万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

『ベオグラードメトロの子供たち』を読んで。(20220311追記)

 久しぶりに感想記事を書こうと思い、筆を取った。プレイした作品は隷蔵庫(summertime)様の『ベオグラードメトロの子供たち』、通称べおちる。ただ、断っておくが本作をプレイしたのは昨年の8月——なんと暑い夏だったか!——で、ここにこうしてプレイ当時の心情を文字にするには時間が経ち過ぎている。このため(可能な限り言及箇所を確認するつもりではあるが)内容に思い違いがある場合があり得ることをご留意いただきたい。

booth.pm

 さて、本題に入ろうか。まずはネタバレを極力避けて書いていく。

 本作には男女、能力者と非能力者、能力自体の強さ、(社会的、構造的)上下など様々な"差"が存在していた。セルビアという土地を舞台に、少年少女(一部大人)の人生が触れ合い、傷つけ合い、殺し合う。誰もが自分の居場所を切望し、孤独の中でそれでも個を確立しようとしていた。どうしようもなく孤独を抱えた登場人物たちは徹底的に分かりあえず、たとえ相手を理解するために近付いたとしても傷つけ合うことになってしまう。孤独はますます深まり、差は大きく口を広げ、離別へと至る。

 主人公のシズキは無能力者であるが故に常に劣等感に苛まれている。肥大した自尊心はその空白に耐えきれず、折りに触れては他者を見下してしまう。自分の住むセルビアに、メトロに、自分の人生に対して斜に構えて、デジャンという強力な友人の威を借りつかの間の高揚感を得ながら日々を過ごしていた。状況が一変するのはマリヤという少女との出会いから。このマリヤ、大企業の令嬢でありまさに魔性と言うべき人物であるが、どうやらシズキは昔、彼女とあったことがあるらしい。まあそんなことは置いておき、とにかくシズキはマリヤに血道を上げるのである。それはもう破滅的に、どうしようもなくマリヤへ溺れていく、多少なりとも周りの人間を巻き込みながら、その先は地獄でしかないというのに、堕ちていく。

 ベオグラードに住む子供たちの生き様はぜひプレイして確かめてもらいたい。

 

 以下ネタバレあり。プレイ済み推奨(細かい説明はしません)。

 

 

 作者の書く"関係性の地獄"(地獄の関係性ではない)は健在で、読めて良かったなあ、と読後に思う作品だった。僕は感動した時(あるいは圧倒された時)、後頭部が痺れる感覚があるのだけれど、本作でもその感覚が現れた。例えば EP5 の憑依と首なし死体。まさに物語のミッドポイントで、このシーンの前後で明らかに雰囲気が変化していた。それまではあくまで能力者同士の戦いや、人生の軽い触れ合いで、ある程度は面白いと思ったが、そこまでではなかった。しかしベッドに横たわる首なし死体のスチルを見た時、認識が変わった。魔術にかかったかのようだった。ああ『真昼の暗黒』の作者だなあと改めて思った。これだよこれ、僕が求めていたのは。血みどろで、陰鬱で、動悸がする。読むことが苦しかった、でも夢中で読んでいた。クリックする手が止まらなかった。本作は一貫して嫌悪を抱かせたが——主にシズキに対する同属嫌悪だった——、その居心地の悪さが、一方で快楽だった。EP8 のデジャンの能力の暴走によってイェレナを殺してしまうシーンには笑ってしまった。ああ、終わってる。でもこの終わったような感覚が心地よかった。自分の存在を支えるある種幻想的な過去を、あり得たかもしれない幸せな未来を、ずたずたに引き裂き、現実という名の繊細で柔らかな内蔵を引きずり出し、こんなにも醜く汚く吐き気を催す姿がお前なんだと描写するその筆力にはやはり驚かされた。地獄を描くのが本当に巧い。

 

 作中(EP7)で『ゴドーを待ちながら』の名前が出たこともあったからなのだろう、べおちるを読み終え、最初に浮かんだのは次の文章だった。

エストラゴン 今度は何をするかな?

ヴラジーミル わからない。

エストラゴン もう行こう。

ヴラジーミル だめだよ。

エストラゴン なぜさ?

ヴラジーミル ゴドーを待つんだ。

エストラゴン ああ、そうか。

 サミュエル・ベケットゴドーを待ちながら

 シズキはゴドーを待つだけの状態が一番の幸せではないかと思っていたが、結局はマリヤからの寵愛を待つだけの人生には厭いてしまい、マリヤを殺すことで全てをぶち壊してしまった。愛は孤独を救えない。このシーンが描かれる EP9 はなんとなく『真昼の暗黒』の精神的続編のように感じた。『真昼の暗黒』では結局、共依存的な関係がそのまま続くことが示唆されて?(すみません、細かいところはおぼろげです)、物語が締めくくられていたが、べおちるにおいてはマリヤとシズキの関係はシズキによるマリヤの殺害によって幕が引かれる。そしてシズキの人生も幕引きなのだろう。マリヤとゴドーを待つことに耐えられなかったシズキは次の目的地(Next Destination)へ向かおうとするが、しかし EP9 のタイトルが示すように、マリヤ主導の逃避行は Final Destination であり、マリアを殺害した事でもう彼の人生は終わっている。結論づいている。『真昼の暗黒』ではある意味で幸福な結末だった一方、完膚無きまでに破壊し尽くされたシズキの結末はもう明らかだろう。凋落するしかない。不条理かもしれないがそれがエンディングである。

 EP9 では拳銃が登場した。拳銃という存在はなんというべきか、とにかく圧倒的で、それが能力者がバトルするような世界観でも揺るぎないように僕は思う。拳銃の異質感や重量感は特別で、物語に強い影響を及ぼす。結局シズキは銃を撃たなかったけれど、撃っていれば結末は変わったんじゃないかと思ってしまう。それほどに銃という存在は僕にとって特別な印象を与える。話は変わるが、たった一ヶ所だったにも拘わらず肌に対する桃という表現がなんとなく印象に残った。意識したことはないがもしかしたら桃という単語は僕に特別な感覚を与えるのかもしれない。確か『CODA』にも桃の表面のような和毛だったかそんな表現があった気がする。それだけです、人には人の馴染む言葉があるという話です。閑話休題。わずか二秒の動作の違いで未来が変化するのだとすれば(LINE1)、銃の発砲は大きく物語の展開を歪め、もしかしたらマリヤを殺さない世界線もあったかもしれない。

 

 本作の音楽は非常に気持ち悪い(褒め言葉)のがとても気に入っている。気持ち悪い音楽というのは個人的な表現で、例えば『Arknights』の「Under Tides」や 『Lobotomy Corporation』の「Second Warning」がそれにあたる。どれも気持ち悪くてサイコーな音楽だ。べおちるは血と埃と金属が焼けるような匂いのする作品で、気持ち悪い音楽がほどよく調和していた。ただ、どの場面で流れた音楽が良かったとかはもう覚えていないのだけれど。

 本作においてわずかに不満な点があるとすれば、セーブスロットが少ないことだろう。僕は普段読書をするときも気に入ったセリフやシーンがあれば付箋を貼る人間だということもあり、かなり細かくセーブをする。なんなら数クリック先でもセーブしたいことがあるほどである。ボリュームの少ないゲームであったのならばまだしも、本作のようにボリュームがありつつ魅力的な文章やシーンが多い作品は再び開いた時にその情景の先へ数クリックで入れるようにしたかった。わがままですね、すみません。

 

 ひとまずここで筆を置く。近々もう少し書き足します。

 

(追記 20220311)

 なんとなくフェリーニの『道』を想起した。べおちるの内容とはまったく異なるのだけれど、僕にはシズキの孤独とザンパノの孤独が似ているように感じたんだ(シズキとザンパノとではそもそもの性格として異なるのだが)。マリヤの遺骸を川へ遺棄した後、シズキの目の前に現れた自由はあまりにもそっけなく、あまりにも冷徹で、あまりにも無関心だったように思う。シズキは泣くでもなく、動揺するでもなく、ただ煙草を吸い、未練を煙とともに吐き出し、無感覚の中でマリヤを見送った。さようなら。このシーン、好きだなあ。まず川というのがいいよね、川といえばやはりレーテー〈忘却の河〉が思い当たる。作者が意図していたかは定かではないけれど、僕はシズキの口から吐き出される離別の言葉と煙、そして川下へと消えてゆくマリヤの死体という図形の中にレーテーを見た。そして次の詩を舌先で転がした。

 

きみの香りに満たされた下袴(ジュポン)のなかに

苦痛にうずく私の頭のふかぶかと埋め、

萎れた花をさながらに、死んでしまった私の恋の

甘くも鼻を刺す残り香を、嗅いでいたい

 

(中略)

 

私の嗚咽を鎮めて嚥(の)みこませようためには、

きみの臥床の深い淵にまさるものは何もない。

力強い忘却はきみの口の上に棲み、

〈忘却の河〉はきみの接吻のなかを流れる。

 ボードレール『漂着物』四

 

 

 シズキは過去と決別を果たし、前に進もうとする。自分の、自分だけの人生を歩もうとする。大学で学び、脚本を書き、仕事が舞い込む。まさに順調、これからの未来は明るいように見える。だけれどもシズキはそんな未来を自分の手で壊そうとしてしまうんだ。自分でも分からない義務感によって。破滅願望だろうか。いや、違う。ただ訴えたいだけなんだ、生の言葉で、セルビアや能力者やマリヤや自分のことを。それに彼は分かっているはずだ、過去は血やマリヤに与えられた傷痕で象られているために、続くその道の先に幸せは広がらないことを——だから彼はこの信じがたい幸運がもう少しだけ続いてくれと願う。何をしてもきっとまた同じように血が流れることを予感し、確信し、どうせこんな終わった人生ならばと文章を書き、俺がこんなことを綴って、何をしたいのか……そんなの分からないけれど、幸運にも、俺はまだ生きているのだから、そう、俺には訴えたいことがあったんだ、嘘偽りなく、自分の体験を書くことで……認められたいわけじゃない……ってこともなくはないけれど、本当は、心の底では成功して、認められたいと思うけれど、そんなの到底無理って分かっているから、こうして内面を描き、自傷じみたことをして、過去を忘れようとしている。

 受苦と破滅への激しい願望の、刹那の現れによって想い人を殺し、あり得たかもしれない幸福を手放し、虚無的に世界を見つめ、容赦の無い客観性でもって個人的な体験を無味乾燥とした文章に再構築する。殺人はドラマチックなものではなく、畢竟彼の人生の中に起きる小さな出来事の一つに過ぎないとシズキは思うが、歪まされた人生はその分の精算を要求してくる。ジーマ、影、過去に追いかけられシズキはメトロへ逃げ込み、そして最後には人生からも逃げようと地下鉄に飛び込む。今までごめん、と口にして。以降シズキがどのような道を辿ることになったのかは、うまく掴めなかった。そこは考察し、想像を巡らせることで補完するしか無いのだろう。少なくとも、ゲーム内で語られる一年後はただの幻想だ。

 

 本編を通し、ゲーム内資料にも目を通してもなんとなく違和感が残った。消化不良。胃が重い。ベオグラードメトロの子供たちによる物語の外枠はなんとなく掴めたし、今でも印象に残っているシーンはあるのだけれど、ところどころ細かい部分がまるで点描画のように捉えにくかったように思う。例えばそれは数多くの人物が登場するが故のそれぞれの個々人に対する描写の不足であったり、良くも悪くも海外文学チックな、薄膜を一枚隔てたような言葉選び(やや迂遠な言い回し)に起因するものなのだろうが、それがとても惜しいと思った——これは単に僕の思い違いかも知れない。だが、この文体こそが本作の魅力であるし、気に入っている言い回しも多数存在する。

 登場人物は誰もが魅力的で(個人的にはロマっ娘が好み)、だからこそそれぞれの人物についての深掘りがもっと欲しかったなあ。もっとも本作の構造上、読者側には基本的にシズキの見た景色が提示されるためそれが難しいのは分かるし、無理に話を差し込んでテンポが悪くなってしまったら元も子もない。だから設定資料にイェレナの過去が判明するSSがあったのはとても良かった。ところで第9って能力の発現した順番から来てたんですね、てっきりベートーヴェン交響曲第九番から取っているのかと思っていました(もしかしたら明示してないだけでその要素もあるかもしれませんが)。余談はさらに道を逸れますが、作中で提示される二項対立が複雑に絡み合う様子にはポン・ジュノの『パラサイト』みを感じました。こういうことはあまり言及するものじゃないですね、すみません。閑話休題。ここまで書いてきたことを見返して、シズキとマリヤのことばかり書いているのに気が付いた。少し前にネデルカが好みと書いていたけれど、関係性で言えばシズキとマリヤには敵わないなあ。例えば特殊EDにネデルカとの未来が仄めかされているけれど、そこで築かれるであろう関係はマリヤとの関係に遠く及ばないだろう、シズキはだってマリヤに恋をしていたし、自分の手で殺したし、小指を失っているし、どこまでもマリヤの影響下にあって、嗜癖も、思考も、徹底的に塗り潰されていて、そこにネデルカの色が入り込む余地なんてなくて、でもネデルカはシズキのことが好きだからたとえ殺される運命だとしてもそれを悲しそうに笑って受け入れるのだろうなあ、そう思うとアリな気がしてきた、でもマリヤほどじゃあないけれど。

 『真昼の暗黒』でも思ったが、作者はやはり少人数(一対一)の仄暗い関係性を描くことがとても巧いなあ、また言ってるよこいつ。シズキくんが徐々に居場所をなくし、マリヤに傾倒していく様は破滅的で美しいよねって。そう、この小さな関係の箱庭は美しく、しかしべおちるはセルビアという広域が舞台だったためか、閉塞感はあまりなく、むしろ能力者バトルの熱もあってどこか光が差していたように思う。さきほどから僕は何度か『真昼の暗黒』について言及しているのだけれど、計と深沙の方が出口なしの関係のほうが生々しく、個人的な好みであるからつい書いてしまうのであって、だけど一般受けするのはべおちるのような雰囲気なのかもしれないと何となく思い、ただ僕には『真昼の暗黒』の方がぶっ刺さっているってだけなんです、と言い訳をし、それでも展開的(主にEP9)には本作の方が面白かったと思うし、ええ、そうなんです、とかく言葉を尽くしてきたけれど、僕の言いたかったのは最低で最高な関係性の地獄が佳かったという感想に帰結します。おわり。