオは好物だが、ピスタチオ味であることに魅力を感じない。あくまでナッツとしてのピスタチオが好きなのであって、その抽出した味や匂いが好きなわけではないのだ。世間は空前のピスタチオブームなのか、バターサンドでも、プリンでも、チョコレートでもピスタチオ味が存在する。一応食べてはみるが、やはりしっくりこない、イマイチだ。確かに美味しいが、ピスタチオ味にあえてする意味が分からない。僕が異端なのだろうか、それとも周りがただ流行りだからと商品を製造し、称揚するのだろうか。分からない、分からない。けれど、きっとまだまだピスタチオ味の商品は開発され続けるだろう。