このブログについて

筆先より流れ出ますは遅効性の神経毒、痛みを蝕す言葉をお送りいたします。
サークルブログっていう意識はないのだけれど、一応『万年筆と神経毒』というヴィジュアルノベル制作サークルの中の人のブログ。サークルとは言っても構成人数は一人のいわゆる個人サークルなので、このブログも必然的に個人的なブログの側面が大きい。
個人的なブログであるから、ここに書くことのほとんどは創作に関係なく、だから作品の進捗状況だとかはあまり出せない。
何かありましたら以下の連絡先まで。
mizuha.kannazuki■gmail.com(■を@に変更して下さい)
XのDMでも可
依頼についてはCommission頁を参照のこと。
以下拙作についてのまとめ(ヴィジュアルノベル)。
Previous Projects
1st Project:贖罪と命

生きる意味を見失った青年の手記。死へと近付くことで生の意味を問い直す。
※配信終了
2nd Project:慈愛と祈り

『贖罪と命』のスピンオフ作品(なぜかボリュームは3倍ある)。愛、信仰、生きる意味、そういったことを凶悪事件の遺児である主人公が問いかける。
※配信終了
3rd Project:Child of Doppelgänger-Prequel-(ドッペルゲンガーの子供-前日譚-)
§.Prequel [Gnosis] グノーシス C102にて頒布
運命に翻弄される姉妹。偏在するありふれた不幸と幸福。
柊理香子という女性について書いた話になります。成人向け。
※Prequelと開発中の本編は繋がりこそありますが、物語としての精髄は全く別のものとなります。いうなればグノーシス文書と聖書ほどの違いです。Prequel単体で一つの物語として完結していますし、また本編はPrequelを知っていると味わい深くなるような構造となります。
※BOOTHにて配信中
4th Project:Jeux bleu(青い戯れ)
C104にて頒布いたしました。魂を巡るスラヴ的幻想ADV。
異形と化した少女との邂逅、生命の煌めき、哀しい愛情の向かう先。
スラヴの民間伝承に語られるルサールカをモティーフに水の精といった古典をベースにしつつ現代的な文脈で書いた作品となります。全年齢作品。
※Steam、BOOTHにて配信中
Jeux bleuは創造性の認められるものに関して実況配信を許可しております。
C106にて設定資料集・副読本〈ONDINE-Jeux bleu Supplementary material-〉を頒布。
Current Projects
・Child of Doppelgänger(ドッペルゲンガーの子供)
4部構成の物語。言葉、記憶、神、愛をテーマに据え、人々の繋がりを描く作品。本編はサスペンスに分類されると思う(ミステリー要素も有り)
§1. [A Way to Dissappear its Existence] その存在の消し方
多摩川で発見された水死体、それはかつて失踪した恋人のものだった。首元に奇妙な痕跡が残された遺体と連続する殺人事件を巡って哀れな男が奔走します。
§2. [Delayed Echolalia] 遅延性エコラリア
語られるは5年前から続く因縁、暴かれるは事件の真相、誰も幸せにはなれません。
§3. A√[Godisnowhere] ■■■■ B√[The Silent Crossing of Loves] 逢瀬
§4. [Imago]イマーゴ
物語の終幕、羽化。面影。
・Felix culpa(幸いなる罪戻) ※贖罪と命、慈愛と祈りのリメイク作
三部作として宿痾と黄昏「屍と幸い人」という作品も加えてリメイクします。Child of Doppelgängerより先に出す予定です。
・Nouveau Jeux bleu(制作未定)
Jeux bleuから何年も後の話を書きたくなったら書くかもしれません。メリュジーヌ的表象を扱えればと考えています。恐らくですがスィニヤもラリサも登場しないでしょう。
Discontinuance Projects
・『FRAGILEs』
7+1の物語からなる、実存的断章群像劇。ある家族の終わり、あるいはある少女の始まり。執筆停止。
十二月への言葉
20251203, Wed
波のように絶えず寄せては返す虚無がある。ある瞬間に突如として心の中を満たす暗い水がある。今もそうで、胸の下辺りが妙に重さがあり、でも何も無いとも感じる。締めつけられるような、あるいは何か綿のようなものを詰め込まれているような気がする。冷たさを感じ、熱さも感じる。矛盾が広がっており、混乱を覚えるが、そのような乱れすら整然としているように思う。波が、絶えることのないあの乱雑な周期がある、あり続ける、そうに違いない、だろう。いつも、と思う。いつもこの空虚な波は傍にあって、生命そのもののようだった。目的のない繰り返し。生きている中で相対する人生への疑問、生命そのものに対する意味の問い掛け。何のために生きて、何のために死ぬのか。目的は? そんな益体もない思考は幾度も脳を巡った。答えはいつだって無意味の一言に尽きてしまって、その度に下らないと思うけれど、それでも何度も問うてしまう。究極的な意味はきっとないのだとどこかで分かっている。この宇宙が果てる時に、僕ら生命の存在など儚く閉じてしまうのだから。でも、と思う。意味がないと分かっているからこそ、その余白に何かを書きこみたくなるのだろう。意味がないからこそ、意味を見出してしまうのだろう。波はいつまでも繰り返される、だからその繰り返しに意味を感じたくなる。神が存在しないのに、存在していると信じたくなるみたいに。虚無が寄せる、そして引いていく。それは僕を不安にさせたが同時に安堵を与えるものでもあった。生きるということはそういうことなのかもしれない。決して安定しない独楽のようなものだ。
20251207, Sun
木曜日に祖父が荼毘に付された——ここ最近は数日前のことを書いていてもはや日記ですらないですね——、彼の骨を見ると人間とはこんなにも小さくなるのだと思った。以前にも親戚の骨を見た時に思ったけれど、何度見ても同じことを考えてしまうのかもしれない。
彼の骨には緑色が沈着している部分と橙色や鮮やかな赤色が沈着している箇所があった。前者は大腿骨に、後者は頭骨に多く見られ、(ネットの情報なので定かではないけれども)調べてみると緑は炉の金属成分と反応したことによるもので、橙や赤は血液や脂質の色だとか。まあ花の色とも書いているサイトもあったので全く信用していないが。サイトの情報はさておき、僕は鮮やかな赤を見て、ピンク歯(ピンク骨)を連想していた。ピンク歯とは扼殺などに諸原因よって鬱血が生じた結果、細血管が破れ、血液中のヘモグロビン(Hb)を起因とする着色現象——これについては『警察官のための死体取り扱い実務ハンドブック』に記載がある。Hbは一酸化炭素(CO)——COが生じる機序は腐敗菌等の細菌によるものと考えられている——と結合することによってCO-Hbを生じ、これは鮮やかな紅色を呈することが知られている。思い出すと確かにあの鮮やかな赤はCO-Hbを由来とするもののように思えた。
彼は死の数日前に転倒し、頭を強かに打っていた。額が割れ、血を流すほどに。そのことを加味するとやはりあの色はCO-Hbによるものだったのだろう、単なる血液の色とは異なるあまりに鮮烈な色だったから。
というかここまで書いていてもう少し死者を悼むことを書けば佳かったかなと思った。でも印象は骨に全部持っていかれてしまったのだ。
20251216, Tue
アンソニードーアの新作がついに邦訳されたので早速手に取った。ちまちま読み進めているけれど彼の詩的で、細部にまで気の配られた、想像力を掻き立てる文体が改めて好きだと思う。ドーアといえば『すべての見えない光』が文庫化されるくらい有名だけれど、個人的に彼の作品ならば——これは前々から言っていることだけれど——短編集シェルコレクターの中の一篇である『世話係』が好きだ。何度も読み返したし、愛しているといっても過言じゃない。より優れた作品はあるけれど、どうして僕を惹き付けてやまないのだ。
20251228, Sun
ここ最近ずっと気が滅入っている。冬だから、だろうか。寒くて、日が薄くて、だからいろいろな部分が冷たくなってしまうのかもしれない。
十一月への言葉
20251103, Mon
思い浮かんだ言葉は直ぐに書き留めておかなければ瞬く間に溶暗してしまう。確かにあったはずなのに、その輪郭すらも捉えられず、ただあったはずだという曖昧な感覚しか残ってくれない。僕が考えていたことがまるで最初からなかったかのように。中空に融ける白煙のように。
十一月に入り、心を寄せた時、何かを書こうと思った、思っていたのだった。それは一昨日のことであったから今はもうすっかり忘れてしまって、なぜその場で出力しなかったのかと悔やんでいる。どの場面で僕が思い起こしたのかすら分からない。外に出ている時だったかもしれないし、ベッドの中にいた時かもしれない、あるいはこうしてパソコンを開いている時だったかもしれない。どのように心に石を投げ入れようとも波紋は浮かばず参ってしまう。僕はこんなにも忘れぽかっただろうかと。いいや、単に書こうとしなかったから忘れたのには違いなく、記憶力に関係の無いほどに些細な事柄だったのだろう。重要視しなかったから放置してしまった。でもこうして後悔しているわけだから多少なりとも大切なことだったのかもしれない、今となっては分からないけれども。
日々いろいろなことを忘れていく。昔のこと、今のこと、未来のこと、去来する大小様々な情報は大脳皮質という大気圏で燃え、ほとんどが燃え尽きてしまう。重要なものは海馬まで到達するかもしれないけれど、埃のようなものたちは消え去ってしまう。でも摩擦の中でその身体を煌々と燃やす僅かな瞬間を網膜に焼き付けることは可能で、そうした記憶しようとする試みの繰り返しが心の中に小さな美しさを積もらせていく。大切にしたいと思う、つい蔑ろにしてしまうけれども、僕は眼に映る小さな口火を幾つも留めたい。そうしなければ記憶が、感情が、淀んでしまうと思うから。
20251108, Sat
他人を、生きた他人を好きになってしまうことが恐ろしい、だから好きになりたくないと思う、愛したくはないと思う。一定の距離を取らなければ僕はきっと傷付けてしまうだろうから、不快にしてしまうから。離れたい。まあ幸い今はそのような他人はいないけれども。
20251109, Sun
仮に、仮にですよ! 多くの金銭を得られるとして、もしもそれが自分の精神を高慢な方向に変容せしめてしまうのならば、その得られる全てを投げ捨てるか、あるいは喜捨したいものです。最近よく思うのです、どうして人間は地位や金銭を持っているだけであれほど他人を見下せるのか、小さな逸脱を繰り返せるのかと、同じ人間だというのに。僕たちは個々人が誰よりも劣る人間だと考え、常々謙虚にならんとし、自覚しなければならないと思います。……総体としての人類はあまりに罪深い、そう思わずにはいられないのです。利益の追求でどれほどの環境や生命を破壊してきたのか、歪んだ欲望のためにどれほど同じはずの人間の尊厳や生命を踏みにじってきたのか、日々この目に入る情報が苛むのです、あまりに醜悪な人間の姿を浮かび上がらせてくるせいで。
僕は仕事でまま車を運転するのですが、なんとなく高級な車ほど方向指示器を怠ったり、あからさまにスピードを出し煽ってきたり、無理な横入りをするように感じます。もちろん高級車ではない車だってある程度そのような逸脱をするものがありますが、それでも割合としては3割くらいのものでしょう。高級車に乗っているという、無意識な自信が彼らを高慢にさせそのような小さな逸脱に導くのでしょうか、自分は優れているからと心の裡に思い、意識には現れなくともうっすらと周囲を見下しているのでしょうか、だから煽ってくる、お前のような車が自分の進路を塞ぐことにたえられないといったふうに。執拗に、距離を詰めてくる。
生成AIについての所感があります、僕個人としては生成AIを使うこと自体は悪くないとは思っています、その学習データが多少後ろ暗いものであれ、既に——生成AI以外の例えば機械翻訳をはじめとする——AIの恩恵にどっぷりと浸かっている我々が断罪できるようなものではなくなっているのですから。ただその使用の仕方には目を覆いたくなるものがあります、結局は使用者のモラルの問題ではあるのですが明らかに他者を傷つけんとする方向に使っている人間や、自信の利益のために虚言を並べている人間が目に付くのです。反AIという言葉を度々目にしますが——これは生成AI利用者の一部、それも劣等感や罪悪感に酷く苛まれている人間が使いがちに見受けられます——、その言葉の在り方からして僕は不思議に思うのです、なぜ反生成AIという言葉にしなかったのかと。多くの場合生成AI(の利用者)を非難する人々は機械翻訳のようなAIの利用には反対しているようには見えません、だというのに彼らはAIの利用自体を否定しているかのように「反AI」というレッテルを貼られ目の敵にされています。生成AIを否定するということはあらゆるAIの利用を否定するのだろう? と言われているかのように。生成AIは否定するのにそれ以外に目を向けないのはダブルスタンダードじゃないかと非難するように。反AIと呼ばれる人々が憤っているのは大抵生成AIの使い方にあって、その技術自体ではないはずなのに。彼らが非難したいのは利用者の、そのモラルに反した行いにあるというのに、そのことが無視されている、はぐらかされている。あまりに醜悪だと思う、正面を向いた対話がなく、だというのに非難されている被害者ぶって、高慢ちきな一部の人間はただただ相手を傷つける方向にばかり増長している。なんと罪深い姿でしょうか。
20251116,Sun
ぼちぼちと次回作のシナリオ執筆を進めている。まだまだ序盤なのできっと書き直すに違いないけれども書かなければ進まないから手を動かしている。毎晩、毎日地道に進めていこうと思うけれどもいつ頃から筆が乗るようになるでしょうね。いや、今までも筆が乗ったなんてことはなかった気もしますが。頭をひねって、言葉を出力して、リズム欲並べていく、それだけなのにいつも僕は時間が掛かってしまう。一時間千文字書ける人も世の中にはいるらしいし、なんなら二千文字近く書くことのできる人もいるらしいけれど少なくとも僕にはそんな芸当不可能ですよ、すらすらとは言葉は浮かばないのです。いつもいつも頭の中では状況や情報、言葉が渋滞を起こしていて、進んでくれやしない。本当に何かを産み出すことって難しいと思う、向いてないとも思う。でもそれくらいしかできないからやっているのです。
20251126, Wed
また暫く体調を崩していて、季節の変わり目に弱いなあと思う。うがいも手洗いも欠かしていないにもかかわらず病に罹ってしまうのは身体が弱いからなのでしょうか。それとも生活習慣が終わっているから? まあもはや体調を崩すことは当たり前なので逃れ得ぬものとして諦めているのですけれど。
……倦んだ生活をしていた反動からか、あるいはブラックフライデーなるものに物欲を刺激されたからかPS5ProとBenQのモニターを買ってしまった。僕は弱い人間です。
20251130, Sun
一昨日のことだけれど祖父に不幸があり、死に顔を見てきた。人間の死を面前にして思うのはこの人は幸福だったのだろうかということで、そんなこと本人にしか分からないことではあるのだけれど考えずにはいられない。どの人に対しても僕はそう思うのだろうね、人以外に対しても。祖父はよくひ孫の顔を見せて欲しいと言っていた、でも彼の孫たちは誰もパートナーがいなかったけれどね。祖母も、母も彼が亡くなったことに酷く動揺していて泣いてすらいた。どうして人の嘆きを前にすると自分も動揺してしまう、祖父の死に顔を見ても死んでしまったんだなと、意外と穏やかな顔だなと、筋肉が減り落ち窪んだ顔からは頭蓋骨の形が分かるなと、そんなことを考えていて悲しさはあまりなかった、いなくなったことに対する喪失感のような、寂しさはあったけれど悲しみとはちょっとだけ異なった。でも、彼女たちの嘆きを聞いて僕は妙に感傷的になっていた、それは表に出ないだけで僕が悲しんでいたから揺さぶられ表出したのだろうか。でも何度祖父の顔を見ても、その白濁した眼球を見ても、血に汚れた額を見ても、二度と動かない口を見ても湧き上がるものはなかった。ああ死んでいるなと当然のことを思っていた。結局悲しさというのは、というか感情というものは産み出せるものに個々の閾値があり、その場の雰囲気が形成されることで初めて肥大できるのでしょう、結晶化するのでしょう。一部の感受性が豊かな人々による感情の発露、外界からもたらされる活性化エネルギーによってこそ、普段は抑圧されているのか、あるいは変化しない感情的な部分に変化が生じる。さながら飽和水溶液に投げ込まれた結晶が、それを核として大きく育っていくように。鮮烈に、劇的に。しかし祖父は幸せだったのだろうか、でも悲しんでくれる人がそれなりにいたのだからきっと不幸せだったなんてことはないと思う。まあ僕が決められることではありませんが。
そして僕は思う、人の死に嘆き悲しむ存在がいるのならどれだけ死に辛いのかと。これからも生きてしまう、悲しんでしまう人を残して死ぬことはどれほど死ぬ当人に対して残酷なのかと。
Jeux bleu プロット的なやつ
ヘラクレイトスの断片集には次のような言葉があります、
「また水にとって、土となることは死である。しかし土からは水が生じ、水からは魂が生ずる」
異形と化した少女との邂逅、
生命の煌めき、哀しい愛情の向かう先。
ラリサ・エリシナは行方不明だった友人の顔を持つ異形に出会った。
スィニヤと名を与え、言葉を教える。感情が芽生え、成長する。まるで人間のように。
横たわる長い冬のような冷たい隔絶はいつまで続くのだろう。
許容と諦観の中で生まれる愛情と執着。人間的であることは正しいことなのか。
他人の視線はいつだって不幸を呼び込み、遁走へ駆り立てる。
少女たちの青い戯れの果てには何が残る?
1.息が苦しい所から始まる。 どうしてこうなったのか、何が起こったのか。
スィニヤに助けられる。
水魔とは
私はそれを水魔が人の姿に化けているものだと分かっていたのだけれど、またヴェーラに会えたことが嬉しくて逃げたいとは思えなかった。
2.スィニヤとの交流、すれ違い
厳冬
レフ
冬の終わり、スィニヤとの再会
3.スィニヤと冬
ラリサを待ち望んで
言葉を話すスィニヤ
取り乱すラリサ
スィニヤとヴェーラの関係について
スィニヤを理解できないラリサ
立ち去るラリサと追跡するスィニヤ
村へ
罪の意識
4.レフと植物
スィニヤとレフの邂逅
スィニヤの恐怖と怪我
ラリサとスィニヤ
心の痛み
スィニヤの知るヴェーラについて
一瞬の殺意
おやすみなさい
5. レフの熱情
スィニヤの扱いについて 彼女のたっての希望で村に留める
長老:オレグ・フォーキン;Олег-Фокинとスィニヤの邂逅
宇宙主義的な話 人間的であること 人間とは
スィニヤをものと居場所へ追い返す
スィニヤがラリサを軟禁
再び村へ
6. 人ならざるものへの視線
怪しむ村人(特にヴェーラの両親)と村長
スィニヤに執着するレフ
確保 対話 考えを改めるレフ
「君はどこか遠くへ逃げた方が良いよ。多分少なくない人々が違和感に、ラリサが君を隠していることに気付いている。この村に、人の世界にいるべきではないんだよスィニヤ」
フォーキン長老とスィニヤ ラリサ
責任を取らせなければ満足しない愚かな人間、
眼球の移植
7. 人間の条件とは
ルノヴァ夫妻に発見されるスィニヤ
悪魔の娘
逃がしてくれるフォーキン長老
囮となってルノヴァ(父)に刺殺されてしまったレフ
プラトンとストア派の信奉者たちは、死後に元素に戻る人間の魂をダイモンと同一視した
それでも水は深い:人の特定の性質は幻想的で想像上のもので、実際には他の性格特性や特性を持っている可能性がある。同様に状況、現象、期間についても、一見して目立つことすべてが完全に否定できるわけではない。
真実はワインにあり、健康は水にある:アルコールはその人の本質を表すが、使用には健康上の問題が伴う。水は人体に無害であり、人間の脳や意識の機能に影響を与えない。
構造化された水:水のその分子はクラスター(特定の繰り返し構造)を形成する。
緑の週
душа́ в ду́шу(ドゥシャヴドゥシュ)
魂と魂、完全な調和
十月への言葉
20251003, Fri
10月になって早三日、今年がもう3ヶ月しかないのだと思うと時間の経過を酷く早く感じると共に、僕がその経過に心を寄せることが出来ていないから早く感じてしまうのだろうとも思う。様々なことで手いっぱいで、心に余裕がなく、何をするにしても別の何かをしなければならないという脅迫的な感覚があり、安らぎが少しもない。今もまた束の間の余暇を享受したいと思うけれども、そんなことをしている場合ではないとも思ってしまう。やるべきことが、やりたいことが多く、手も頭も心の置き場も定かではなく、まるで渦の中にいるようだと思う。
渦。昔海に行った時小さな渦に巻き込まれたことがあった。海水浴場の端の方、ほとんど岩場になっている所からさらに進んだ場所で僕は岩の上から海を覗き込んでいた。酷く透き通っており、銀色の光が素早く走っていたことを覚えている。じっと下の見、ふと何かを感じた気がし頭を上げると視界の端に緑色の線が映った——当時は何か分からなかったけれどあれはアオヤガラだった。綺麗だと思い、何か分からないけれど知りたいと思い、到底追いつけるわけがないのに僕はそれを追いかけようと水に身体を沈め、ずんずんと海水を掻き分けていった。だけど緑の線はすっかり遠くに行ってしまって探し物がなくなってしまったような感覚に泣きそうになった。そのときに僕は足を引っ張られるような、身体を掴もうとするような力場を感じた。気付いた時には海水を大量に飲んでおり、僕は溺れかけていた。それから大人に——それが親だったのかそれとも別の誰かだったのかはもう思い出せない——助けられ、危険な行為を咎められ、僕は渦だと思った。魚に逃げられたこと、溺れかけたこと、怒られていること、あらゆる自分を取り巻く負の側面が。この記憶は何だろう、ぼんやりとしていてよく分からないけれども砂浜の上でやけに疲れを覚えていたことは思い出せる。一体あの渦はなんだったのだろう。
20251004, Sat
今日の午前中にちょっと外出をして冬服を買い求めた。今日までよくよく考えてみれば僕はまともな防寒着を持っていなかった。厳寒の地域に住んだ経験がないからなのか防寒への意識が低く、冬のたびに暖かな服を欲しいと思っていたのだった。持っている防寒着といえば薄いコート(スプリングコートというやつかしら)で防風以上の効果を望めず、人に会った時には薄いコートだと驚かれたこともあった。
なぜいままでそれで我慢していたかと思えば外出する機会が少なかったのもあるし、多少寒くとも我慢すればなんとかなったからだった。特にヒートテックの恩恵は大きいと思う。冬の時期には常に着込んでいたし——それでも寒いと感じたことはままあったけれど——、耐えられないと感じることは無かった。耐えられない、という基準が僕にはあったのも大きいかもしれない。我慢できるものは我慢することを普通だと思っていたから、多少の不快は甘んじて享受していた。
今になって防寒着を買いに行ったのはちょうど店頭に出始める頃合いだということもあったが、一着くらいはまともなものを持っていた方が佳いと思ったからで、それはやはり他人にそのような服で寒くはないのかと問われた経験があったからに違いない。言葉で表現されてはじめて自分の状況が少しばかり奇妙だと気付けたし、我慢しなくとも佳いものだと理解したのだった。まったく昔から自分は自分を追い詰める傾向にあったようだ。買い求めたのはワックスコットンのジャケットで、少なくとも僕の持っている服よりもずっと重い服だった。なんか襟が立って首回りを守れるし——首に直接触れるマフラーが苦手な僕には大変有り難い機構だった——、袖が二重になっているしで大分重宝しそうだった。まあ真冬の厳冬にはちょっと足りない気もするけれど、その時はその時で内に着込むものを用意すればいいのだと思う。でも今までヒートテックの能力でどうとでもなってきたからそんなことせずに十分かもしれない。
午後、家に帰ったら久々の外出に疲れてしまい午睡を取った。唐突にチャイムが鳴らされて出てみればエホバの証人と名乗る男二人組が宗教勧誘にやってきた。辟易とした。クリスチャンなのでと——嘘を吐いて——断ると、好きな聖書の一節は何ですかと試すように問われて困惑してしまった。なんで眼の前の男はそんなことを質問してくるのだろうと思い、寝起きではっきりとしない頭で混乱を覚えながらうんうんと頭を捻って、随分と時間を掛けてやっと身体の灯火は目であるの一節を口にした。男は良い一説だと言い、聖書を読んでいる方と言葉を交わせたことを嬉しいと言った。それだけでは終わらず男は次に戦争がどうとかを口にし、平和に関連する一節を教えて欲しいと言ってきた。意味が、分からなかった。なぜ急に眼の前の男は戦争だとか平和だとかについて語り聖書からの答えを求めるのだろう。平和に関連する一説なんてまるで思い浮かばなかったから、僕はヨハネの黙示録にあるニガヨモギと3分の1の水が苦くなった一節を口にし、まるで原子力爆弾を想起させませんかと言った。戦争を予言していたようではありませんかと。男は納得せずに平和を結びつくような一節を言ってくれと答えを求め、でも僕は答えられずに固まってしまった。だって僕は聖書に人類の平和なんて少しも求めたことが無かったから。答えられないでいると男は諦めたのか戦争と平和に関する勉強会をしているからと冊子を示してきたが固辞するとようやく引き下がった。
ドアを閉め、僕は心臓が苦しくなった。嘘を吐いたからではなく、頭に浮かんでいたはずの言葉を、聖書の一節を諳で言うことがままならなかったから。勉強が足りないことを僕は酷く恥じた。もっと読み込まないとと思う。
まあそんなことをしたところで聖書も神も僕を助けてくれることはないけれど。
20251009, Thu
ドストエフスキー欲が高まっていて、本棚から新潮の長編をひっぱりだしてきた——まだ江川訳カラマーゾフも途中だけれども。今年はこれらをちまちまと読みつつ他の気になっている海外文学を中心に読んでいこうかなあ。悲しき虎とか読みたい。というか折角再読するのならば特に罪と罰は工藤訳ではなく岩波の米沢訳にしようかとも思っている。まだ読んでいないのだよね、格調高くて佳いとは聞いているので気になっていた。とそんなことを書きつつAmazonを覗いてみればunlimited対象だったのでさっそく入れておいた。今年中に読めるかな、読もうね。
20251010, Fri
興味を持たないことにとことん興味を抱けない。一片も、一瞬も。
20251014, Tue
ここ数年一度も起動していなかったswitchを箱に収納した。ティアキンをプレイしたのが最後で、それからソフトを一本も買っていなかったこともあってずっとディスプレイの横で埃を被っていた。折角あるのだから使いたいなとは思っていたけれどもゲームをする気力も対して湧かず、今日になって可哀想に思いようやく梱包したのだった。
汚れたケーブルを水気を含ませた布で拭い、内部に入り込んだ埃はエアダスターで吹き飛ばした。布には茶色い痕跡を残し、空気中に細かな粒子が舞う。随分と、汚れていた。使っていないにも拘わらず。いや使っていなかったからこそかもしれない。使わないものは自分たちが想像するよりもずっと急速に汚れていく、朽ちていく。
長いこと動かしていなかった装置がいざ動かそうとしても電源すら入らない。動かし方すら分からない。そんなことはよくある話だと思う。対象が、自分自身が、知識が衰え、枯れていく。だから何かをしなければならない、してやらなければならない。良好でなくても、かろうじて活動可能なくらいには保たないと。
そんなことを考えながらケーブルの癖をほぐし、まとめる。新品の配置などまるで覚えていないから収まりが良いだろうと思われるところに束ねたケーブルやコントローラー、画面本体を据え、何とか箱に収まるよう整え、封をする。これから先再度これを開くことがあるのだろうか。型落ちになってしまったこのゲーム機を。なんとなくもう開けないだろうなあと思う。いっそのこと売っ払ってしまってもいいかもしれない。だっけもうあまり興味を抱けないでいるのだから……switchに限らないけれども。自分が乾いている。枯れてしまいそうでいる。すっかり埃を被っている。もう廃棄寸前だとも思う。何も、ない。何もできないでいる。
20251022, Wed
何も無い日々を過ごしていると思う。平日の2/3は仕事だし、夜の僅かな余暇は無為に浪費し、かといって休日もこれといった特徴がない。まあ先日は顕正会が宗教勧誘にやってくるようなこともあったけれども。日記なのに数日前のことを書くのはやや忍びないけれども、こうして何かを書こうとして思い浮かんだのがそれだったので少しだけ書いていこう。
この前もエホバの証人が勧誘にやってきたがしかし僕は常々疑問に思うのです、あのような宗教勧誘で興味を惹かれる人間などいるのかと。実際信者がある程度存在していることからも縋る人間は多少いるのだろうけれど、それでも信仰を押し付けるような勧誘で少しでも知りたいと思えるものなのでしょうか。少なくとも僕はただただ不快でしかなく、あらゆる勧誘を蛇蝎のごとく嫌っているし、チラシを渡された日にはその場に投げ(破り)捨てることでしょう。
その日勧誘に来たのはどこにでもいるような、ちょっと気難しそうな皺を目元に浮かべている妙齢の女性で、インターホン越しに応対すると開口一番にチラシを配っているから読んで下さいと言ったのだった。誰何すれば顕正会だと言い、僕はクリスチャンなのでと断っても彼女はそれでも読んで下さいと言った。自分たちの教えではキリストは嘘の神であるとも。不快だった、まあ僕だって信仰を偽り——神の存在すら信じてもいないけれども——はしたけれども、それにしたって相手が信じているとする対象に唾を吐きかけるような物言いには呆れもした。人のことを言えない? それでも僕はクリスチャンを騙るにおいて聖書を最低限読んでいるし、敬意は払っているつもりだ。
僕はすっかり閉口して苛立ちすら覚えた。信仰の否定、それは人間性の否定にほかならないのだから。信仰とはよすがであり、指針であり、その人の大きな部分を占める精神的な(時に肉体的な要素も含む)支柱で、もはや生存に不可欠なものです。性質や大小異なれど誰しもが自分だけの信仰を持っていて、例えば空飛ぶスパゲッティモンスターや貨幣、あるいは他人を笑わせるといった行動自体、他人からすれば信仰とは結びつかないものであっても立派な信仰の対象になる。だというのにあの勧誘の女性は言うに事欠いて相手の信仰をくだらないものだと一蹴し、自分たちの信仰こそ尊ばれるものだとしたのだよ、あまりな傲慢さにどうして好意を覚えようか。女性はチラシを入れておくからと言い、何度も念を押すようにチラシを読んでくれと言って去った。人の無自覚な悪意に晒され、どうしようもない無気力感が身体を襲い、僕は立っていられなかった。しばらく茫然と椅子に腰掛けていた。厭な一日になったと思った。だから宗教勧誘というものは嫌いなのだ。少しも良いところがないし、むしろ精神を削ってくる悪しきものでしかない。
当然投函されたチラシはとり出して直ぐに破りゴミ箱に突っ込んだ。
無為な日々だよ、本当に。
20251027, Mon
goghというゲームを始めた。ゲームとは書いているけれどこれといって遊ぶことは多くない作業用ゲーム。キャラクターや部屋を作って、流すBGMやら環境音を設定してあとはバックグラウンドで動かしたままにするだけのもの。BGMをローカル上から設定できるし、流すBGMや環境音の音量の設定も細かいため使い勝手がよく重宝してしまいそうな予感がしている。

九月への言葉
20250901, Mon
月が変われど一向に陽の熱さは衰えず——とは言いつつ少しばかり前に素風が顔を覗かせたような過ごしやすい日もあったが——、耐える気にもならないので室内では常にエアコンを唸らせている。季節といえば秋刀魚の初物が並び始めたし、秋口はもうすぐそこにあるとは思っているけれども、例年を思えばそんな秋という季節も涼やかな日を一週間も感じる程度のあったかどうかも分からぬくらいで消えてしまうのだろうなと既に哀しい気持ちになっている。全く僕は風情がないね。
まあ秋だからと特別することもないし、現に僕は夏だからと特別夏らしいこともしていなかった——個人的に夏といえば水遊びだがここ幾年はまったく接点がない。季節を重んじて何かしたいなあとは常々思ってはいるけれど、結局出不精な精神が身体を否応なく室内に括り付け、少しだってわざわざ外へ遊びに行こうなど、行動に移そうなどとは思えやしないのだ。こんな日陰に潜む蛞蝓のような生活は嫌だと思うがそれでも身体が動かない。夏季休暇にいざ外に出ようと思ったはいいけれども全く目的が思い浮かばずに折角着替えた外出着を一歩も外に出ず着替え直したことは自分ながらに愚かしい思い出である。
心が渇いている。栄養が足りない、水が足りない。だから何かをしたいと思うが、何をしたいのかが分からない。行動が、行動に移すまでのほんの少しの行為そのものが億劫で、だから個々数ヶ月は日記も滞っていたのだろう。忙しさにかまけてしたいと思ったことをしないことの罪深さ。いつも、いつまでもこの調子では駄目だと思っているから、少しでも変わりたい、変えたいと思い、でもそれも思うままに終わってしまうのかもしれないと既に諦念している僕は一体どこまで怠惰なのでしょうか。
秋だから、秋になるのだから、そういった季節の変化をただ茫然と眺めるのではなく、何かをしたい、すべきなのだと思う。まだまだその何かは思い浮かばないけれども、まあ○○の秋といった言葉もあることだしまだ出来ることの読書でもしようかしら。でもそれだと家に引き篭もっていることには変わりないので、何かもう少し捻って、例えば喫茶店などに行って、季節のタルトか何かでも口にしながら楽しむのは如何でしょう。なんだか佳い思いつきな気がする。近く——といっても数キロ先——に名前は知っているけれど一度も赴いたことのない喫茶店があるし、今秋中に行ってみるもの悪くない。せっかく江川訳カラマーゾフを買い求めたのだから、それを肴にしようではないか。ああ、いいなあ、それがいいなあ。何かがあるって佳いものだ、まあそれを実行に移せるかが一番の問題なのだけれどね。
20250902, Tue
今年何度目か分からぬ身体の怠さと咽喉の痛み、それに軽い発熱があり、年を経る程に身体が弱っているのだろうと実感している。年なのかなあ、年なのかもしれない。まだそんなに年を重ねていないはずなのだけれど、こうも身体を壊しやすくなっていることに身体の衰えを感じずにはいられない。まあ身体を鍛えているわけではないし、健康に気を遣うこともほとんどないのだけれど、まだ若木のように青々しかった頃は今にもまして自分に無頓着だったにもかかわらずほとんど病に罹らなかったのだから少なからず免疫系の力は落ちていっているのだろうね。20歳が免疫のピークだとも聞くし。これから生きていくと更に身体が苛まれるのだと思うとやっていられないとも感じられるが、そうして自分が頽廃していく様を眺めることもまた人生の妙というやつなのでしょう、いやはやこんなものやってられないね。すっぱり、きっぱり、止めてしまいたいね。
20250903, Wed
咳と発熱が酷い。
20250904, Thu
まあまあ体調は回復したけれどもまだ熱は巣くうように身体の奥でとぐろを巻いている。苦しいと思いながら、熱いと思いながら、怠いと思いながら、どうしてこんな目に遭っているのだろうかと対象も定かでもないのに恨み言を吐きたくなる。この脆弱な肉の殻を早く捨て去りたいと思ってしまう。それってでも死ぬということではなくて、もっと別の概念で、僕は、ああ、思惟になりたいのだ。言葉になって、詩になって、そして何もかも忘れ去って、忘れられて、消えてしまいたい。脳と頭蓋骨の僅か数ミリの隙間に広がる無限の虚無に身を委ねるように。
20250906, Sat
今日は前々(3年くらい前)から行ってみたいと思っていた喫茶店に行ってきた。家からは6キロ程先にあるから中々足が伸びなかったけれども、今月の初めに行きたいと書いたのだから多少面倒でもと思ってやっとのことで向かった。先の文章では季節のタルトでも食べたいと書いていたけれども——今はシャインマスカットのタルトだった——、その実僕は葡萄はあまり好みではなかったので目に付いた桃のコンポートを頼んだ——桃は果物の中では好きな部類に入る。期待していなかった訳ではないが想像以上に美味だった。煮込まれとろとろになった果肉が口の中で融け、舌に残る余韻を紅茶で流すことの悦びといったらもう。また行きたいと思うけれども、はてさて出不精の僕は次にいつ足を向けるのだろうね。
20250908, Mon
昨日、コミティアに行ってきた(昨日のことを今日書いているのは帰宅後すっかり疲れて寝入ってしまったからだ)。なんだかんだで二回に一回は一般参加しているイベントで、毎度のことながら気になっているサークルに伺って、あとはぶらぶらと宛てなく通路の間を行き来する。ジャンルも特に気にせず、あちらこちらと歩いて、同じ通路も何度か巡ったりして、ふと目に付いた作品をこれも何かの縁だからと手に取る。すると思いがけなく琴線に触れるような作品に出会うことがままあって、それは評論系かもしれないし、漫画かもしれないし、イラストや写真集かもしれないし、あるいは造型物かもしれないけれど、いずれにしろ鮮烈な邂逅があるものだ。もう何年も前になるけれど一目みて気に入った原画を買い求めて、それは今も部屋に飾っていたりする。
今回のコミティアでもそのような出会いがあって——切掛けこそ目に留まったではなく声を掛けられたからだったのだけれど——、それは夏をテーマにした叙情的なイラスト集だった。これだから散策はやめられないと思いつつ、また次かその次のコミティアにも行こうと思ったのだった。
話は変わるのだけれど、僕の使っているバッグを見て声を掛けられることが何度もあった。まあちょっとばかし特徴的なものを使っている自覚はあるけれど話しかけられるほどとは思ってなくてその度にちょっと萎縮していた。イカの形をしているだけなんだけどね。
20250910, Wed
ふるさと納税という制度を蛇蝎のごとく嫌っている。返礼品につられて、特に思い入れの無い地域に納税をし、自分の住んでいる地域のことをまるで顧みない行為はどうして称揚できるものか。本来ならば福祉に回されるはずの予算を自らの意志で不意にして、それはどうして自分を傷つけようとしている様にしか見えないね、自分で自分の首を、真綿でゆっくりと絞めているみたいだよ。
20250912, Fri
これまでの人生で衣服にさほど興味を抱いてこなかったから、一枚で3万もするシャツがあることに慄いてしまう。その価格帯のものが割合高級路線のブランド物であるとしても、ユニクロのような低価格な衣服に慣れきった僕には異次元のものとすら思える。駅に併設されているLUMINEに寄って、適当に歩いてtomorrow landなる店を眺めたらブルゾンが一着8万だとか、パンツが4万であったりと見慣れない値段をしており、いやあ恐ろしいまであるね。とはいえ低価格帯の衣服だろうがそもそも衣服というものは高いという感覚があるのだから僕にはどこまでも庶民感覚に浸っている。まあ庶民ですけどね。
20250914,Sun
久々に上野まで赴いて国立西洋美術館に行ってきた。企画展の素描コレクションは素晴らしく、特にカラッチの〈頭を反らし目を閉じた 仰向けの若い男性の裸体習作〉が印象に深く残っている。この赤チョークでの素描は男体のしなやかな筋肉や張りでた肋骨(に貼り付く皮膚)が柔らかく描かれ、構図も相まってか酷く蠱惑的ですらあった。
常設展の方も見て回ったけれどもやはり僕は印象派が好きだなと改めて感じていた。ルノワールにモネやマネはいつ観ても美しいと感じる。ピカソの小規模な企画展もやっていたけれど僕はあまりキュビズムは好きじゃないなあ、後身というか影響を受けているロシア構成主義は好きなのだけれどね。
美術館の後は高輪ゲートウェイに初めて行ってみた。どうやらつい先日大型商業施設がオープンしたらしく随分と盛況で、いやあ人間の多いことといったら。人酔いしてしまいそうになりながらもマーガレットハウエルのカフェに行って、前々から食してみたかったスコーンを頂いた。家でも散々作っているけれど、店のものはやはり違うなあ、自分でももっと美味しいものを作りたいとは思っているけれど、何を変えれば佳いものか。そもそも使っている粉が違うのは分かっているけれど他にもバターの分量だとか、卵の有無(卵黄のみか全卵かも含む)、牛乳を使うのか生クリームなのか等多くのことをを検討しないとなあ。菓子作りってつくづく実験的なものだと思う。消費できないから対象実験をするにも大変。
まあ総じて久々に有意義な休日を送れたような気がする、大分疲れたけれど。
20250918, Thu
先日よりまたぎっくり腰になったため痛みに悶えている。座ることがままならず、身体を横たえなければならない——比較的安静な姿勢でも身じろぎで痛みが走る——ことは精神的にも疲弊する。ここ最近は身体の不調が多くてまったく参ってしまう。何も出来ない。
202509019, Fri
母親から祖父の認知症が進んでいると連絡があった。運動能力も著しく低下し、階段を上ることが困難で、今はもうほとんど寝てばかりだと。万が一のことがあったらと伝えたかったようで、その時には彼らの住まいを処分するらしい。だからその前に家に置いてある私物を処分されたくなければ取りに来なさいと。
それほど置いてある物があるわけではないけれど、少なからず私物が置いたままに成っているわけで、それを廃棄するのかあるいは二束三文で売られるくらいならば荷物を取りに行くべきなのだろう。しかし酷く億劫で、それは血族に会いたい気持ちがほとんどないからだった。
正直なところもはや僕にとって祖父のことはどうでもよいと思っているし、母親も同様で、それどころか密やかに嫌ってすらいる。青年期の頃に彼らが僕を拉致してあの家に連れていったことは——それがなければ今の僕が形成されていなかったとしても——今でも恨みに似た思いを抱いている。故に僕が彼らを心から信頼することは今後一生無く、心を開くことも無いだろう。多少の情はあるけれども、顔を合わせて幾つかの言葉を交わす以上のことはしたくもない。
そのようなことを書いていると僕は自分が卑小だと思うけれど、どうしても解消されない蟠りだから仕方のないことだろう? でもせめて何かがある前に顔くらいは見せに行っても佳いのかもしれない。もしかしたら最近の記憶も飛んでおり、それこそ僕を連れ去った時の頃に戻っているかもしれないけれども。だとしたら僕はどのような顔をして行けば佳いのだろう。
20250923, Tue
大分腰の状態が良くなって、痛みはほとんど感じなくなった。起き上がる時はどうしても痛いけれど、それでも寝返りをうつだけで酷く痛んだ頃からすれば随分と改善した。とはいえ調子に乗って負荷がかかることをしたらまた再発するんだろうなあという予感はひしひしとしており、まだまだ労ろうかとは思う。
しかしなんだろうね、特にここ一年は身体の不調が目立ってきている。昔はこうでなかったのになあと思うけれど、これも寄る年波というなつなのかなあ。しかしまだ僕は若い方だとは思っている、若いよね? まあ人によっては叔父様になる頃合いだから特別若いというわけではないのは分かっているけれど、まだ大丈夫だと、無理を多少は許容できる身体だと思い込みたいのだ。
八月への言葉
20250806, Wed
新刊の作業がほぼほぼ終わってやっと一息付けるかと思っていたのだけれど、Child of Doppelgänger-Prequel-の再販をするにあたって既存のバージョンを入れるのも忍びなく、誤字脱字の修正をしようと何度目か分からない再プレイをしている。すると驚くほど誤字脱字や演出の不具合が見つかって愕然としてしまう。昔の僕はなんでこんなものを見逃していたのだろうという部分が多い。如何に脳が違和感を無意識下で修正し、それらしいものとして受け取っているのかが分かる。今見つけている修正個所はきっと二年前の僕はなかなか気付けなかったのだろうと思う、今の僕は時間を経て忘却したから新鮮な気分で物語を受け取っているけれど、当時の僕は自分の書いたものだからこそ頭の中で勝手に補完してしまったはずだから。
しかし自分の作品だけれど心なしか長く感じる。5万字/1hでプレイ時間を算出しているけれど、5時間経ってもまだ読み終わらない。それは修正個所を見つけるために精読しているから? そうかもしれないけれど、読書筋が衰えているのも関係しているのだろうね、文章を書いているとどうしてインプットがおろそかになってしまう。
早く諸々の準備を終えてゆっくりとカラマーゾフの兄弟を読みたいなあ。
20250810, Sun
書きたい話はまだ幾つか構想があって、Child of Doppelgängerの本編もそうだけれど、他にSFもいつかは書きたいと思っている。いつになるでしょうね。
20250811, Mon
今日は誕生日だった。だからといって何か特別なことをしたかと言われればまったくそんなことはなく、食料の買い出しと料理をしたくらいのもので、それも普段作っているようなものだから特別感はない。
年を取ると以前の年齢の自分のことを考えてしまってまた何も成せなかったと思うばかり。自分の人生に大きな目標がなく、目的がなく、求めるものもない。最終地点がないのだから過程に意味を見出せず、どうしても無意味だと思わずにはいられず、終わっているとも思う。今がもう人生のもはや余韻に過ぎないとすら感じている。
少しでも佳い気分になれるよう、明日はケーキでも買おうと思う。今日はそんな気分に全くなれなかったから。
20250818, Mon
コミケも終わって一段落。しかしぎっくり腰の所為で腰が痛いなぁ。椅子に長時間座れず今暫くは執筆どころではなさそう。
話は変わるけれど、ONDINEで書き下ろした小説はもう少し書きようがあったなとちょっと悔しい気分になっている。読み返すと粗が多くて、やはりもう少しゆとりのあるスケジュールで書けば佳かった。
20250824, Sun
未だに腰痛が酷い。
20250828, Thu
ぎっくり腰になって二週間といったところの今日この頃、ようやく痛みが引きつつあってなんとか椅子に中時間座っていられるようになった。いやあ、ぎっくり腰というものはこんなにも辛くて長引くものなのだねとどこか感嘆しつつも酷い目に遭ったとも感嘆する。最近はずっとベッドにうつ伏せで折角登録したKindleunlimitedを有効に活用しようと光文社古典新訳文庫を幾つか読んでいたのだけれど、存外電子書籍も手軽で佳いものだと認識する。まあやはり紙派ではあるのだけれど、そうそう読み返さないであろう小説は完全に電子書籍に移行しても良いのかなと思っていたりもする。まあそんなのは建前で、結局は本棚に本を置くスペースがもうなくなってきているというのが正直なところで、ぎちぎちに詰まった棚は過重に文句を言いたげな様子で撓んでいる。恐らくもう再読はしないであろう本は手放してしまってもいいのだけれど、それをすることも面倒で積み重ねていくばかりなのは実に怠惰なことで、まったく僕の精神性は少しも進歩がないものだ。
20280830, Sat
日がな一日読書に耽り、眼奥でじくりと蠢く軽い疲労と凝った上半身の軋みに心地よさを感じる夜半、久しぶりに書淫に浸っているなと思う。最近は作品の制作に注力していたから一日を、それこそ食事もおろそかにするほど読むことに没頭することはなかった。できなかった。頭の裏側では常に締め切り、あるいは書かねばならぬという義務感が渦巻いており、何かをするにしてもどうして十全には愉しめなかったのだ。いやまあ病気ですよこれは、所詮趣味の、金銭は多少絡むけれども利益のほぼ出ない支出ばかりが増える事物に耽溺し、それはまあ趣味の範疇だからいいのだけれど、それで他の趣味が愉しめなくなるのはいかがなものでしょう。そもそも何かを書くことは好きというよりも、書かなければならないという自罰めいた、暗い自慰めいた心持ちでやっているし、それで本来享受できたはずの物語の愉しみを減じているのは分かっていて、それでも止められない自分はいったいなんなのでしょうか。とはいえ苦しいなあと思いながら、嫌だなあと思いながら、それでも僕は続けてしまうのだろうなあ。
ひとまず気が済むまでもう暫くは読む快楽に耽溺し、正気になったらぼちぼち新作の制作を進めていこうと思う。ドッペルゲンガーの本編も書いていかなくてはだし。はあ、また義務感が頭を擡げてるよ。
八月への言葉
20250806, Wed
新刊の作業がほぼほぼ終わってやっと一息付けるかと思っていたのだけれど、Child of Doppelgänger-Prequel-の再販をするにあたって既存のバージョンを入れるのも忍びなく、誤字脱字の修正をしようと何度目か分からない再プレイをしている。すると驚くほど誤字脱字や演出の不具合が見つかって愕然としてしまう。昔の僕はなんでこんなものを見逃していたのだろうという部分が多い。如何に脳が違和感を無意識下で修正し、それらしいものとして受け取っているのかが分かる。今見つけている修正個所はきっと二年前の僕はなかなか気付けなかったのだろうと思う、今の僕は時間を経て忘却したから新鮮な気分で物語を受け取っているけれど、当時の僕は自分の書いたものだからこそ頭の中で勝手に補完してしまったはずだから。
しかし自分の作品だけれど心なしか長く感じる。5万字/1hでプレイ時間を算出しているけれど、5時間経ってもまだ読み終わらない。それは修正個所を見つけるために精読しているから? そうかもしれないけれど、読書筋が衰えているのも関係しているのだろうね、文章を書いているとどうしてインプットがおろそかになってしまう。
早く諸々の準備を終えてカラマーゾフの兄弟を読みたいなあ。

