万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

7月の言葉

20220702, Sat

 楽しみにしていた『秘められた生』の新訳がなされないことを知り、残念に思う。キニャールの言葉はいつだって美しく、示唆に富み、読み返すたびに新たな発見を与えてくれる。中でも『秘められた生』は僕にとって大切な本の一つである。

 本棚から再び手に取り、付箋のあった頁を開く。

 蠱惑に関して言えば、耳には音楽がある。目には絵画がある。死には過去がある。愛には恋人の裸体がある。文学には沈黙と化した個人の言葉がある。

パスカルキニャール『秘められた生』

 人を陶酔に導く断片に思いを巡らす。

 愛、言葉、死、空気、熱感……

 

20220703, Sun

 やや暑さが和らぎ、先日までの茹だるような熱感は姿を潜めた。クッションのない無垢材の椅子に身体を預け、開け放たれた窓から入り込む涼やかな外気を右腕に感じながら机に向かう。MARKS&WEBのアロマウッドから微かに漂うユーカリの涼感な匂い、ヘッドフォンから鳴るエイナウディのNightbookの反復的なストリングス、ふと視線を部屋の中に遣ると見える開けた床となぜか感じる「独り」という感覚。脚を椅子に上げ、抱え込むようにし、胸部と密着させる。暑い。寂しい。独りきりであることを意識して、目を閉じて、暑さと涼しさが綯い交ぜになった感覚を抱えてそっと息を吐き出す。

 寂しいけれど、幸せだとも感じる空間と時間。夜はどうして優しさを感じる。朝のあの柔らかな光よりも、夜の吸い込まれるような暗さの方がよっぽど慈愛に満ちていて、恐ろしくて、美しい。

 朝なんて来なければいいのに。

 ずっと夜のままであってはくれませんか。

 

20220704, Mon

 他人との関わりが苦痛で、逃げ出してしまいたくなる。正確には、他人に価値観を押し付けられることが辛い。世の中には他人を下だと分かれば自分の価値観を無理やり押し付け、これが正しいのだと、君は間違っているのだと言う人間がいる。

 本当に僕は間違っているのでしょうか、あなたの方が旧時代的な考えではありませんか、なんてことは言わない。そうやって善意を押し売るのは僕のためではなくてただのあなたの自己満足ですよね、とは言わない。人の考えを頭ごなしに否定する癖は止めた方が良いですよ、とも言わない。どうして管理したがるのだろう、自分の考えに沿わないと否定してしまうのだろう、多様性がこれだけ叫ばれているというのに、自分の正しさの中でしか呼吸してくれないのだろう。

 この世が憎い。社会が苦しい、適応できない自分の存在が厭わしい。

 

20220705, Tue

 特定の何かに自分を縛りつけなければ、自分というものを保持できない。他人との関係、趣味、仕事、なんでもいいからとにかく何らかの事物と自分を関連付けることでしか自己を成立しえない。「自分がない」という感覚をいつも抱えていて、今にも頽れてしまいそうで、趣味との連関を支えになんとか今の状態を維持していて、いくら積み上げても不安定な自分という感覚はいつまでも消えることはない。自己犠牲を望み、自分という存在の外界からの規定を欲し、それ以外に自分というものの意味を見出せず、また一方で、生まれて来たことを苦しく感じ、自分は存在すべきではないという感覚が在り続け、自分を肯定することができないでいる。

 透明な外骨格を有する生物の空虚な自己。

 

20220707, Thu

 自分(の家族)が同じような目に遭ったとしたら同じように言えるのか、といった返しがある。不幸を語る人が他者からの理解を得られない時などに同情を煽る常套句。例えば家族が事故に巻き込まれて亡くなったらどうするのかという場合、怒りや悲しみで頭がいっぱいになるだろうか、加害者を憎むだろうか。僕は恐らく多少の喪失感はあっても強く感情を揺さぶられない、家族だとしても所詮血の繋がりがあるだけの他人だし、自分自身ではないし、利用価値があったものが消えた程度しか感じない。今だって家族のことを想像しても時間を共有していた時期のある他人としか思えないし、積極的に関わりたいとも思わない。ではペットが死んでしまったらのことを考えてみる。それでもやはり泣くことはないだろうし、喪失感があるだけだろう。それなりに世話をしていたペットが死んだ時だって泣かなかった。埋葬すべきだとも思わなかった。だって死んだら腐敗するだけの肉なんだからさっさとビニール袋にでも詰めて臭いが漏れでないよう縛ってしまえばいいでしょう? 火葬場での火葬も、焼却炉で燃やすこともどちらも同じではないですか? では自分が身体的な障害を負うことになった場合も考える。今まで通りの生活を送れないことに不満を感じるかもしれないが、それだけ。これ以上は似た経験をしていないから分からない。でも、昔利き腕を骨折した時も不便さに困難を感じたがそれが全てであった。

 

20220710, Sun

 前々から欲しかったMARKS&WEBのウッドアロマディフューザーを買った。水を使わないタイプのディフューザーなので部屋が湿気なくていいのが好感触で、なにより見た目が可愛い。木製台座の上にガラス製のオイル霧化部があり、まるで実験器具のようで自分好みドンピシャである。早速ベルガモットユーカリを3:1でブレンドして使っている、部屋中が佳い香りに満たされ気分が落ち着く。もう少し甘い系統の匂いのエッセンシャルオイルも試したいなあ、と思いつつオイルも安いものじゃないので当分はお預けです。最近興味があるのがお香で、こいつ紅茶だとかアロマだとか香水だとか香り物ばかり興味持ってんなって自分でも思うのだけれど、気になってしまっているのだから仕方ありません。部屋が香りに満たされていると自分の生活臭だとかが気にならなくていいのです、不快なものを別のもので上書きする、これはもはや僕の習性みたいなもので、外音を遮断するヘッドホンであったり、現実を忘れる読書であったり、どうしようもなく外が嫌なんですよね。

 

20220713, Wed

足音は記憶の中に反響する

開けたことのない薔薇園への出口のある

通ったことのない廊下に

反響する。私の言葉は反響する

そんな風に、あなたの心にも。

T.S.エリオット『四つの四重奏』 西脇順三郎

 T.S.エリオットの『四つの四重奏』は日本語訳としては西脇順三郎のものがいっとう好みなのだけれど、やはり原文の響きの方が心地よく、どうしたって詩というものは別の言語へ変換してしまうと別物へと変貌してしまう。まるで度の強いレンズを通して見える風景のように。

Footfalls echo in the memory
Down the passage which we did not take
Towards the door we never opened
Into the rose-garden. My words echo
Thus, in your mind. --T.S.Eliot Four Quartets

 例えば先に引用したバーント・ノートンの第一節に含まれる「足音は記憶の中に反響する」、原文では[Footfalls echo in the memory]、を舌先で転がしてみると韻律の心地佳さの違いに驚く。[Footfalls]のFとfの窄めた口から吐き出される空気は軽やかさを与えてくれるが、[ashioto]ではそうはいかない。

 内容を楽しむ分には翻訳でも構わないのだろうが、口に出して、読んで、味わうとなれば原文には敵わない。本当ならツェランツァラボードレールもウンガレッティもクァジーモドも原文で愉しみたいのだけれど、英語以外の外国語にはほとんど触れてこなかった僕は日本語で味わう他ない。悲しいけれど、そのために外国語を学ぶというのはどうにも気が乗らない。

 

20220716, Sat

 美しいものが好きだ。美しいと思えるものを蒐集し、その中に埋没し、仙人が霞を食べて生きていくように、僕は美しいものを摂取して死んでいきたい。紅茶やウィスキーの琥珀色、古書独特のインクや紙の甘やかな匂い、ガラス器具や金属の無機質で鋭利な反射光、心臓が騒めく潮の香りと波の音、悲しいほどに艶やかな鴉の羽、自分の心に触れる美を額に入れて飾りたいものだ。自分だけの博物館を。

 自分が美しく感じたものもいつかは色褪せてしまう。人の心は容易に移り変わり、累積は感じ方を変容せしめ、単純なままではいられなくなる。だから僕は無理だとは理解していているが記憶や感傷を無垢なままに保存したい、冷凍してしまいたい。冷たい氷の中に仕舞い込んで、永久凍土の下に埋葬してやりたい。自分の感動を無かったことにはしたくはないのだ。

 ドーアの『メモリー・ウォール』で描かれていたように記憶をカードリッジに封じ込め、いつでも見返すことができれば幸せだろうか。美しい原風景だけを摂取し、恍惚と過去を振り返り、涎を流し、それはきっとある一面では幸福だけれども、やはり醜いものだ。せめて過去ばかりは美しいままで死んでいてくれ。

 

20220717, Sun

 明日のことを思うと憂鬱で、今日のことを思っても憂鬱で、いつまでもこの鬱っぽさは消えてくれなくて、まるで暗闇の中にいるよう。

 僕の人生には目標というものがなくて、追い求めたいロマンというものがなくて、ただ存在があるだけで、空虚で、破滅的で、人生のドラマは平坦で、夢が欠如していて、生きる気力もなくて、苦しくて、耳鳴りが酷くて、どうせ生き続けてしまうというならばもっと苦しい目に遭いたくて、複雑怪奇な内面を掘り起こして気持ち悪いなあ、ぎゃははと嗤って、死ねよと自分に言い続けて、惨めな気分になって、嗚呼どうして生きているのかなァ。

 

20220718, Mon

 僕の食卓には米が上らない。炊飯器を持っていないというのもあるし、別段米を摂取したいとも思わないからそもそも米を買うこともない。摂取する炭水化物源といえば基本的に小麦で、うどんであったり、パスタであったり、パンであったりする。たまに蕎麦も食べるけれど、米は食べていない。鍋で炊くことが面倒というのもあるし、なにより米を炊き、冷凍したところで解凍する術を持っていない、つまり家には電子レンジがないわけで、この状態が長く続いているからもう買わなくても良いかなと思いつつ、お菓子とか作りたいからオーブンレンジ欲しいなあ、とも思いつつ結局無いまま今に至る。

 米を食べないのはなんだか西洋かぶれみたいで嫌だなあ、でも日本食に対して特に思い入れがあるわけでもないし、強いて言うなれば寿司は好物だけれど、家で作るものでもないし。

 米を食べたいという欲求が薄いのは、日本らしい食事というものに親しみがなかったからなのだと思う。昔から朝食はパンで、焼き魚、味噌汁、米、漬物、この教科書的な食事は旅館に宿泊した時にしか口にしないもので、むしろお腹に溜まる米を朝食で摂取するのは忌避感があった。今では紅茶とクッキー(菓子類)で済ましていて、米が入り込む余地はない。コンビニでおにぎりを買って食すこともまず無いし(昼食であっても基本的にスイーツ系しか食べない)、研究室に入り浸っていた頃は毎食パスタを茹でて食べていた。

 そもそも僕は白米を単体で食べるのが好きではない。フランスパンだとかはそのままで食べるのは好きだというのに。やはり西洋かぶれなのかもしれない。

 

20220723, Sat

 飲み会というものの楽しさが一向に分からない。とりわけ大して親しくもない人間らと美味しくもない薄いサワーや脂っこい食物を摂取して、興味もない他人の近状報告を聞くことにどうして楽しさを見いだせるのだろう。

 毎年のように高校時代の部活の同期の飲み会に誘われる。一度だけ行ったことがあるが楽しかった思い出はまるでなく、参加したはいいもののただただ居心地の悪さしか感じなかった覚えがある。僕はアジア系によく見られるアセトアルデヒド脱水素酵素を持たない体質でアルコールに弱いから一杯で酔いが回って、しかも質の悪いアルコールであれば頭も痛くなるしで、酒を嗜むのはともかく、酔うことを目的とした飲み方は耐えられない。

 飲み会に参加したとしても最初はソフトドリンクを頼み——それでアルコールに弱いのかと訊ねられるのも鬱陶しい——、中盤に美味しいとも感じられない醸造アルコールで舌と脳を痺らせ、周囲の異様に大きい笑い声の喧騒を微睡みの中で眺め、会の雰囲気に馴染めない僕を見かねてか話しかけてくる幹事役の人間に「大丈夫だよ」と何が大丈夫かも分からない言葉を返し、構わないで欲しいと思うがそんなことはおくびにも出さず、絶えず襲いかかってくる眠気に耐えながら会の終わりを待ち望む。二次会は酔ってしまったからと理由をつけて断り、心配する声に大丈夫だよありがとうと返し、その場を後にする。まったくもって無駄な時間だったと帰りの電車の中で思い、LINEに送られてくる会の写真を眺め、なんでこの人間らは楽しそうに嗤っているのだろうと疑問に思い、顔を赤くしビールジョッキを掲げた人間の隣で引きつった笑みを浮かべている自分の顔に嫌悪して、ああ本当に無駄だったと反芻する。

 一度LINEのグループを抜けたがなぜか招待され、無視していると個人宛にメッセージがきて、僕はすまない忘れてたという謝罪とともにスタンプを送り、再びグループに参加する。飲み会の企画とスケジュールが貼られ参加する気の無い僕は無視を決め込む。11分の16が回答し、僕を含めた5人は回答しない。回答が少ないことに疑問を呈する人はいない、もう分かっているのだろうこいつらは参加する気が端からないやつだと。他の4人は僕と同様に楽しさが分からない人間なのだろうか、それだったら少しだけ嬉しい気がする。

 

20220724, Sun

 自分を取り巻く事物が大きく変化すると陥る足下が崩れ去るような感覚。

 "取り返しがつかない"という考えに支配され、根拠の無い罪責感に襲われ、世界から排撃されているのだと感じ、もういっそ隠れてしまいたいと、無くなってしまいたいと希う。存在していることの罪深さを自覚し、内面に瀰漫する空虚を見つめ、あなたについて思いを巡らす。(自分の)存在を懺悔し、(あなたの)存在を憎悪し、死んでしまえと誰に言うでもなく言う。

 

20220725, Mon

 仕事を終え、帰宅しても毎日毎日ただ時間を浪費し、生産性も何もない虚ろな生活を送っている。積み上がった本の山から適当に引っ張り出して頁をぱらぱらと捲り、デスクトップに放置されていたゲームを起動し、紅茶を淹れ、音楽を聴き、自分の好きに時間を使っているというのにちっとも楽しい気分にはならなくて、まるで他人の人生を操作しているよう、いいや違う、操縦席にいるはずの僕といえばつまらない映画を見せつけられているみたいで、僕の人生だというのにまるでリアルさが感じられない、映像的だ。この肉機械を動かす神経の電気信号は果たして僕から発信されているのだろうか、実は僕が見たいと思った映像を誰かが作り出しているのではないでしょうか。そもそも僕という存在(身体)は死んでいて、既に腐敗していて、ただ魂だけが残り映像を見せつけられ、現在の僕は延々と続くような走馬灯の中に閉じこめられているのではないかと、そんなことをつい考えてしまって、駄目だなあ、これではまるで鬱病じゃないかと、コタール症候群ではないかと思うわけです。しかしまだ自分のことを明晰に眺めることができるのだから大丈夫、大丈夫なんですと言い続けると本当に大丈夫な気がしてくる、気分が少しだけ佳くなる。しかし所詮は一時しのぎ、時間が経てばあっという間にどん底に、気力もなにもかもが失せ、真っ暗闇です。ぎゃあ。孤独に襲われ、無性に熱が恋しくなるが求める相手もいなければ求めようとする気もないわけで、しくしく悲しみながら虚空を見つめ、自分の中心に図形を思い浮かべ、安定を図ります。不定形だけど幾何的な、まるでアモルファスのような形のない図形を。そして水を口の中で転がし、暗くした部屋の隅、畳んだマットレスの上でひざを抱えながら机に上で灯るライトを眺め、また図形を想像するのです。

 

20220726, Tue

 秋葉原通り魔事件の犯人である加藤智大の死刑が執行された。これを伝える記事にはやはりというべきか、遅い、さっさと死刑を執行すればよかったのに、税金の無駄遣い、死んで当然、やったぜ、といったコメントが散見された。たとえ殺人を犯した人間であっても、他人の死を望む人がこんなにもいるのかと驚き、悲しくなる。罪には罰が与えられるのは当然だとしても、しかし僕は死刑という制度にどうしても賛同することができない。人の命を尊ぶ社会であるのに、なぜこんなにも残酷で人に優しくない制度を採用できるのかが理解できない。国家というただでさえ強大な組織が合法的に生死を定める力を握っている、これは酷く恐ろしいことではないだろうか。

 死刑制度の本質は人の命を他人が左右できることにある。本来なら保証されていなければならない生命の自由を縛られている、支配されている。これはあまりにも非人間的ではないか。

 死刑執行は国家による刑罰であったとしても、それを執行するのは生身の人間。三名の刑務官がボタンを同時に押し、誰のボタンによって刑が執行されたのか分からないようになっている形だとしても、どれだけ間接的な手段になっているとしても、畢竟人の手で殺していることには変わりない。これが意味するところは国家主導の殺人であるということ、国の指示で誰かが誰かを殺めることを容認してもよいものなのだろうか、少なくとも僕の倫理観からは相容れない。

 ボタンが押され、床が抜ける。被執行者は重力に誘われるままに落ち、首に結わえられたロープによって全体重が支えられ、落下時の衝撃で首の骨は折れ、そして死ぬ。大抵の人間は苦しみから、死から逃れようとする。刑の執行前に暴れる被執行人がいれば、大人しく刑を執行されるようにとその身体は刑務官によって押さえつけられることになる。被執行人の叫びや足掻きを必死に押さえつける役割を与えられた人々の精神的負荷はどれほどのものだろう、誰が好き好んで人を殺したいと思うのか。「死刑」という言葉では表すことの出来ない悲痛な現場を考えるとやはり死刑制度というものはとても許容できるものではない。

 誰が何と言おうとも、どれだけ悪辣な人間がいたとしても、人の死を望む人がいたとしても、人間的であると断言できる社会で在ろうとするのならば、人に人殺しをする機会を与えてはならない。 

 

20220731, Sun

 愛を知りたい、さもなくば死ぬしかない。