万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

このブログについて

 サークルブログっていう意識はないのだけれど、一応『万年筆と神経毒』というヴィジュアルノベル制作サークルの中の人のブログ。サークルとは言っても構成人数は一人のいわゆる個人サークルなので、このブログも必然的に個人的なブログの側面が大きい。

 個人的なブログであるから、ここで書くことのほとんどは創作に関係ないことであることは頭の片隅にでも入れておいて欲しい、だから作品の進捗状況だとかはあまり出せない。だけどここでほんの少しだけ語っておこう。現在製作中の「Child of Doppelgänger」は制作を始めてもう2年になると思うがまだ半分も出来上がっていないのが現状である(というか当初予定していた想定の二倍の大きさにまで構想が膨らんでしまっている)。それは僕のモチベーションが一定でないこともあるし、単に私生活が忙しいというのもある。一応理系の修士学生であるので基本的に研究に重きを置いているのだ。暇があれば、というか隙間の時間を見つけては少しずつ書いているのだけれど、それがいけないのかもしれない。時間を延ばせば延ばす分だけその間に蓄積した思考を発露したくなってしまうのだ。あるいは本作は自閉症を取り扱っていることから、その話題に対して慎重に書き進めているのもあるかもしれない。障害というのはデリケートな話題であるから、無責任に偏見を押し付けることがあってはならない。

 以下拙作についてのまとめ(ヴィジュアルノベル)。

 

 今までに作った作品(フリーウェア)

・『贖罪と命』

生きる意味を見失った青年の手記。死へと近付くことで生の意味を問い直す。

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・『慈愛と祈り』

『贖罪と命』のスピンオフ作品(なぜかボリュームは3倍ある)。愛、信仰、生きる意味、そういったことを凶悪事件の遺児である主人公が問いかける。

慈愛と祈り - 万年筆と神経毒 - BOOTH

 

 

 制作中

・『Child of Doppelgänger』(ドッペルゲンガーの子供)

 4部構成の物語。言葉、記憶、神、愛をテーマに据え、人々の繋がりを描く作品。現在第2部を執筆中。恐らくサスペンスに分類されると思う(ミステリー要素も有り)

 

・『FRAGILEs』

 7+1の物語からなる、実存的断章群像劇。ある家族の終わり、あるいはある少女の始まり。現在執筆停止。

 

5月の言葉(日記的なやつ)

20220514, Sat

 TWININGSのレディグレイが好きだ。柑橘系の爽やかな香りが心地佳く、渋味の少ない味わいはバターをふんだんに使った焼き菓子に特に合う。家には常にティーバッグが常備されており、旅先にでも持っていくほどだ。今も京都のビジネスホテルの一室でこれを飲みながらキーボードを叩いている。

 思えば紅茶を愛飲するようになったのは割と最近のような気がする。少なくとも5年前は紅茶を飲むことはほとんど無くて、飲み物と言えばカルピスか水道水であった。紅茶も多少は飲んでいたが大抵はミルクティーで、ストレートで飲むことは珍しかった。今はもっぱらストレートを好むのだけれど、何の変化だろうね。昔は甘いものを酷く好んで摂取していて、だけど今は甘いものは好みだが量を摂ることが少なくなっていて、自分の好みが少しづつ移行していっているのかもしれない。

 最近はコーヒーに少しだけ興味を持ち始めた。というのも、『Coffee Talk』というゲームを先月プレイしたからで、読了の翌日にはカフェに行ってコーヒーを飲みに行った。何かにすぐ影響されてしまいます。コーヒーはただ苦いだけの飲み物で、何がそんなにおいしいのだろうと思っていたのだけれど、落ち着く香りで、(砂糖を少し入れたものの)口に広がる苦味は嫌なものではなかった。やはり嗜好は変化しているのだろうね、なんでもかんでも甘ければいいと思っていた自分が懐かしい。

 今日から気のままに日記を書くことにした。日記とは言いつつ毎日更新することは無いのだろうけれど、週に二度は更新するつもり。

 

20220515, Sun

 宇佐美りんの『かか』と村田沙耶香の『コンビニ人間』を購入した。出張先で本を買い、荷物を増やしてしまうのはどうかとも思うが、どちらも文庫本なのでまあ許容範囲であろう。にしても芥川賞受賞作を手に取ったのはいつ以来でしょう、金原ひとみの『蛇にピアスを』を四年ほど前(あるいはもっと前)に読んだ以来かな、僕は賞を取っているかや世間に評価されているかはどうでもいいのです、たまたま手に取った作品が何らかの受賞作であった、それだけなので。

 そろそろ電子書籍を検討してもいいのかな、と思いつつやはり紙の本が好きな僕は物理書籍を手に取ってしまう。漫画は少しづつ電子書籍に移行しているのだけれど(基本読み返さない&紙の劣化が早いので)、小説を画面上で読むのはまだまだ先のことになりそうです。けれどもそれでも、遠出した時用に電子書籍リーダーを買っておかなければなりません、先月は『東京の生活史』を旅行鞄に入れて持っていきましたが非常に後悔したので、いや、何度読み返しても佳い本なのですが、流石に外へ持っていく本ではありませんでした。1000頁超え、1.5キログラムの本は荷物です、家でゆっくり読みましょう。

 

20220516, Mon

 目の下のクマが酷くなっていることに最近気付く。このままではただでさえ目つきが悪いことで評判の人相が更に悪化するのではないかと少しだけ焦りを感じる。僕の憂鬱が顔にまで現れているのだろうか、だとすれば取り除く術はないかも知れない、どうしたって僕は鬱っぽく生きていて、この感覚に慣れてしまい、どこか心地よさも感じてしまっているから。気分が暗ければ暗いほどに、身体が重ければ重いほどに、頭痛が酷ければ酷いほどに、マゾスティックな快楽が脳の内側でチリチリと弾け、気怠さに酔いのような感覚を覚える。

 早寝早起きと健康的な生活(食生活は除く)を送っているというのに、僕の目の下は日に日に黒ずむ。あと五年もしたらパンダみたいになるのでは無かろうか。しかしパンダみたいであれば愛らしいかもしれないと思ったが、想像してみるとキモイな、目の周りが黒とかロックアーティストかよ、ヴィランかよ。いつかあまりにも黒く、大きくなったクマからはビームのようなものが発射されるんじゃないかとなぜか思う。ウルトラマン的なのを連想するからだろうか。それにしても目からビーム、じゃなくてクマからビーム、ウケる。自分のツボが自分でも分からないけれど、面白く感じる。愉快だなぁ。

 

20220519, Thu

 ふとした瞬間にもしもの幸せを夢想する。意識を飛ばし、あり得たかも知れない(あり得ないが理想の)自分を見、甘やかな感覚の痺れに陶酔し、現実との落差に絶望し、あなたの不在を知る。

 僕はあなたが沈黙していることを、あるいは存在しないことを知っている。知りながらも大いなる図形の前に跪き、頭を垂れ、届かない祈りをあなたに捧げる。僕は供物だ。

 存在しないあなたに呼びかける。もしも、声が聞き届けられてしまうのならば、それはあなたではない。僕の苦痛も、叫びも決して到達することはなく、暗い水の中へ消え、波の一部になるのだから。

 あなたのプレロマの残滓である僕ですが、あなたに帰依したいとは思いません。あなたは消えてしまっているから、僕は、自由だから。

 僕は自由ではありますが、弱い人間です。あなたが存在しないことを知りながら、あなたが存在することを否定しながら、それでもあなたの影を探してしまいます。卑しい人間です。あまりにも自由であるから恐ろしいのです。降りかかる感覚が恐ろしいのです。まるで僕は海に落とされた一つの水分子。拡散し、消えてしまう。

 

 

他人感/フルグラ、あるいはパフェの底の部分

 自分の人生がなんだか他人のもののように感じる。特に最近、その感覚が強くなっている。こうしてキーボードを叩いている今も自分が自分の手を動かしているのではなく、映画のワンシーンでキーボードを叩く指を眺めている感覚に陥る、虚しい。今ならどのような恥ずかしいことでも出来るような気もする、他人事のように。気が大きくなったわけではないのだけれど、この自分に響かない無感覚さはアルコールを適度に含んだような、ノイズキャンセルヘッドホンをしているような、水の中にいるような心地よさがどこかある。自分が他人である感覚、どこでもないところからの眺め……いや、自己の固有性はこうして他人事でも自分を捉えている自分がいるということで立証されているのだからどこでもないというわけではないのだろう、僕は僕を捉える、遠くからでも捉えてしまっている、決して消えることのない自己という牢獄から見つめ、諦観する。自分が存在する、他人感があっても確かに繋がりを感じる、気持ち悪い。逃避の一種かもしれない、自己を直接的に感じないことで内面が傷ついてしまうことを防いでいる。

 ここ数日の夕食はフルグラ(とリプトン紅茶)だけで、終わってるなあと自分ながらに思う。食べることにそれほど執着がないから、栄養素を最低限取れればいいように思ってしまう。いや、フルグラは別に完全栄養食というわけではないのだから、かなり偏っているだろうね、でも自分の健康状態に興味が向かない、若いから大丈夫だと無根拠な自信があるわけではなくて、単純にどうでもいいと思ってしまう、生きることに向いていない。でも、人間というのは案外丈夫だからちょっと食生活が偏っているくらいで病気にならないだろうし、死にはしないだろうし、だから大丈夫なんです、心配される必要はないのである。フルグラはおいしい、僕は基本的にそのまま食べる。素ルグラ。中には牛乳に浸して食べる人もいるにはいるらしいが、その食べ方でおいしいと感じたことはない、フルグラのいいところはココナッツの風味と甘みと食感で、牛乳に浸してしまうとその佳いところのほとんどが減衰してしまう、フルグラへの冒涜だ。どろどろの離乳食のような、半流動食のようなものへと変形させて、それを喜んで喰らうとは理解しがたい。けれどもヨーグルトに入れるのはいいかもしれない、食べたことはないのだけれど、酸味と甘味が巧く調和してくれるように思う、しかもそれほど水分がないから直ぐにべちゃべちゃになるわけでもないはずで。今度試してみようかなあ……あれだよね、パフェの底の部分、溶けかけのアイスクリームを吸ったコーンフレークみたいな。僕はこの部分が一番好きなんだよね、パフェの中で、先端のフルーツやらチョコやらアイスが載っている部分よりも。しっとりとしつつしかし歯ごたえも残るコーンフレークの食感たるや、一緒に紅茶は如何ですか? 滋味ですよ。パフェって見た目は豪奢だったりするけれど、その味は大抵想像出来るものばかりで、つまらない。しかも飽きるよね、上半分を食べたくらいでもう口の中が甘ったるくて、冷たくて。上を崩すことに時間を掛けてしまうと底のあるシリアルが水分を吸いすぎてぶよぶよになってしまうともう最悪だよ、とてもじゃないけれど余韻が台無しだ。前半戦で底を掻き回し、クリーム塗れのシリアルを表出させてそれを喰らうのもいいけれど見栄えは悪いよね、まあパフェを食べるのに見栄えなんて気にしてたら食べれやしないんだけどね、どうせぐちゃぐちゃにしてしまう。綺麗にパフェを食べる方法はあるのだろうか(しかもおいしく!)、僕には思い浮かばないね、へへへ。

 人が食べている姿ってどう思います? 僕は、自分を含め食事をしている姿はあまり好きではない、食べ方が綺麗だとか汚いとかは関係なく、人が咀嚼していること、口を、咽喉を動かしている姿をどうして不快に感じてしまう。その口腔内では食物が細かく砕かれ、唾液と混和されているのだろう? 液状化した食物は食道を通り抜け胃液の中へ落ちる、次々と。その様子が瞼の裏に映写され、消えない。子供の頃、僕はよく吐いていた。思えば心因性嘔吐だったのかもしれない、いろいろと、ストレスのある幼少期だったから。でも大きな影響は人体解剖図や体内についての本を読んだことだろうか、小さな頃に見たフルカラーの解剖図には真皮を剥がされた筋組織だけの人間の姿や、その更に下、筋組織すら剥がされた内蔵が描かれていた。恐ろしかったし、気持ち悪かった、そう思ったことは今でも感覚として残っている。赤褐色の大腸、薄桃色の小腸、ぎょろりとした眼球……子供に読ませるもんじゃねえだろ。あとやや戯画的ではあったが、身体の機能を説明する漫画も口に入れた後の食物の顛末が描かれており、やはり気分が悪くなった。今はもう吐くことはないが、気分が抑鬱的な時は食事をした後気分が悪くなる、特に朝食を食べた後は最悪だ、思い出してしまう。思えばぐにゅぐにゅしたものが苦手なのはここらへんが関係しているのかもしれない。パフェの底に溜まったコーンフレークだったものがそうであるように。甘くどろどろな澱は胃液と混和された食べ物だったものを想起させる。

好み/やさしい世界

 食べ物の好みの論争の一つに粒餡か漉し餡かというものがある。僕はどちらかといえば粒餡派ではあるのだけれど、かといってどのような食べ物に対しても粒餡がいいというわけでもなく、個人的には大福やおはぎは粒餡、一方で饅頭やあんころ餅は漉し餡が好みなんだよね。しかし世の中には徹底的にどちらか一方しか認めない人がいる、いわく粒餡の皮が嫌だとか、漉し餡の粉っぽさが嫌ということらしいが、そんなものなのだろうか、いや、そんなものなのだろう、個々人によって好き嫌いは大きく異なる。僕だってそうだ。

 僕はかなり好き嫌いや拘りが激しい(強い)方だいう自覚がある、例えば許容できない食べ方として、ご飯に対してシチュー、餃子、焼きそば、その他炭水化物を併せることがある。単純にハンバーグにシュウマイ、生トマトや生セロリ、ウニやイクラ、キノコ類(匂いの薄いエノキや乾燥シイタケは平気)、粘性のある食べ物(なめこやオクラ)が嫌いでもある。他にも様々好き嫌いがあり、昔から偏食気味であったから、まあ他人と食の好みがほとんど合わない。だからあまり他人と外食に行かないし、行ったとしても特定の店や今までに食べたことのある料理(ラーメンとか典型的ね)、あるいは味の想像できるものしか基本的に食べることはない。損をしているだろうなあ、という自覚はあるのだけれど、もっと様々な経験をしたいと思うけれど、無理して食べて吐いてしまった(あれはキノコ汁だったか)があるので、なかなかどうして新しい味の探求ができないのである。食の好みが合う人と結婚した方が不和になりにくいという話をどこかで聞いたことがある。なんとなくだが理解できる、食の好みが合わなければどうしても共有できる喜びが減ってしまい、加えて日常生活における調理にも少なくないストレスが加わることだろうから。一人暮らしを基に少しでも料理に挑戦したいと思う、経験としても、偏食を抑えるためにも。

 

 異性から(直接的ではないが)好意を向けられ、戸惑った。どのような表情で、どのような言葉を返し、どのような行動をすればいいのか分からなかった。思えば僕にはこういう場合のスタンダードモデルというものがいなかった、人は誰しも誰かの行動を模倣して社会生活に適合しているのだと思っているのだけれど、こういった好意に対する大抵ひっそりと行われている反応はどうやって真似ているのだろう、分からない、分からないからとりあえず誘われるがままに食事の約束だけした、相手は嬉しそうにしていた。なんとなく居心地が悪かった、不当なことをしてしまったように思えた。だからといって相手の誘いを断ってしまうのは傷つけるような気がして気が引けたし、なにが正解の行動だったのだろう。こういう時こそモデルがいてくれればいいのに。……いや、正しいか否かで考えることはそもそも不適なのかもしれない、この世の中には答えのない事象が多すぎる。

 

 やさしい世界になってくれるといいなあ、ほんとうに、やさしくなってくれると……誰もが笑顔でさ、憎しみ合うことも、罵り合うことも、殴り合うこともなくってさ、差別もなくて……でもそんなも無理だって分かっているよ、分かっているんだ。でもさ、希求せずにはいられないよね、どうか誰も傷つかない社会になってくれますようにって。苦しい社会だから、死んでしまった方が楽なんじゃないかと思うこともあるけれど、それは単に逃げているだけなんだろうね、考えることから、直視することから……だから一生目を閉じてしまいたいと思ってしまう。この前一週間くらいtwitterのアカウントを削除したんだ、TLに流れてくる情報があまりにも苦しかったから、見ているだけで自分が削られていくような感覚だった。常に世の中には怨嗟が蔓延り、暗く、どこにも希望なんてないように思えた、どこを向いても誰かが悲痛な声を上げていて、それに張り合うように、かき消すように反対意見や貶言が飛び、どこにも平穏なんてないんだろ? いつだって人は対立し、どれだけ言葉を尽くしたところで平行線の議論なのは明らかなのに声を荒げて、こいつは間違っていると……本当に? なにが間違いでなにが正しいのかという標準器はないのにどうして言い切れるのだろう、言葉や文化が違えばそれだけで意見が容易く変容するというのに、例えばつい最近某黒人俳優が暴力を振るってとくに米国では非難されていたよね、でも日本では彼を擁護する意見が多く見られていて、文化やそこで醸成されている意見の違いをひしひしと感じたよ、この件に僕は自分の意見を述べやしないけれど、悲しい出来事だったよね、コメディアンにはコメディアンの、某俳優には某俳優の役割があって、それに従って行動しただけなのにね。今は本当に息苦しい時代だよ、ロシアはウクライナに侵攻しているし、多くの民間人が、子供が犠牲になっている——子供の犠牲の上に成り立つ行動なんてないんだ、あってはいけないんだ。世界はロシアを徹底的に悪と断言し(間違いではないが)、そこに棲む国民に対して多少は憐れみを表明するが重い制裁を加えていることに僅かに違和感を覚えてしまう、かといってロシアの蛮行に対して他になにか手があるのかといえば思い浮かばない。世界から孤立してしまったロシアの中で西側諸国に対する憎悪が醗酵しなければいいのだけどなあ、まったく、やさしい世界になってもらいものです、やさしい世界になってくれたらなあ。

『ベオグラードメトロの子供たち』を読んで。(20220311追記)

 久しぶりに感想記事を書こうと思い、筆を取った。プレイした作品は隷蔵庫(summertime)様の『ベオグラードメトロの子供たち』、通称べおちる。ただ、断っておくが本作をプレイしたのは昨年の8月——なんと暑い夏だったか!——で、ここにこうしてプレイ当時の心情を文字にするには時間が経ち過ぎている。このため(可能な限り言及箇所を確認するつもりではあるが)内容に思い違いがある場合があり得ることをご留意いただきたい。

booth.pm

 さて、本題に入ろうか。まずはネタバレを極力避けて書いていく。

 本作には男女、能力者と非能力者、能力自体の強さ、(社会的、構造的)上下など様々な"差"が存在していた。セルビアという土地を舞台に、少年少女(一部大人)の人生が触れ合い、傷つけ合い、殺し合う。誰もが自分の居場所を切望し、孤独の中でそれでも個を確立しようとしていた。どうしようもなく孤独を抱えた登場人物たちは徹底的に分かりあえず、たとえ相手を理解するために近付いたとしても傷つけ合うことになってしまう。孤独はますます深まり、差は大きく口を広げ、離別へと至る。

 主人公のシズキは無能力者であるが故に常に劣等感に苛まれている。肥大した自尊心はその空白に耐えきれず、折りに触れては他者を見下してしまう。自分の住むセルビアに、メトロに、自分の人生に対して斜に構えて、デジャンという強力な友人の威を借りつかの間の高揚感を得ながら日々を過ごしていた。状況が一変するのはマリヤという少女との出会いから。このマリヤ、大企業の令嬢でありまさに魔性と言うべき人物であるが、どうやらシズキは昔、彼女とあったことがあるらしい。まあそんなことは置いておき、とにかくシズキはマリヤに血道を上げるのである。それはもう破滅的に、どうしようもなくマリヤへ溺れていく、多少なりとも周りの人間を巻き込みながら、その先は地獄でしかないというのに、堕ちていく。

 ベオグラードに住む子供たちの生き様はぜひプレイして確かめてもらいたい。

 

 以下ネタバレあり。プレイ済み推奨(細かい説明はしません)。

 

 

 作者の書く"関係性の地獄"(地獄の関係性ではない)は健在で、読めて良かったなあ、と読後に思う作品だった。僕は感動した時(あるいは圧倒された時)、後頭部が痺れる感覚があるのだけれど、本作でもその感覚が現れた。例えば EP5 の憑依と首なし死体。まさに物語のミッドポイントで、このシーンの前後で明らかに雰囲気が変化していた。それまではあくまで能力者同士の戦いや、人生の軽い触れ合いで、ある程度は面白いと思ったが、そこまでではなかった。しかしベッドに横たわる首なし死体のスチルを見た時、認識が変わった。魔術にかかったかのようだった。ああ『真昼の暗黒』の作者だなあと改めて思った。これだよこれ、僕が求めていたのは。血みどろで、陰鬱で、動悸がする。読むことが苦しかった、でも夢中で読んでいた。クリックする手が止まらなかった。本作は一貫して嫌悪を抱かせたが——主にシズキに対する同属嫌悪だった——、その居心地の悪さが、一方で快楽だった。EP8 のデジャンの能力の暴走によってイェレナを殺してしまうシーンには笑ってしまった。ああ、終わってる。でもこの終わったような感覚が心地よかった。自分の存在を支えるある種幻想的な過去を、あり得たかもしれない幸せな未来を、ずたずたに引き裂き、現実という名の繊細で柔らかな内蔵を引きずり出し、こんなにも醜く汚く吐き気を催す姿がお前なんだと描写するその筆力にはやはり驚かされた。地獄を描くのが本当に巧い。

 

 作中(EP7)で『ゴドーを待ちながら』の名前が出たこともあったからなのだろう、べおちるを読み終え、最初に浮かんだのは次の文章だった。

エストラゴン 今度は何をするかな?

ヴラジーミル わからない。

エストラゴン もう行こう。

ヴラジーミル だめだよ。

エストラゴン なぜさ?

ヴラジーミル ゴドーを待つんだ。

エストラゴン ああ、そうか。

 サミュエル・ベケットゴドーを待ちながら

 シズキはゴドーを待つだけの状態が一番の幸せではないかと思っていたが、結局はマリヤからの寵愛を待つだけの人生には厭いてしまい、マリヤを殺すことで全てをぶち壊してしまった。愛は孤独を救えない。このシーンが描かれる EP9 はなんとなく『真昼の暗黒』の精神的続編のように感じた。『真昼の暗黒』では結局、共依存的な関係がそのまま続くことが示唆されて?(すみません、細かいところはおぼろげです)、物語が締めくくられていたが、べおちるにおいてはマリヤとシズキの関係はシズキによるマリヤの殺害によって幕が引かれる。そしてシズキの人生も幕引きなのだろう。マリヤとゴドーを待つことに絶えられなかったシズキは次の目的地(Next Destination)へ向かおうとするが、しかし EP9 のタイトルが示すように、マリヤ主導の逃避行は Final Destination であり、マリアを殺害した事でもう彼の人生は終わっている。結論づいている。『真昼の暗黒』ではある意味で幸福な結末だった一方、完膚無きまでに破壊し尽くされたシズキの結末はもう明らかだろう。凋落するしかない。不条理かもしれないがそれがエンディングである。

 EP9 では拳銃が登場した。拳銃という存在はなんというべきか、とにかく圧倒的で、それが能力者がバトルするような世界観でも揺るぎないように僕は思う。拳銃の異質感や重量感は特別で、物語に強い影響を及ぼす。結局シズキは銃を撃たなかったけれど、撃っていれば結末は変わったんじゃないかと思ってしまう。それほどに銃という存在は僕にとって特別な印象を与える。話は変わるが、たった一ヶ所だったにも拘わらず肌に対する桃という表現がなんとなく印象に残った。意識したことはないがもしかしたら桃という単語は僕に特別な感覚を与えるのかもしれない。確か『CODA』にも桃の表面のような和毛だったかそんな表現があった気がする。それだけです、人には人の馴染む言葉があるという話です。閑話休題。わずか二秒の動作の違いで未来が変化するのだとすれば(LINE1)、銃の発砲は大きく物語の展開を歪め、もしかしたらマリヤを殺さない世界線もあったかもしれない。

 

 本作の音楽は非常に気持ち悪い(褒め言葉)のがとても気に入っている。気持ち悪い音楽というのは個人的な表現で、例えば『Arknights』の「Under Tides」や 『Lobotomy Corporation』の「Second Warning」がそれにあたる。どれも気持ち悪くてサイコーな音楽だ。べおちるは血と埃と金属が焼けるような匂いのする作品で、気持ち悪い音楽がほどよく調和していた。ただ、どの場面で流れた音楽が良かったとかはもう覚えていないのだけれど。

 本作においてわずかに不満な点があるとすれば、セーブスロットが少ないことだろう。僕は普段読書をするときも気に入ったセリフやシーンがあれば付箋を貼る人間だということもあり、かなり細かくセーブをする。なんなら数クリック先でもセーブしたいことがあるほどである。ボリュームの少ないゲームであったのならばまだしも、本作のようにボリュームがありつつ魅力的な文章やシーンが多い作品は再び開いた時にその情景の先へ数クリックで入れるようにしたかった。わがままですね、すみません。

 

 ひとまずここで筆を置く。近々もう少し書き足します。

 

(追記 20220311)

 なんとなくフェリーニの『道』を想起した。べおちるの内容とはまったく異なるのだけれど、僕にはシズキの孤独とザンパノの孤独が似ているように感じたんだ(シズキとザンパノとではそもそもの性格として異なるのだが)。マリヤの遺骸を川へ遺棄した後、シズキの目の前に現れた自由はあまりにもそっけなく、あまりにも冷徹で、あまりにも無関心だったように思う。シズキは泣くでもなく、動揺するでもなく、ただ煙草を吸い、未練を煙とともに吐き出し、無感覚の中でマリヤを見送った。さようなら。このシーン、好きだなあ。まず川というのがいいよね、川といえばやはりレーテー〈忘却の河〉が思い当たる。作者が意図していたかは定かではないけれど、僕はシズキの口から吐き出される離別の言葉と煙、そして川下へと消えてゆくマリヤの死体という図形の中にレーテーを見た。そして次の詩を舌先で転がした。

 

きみの香りに満たされた下袴(ジュポン)のなかに

苦痛にうずく私の頭のふかぶかと埋め、

萎れた花をさながらに、死んでしまった私の恋の

甘くも鼻を刺す残り香を、嗅いでいたい

 

(中略)

 

私の嗚咽を鎮めて嚥(の)みこませようためには、

きみの臥床の深い淵にまさるものは何もない。

力強い忘却はきみの口の上に棲み、

〈忘却の河〉はきみの接吻のなかを流れる。

 ボードレール『漂着物』四

 

 

 シズキは過去と決別を果たし、前に進もうとする。自分の、自分だけの人生を歩もうとする。大学で学び、脚本を書き、仕事が舞い込む。まさに順調、これからの未来は明るいように見える。だけれどもシズキはそんな未来を自分の手で壊そうとしてしまうんだ。自分でも分からない義務感によって。破滅願望だろうか。いや、違う。ただ訴えたいだけなんだ、生の言葉で、セルビアや能力者やマリヤや自分のことを。それに彼は分かっているはずだ、過去は血やマリヤに与えられた傷痕で象られているために、続くその道の先に幸せは広がらないことを——だから彼はこの信じがたい幸運がもう少しだけ続いてくれと願う。何をしてもきっとまた同じように血が流れることを予感し、確信し、どうせこんな終わった人生ならばと文章を書き、俺がこんなことを綴って、何をしたいのか……そんなの分からないけれど、幸運にも、俺はまだ生きているのだから、そう、俺には訴えたいことがあったんだ、嘘偽りなく、自分の体験を書くことで……認められたいわけじゃない……ってこともなくはないけれど、本当は、心の底では成功して、認められたいと思うけれど、そんなの到底無理って分かっているから、こうして内面を描き、自傷じみたことをして、過去を忘れようとしている。

 受苦と破滅への激しい願望の、刹那の現れによって想い人を殺し、あり得たかもしれない幸福を手放し、虚無的に世界を見つめ、容赦の無い客観性でもって個人的な体験を無味乾燥とした文章に再構築する。殺人はドラマチックなものではなく、畢竟彼の人生の中に起きる小さな出来事の一つに過ぎないとシズキは思うが、歪まされた人生はその分の精算を要求してくる。ジーマ、影、過去に追いかけられシズキはメトロへ逃げ込み、そして最後には人生からも逃げようと地下鉄に飛び込む。今までごめん、と口にして。以降シズキがどのような道を辿ることになったのかは、うまく掴めなかった。そこは考察し、想像を巡らせることで補完するしか無いのだろう。少なくとも、ゲーム内で語られる一年後はただの幻想だ。

 

 本編を通し、ゲーム内資料にも目を通してもなんとなく違和感が残った。消化不良。胃が重い。ベオグラードメトロの子供たちによる物語の外枠はなんとなく掴めたし、今でも印象に残っているシーンはあるのだけれど、ところどころ細かい部分がまるで点描画のように捉えにくかったように思う。例えばそれは数多くの人物が登場するが故のそれぞれの個々人に対する描写の不足であったり、良くも悪くも海外文学チックな、薄膜を一枚隔てたような言葉選び(やや迂遠な言い回し)に起因するものなのだろうが、それがとても惜しいと思った——これは単に僕の思い違いかも知れない。だが、この文体こそが本作の魅力であるし、気に入っている言い回しも多数存在する。

 登場人物は誰もが魅力的で(個人的にはロマっ娘が好み)、だからこそそれぞれの人物についての深掘りがもっと欲しかったなあ。もっとも本作の構造上、読者側には基本的にシズキの見た景色が提示されるためそれが難しいのは分かるし、無理に話を差し込んでテンポが悪くなってしまったら元も子もない。だから設定資料にイェレナの過去が判明するSSがあったのはとても良かった。ところで第9って能力の発現した順番から来てたんですね、てっきりベートーヴェンから取っているのかと思ってました。第九といえば交響曲第九番ですからね。あとあれです、作中で提示される二項対立が複雑に絡み合う様子にポン・ジュノの『パラサイト』みを感じました。閑話休題。ここまで書いてきたことを見返して、シズキとマリヤのことばかり書いているのに気が付いた。少し前にネデルカが好みと書いていたけれど、関係性で言えばシズキとマリヤには敵わないなあ。例えば特殊EDにネデルカとの未来が仄めかされているけれど、そこで築かれるであろう関係はマリヤとの関係に遠く及ばないだろう、シズキはだってマリヤに恋をしていたし、自分の手で殺したし、小指を失っているし、どこまでもマリヤの影響下にあって、嗜癖も、思考も、徹底的に塗り潰されていて、そこにネデルカの色が入り込む余地なんてなくて、でもネデルカはシズキのことが好きだからたとえ殺される運命だとしてもそれを悲しそうに笑って受け入れるのだろうなあ、そう思うとアリな気がしてきた、でもマリヤほどじゃあないけれど。

 『真昼の暗黒』でも思ったが、作者はやはり少人数(一対一)の仄暗い関係性を描くことがとても巧いなあ、また言ってるよこいつ。シズキくんが徐々に居場所をなくし、マリヤに傾倒していく様は破滅的で美しいよねって。そう、この小さな関係の箱庭は美しく、しかしべおちるはセルビアという広域が舞台だったためか、閉塞感はあまりなく、むしろ能力者バトルの熱もあってどこか光が差していたように思う。さきほどから僕は何度か『真昼の暗黒』について言及しているのだけれど、計と深沙の方が出口なしの関係のほうが生々しく、個人的な好みであるからつい書いてしまうのであって、だけど一般受けするのはべおちるのような雰囲気なのかもしれないと何となく思い、ただ僕には『真昼の暗黒』の方がぶっ刺さっているってだけなんです、と言い訳をし、それでも展開的(主にEP9)には本作の方が面白かったと思うし、ええ、そうなんです、とかく言葉を尽くしてきたけれど、僕の言いたかったのは最低で最高な関係性の地獄が佳かったという感想に帰結します。おわり。

 

 

 

 

 

人間は難しい/ピスタチオが流行ですが

 人間をするのは難しいと常々思う。他人と関わる場合、何をするにしても分かるはずもない相手の考えを読み、ストレスを蓄積しなければならない。息苦しく、まるで水の中にいるようだと思う。喘ぐようにして毎日を生きているが、エラを持たない僕は窒息寸前で、今にでも息をする努力をやめてしまいたいと願う。他人の分からなさが恐ろしく、そして吐かれる言葉も(理解が困難で)恐ろしい。

 いまはもう昔、僕がまだ高校生だったころのこと、半年ほど恋人がいた時期があった。初めてのデートは11月が12月、ひどく寒い時期に水族館で過ごしたのだがその帰り、彼女に「また一年後、一緒に行こうね」と言われた。僕はどうしてかその一言を“来年もまだ付き合い続けよう”という約束として受け取ってしまった。悪い癖だった、僕は昔から言葉をそのままに受け取ってしまう、希望的観測でもそれを約束と受け取ってしまう。だから半年後まで、彼女に別れを切り出されるまで、僕は彼女にほとんど構わなかったことに危機感を感じていなかった。次の11月(12月)にまた出掛けると思い込んでいたから。彼女に振られたことよりも自分がその口約束に縋っていたことがショックだった。人間に、向いてないと思った。こんな誰だって本気にしないような、その場の雰囲気で口走ってしまうような言葉に、言葉にだけ拘泥し、その先にいた人間に頭が回らなかった。欠陥品の頭は今でもその約束を反芻する。今みたいに。きっと彼女はそんなことを言った事実すら忘れているだろうけれど、僕は今でも忘れていない。彼女の名前すら消えかかっているというのに。

人間は難しい、表面には取り繕った嘘ばかりがあり、裏に存在する真実を暴かなければならないから。しかし、暴いてはならない真実もあり、その境界が分からない僕はいつも間違いを犯してしまう。他人を不快にするばかりの人生です。

 

 コンビニでも、スーパーでも、飲食店でも、最近なにかとピスタチオ味のものが増えてきた。僕はピスタチオは好物だが、ピスタチオ味であることに魅力を感じない。あくまでナッツとしてのピスタチオが好きなのであって、その抽出した味や匂いが好きなわけではないのだ。世間は空前のピスタチオブームなのか、バターサンドでも、プリンでも、チョコレートでもピスタチオ味が存在する。一応食べてはみるが、やはりしっくりこない、イマイチだ。確かに美味しいが、ピスタチオ味にあえてする意味が分からない。僕が異端なのだろうか、それとも周りがただ流行りだからと商品を製造し、称揚するのだろうか。分からない、分からない。けれど、きっとまだまだピスタチオ味の商品は開発され続けるだろう。

 子供の頃、僕には癖があった。それは『ノートとゴミ箱の話』でも書いたような、人の注目を惹くために自分がまるで虐められているかのような振る舞いをするというものだった。実際、泥を塗られたり、仲間外れにされたりと虐められてはいたが、それ以上に惨めな存在であるように僕は自らを装った。他者から僕が惨めな人間であると認識されると思うと、頭がぼうっとし、安心感があった。

 差を、感じていた。彼らと僕の、手を伸ばしても触れることすら出来ない圧倒的な差。家族の転勤で引っ越したばかりでその土地に馴染めずにいた当時の僕は、惨めな人間を装うことで、受け入れられていないことを実感し、役割を担おうと思った。役割、というのは正確ではないかも知れないけれど、その場での役になり切ることで、世界に対処しようと思った。僕が虐められるのは僕自身が原因ではなく、別の土地にやってきてしまったがゆえに以前とは異なる役になってしまったというように。悪いのは全て周りの環境であり、世界と宛てがわれた役による差でしかないのだと考えた。

 僕は役に徹しようと考えた。だから何度も同じようにノートを自ら隠した。ここには論理の破綻があるかもしれないが、当時の僕にとってノートを隠すことは世界への対抗策だった。僕がノートがないと言う時、周囲の人間はまたかというような表情をした。そして僕しか知らないノートの在り処を面倒な表情を浮かべながら探していた。彼らが僕のために動いていると思うと、内側で暗く、安らかな温度が広がった。いつも僕を虐めているグループのやつらも、その時ばかりは僕のために行動していた。全能感ではなかったように思うが、それでも人を動かすことの快楽を味わった。

 そんなことをするような子供であったから、いつまで経っても周囲には馴染めず、僕は役を続けていた。わざとトランポリンで着地に失敗し、足を怪我した。わざと提供された動物型のビスケットを落とし、泣いた。そんな僕を見て周囲は面倒な奴だと思っていたに違いない。それでも僕には他にとれる行動が思い浮かばなかった。

 そのような自損行為の最終形がノートとゴミ箱なのだろう。

 ゴミ箱に落ちているノートを見ると、僕は緊張する一方で、温かい気持ちになった。ノートはまるでそこのあることが正常であるような、昔からそうなることが決まっていたような、必然性を持っているように感じられた。ノートの長方形とゴミ箱の円形が見事に一致しているようだった。これ以上無いほどに、美しく。心臓は痛いほどに鳴っていたが、不思議と心地よさもあった。ノートが僕自身を暗示しているのだとも思った。自分でそうしているにも拘わらず、これが自分の行き着く先だとノートが言っているように感じられた。

 僕の手とゴミの上に落ちたノート、この物理的な距離こそが僕と世界との差だと考えた。いつか僕はこのようにうち捨てられてしまうのだろうか。悲しくなったが、しかし僕は笑みを浮かべていたように思う。

 この行為は結局先生に見咎められることになったけれど、僕はやはりと思っていた。やはり僕は惨めなのだと。自らノートを捨て、構ってもらいたがるようなどうしようもない人間なのだと証明されたように感じられた。

 僕はあの時から成長しているだろうか。人は誰しも少なくとも三つの仮面——自分だけに見せる顔、親しい者に見せる顔、その他の人間に見せる顔——を被ることで他者や世界との正しい距離を保つ。僕はちゃんと仮面を被れているだろうか、正常に見えるだろうか。

 僕には正しい差を見極める能力が欠落しているけれど、それでも生きてもいいのだろうか。

 

 

 

あけまして、酢と塩麹は万能調味料ではない

 2021年になった。あけましておめでとう。本当は一日に何か書くつもりだったのだけれど、うだうだと長引き、結局十日になってやっと書き始めた。と言っても別段書きたい話題があるわけではないのだけれど。

 最近は正月におせちを食べないわが家だけれど、栗きんとんと黒豆と炒り鶏は必ずでる。出るのはいいのだけれど、母の作る黒豆は正直好みではない。というのも塩麹と共に煮ているからだ。塩麹は巷で万能調味料だと持て囃されているけれど、僕はそうは思えないね。妙に甘味があって、人はうま味があるというけれど、確かにそれはそうかもしれないが、何にでも合うとは違うんじゃないかなあ。だったらトマトだって昆布だって万能調味料になりえるでしょう? だけどトマトも昆布もそれなりに決まった——アレンジでいろいろな料理に加えることはあるが——メニューに使うし、入れれば決まっておいしくなるとも限らない。だけど母は何にでも調味料として塩の変わりに塩麹を使うのだ。黒豆に関しては元の甘味のおかげで塩麹のくどさは多少紛れているとはいえ、食感が嫌だった。黒豆を食べているというのに、米の細かな断片が混ざってくる。そもそも見た目も寄生虫が湧いているように見えて駄目だった。黒い液体の中に白さを保った小さな粒々が浮いているのを見て気分が良くなることなんてないだろう?

 それに母は最近発酵食品の他に酢にもはまっているようで、かなりの確率で酢を使った料理を作る。砂糖や塩を使う要領で酢を使うものだから酢酸臭くてたまったものじゃないし、量もそれなりにいれるから変に酸っぱい料理になる場合もある。困ったものだ。 

 去年から母は健康に気を使うようになって、どこともしれない業者から浄水器やイオン水を買っているのだけれど、それを指摘したらヒステリックになってしまったのである。あの一件以降食生活には口を出さないようにしているが、正直参ってしまっている。冷蔵庫の中は発酵食品の匂いがしっぱなしで、鼻が曲がってしまいそうだ。発酵食品は健康的だ、酵素は体内を整えるってそれは本当に言っているのだろうか。酵素は特にタンパク質でしかないのだから、胃の中で容易に分解/失活してしまうだろうし、正体不明の酵素を取り入れることも気が知れない。母は酵素ジュースなるものを作っているのだが、それにだってどんな細菌が繁殖しているのは分からないのだからむしろ非健康的ではなかろうか。健康というのはある種の宗教だと思う。人は自らの生命を脅かされることを酷く忌避するものだから、健康を求めてしまうのはしかたがないとしても、〈健康〉という言葉を信奉してしまうのは間違っている。誰だって健康でありたい、苦痛でありたくないと思うから、健康を売りにした商品が売れ、中には良質なものもあるのだろうが、一部には悪質な健康と謳っているだけのものもある。酵素なんてものはその代表的なものではないだろうか。特に根拠があるわけでもないのに、健康である、という上辺の情報だけで飛びつき、金を垂れ流して安心感を得る。本当は健康になっていないにも拘わらず、健康になっていると思い込む。

 塩麹は発酵食品だから体に良いとは母が良く言うことなのだけれど、食べ物なんてのは大抵体にいいものではないだろうか? ビタミンBが体に良いのは知っているが、それを含む食品は他に無数にあるし、わざわざ摂取する必要もない。あと栄養は満遍なくとるべきであって、特定の栄養素にだけ注目したところで意味はないのだ。

 

 とまあ、ここまで食べ物のことを書いてきたのだけれど、正月らしさが全然ない。まあ正月は過ぎ去ってしまっているのですが。

 続いて今更だけど新年の抱負を考えることにする。去年は結局完遂できなかったので、もう少し楽なやつにしたい。……でも思い浮かばないのです。最近は意欲の低下が激しく、もう生きることもやめたい。生きていてなんになるのだろう。僕はもう23なのだし、十分生きたじゃないか。死んでもいいのではないだろうか。年を経る毎に加速する体感時間からしてもうどんな快楽だって刹那的でしかなく、空虚を抱えているしかできないことが分かっている。なにもないからなにもかもなくしたい。……でも迷惑を掛ける人がいるから、一人暮らしをするまでは死なないと去年言ったではないか。

 

 新年の抱負はとりあえず生き残ることにしておきます。ややもすれば自殺を選んでしまいそうな不安定な精神状態だけれど、抱負にすることで難しいけれど生きていけるような気がします。