内臓の収縮と[amare amabam]

 内臓の熱い収縮のせいで息ができなかった。布団をかぶっていたから、吸う息、吐く息どれも熱く、地獄のようだった。でも外の青い空気を吸っても気分は紛れないのだから、むしろ乾燥しているので辛くなった。

 風邪を引いた。引いていた。火曜の午後から少し喉が痛いなあと感じ、この痛みは恐らく風邪の前兆だろうなあと思っていたのだけれど、案の定翌日に風邪を引いて寝込んだ。つい2ヶ月前にも風邪で苦しめられたばかりだというのにも関わらず、どうして僕は風邪を引きやすいのだろうか、元々の免疫力がないのかもしれない、幼い頃から僕は比較的病気になりやすかったから。あるいは健康的な生活を送っていないからだろうか、自分でも寝不足だったり、急激な気温の変化に対応する服装をしないことが多いのは分かっている。それにしても2ヶ月に一回ペースで風邪は多過ぎるのではないかしらん? 

 風邪を引いている時に辛いのはなにも熱や頭痛、喉の痛みだけではない。むしろ寝すぎて起こる腰の痛みが僕にとって途轍もなく辛いことだ。寝たいのに、痛みが寝かしてくれない。僕のベットは少し硬いからなのかもしれない、もしも一人暮らしをすることになったらベッドは柔らかいものを買いたいと思う。

 

 そういえばコミケに受かったのだった。四日目南ヤ-31bで頒布することになる。完全に後に引けなくなった。まだシナリオは半分ちょっとしか完成していないはず(はず、と言葉を濁すのはシナリオの長さが不透明だからだ)で、そろそろ急がなければ間に合わなくなってしまう。それなのに風邪を引いてすっかりやる気が消え去ってしまった。だが僕は頑張らなければならない。頑張らなければならないはずなのに、こうしてブログを書いていたり、ゲームに逃避したり(あ、デススト発売されましたね。早速何時間かプレイしました)している。死にたい。自分がないんだよ、僕にはね、これこれしたいって欲望はあって、そのために少しは手を出すのだけれど、完全に自分を没入させることができない。凄いことだと思う、何かになれる人というのは。僕にはなにもないから。なにもないから、なにもないなりに、なにかを作ろうとしているけれど、それでなにかが自分の中に出来るわけではなく、ああ、これって僕の自己肯定感が酷く低いからなのかもしれない、でも仕方のないことじゃないか、僕の性格は昔からこうだったのだから、小学生の、いやもっと小さな幼稚園児の頃からこうだった、だから友達もできなかったし、いじめられたのだ。人は弱い生き物に目をつけては、傷付け、自分の満たされない部分を相手の血で満たす。何者にもなれない、といえば思い出すのは『輪るピングドラム』、「さようなら。何者にもなれなかった私」ってセリフ。まあどうでもいい。

 シナリオを書くための参考に僕は最近キリスト教関連のものを読んでいる。聖書だとか、トマス・アクィナスとか、そのせいで思考が少し引っ張られている。神のことはあいも変わらず信じてはいないけれど、自分を損なってでも何かに尽くしたいという歪な考えに支配されてきている。仏教関連の本を読んで蚊を殺せなくなったことを思い出す、僕は本に影響されやすい。悪いことでは無いと思うのだけれど、しかしこうも意志が弱くてはそのうち大きな間違いをしでかすのではないだろうか、なんて考えてしまう。

 アウグスティヌスの『告白』に好きなフレーズがある[amare amabam]これはラテン語なのだけれど、日本語で[amare]は「愛する」で、[amabam]は[amare]の未完了時制の一人称単数なので「私は愛していた」となり、[amare amabam]は「私は愛することを愛していた」となる。本当はもう少し長いフレーズ[nondum amabam, et amare amabam](nondumは「まだ」という意味」)だがまあその部分は割愛してもよろしいだろう。この「愛することを愛していた」は恐らく新作の主人公、谷口佳奈の思想の核になると思う。なっている。でも僕のこのフレーズへの理解が不完全だから歪な解釈になっているのではないかと怯えながら執筆をしている。風邪で遅れた分(風邪は言い訳でしかない)を取り戻すために執筆に戻ろうと思う。

予定は予定。達成できないことがほとんどで……

 本来ならば今月中に新作のシナリオを書き上げたかったのだけれど、どうもそうはいかないようである。というか自分でもシナリオがどの程度の長さになるのか分かっていないのだからいつまでかかるかは未定なのである。もう前作の5万字を超えた、おかしい、外伝の方が長くなっている。せめて10万字には収めたいところなんだけれど、いかんせんプロットがないのでどのようなイベントが在り、どの程度の長さになるかは全く掴めていないのでこの体たらくに陥っているわけで、本当に予定を完遂する能力がないなあ、と痛感している。一応日に3千字掛けば一月で約10万字いくから期間的にはいけるだろうと、高をくくっていた。僕の悪い癖だ、できもしないのに大きな目標を立ててしまうこと。幸いまだコミケまで二ヶ月以上あるし、なんとかなるだろうと思っている自分がいる、駄目だよ、僕、そんな考えではいつまで経ってもシナリオが完成しないじゃないか。え? コミケに落ちる可能性もあるのだから多少は気楽にしろよって。いや、駄目だろ、もしも受かってたらどうするんだ。自分の首を自分で締める結果になるんだよ。それもそうか、ごめん。

 今書いているシナリオが面白いのかどうか分からなくて、筆がなかなか進まない、いつもこうだ、自分に自信がないのもあるけれど、基本的に自分を疑う人間だから。悪い癖なのは分かっている。だけど、もうこれは稟性としか言いようがなく、直しようが無いんじゃないかなあ。人と関われば僕も変われるのだろうか、なんてことを思わないでもないけれど、いや、人と関わるのが苦手な時点で色々と終わっている。というか女性視点の話だから難しく考えているのもあると思うし、少なからず期待されていることを思うと萎縮してしまっている僕がいる。自分を肯定できない人間だから他人からの肯定を素直に受け止めることが出来ないんだ、だからこんなブログ(文章)を書いてしまう。書いても意味のないことだとは分かっているというのに、書いたところで何か与える/与えられるわけでもないのに。後ろ向きな部分はせめてブログだけにしようと、いや、日常生活でもそうなんですけどね、ツイッターくらい少しは前向きでいようと思いながら、暗い自分をここに書き出しているのであってですね。誰に言い訳しているんだろう、僕は、他者を想定しているわけじゃないのに、やはり自分に言い訳しているのだろうか。無残だ、笑えない。

 ところで先日横浜美術館に行ってきた。オランジュリー美術館コレクションを見るためだ。僕はルノワールが好きだったし、スーティンも好きだったので行くしか無いということで行ってきた。それと、運良く優待券を貰ったのもある。ちょうど今書いている新作のシナリオでも絵画のことが出てくるので、ちょうどいい機会だとも思った。特にルノワールの描く幸福で生命感の溢れる絵なんて実物を見ない限りその偉大さが分からないのだから。ルノワールの噎せ返るほど圧倒的な幸福な風景は見ていてくらくらした、なんだか僕には合わないような、でも好きなのは変わらない、バロックあたりも古典主義あたりも好きではあるけれど、やはり一番は印象派だと思う。単純に綺麗だと感じられるのが大きいのだろう、僕みたいな美術初心者にとっては、特にそうだと思う。モネの絵も良かった。でもスーティンの絵が見ていて一番落ち着いた。彼の描く鮮烈で歪んだ風景や、動物の死骸はなんだか僕と波長があっているように思う。こんなことを書くと僕がまるで暗い人間だと思われてしまうかもしれない(合っているのだけれど)、でも好きなのだから仕方がないじゃないか。

 そういえば絵の説明のところどころでアポリネールの名前が出ていたのを思い出した。また読んでみるのも良いかもしれない、詩は、心の、特に感性の部分に適応した栄養だと思う。最近またボードレールを読んだけれど、偉大な詩人というのをひしひしと感じさせられた、言葉が美しいのもあるけれど、言葉の鋭利さがなによりも魅力的だった。人の暗い部分を美しく切り取るメスのような……

 来週辺りに神保町のブックフェスティバルに行きたいと思っているけれど、そんな体力あるかなあ。予定は予定、達成できるかは未定だ。

動物に懐かれない

 今僕の家で親戚の柴犬を預かっている。名前は茂吉だったか、友作だったか、まあどうでもいい。この犬を預かるのはもう4回目で、累計で半月の期間は預かっているのだけれど、一向に懐かれない。母や弟には懐くというのに、僕だけを敵をみなしているのだろうか、懐かない。まあ懐かないだけなら良いのだけれど、この犬の悪いところは近付くと僕に対して唸り声を上げ、牙を剥き出しにすることだ。ここは僕の家なのにも関わらず、まるで彼が家の主とでも言うかのように、威嚇する。更に悪いことに、この犬は僕のことを噛むのだ。前回この犬を預かった時は右手を噛まれ、血がダラダラと流れた。もう傷は消えたのだけれど、噛まれた時の恐怖は今もまだ残っている。もしも僕が幼い子どもだったら、きっと犬恐怖症になっていただろう。今日も朝から威嚇され、彼の前を通ることが出来なかった。犬はいま家の中で自由に動き回っており、僕は自室にひきこもっているのだけれど、少し手洗いに行こうかと部屋を出ると、犬が待ち構えていて、僕が部屋を出ようとするのを唸り声を上げながら拒む、しかし僕だってトイレに行かなくてはならぬ、ここは少し威厳を見せなければならないと、少しだけ凄みながら一歩踏み出す。噛みつかれた。肉体にダメージは無かったのだが、ジャージ(ズボン)に少し穴が空いた。うへえ、どうしてこの犬はこんなにも凶暴なんだ、しかも僕に対してだけ。仕方なく僕は部屋においてあったクッションで盾を作り、犬の前を通った。

 それにしてもなぜ僕はこの犬に懐かれないのか。以前飼っていた犬は僕に懐いていたように思う、それでも腹を見せて撫でてほしそうにしていたのに、いざ撫でるとなると怒って噛み付くことがあったが。もしかしたら僕は動物に好かれない人間なのかもしれないと思い始めたのは最近、よくよく考えてみれば野良猫には逃げられるし、噛みつかれるし、見知らぬ人の散歩中の犬に襲われかけたこともあった。僕にはなにか動物をイラつかせる雰囲気があるのかもしれない。嫌だなあ、ただでさえ人からあまり好かれるような人間じゃないのに、動物からまでも嫌われるだなんて。でも何が悪いか分からないのだから、直しようもないのだ。動物に懐かれない、と言ったけれど、少なくともまだカラスには襲われたことがない。彼等は頭のいい動物なのでいたずらを仕掛けない限りこちらへ危害を加えることはないから当然かも知れないが。

 カラスとか飼ってみたい。

自己肯定感が低いのは分かっている

 ここ一週間のブログのアクセス数が多くて驚いている、というか少しだけびびっている。更新した日でもないのに一日で100を超えた日もあったし、更新した日を除けば一日10もアクセスがあれば異常な僕のブログなのに、この一週間は当たり前のように10を超えている。何があったのだろうか。少しだけ、怖い。なんというか僕の内面を多くの人に見られている気がして。それなら書くなよ、という話なのだけれど、書くことによって精神衛生を保っている部分も少なからずある僕にとって止めるというのは無理な話だ。こうしてブログのアクセス数が多いことを不安に思って記事を書いているように。アクセス解析を覗いてみれば、ツイッターからのブログトップへのアクセスが多いみたい。この前までは『真昼の暗黒』の感想がトップだった。僕がブログのURLを載せているのはプロフィールのところなので、そこからアクセスしているのだろう、それにしたってどうしてアクセスするのだろうか。意味が、分からない。僕のツイッターのフォロワーは3桁に満たないし、僕のツイートが話題になったわけでもない。それに僕は名前を絵文字にしているから検索にもなかなか引っかからないだろう。あとハッシュタグも滅多に使わない。一体誰が見ているのか。

 最近起こった出来事といえばノベコレの開催だと思うのだけれど、僕が投稿した感想の解析を見てみても、プロフィールのクリック数は多くて3なのでそこからきているわけではなさそうだ。ではどこから? 本当に訳が分からない。拙作の感想、あるいは作者へのリンクを辿って来ているのかもしれない。というかそれ以外に考えられない。例えば僕の作品をプレイして、「うわ、気持ち悪い文章だ。こんなのを書く作者なんてきっと内面が複雑に歪んでいる」と考え、見世物小屋にいる珍奇な生物を見るように、僕のツイッターへ飛んできているのかもしれない、そこで貼ってあったブログへのリンクを踏んでいるのだろうか。作者の内面を見て冷やかそうと考えながら。あるいはブログになにか感想のようなものがあるのではないかと考え、見に来ている人もいるかも知れない。しかし残念だったな、僕は殆ど感想を書かない。ブログで書くような長い感想なんてのは本当に心を動かされた作品にしか書かない。別に今までツイートで済ませていた作品には感動してないと言っているわけではないが。そもそも感想を書くのって本当にエネルギーを費やすのよね、僕は省エネ主義の人間であるから、基本的に感想を書かない。プレイして、唸った作品でも感想を書いていないものなんていくらでもある。本当に。

 タイトルを考えるために書いた文章を眺めていると、自己肯定感が低いと感じる。まあ、そうですけど。自己肯定感を高めるために自己啓発本でも読みましょうか。僕は読みませんが。

 

 今書いている新作は拙作の一応続編? 外伝か。に位置する作品なのだけれど、書くにあたって過去作をプレイしなければならないのではないかと思い始めた。あの主人公捻くれすぎてて少し嫌悪感を抱いてしまうし(同族嫌悪なのかもしれない)、そもそも自分の文章を見返すのは好きではないから乗り気ではないのだけれど、しなければ繋がりを描けないからなあ。若干諦観しつつ僕は今日も執筆をします。今月中にどこまでいけるだろうか、本当なら今月中にシナリオを完成させるつもりなのだけれど、なんだか完成するビジョンが見えない。まあ僕が忙しさにかまけて頑張らなかったからなのだけれど。先の見えない執筆作業はまあ当然のように苦痛なのだが、拙作の主人公が言うように時には苦痛をも愛するのが人間というものです、作業を愛しながら頑張りたいと思います。いや、無理だろ。愛するってなんだよ、僕には分からない。今書いている作品で愛とはなにか問うているけれど、未だに結論は思い浮かばない。執筆という思索を通して結論を見つけれればいいのだけれど。

 

 タイトルの話を少し書き足そうかと思って、さて何を書けば良いのだろう。自己肯定感が低いのは自分での重々承知していることだ。というか自己肯定感が高ければ今頃院に行く選択の上に立っているのではなく、就職するという選択に立っていたことだろう。なにがエントリーシートだ、何が自己分析だ。僕の内面をそのまま書いたESを出したところで取りたいと思う企業があるのだろうか。というか、誰にだって倒錯的な部分はあるはずで、隠して生きているとは思うのだけれど、一体ESでそれを隠して自分の何が表現できるのだというのだろうか。企業が取りたいのは虚偽の仮面で笑みを繕う人材だけなのだろうか。意味はあるのか。

台風の影響って到達する前から大きいものだなあ

 可能なら毎日ブログを更新したいし、最低でも一週間に一度は何かを書いてみたいとは思っているのだけれど、実際問題僕はそれほど勤勉ではないので書こうと思ってPCを開いて、しかし何も書くことがないからと直ぐに閉じてしまうのである。何も書くことがないというのは嘘で、本当は探せばあると思うのだけれど、探すのも面倒でなかなか更新することが出来ない。別に誰かのためにブログを書いているわけじゃないし、ほぼ100%自分のためにブログを書いているのに、どうして一週間に一度は書かなければいけないと思っているのだろうかと考えてみたのだけれど、思い浮かばない。だけれどこれまでは月に3,4本の記事を書いてきたので(違う場合もかなりある、ここ数ヶ月のことだ)ルーティン化しているというのもあると思う……あるのか? まあどうでもいいことで、今こうやって僕がブログを更新しようとキーボードをカタカタと叩いているのが重要なのである。でもよく考えてみればブログの更新よりも作品の完成を急いで執筆しているのだから当然ブログは更新しないよね、別のことに意識を集中させては作品の質が落ちるというものだ。と言いつつ、僕はさっきまでNMRの勉強をしていて、作品のことなんて頭の中から飛んでしまっていたわけなんだよね。趣味と勉強の両立って難しいものだ、やっぱり優先すべきなのは勉強だと思うし、だからといって勉強ばかりではストレスが溜まってしまう(創作もストレスが溜まるのだが)、適度な量が大切なのでしょう。しかし適度ってどのくらい? 僕には分かりません。

(今思い出したのだが、出張版を書いていたのだった。僕のブログへのアクセスはツイッターからがほとんどで、物好きの読者の皆様に置かれましてはきっと存在を知っていると思う、だからリンクは貼らない)

 さてなんだか大型の台風がすぐそこまで迫ってきているらしく大変だそうですね、他人事のように言っていますけど、僕だって一応関東に住んでいるのだから他人事というわけにはいかない、でもどうせ明日一日は家にひきこもっているのだからほぼ関係ないのである。それにしてもこれだけ勢力が凄まじいと叫ばれているのにも関わらず出社しなくてはいけない会社というのは一体如何なんでしょう、場合によっては車まで横転するらしいですし、ここは大人しく家にいるのが無難じゃないのかしらん、でも僕が無知なだけで、会社に行くことは普通のことなのかもしれない、いや、ないな。命のほうが大事だろ。

 今日大学帰りにスーパーに寄ったのだけれど、驚く光景が広がっていた。人でごった返していたのもそうなのだけれど、とにかくものがなかった。まあ野菜とか日持ちのしないものはけっこうあったのだけどね、日持ちのするカップ麺とか菓子パン(これは日持ちするのか?)の棚がすっかり綺麗に片付いていた。ここまで片付いていると品出しの人は整理せずにただ並べるだけなのだから楽そうだなあ(実際は量が量なので辛いと思うが)、なんて思った。でもカップ麺でも辛ラーメンとか辛い系統の奴は売れ残っていたのだよね、そりゃそうか、喉が渇くのだから。僕は辛いのが苦手だからあまりその手の食品は食べないのだけれど、普通は辛いラーメンって人気なのかしらん。普段からあまり売れない商品ならもうすこし売り場を狭めてもいいのではないかと思った。

 で、スーパーの帰り道での話なのだけれど、どこの家も雨戸をすっかり締め切っている光景が壮観で、驚いた。まだ明るいうちで、台風は近いわけでもないのに、雨戸が閉まっている。確かに台風は急激に速度を増す事があるし、そのせいで対応が遅れることのあるかもしれないけれど、しかし台風が瞬間移動してくるでもあるまいし、まだ日の出ている内くらいは雨戸を閉めなくてもいいのではないのかしら。

 あ、台風のことを考えてすっかり忘れていたのだが、僕は髪を切ってしまいたいと思っていたのだった。すっかり伸びてしまった髪は鬱陶しく、もしも僕が癖毛ではなかったら今頃眼に髪がかかっていたに違いない。風呂に入る度に水を吸収して重く垂れた髪が目に入るのでいらいらするのよね、少し身体を揺するだけで水がポタポタ落ちて床が滑るようになるし、ピッタリと額にくっついて常に鬱陶しい。え、そんな事を言うのなら髪をもう少しちゃんと拭け? あなたの意見は正しいですよ、嫌になるほどに正論です、しかし吹いても髪の奥に溜まった水が垂れてしまうのだから仕方がないじゃないですか! 僕だって好きで髪を長くしているわけじゃないし、好きで癖毛なわけじゃなのだ。なんか同じようなことを以前の記事で書いたような気がする、髪をギリギリまで切らないから髪の話題が頻発するのかもしれない。台風できっと明日は床屋は空いていないだろうし、僕はこの鬱陶しい髪とまだ数日仲良くしないといけないらしい、僕に出来るだろうか、人とすら容易には仲良く出来ないこの僕に、ただでさえ敵意を持っている相手に、僕が? いっそのこと自分で切り落としてしまおうか、ザクザクと、裁ちばさみでもって。いい案かもしれない、そうすれば節約出来るわけだし、家から出なくてすむ。だが後ろ髪を整えることができないだろうし、そもそも僕はそれほど器用な人間ではないので失敗してしまうかもしれない。あるいは最悪スキンヘッドにするのはどうだろうか、それならば失敗することはないだろう。だが僕の頭蓋骨は少しだけ形が歪なのだ、それが若干コンプレックスなのだけれど、僕の頭蓋骨は角が生えようとしているかのように少しだけ左右に出っ張っている。僕の前世は鬼だったかもしれない。なんて考えてことがありませんでした。今考えました。それにしても僕の頭はどうして歪なのだろうか、遺伝、だろうか。でも親の頭を触って確かめるのは気が引けるし、なんなら父親はいないので確かめようがないのだ。コンプレックスを抜きにすればスキンヘッドというのはなかなかどうして名案かもしれない。髪を洗わなくて済むだろうし、当分の間髪を切らなくて済むではないか。だが見た目が悪いのはやはり気分が悪い、これでも一応まともな人らしい生活を送っているので、奇抜な姿になって不必要な注目は浴びたくないのである。だからやはり髪は素直に切ってもらおう、手に負えなくなる前に、はやく、僕が血迷ってスキンヘッドにする前に、僕は床屋へ行かなくてはならないのだ。

新作を書かなくては

 新作はまだ全然書けてないのだけれども、コミケの当落発表までには書き終えたいと思っている。というか書きます。つまり期限はあと一ヶ月ということになる。やばい。時間がない。卒論の定期発表もあるし、論文も読まないといけないし、NMRの勉強もしなければいけないし、本当に時間がない。でもそれくらい制限を課さなければ僕は動けない。僕はかなり怠惰な人間なので、夏休みの宿題も最後の日まで残してしまうような子供だったので、制約が必要なのだ。でもよく考えてみるとこうやってブログを書いてる時間があるように、日に数時間の余暇はあるのでそれを創作に割けばいいのではないかしらん? でもその余暇で本を読みたいという気持ちもある。ベルンハルトとウエルベックの新刊が出てしまったので早く読みたいのだ。だがこうして言い訳をして先へ先へと伸ばしているから一向に完成しないんじゃないかなあ。駄目だよね、これじゃあ。たまには自分自身に発破をかけないといけないのである。だから本を読むのは当分通学の時だけにしよう、そうしよう。一応一日の通学にかかる時間は行き帰りで二時間あるので小説なら200頁、哲学書とか考えなければいけないものは100頁くらい読める。今日もニーチェの『偶像の黄昏』を読み終わった。200頁を読むのに2日掛けてたから、まあ時間的には合っていると思う。そうだ偶像と黄昏を読んで、まだ完成させてないのにも関わらず物語の構想が浮かんできたのだよね、また贖罪と命の続編的な立ち位置になるのだけれど、『贖罪と命儀典 宿痾と黄昏』ってタイトルでKについての話。いや、まずは新作を完成させてから考えるべきなんだけど、でも本を読むと物語の構想が否が応でも生まれてしまう。悪い癖だと、思う。書く気はあるけれど、書いてすらいない作品の続編を考えるだなんて、取らぬ狸の皮算用……意味が違う。

 理系学徒ではなければここまで忙しくなかったのだろうか、と考えることもある。別に忙しいことを嫌だとは思ってない、実験はまあ楽しいし、良い結果が出ないことは少し辛いのだけれど、地道な作業は好きだから。ツイッターを覗いたりしていると、文系の学生はなんだか暇そうにしているように見える。なぜ週に大学に行く日が1日とか2日なのだろうか、何をしに行っているのだろうか。研究は、しないのだろうか。文系とはいえ卒業論文を書かかなければいけないものではないのだろうか? まあ僕とは別の世界の話なのでどうでもいいのだけれど。僕は僕の今いる世界でしか生きることが出来ないのだから。あるいはここで僕が大学をやめて、文系の大学に進むという選択が無いわけでもない。しかしそんなことをするほど僕は破天荒な人間ではないのである。ここまま平穏な生活を過ごしたいのだ。

 平穏な生活ってよく考えてみるとどのようなものなんだろうね。両親が喧嘩しない家庭とかは結構平穏な生活になると思う。だからといって、両親の仲が良くても平穏だとは限らないよね、例えば両親が子供のことをなにも分かってなくて、二人して必要以上の愛情という名の期待をかけることで逃げられなくなる、なんてこともあると思う――自分自身は容姿が整っていないと思っているのに、親は容姿を褒めそやしたり、この子は神童だと過度に期待されたり――家族というものはそれだけれ重い枷だから。他にも例えば、これは例えばの話なんだけれど、親が離婚して、母親に引き取られることになって、毎日のように母に「あなたは私を捨てないよね、お父さんのように」と聞かされたとすればその子はきっと家庭から逃げることはできなくなってしまうだろう。毎日父親の悪いところを聞かされて、ヒステリックになってしまう母に反論するわけにもいかず、曖昧に笑って「うん」と首肯する。自分を殺して生きていくことがどれだけ辛いことか。

 でも自分を殺して生きていくことって多かれ少なかれ、人生の中であることだとは思うのでそんなに深刻に考えなくてもいいんじゃないかなあ。深刻に考えなくてもいいと、自分に言い聞かせないと壊れてしまう。

 あれ、本来はここでなにを書くつもりだったのだろうか。あれだよね、進捗。駄目ですけど。はい、11月になるまでにシナリオは完成させます。物書きをしていると、いやそれだけじゃないけどね、ブログを書いている時も本を読んでいる時も僕は「一体何をやっているんだろう」と思うことがある。僕はどうして何にもならないことを毎日繰り返しているのだろうか。好きなことをしているのかもしれないけれど、でも僕にとって執筆って苦しいことでもあるし、どうしてなんだろう。いや、これは自己保身とかじゃなくて、実際に僕はさっき書いたことをしてて楽しい気分になることはあまりないのだよね、いつも虚無感ばかりがある。虚無ばかりじゃない、焦燥感とか、喪失感とか、劣等感、絶望、孤独、色々なマイナスなことが去来する。僕は一体何がしたくて生きているのだろうか。どうして苦しくても生きなければならないのだろうか。意味がわからないよね、意味がわからなくても死んではいけないような気もするのだからこれはもう、あれだね、末期だよ。末期、不安症。研究室の仲間(仲間って言葉を使うことに少しだけ違和感を覚えた)の就職が決まったり、僕以外の院志望者が東大の院に合格(自分は内部)するのを見ていると気が滅入ってしまう。将来への不安というのかな、これは。なんというか、人の成功を見ていると自分の内にドロドロとした黒いものが溜まっていくのを感じる。嫉妬とは少し違うんだ、嫉妬よりももっとマイルドな感じなんだけれど、黒い。この黒を構成するやつの一つに嫉妬があるのだろう。この黒は嫉妬の他に、劣等感、孤独感といったさっき言ったみたいな僕の内に去来するマイナスのやつがほとんどなんだろうけれど、この黒の悪い部分はね、マイナスの奴らが手を組んで僕を襲ってくるというところなんだよ。まるで僕を破壊しようとするかのように、黒く染め上げてしまうかのように、一つになって、僕を襲う。底なしの黒い沼に引きずりこんでしまう。でも僕にはどうすることもできない。僕には、力がないから。ただその場に蹲って、頭を抱えて恐怖から目をそらすだけ。そして沼の底へずるずると沈んでしまう。そうすると出来上がるのが不安で眠れなくて、ややもすれば死にたいって呟いてしまう僕。精神衛生が非常に悪いときの僕。そういう時は日がな一日ベッドで眠りたいとは思うのだけれど、でも研究があるし。そう、研究という身を打ち込めることがあるかななんとか僕は生きていられるのかもしれない。もしも将来無職になってしまったらと考えてると憂鬱になる。なにもすべきことがないということは、自分を追い立てるものがないということで、僕みたいな基本的に堕落した人間は動けなくなってしまう。それが鬱という状態なのかもしれない。でも追い立てられすぎると逆に鬱になってしまうのだから難しいものだ、人間は。生きるって難しい。黒を構成する要素、つまり僕の脳が生み出した思想という名の子どもたち。こいつらは外で遊び回ればいいと言うのに、どうして内側で暴れまわるのだろうか。僕は、平穏に暮らしたいと言うのに。ああ、そうかこの子たちは僕の脳内でしか生きられないのか、はあ、憂鬱な気分を抱いている午前2時過ぎ、眠気がまだやって来ない。不眠というやつほど厄介なものはないなあ、きっと今も僕の中で子どもたちが騒いでいるから眠れないのだろうね。僕はこれでも真面目な人間だから、その子どもたちにわざわざ付き合ってしまうんだよ。そんなことしなければいいのに、頭では分かっている、だけど僕の本質は真面目な部分が多いから、止めることが出来ない。自分の子供を捨てることは出来ない。

 こうして思想と戯れて僕は朝まで起き続けてしまうのだろうか。だとしたら朝には僕の脳髄はきっとドロドロになっているのだろう。耳からこぼれ落ちてしまうそうなくらいに柔らかくなっていて、僕は何も考えられなくなっているんだ。でも研究室にいってやらなければいけないことがあるから、身体を動かす。身体は動けど、頭は回らん。だから僕はふらふらと道を歩いて、空を見上げるんだ。ああ、綺麗だなあ。夕暮れも茜色に染まった空もきれいだけれど、朝の澄んだ青空というのもなかなか綺麗だよね。これを見るために生きている、なんて思うかもしれない。でも空はきっとお前のためにこんな綺麗な色をしてるんじゃないんだよと反論してくる。そりゃそうだよね、僕みたいな人間のクズにお空様が慈悲を与えてくれるわけ無いですよね、へへへ。それでも僕は価値がないとしても生きているんですよ、こうやって毎日意味もないのに人生について考えて、絶望して、でも絶望しきれなくて、どこかで希望を見出しているあまちゃんですけどね、生きているんですよ。ええ、ええ全くの無駄な生き方! でも逆にこちらから聞きますよ、無駄じゃない生き方ってなんなんですか? ボランティアでもして悦に浸ることですか? 父のように金を稼ぐことばかりに執着することですか? 僕には正解が分からんのです。きっとさっき挙げたことを僕がしても、きっと無駄じゃない生き方だったと考えることはできないから。僕にとって無駄じゃないことは何かわからないのだけれど、でも、無駄だということは分かるんだ。どうせ人間いずれ死ぬんですよ? 何も死後に持っていけないんですよ? それなのに無駄じゃないことがあるとお思いで? それこそ無駄な考えというものですよ。たとえどれだけ徳をつもうとも死ぬ時は死ぬんですよ。まあ家族に見守られて逝けることもあるでしょう。でもそれがどうしたという話なんです。家族に見守られて、それでどうした、死ぬことには変わりない。孤独死もそう変わらないと思うんですよ。死という現象の前では全て些細な問題に過ぎないんだ。ろくすっぽまともな人生を歩んでこれてない僕だけれども、でも死ぬ時は死ぬってことくらい分かっているんです。

 ああ、こんなこと書いているんじゃなくて新作の原稿を書かなくてはいけません。とりあえず一行だけ進めました。偉いです。僕は新作を書くと言って一ヶ月経っても全然書いてないようなクズですけど、でもやるときはやるんです。自分を追い込むんです。追い込んで、追い込んで、死にそうになって、ソラナックスを飲んで、頭がホヤホヤして、へへへと笑いながら、でも意識がはっきりしたら必ず書きます。約束します、自分と。まあ何度も約束は破っているのだけれど。

 

 

風邪引いた。39.8℃、悪夢。

  風邪を引いた、というか絶賛風邪に苛まれ中。朝は39.8℃だったのだけれど、今は37.8℃なので熱はだいぶ引いた。けど頭痛がするし、喉は痛いし、鼻のかみ過ぎでひりひりするし、辛いことには変わりない。あと立つと視界がぼやけるし、そもそも立つこと自体辛くてままならないのだけれど、なんとか生きている。人の身体は丈夫だなあ、と素直に感心しながら僕は今このブログの文章を書いている。なぜブログを書いているのだろう、自分でも不思議だ、馬鹿みたいだと思う。でもやることが他にないのだから仕方ないよね、昼間は映画見たし、モンハンは昨日した。今思えば風邪のひき始めで身体がだるいにもかかわらず天天天をソロで作った僕はなかなかに狂気じみていたと思う、でも広島に行っていて、そのうち丸三日は学会に参加していたせいで四日間もお預けを食らっていたのだから仕方がないことだろう、うん、風邪が悪化してもやりたいことがあるだけ充実しているということなんだ、そうに違いない。それに、腰が痛いから。寝すぎたせいで横になると腰が痛む。あるいは変な体勢で寝ていたのかもしれない、あまりにも腰が痛すぎる。どうすればいいのだろう、これでは寝ることが出来ないじゃないか。でも、寝すぎたせいで目が冴えてしまっているのでそもそも寝ることが出来ない可能性もある。これは身体が寝過ぎだと警告したからなのかもしれない。あと、また悪夢を見るのを忌避して睡眠を躊躇っているのだろう。

 風邪を引いている時もそうなのだけれど、基本的に熱にうなされている時は悪夢を見る。見た。僕の見る悪夢は一種類しかなくて、毎回気持ち悪いものを見せられて辟易している。もっとヴァリエーションに富んでほしいよね、じゃないと飽きてしまう。飽きる以前に見たくはないのだけれど。僕の見る悪夢は次のようなものだ。

 何もないまっさらな大地に僕は立っている。360°どこを見ても地平線。そして地面が揺れている。地震ではなく、地面がまるで命を持っているかのように有機的に動いている。その地面は目が粗く、皺だらけで、まるで麻布のよう。ここまではまだいい、まだ悪夢じゃない。悪夢なのはこれからで、地面の目が徐々に細かくなる。虫が蝟集するように、細かく蠢きながら。僕はその様子から目をそらそうと思うのだけれど、首が固定されたようで少しも動けなくて、地面を見つめるしかない。地面が、細かくなる。ザラつきのあるように見えた地面は絹のような細かさになり、触ってみたいと思う。だけど、触れない。身体が、動かないから。僕は地面を見続けている。そして感じる、地面に拒絶されているのだと。僕はこの地面の中に入り込みたいと思った、だけどそんな事はできない。僕は、排撃されているから。眼を閉じようと思った。今更って感じたけれど、名案だと思った。だけどやはり僕は動けなかった。……疎外感を感じたまま延々とこの映像を見せつけられる。一見すると怖くないように思えるのだけれど、経験している僕からすれば酷く恐ろしくて、これを見た日はいつも酷い熱がある。熱で脳の機能がおかしくなってしまうからこんな夢を見るのだろうか。バグ、のようだと思う。熱によって脳がいつも通りの動きができなくなってしまったから、思考の伝達が停滞してしまったから発生する、パソコンで言えばブルースクリーンのようなもの。正しい機能ができない脳が唯一見せることのできる映像。それにしたってなぜ映像を見せるのだろうか、見えないほうがいっそ楽なのに。脳が僕を苦しめようとしているように感じる。僕は、脳にまで嫌われてしまったのだろうか。そうだとしてもなんだか納得できるような気がする、僕は僕が嫌いだから。そして自分のことが嫌いな自分も嫌いだから。何もかも嫌いな僕だから、脳が自分のことを嫌いになってもそれは当然のことなんだ。