万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

10月の言葉

20221001, Sat

 頭蓋の裏側にべったりと張り付いて落ちない粘性の憂鬱。何も良いことがないと思いながら過去に記憶を飛ばし、外に視線を遣ることを恐れる。部屋の隅に小さくうずくまりながら身体を震わす子供のように、身体を折り曲げて内側に祈りを捧げる。うらぶれて腐臭のする言葉の数々が内面に漂い、それはまるで港湾の死んだ魚と廃油と錆に汚れた水のようで、汚らしい。僕は汚れた人間です、救いようの無い人間です。もう、終わりにしたい。この世界と和解できないから、もう終わりにしてくれませんか。どこにいても希望なんてものを見いだせず、暗い話題ばかり。誰もが誰かと啀み合い、不安と不満を吐き出し、自分より弱い人間を虐めている。こんな誰かの犠牲の上でしか成り立たない世界に僕は生きたくありません。

 窓際が誘惑してきます。アルミニウムの軽い金属光沢が、手すりの先にある景色が、アスファルトのざらつきが、白線の暖かさが、こっちに来なよと呼びかけているんです。その呼び声を遠ざけるために何か一つの物事に自分を差し出し、あるいは自らを損なうことで耳を壅塞して来ましたが、もう耐えられない。日に日に世界は悪い方向へ進んでいきます。誰かの主張と主張が相対しては激しい物音を響かせ、責任の所在を巡って諍いが起こり、未熟な果実は暗渠に堕ち、もっともらしい嘘が横溢し、誰もが俯きながらゾンビのように蠢いている。窓際はあんなに優しそうに、あんなに大きく腕を広げていて、あれを見ているとなんのために生きているのかが分からなくなる。なんのために苦しみ、なんのために快楽に縋るのか。あなたは教えてくれないから、僕は誘惑に負けそうになる。物語や偶像で鎮痛するにも限度というものがある、モルヒネを使い続けていると身体が馴化し効き辛くなるように、誤魔化しか効かなくなりつつある。

 破綻している。馴染めない。

 もう、終わりにしたい。

 

20221002, Sun

 国立近代美術館で催されていたゲルハルト・リヒター展へ最終日に滑り込んできた。当日券は午前中に完売したらしく、予約していて良かったと改めて思う。まあ、最終日でなければそんなこともなかったのだろうけれど。というかこいついつも会期ギリギリに行ってんな。ポンペイ展でもそうだった、僕は興味のある事柄でもどうして後回しにしてしまう。悪癖だとは分かっているが、根が怠惰なので直せない。きっと痛い目に遭うまで同じことを続けるのでしょう。

 話は逸れてしまったけれどリヒター展の感想をどうしても残したくなったので少しだけ。目玉でもあった〈ビルケナウ〉、これはもう圧巻の一言に尽きる。黒を基調とした四枚のアブストラクト・ペインティングを見た時、単純に暴力的だと思った。作品名が示すようにアウシュビッツホロコースト)を題材にした作品で、黒に緑、赤、白が走るカンバスからは苦悩や悲鳴が聞こえてくるようだった。作品が展示された部屋の奥には巨大な灰色の鏡が設置されており、部屋全体が映し出されていた。鏡に映る灰色の人影を見た時、後頭部に痺れが走った。ああこの感覚、僕は感動している。〈ビルケナウ〉それ自体よりも鏡に映し出された色の失われた景色は僕を動揺させた。壁に鎮座する絵画に群がりスマホのカメラを構える人、右に左に部屋全体を眺める人、連れと言葉を交わす人、そして僕が無機質に映っている。それだけなのに、それだけが僕を惹き付けてやまなかった。会場に満ちる雑踏の喧騒が漣のように空間に広がる、鏡の中の景色は刻一刻と移り変わる、心臓がざわつく。ケルン大聖堂のステンドグラスの写真を見てからリヒターは好きな芸術家だったが、この展示会を観てより好きになった。

 佳い一日でした。

 

20221005, Wed

 昨日、今年のノーベル物理学賞の受賞者が発表された。アスペ、クラウザー、ツァイリンガーの三人、量子力学に少しだけ関心を持っている僕でも知っている名前だった。特にツァイリンガーらが行った彼の有名なラパルマ島とテネリフェ島間——直線距離にして約144km——での巨大なスケールのQuantum teleportationに関する実験、あたかも時間的に後の光子の測定が時間的に前の光子の測定結果に影響したかのような結果の衝撃を忘れることはないでしょう。

 新作のドッペルゲンガーの子供-Prequel-にもツァイリンガーの実験について言及するシーンがあり、一種の運命的なものを感じる。まあ僕は運命なんてものを少しも信じていないのですが。

 興味のある人は[Entanglement-based quantum communication over 144 km](論文にアクセス出来る人向け)か[Free-Space distribution of entanglement and single photons over 144 km](誰でもアクセスできる)を読んでみるといい、面白いです。

 

20221007, Fri

 僕の宗教的指向に考えを巡らす。僕はあなたの存在を信じてはいないのだけれど、あなたについてややもすれば考えてしまう。だから無神論者ではないのだろう、であれば信仰しているものは一体? 明確な信仰があるわけではないけれど、あえてカテゴライズするのであれば僕はあなたの敬虔で不躾な下僕——クリスチャン——なのだろうか、僕の考えに近しいものからするとケリントス派かもしれない。だけどまだよく分からない、僕はあなたに愛着を感じているが同時に拒絶も感じている。背反する考えがいつまでもあなたへの信仰に辿り着かせてくれない。

 僕は根本的に何かを信じることに向いていないのだろう、昔から誰かを頼ることに、自分を預けることに嫌悪感があった。高いプライドがあったのか、それとも他人に対する警戒があったのか、あるいは両方か、はたまた別の要因があるのか……分からないけれど、僕は自分が傷つくのを酷く恐れている。だというのに自らを損なう面もあるのだけれど。

 信仰について考える時、いつも公園の東屋が思い浮かぶ。中央には樹脂板に囲われた空間があり、その周りには木板が張られている。木は経年劣化によって腐りかけており、端の方は触るとボロボロと木くずが落ちる。中央の空間では煙草の吸い殻や空き缶が死んでいる。この頽廃した東屋がなぜ現れるのか。僕の幼少期に見た光景は、そこで高校生らしい男女が交わっている姿だった。座る男に向かい合うようにして女が抱えられ、奇妙に、カブトムシの幼虫のようにむずむずと動いている。女は声を押し殺し、楓の葉が擦れる音と衣擦れの音が聞こえる。……以前もこの話を書いたような気がする、今でも記憶に反復されるのはある意味これが僕の原風景だからなのだろうか。東屋、腐敗、男と女、これが僕の信じるものだと? 意味が分からない。

 

20221009, Sun

人は死んでしまえば

もう生きなくてもよいのです。

苦役のようなわたしの人生ですから

交替の時が来るのをわたしは待ち望んでいます。

ヨブ記14-14(新共同訳)

嘲りに心を打ち砕かれ

わたしは無力になりました。

望んでいた同情は得られず

慰めてくれる人も見いだせません。

人はわたしに苦いものを食べさせようとし

渇くわたしに酢を飲ませようとします。

詩篇69-21,22(新共同訳)

騎兵は突撃し

剣はきらめき、槍はひらめく。

倒れる者はおびただしく

しかばねは山をなし、死体は数えきれない。

人々は味方の死体につまずく。

ナホム書3-3(新共同訳)

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされないからです。

ヨハネの手紙4-18(新共同訳)

この人々は、その期間、死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く。

ヨハネの黙示録9-6(新共同訳)

わたしは、その小さな巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった。

ヨハネの黙示録10-10(新共同訳)

 あなたが居ない夜に、僕はあなたを想う。

 あなたが居ない夜に、僕はあなたの愛を厭う。

 あなたが居ない夜に、僕はあなたの温度を探す。

 あなたが居ない夜に、僕はあなたに呼びかける。

「もう終わりにしてもいいですか」

 

20221010, Mon

活ける水とは身体である。われわれが活ける人間を着ることは適切なことである。それを着ようと、彼が水に降りて行くときに裸になるのはそのためである。

フィリポによる福音書§101(岩波書店・ナグハマディ文書Ⅱ)

むしろ、われわれは恥じ入るべきであり、完全なる人間を着て、彼がわれわれに命じたそのやり方で、自分のために(完全なる人間)を生み出すべきであり、福音を宣べるべきである、救い主が言ったことを越えて、他の定めや他の法を置いたりすることなく。

マリヤによる福音書【18】(岩波書店・ナグハマディ文書Ⅱ)

 人間を着るという表現。誇張無く僕たちは人間を着て生活していると常々思う。別の人間の行動やファッションを模倣して、解体して、再構築して人間らしく振る舞おうとしている。裸に剥いてしまえば所詮動物、毛皮を持たない猿に過ぎない。無花果の葉を待たぬままに行動することを恥じるのは思惟があるからで、人間を人間たらしめているのはその無花果の葉を使う行為にある。社会から断片を切り出し、社会性と言う名の葉を身体に貼り付けることでやっと人間と認められる。難しい、と思う。人間であることはどうしてこんなにも困難なのだろう。他人の行動の意味を分からないままに模倣して、間違えて、修正して、なんとか人間と認められている。本当の僕は人間ではないのでしょうか、裸の僕はやはり動物に過ぎなくて、ではどこからが人間なのでしょう。服を着ただけでは人間ではありません、"適切な"服を着なければなりません、肩に色褪せが見えたり、襟に黄ばみがあったり、(劣化による)穴が空いていたりする服を着ていると人間でないことがばれてしまうからです。そのことに気付くのに長い時間が掛かりました。適切であることは難しい、人間であるのは難しい、生きるのは難しい。

 

20221011, Tue

 今日も無残にも生き残ってしまった。

 

20221014, Fri

万物の終りは近い。だから、より良く祈るために賢明であれ、慎み深くあれ。何よりもまず絶えず愛し合え。愛は多くの罪を覆うものである。

ペトロの第一の手紙4-7(バルバロ訳)

 もう全てを抛ってしまおうか。あなたは何も教えてくれないから、僕はもう分からないのです。あらゆる情報が苦しめる。なづきに溜まる鬱屈が膿んでいる。

 自殺とはこの世に対しての敗北だと誰かが言った、だったら勝利とはなんでしょう? 生き残れば美酒でもてなされるのですか? たとえ祝福があっても僕はそんなものに興味を惹かれない、黄金も権力も欲しくない、死を与えて下さい。あなたがイサクの命を欲したように僕の命を欲してはくれませんか。僕は背徳の羝です、だから命を奪ってくれませんか。

 賢明でありたいと思う、慎み深くありたいと思う、僕はいつだってあなたに祈りを捧げたいと思っていた、でもそれは不可能なのだ、あなたのことを僕は信じられないから。行き場を失い遺された隠微で曖昧な欲望は虚しく、空しく、腐乱していて、ああ、この感情はどこへやればいいのでしょう。愛を知らない僕は罪人です、だからあなたは姿を見せないのでしょうか、でも、無理なんです。誰かを愛そうとすると吐き気がしてしまう。有機体の生々しさが、感情の重さが不快でたまらなくて、遁走してしまう。

 

20221015, Sat

 顔を覚えることが酷く苦手なので、人間のことをその時の服装や髪で覚えている。だから同じ人間とは数度会っただけでは同一人物であると認識するのが困難だ。側頭葉が死んでいる。そのことを他人に話すと驚かれる、それじゃあ服が変わったら分からないじゃないか。その通りなのだ、服が変われば別人に思えるし、髪の色(髪形)が変わればそれでも別人に思えてしまう。数年ぶりに知り合いに会えば記憶の中のその人と比較して違うことに驚き、本当に同じ人なのかと疑ってしまう。(印象が)あまり変わってないね、と度々言われるがそれは僕に同一性を保つには常に同じ格好をしなければならないという思いがあるからなのだろう。同じ服を何着か持っているし、それを曜日ごとに変えているのもそのひとつだ。ファッションへの頓着のなさはそういう変化を好まない部分に起因しているのかもしれない。そんなに自分を変えてしまえばいつか自分が自分でなくなる気がするものではないのか? 単調な色の服に身を包まなければ落ち着かないし、抽斗の中は藍色と灰色の服で一杯だ。

 顔を覚えることが難しいので、待ち合わせには必ず相手よりも早く来るようにしている、であれば相手から話しかけてくれるので間違えることがない、安心だ。とはいえ相手の口調や服装の傾向を覚えていれば大抵どうにかなる。しかし私生活ならともかく、仕事だと難しい、相手は皆一様に作業着を着ていたり、スーツを着ていたりと周囲と統一されているからあの服を着ているならあの人だなという見当がつけられない、せめて胸元にネームプレートを付けてくれませんかと思うが顔が分からなくなってしまう僕が完全に悪いのだから文句を言えるわけがない。人間の顔は一定ではなくて、刻一刻と表情が変化する。これがまた煩わしい、変わると分からなくなるだろ。

 眼を一瞬でも離すと霧散する相貌、今まであった顔はどこへ行ってしまったのか。人はあまりに顔を持ち過ぎていて、覚えられない。だから変化の種類が限られる絵なら覚えられるし、絵に愛着を持ってしまうのは当然のことなのだろう。

 

20221018, Tue

 人生を俯瞰して見れば、案外人間というものは幸福に生きているものだ、自分が思うよりもずっと幸せに見える。自分のことだというのに信じられないが、実際そうだったのだろう。人の思考は辛かったことや苦しい出来事を覚えてしまいがち(印象に残ってしまう)だが、これまでの人生全体からすれば少ないもので、単に強烈な出来事だったから覚えてしまっているのであり、小さな幸せだったことにも目を向けると総量では幸福であったことに気付く。でも、それを受け入れたくない自分が人にはある、今の自分がこんなにも惨めなのは自分が不幸せだからと、環境や過去に理由付けしなければ説明がつかないとし、だから自分は決して幸せだったことはなかったと言いたくなってしまう。でもさ、そうやって自分で自分を苛めて何か良いことでもあるのか? 分かる、分かるよその気持ち、僕だって同じだから。自分が惨めであればあるほどになぜか快楽のようなものを優越感のようなものを感じることがある、矛盾しているとは思うけれど、仕方のないことなんだよね、だって僕たちは破綻してしまっているから、現実を無味乾燥に受け止められるほど成熟していないから。生きたくはないけれど死にたくはなくて、幸福でありたいけれど不幸せでもありたくて、終わっている。だけれどもしょうがないじゃないか、外界からは常に刺激を与えられていて休まる暇はなく、ストレスで混乱してしまった脳は何が何だか分からなくなっている。死にたくないよ、生きたくないよ、助けて欲しいよ、助けて欲しくないよ、不幸だよ、不幸じゃないよ、幸せでありたいよ、幸せであったかもしれないよ、どうしようもないよ、本当にどうしようもないんだよ。

 

20221019, Wed

 幸せなら幸せのまま幸せの中で死に絶えたい。

 

20221023, Sun

 死ぬために生きている。

 

20221024, Mon

 アークナイツの第十章を終えた。相変わらずシナリオが巧いし章を経るごとにゲームとして洗練されていっているのを感じる。

 

20221025, Tue

 ヤギという単語で思い浮かべるものの一つに腔腸動物の海楊(八放サンゴの一種)がある。実はヤギは海洋生物由来の天然物化学の火付け役とも呼べる生物で、1969年にWeinheimerらが哺乳類の生体内に微量存在していたプロスタグランジンをカリブ海産のヤギ Plexaura homomallaが高濃度に保有することを見いだした。これに端を発する海洋天然物ブームによって様々な新規化合物が見いだされてきた。有名どころで挙げてみるとクロイソカイメン由来のhalicondrin Bは良く知られているのではないだろうか、実際この化合物をファーマコフォアにしたeribulinは抗がん剤として上市されている。

 ヤギで他に思い浮かぶのは哺乳類のヤギはもちろんなのだけれど、ディオニューソスが連想される、豊饒と酩酊を司るギリシア神話の神、ギリシア神話の中でも特異な人間を母に持つ神、一度は流産によって死んだものの再び生まれることによって存在自体に二重性を秘めた神。古代アテナイではディオニューソスを讚えて祝宴が開かれていた、彼に捧げられたディテュランボス(酒神讃歌)から派生したトラゴーイディアーはギリシア悲劇として知られているけれど、山羊の歌を意味している。なぜ、山羊なのかと言えばディオニューソスは黒い山羊の皮を着ているため象徴の一つとされているから。コルヌコピア、豊饒の角をもたらしたゼウスの育て親であるアマルテイアも山羊だった。

 僕は動物のヤギの瞳が好きだ、あの横に引かれた長方形の瞳孔は他の哺乳類にはない奇妙な感覚を与えてくれる——タコも同様に好きです——。動物のヤギであればレビ記16章を思い浮かべる人が多いのではないだろうか、むしろヤギの一般的な認識であればこちらだろう、贖罪の象徴としてのヤギ。スケープゴート。アロンとイスラエルの民の罪を背負わされ荒野に放たれた哀れな山羊。不毛の荒地を彷徨うアザゼルの瞳には一体どのような景色が映り、過ぎ去っていったのだろうかと僕は時々考えてしまう。

 

20221027, Thu

 自分に価値を見いだせない。心の中では思っているんだよ、もっと自信に溢れた人間になりたいと、でもどうして自分は無価値にしか思えなくて、こんな暗い自分は嫌いだけれど矯正できない。悲しい言葉に、暗い物語に、雨の冷たさに触れている時に悦びを感じてしまう僕だから、いつでも俯いているばかりで、前を向くなんてとんでもない、難しい。あなたはこんな僕にも目を向けてくれるのでしょうか? 血溜まりの中で踠く僕にあなたは「生きよ」と言ってくれるのでしょうか? また「生きよ」と繰り返してはくれるのでしょうか? でも、あなたの声は僕には必要ないのです、成功のストーリーなど最初から欲してはいないのですから。

 

20221031, Mon

 これまでの生存に対する精算をしなければと思う、そして空白になろう。

 削り、放棄し、捧げ、無になろう。

 いつまでも満ちることがないのなら、空にしてしまえばいい。

 完全な真空なれば極限と言う意味で満ちているのとそれほど違わないから。

 砂漠になろう、塩になろう、水になろう。

 生と死が親しいように。