万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

このブログについて

 

筆先より流れ出ますは遅効性の神経毒、痛みを蝕す言葉をお送りいたします。

 

 サークルブログっていう意識はないのだけれど、一応『万年筆と神経毒』というヴィジュアルノベル制作サークルの中の人のブログ。サークルとは言っても構成人数は一人のいわゆる個人サークルなので、このブログも必然的に個人的なブログの側面が大きい。

 個人的なブログであるから、ここに書くことのほとんどは創作に関係なく、だから作品の進捗状況だとかはあまり出せない。

 

何かありましたら以下の連絡先まで。

mizuha.kannazuki■gmail.com(■を@に変更して下さい)

XのDMでも可

https://x.com/k_mizuha

 

依頼についてはCommission頁を参照のこと。

Commission - 万年筆と神経毒

 

 

以下拙作についてのまとめ(ヴィジュアルノベル)。

 

Previous Projects

1st Project:贖罪と命

生きる意味を見失った青年の手記。死へと近付くことで生の意味を問い直す。

※配信終了

 

2nd Project:慈愛と祈り

『贖罪と命』のスピンオフ作品(なぜかボリュームは3倍ある)。愛、信仰、生きる意味、そういったことを凶悪事件の遺児である主人公が問いかける。

※配信終了

 

3rd Project:Child of Doppelgänger-Prequel-(ドッペルゲンガーの子供-前日譚-)

§.Prequel [Gnosis] グノーシス C102にて頒布

 運命に翻弄される姉妹。偏在するありふれた不幸と幸福。

柊理香子という女性について書いた話になります。成人向け。

※Prequelと開発中の本編は繋がりこそありますが、物語としての精髄は全く別のものとなります。いうなればグノーシス文書と聖書ほどの違いです。Prequel単体で一つの物語として完結していますし、また本編はPrequelを知っていると味わい深くなるような構造となります。

※BOOTHにて配信中

jeuxdeau.booth.pm

 

 

4th Project:Jeux bleu(青い戯れ)

C104にて頒布いたしました。魂を巡るスラヴ的幻想ADV。

 異形と化した少女との邂逅、生命の煌めき、哀しい愛情の向かう先。

スラヴの民間伝承に語られるルサールカをモティーフに水の精といった古典をベースにしつつ現代的な文脈で書いた作品となります。全年齢作品。

※Steam、BOOTHにて配信中

store.steampowered.com

jeuxdeau.booth.pm

Jeux bleuは創造性の認められるものに関して実況配信を許可しております。

 

Current Projects

・Child of Doppelgänger(ドッペルゲンガーの子供)

 4部構成の物語。言葉、記憶、神、愛をテーマに据え、人々の繋がりを描く作品。本編はサスペンスに分類されると思う(ミステリー要素も有り)

§1. [A Way to Dissappear its Existence] その存在の消し方

 多摩川で発見された水死体、それはかつて失踪した恋人のものだった。首元に奇妙な痕跡が残された遺体と連続する殺人事件を巡って哀れな男が奔走します。

§2. [Delayed Echolalia] 遅延性エコラリア

 語られるは5年前から続く因縁、暴かれるは事件の真相、誰も幸せにはなれません。

§3. A√[Godisnowhere] ■■■■ B√[The Silent Crossing of Loves] 逢瀬

§4. [Imago]イマーゴ

 物語の終幕、羽化。面影。

 

・Felix culpa(幸いなる罪戻) ※贖罪と命、慈愛と祈りのリメイク作

 三部作として宿痾と黄昏「屍と幸い人」という作品も加えてリメイクします。Child of Doppelgängerより先に出す予定です。

 

・Jeux bleuの続編(タイトル未定、制作未定)

 Jeux bleuから何年も後の話を書きたくなったら書くかもしれません。メリュジーヌ的表象を扱えればと考えています。恐らくですがスィニヤもラリサも登場しないでしょう。

 

Discontinuance Projects

・『FRAGILEs』

 7+1の物語からなる、実存的断章群像劇。ある家族の終わり、あるいはある少女の始まり。執筆停止。

 

 

一月への言葉

20250103, Fri

 2024年に別れを告げ、新しい年となり早くも三日が経過した。昨年とは異なり少なくとも日本では甚だしい出来事が起きていないのは少しだけ安心する。あまりにも酷い有り様だったから。去年は年初めからどこか自粛ムードが漂い、陰気だった。覚えているかしら? 数ヶ月、半年と日を経ると徐々に薄らいでいったあの空気、非情で理不尽な災害に対する憤りと弔わなければならないという強制感。悲しみを表に出し、喜びをひた隠すあの感覚。誰が好むだろう、誰が覚えていたいと思うだろう。だけれども僕たちは悲しんだ、祈った。

 一方で誰かが不満を吐き出し、批判の道具にし、食い物にしているのを遠く眺めながら変えられないと思った。この世界に巣くう悪意は決して切除できず、正しさの方向へ舵を切れないと。自分本位にしか行動できないのは生命としての本質かもしれないけれど、それをどうにかしてこその人間だと僕は思う。だから僕らは他人を想うべきで、苦しい時は目を背けたとしても、手を差し伸べることが出来なくとも、ただ悪意だけは向けてはならないのだ。他人の不幸を望むのは僕たちの中にある機能かもしれないけれど、どうにかそれを抑えなければ、そうでなくては幸せは決して手に入れられぬのだと。

 今年はもう少しだけ佳い世界になればいいと心から願っている。一つでも不幸が減るように、悪意が消えますようにと。

 

20250104, Sat

 新作のためにUIを考えているけれど中々納得できるものができない。去年の終わりからずっと続けているのでそろそろいったん止めにしてシナリオに集中しようかしら。デザイン何も分からない。

 

20250107, Tue

 シナリオを進めている。リメイクとはいえ以前の文章をそのまま移行することはなく、言葉遣いだとか、言葉の口あたりだとかを修正しつつ、足りない描写を加えたりしているのでやや時間が掛かりそう。新規シナリオも書かなくてはならないのにね。ここ三ヶ月くらいで一通り書き終えられれば嬉しいなあ。

 あとまだBGMをどうするかが定まっていなくて、コンポーザーを探すつもりなのだけれど内容が暗過ぎて誰に頼んでよいのやらという難しさ。悩ましい。

 

20250112, Sun

 乾燥のためかフケが酷くてたまらず加湿器を買い求めた。僕の家にはちょっと蔵書が多いために過度に湿度を上げたくなかった、だから湿度を5%刻みで調整可能なものを買ったのだった。60%程度なら問題ないと調べて分かったので設定している、心なしかいつもより湿度が保たれているような気もしなくもない。加湿器が意味のあるものなのかまだ疑わしいと思っている自分がいるのだけれど、どうかこの乾燥してひりひりとする肌を改善して欲しい、なかば祈るように駆動音を発する加湿器を眺めている。

2024年に寄せて

 今年はどのような年だっただろうか、毎年の瀬に考えることだけれど中々どうして茫洋としていて、自分が時間においてかれているような感覚に陥る。一月は? 二月は? 八月は何があり、どのような感覚を抱いていたか。そういったことを鮮明に思い浮かべることは難しくだからブログに日記として日々の所感を綴っているのだけど、決してそれも十全ではなく取りこぼしてしまうことのなんと多いことか。しかし今年もまたある程度は充実していたと思う、そう思いたい。

 少なくとも僕は目標であった新作『Jeux bleu』を公開することが出来たし、そのグッズだって作った。その上パッケージとDL版は合わせて115本(パッケージ95、DL20)と密かに目標であった100本販売という目標を達成でき、これ以上に求めるのは欲張りというものです。でもあえて欲を言葉にするのならグッズは全く捌けていないので(どれも精々2,3個だけ)ラリサやスィニヤに愛着を持って下さった方は是非グッズを手に取って貰えると励みになります、弊サークルのBOOTHにありますので。

 またJeux bleuはオリジナルの曲を用意してもらったこともありサントラを出すことも出来たのは大変喜ばしいことだった、表紙絵も描かせていただけて有り難いことです。皆様は手に取って頂けただろうか、ゲーム本編を触っていなくともサントラ単体でも非常に佳いものとなっておりますのでどうぞよろしくお願いします。lent様のBOOTHにて購入できますので。

eurystomus.booth.pm

 

 早くも来年の話になるのだけれど、夏コミC106を目標に4、5年ほど前に作った作品のリメイクを製作中です。タイトルは『Felix clupa』(まだ仮題)と拙作Child of Doppelgänger-Prequel-をプレイした方にはもしかしたら見覚えのある文字になっているかもしれません。ラテン語で幸いなる罪戻を意味するこの言葉は堕落や不運な結果がもたらす事物を肯定的なものと理解する表現ですが常々僕の思想の根底に流れているものでした。毒と薬の両義性を示すPharmakonもそうですが、この世界に表出する悪い結果を佳いものとして昇華するこれらの概念を僕は愛してすらいます。もちろんあらゆる物事を佳いものとして受け取ることなど出来ません、Silver liningとして楽観主義的に使うべきではありません。誰が虐殺を肯定するでしょう、存在の侵害を許容できるでしょう、僕はそういったものに適用したいのではなく、ただ一つの思想的な概念として自身の世界との向き合い方に適用しているのです。このように生まれ落ち、育ってしまった僕自身を赦すために。受け入れてあげるために。……次回作はそういった話になるかと思います、まあリメイク前でもそのような話でしたが割合リライトするつもりですので過去作をプレイした方もどうかよろしくお願いいたします。方向性としてはChild of Doppelgänger-Prequel-と同じく内面的なものになるかと存じますので好き嫌いがかなり別れそうな気もしますが。

 

 思えば今年は昨年よりもインプットができたような気がします。Jeux bleuを書くためにスラヴの民間伝承の文献をあたりましたし、正教についてもまだ触り程度ですが学びました、昨年に引き続き興味を持っていたロシア宇宙主義もいくつか文献が邦訳されましたので読みました。もちろんここから学んだものをJeux bleuには適用していますし、魂と原子(水分子)の繋がりについてはもっぱらロシア宇宙主義より着想を得たものになります——ただしスラヴ的な鬼火やБолотник(ボロトニク)が示すような民間伝承と撚り合わせたようなものとなってはいますが。まあここらへんの所はいつか資料集として纏めたいとは思っています。来年出せるかしらね、出したいなあ。

 ノベルゲームも幾つか読みましたし、中でもFor The GHOSTsとの出会いは衝撃的なものだったと思います。静謐で大変美しいお話で、僕の心にしんと透り感想を書かずにはいられませんでした。はからずとも感想記事を書くという抱負の一つを達成することが出来たのは僥倖でした。いや、もっと作品毎に感想を書くようにしろというのはもっともなのですけれどね、得られた情感は早く言葉にしなければほとんど消え去ってしまうものなのですから。

 

 ただChild of Doppelgängerの本編のシナリオはまだ序盤を書き始めたところで止まっているのは自分でも悔やんでいるところです。もう少し手を動かすこともできたであろうことですが怠慢でほとんど進めることができませんでした。来年こそは多少形にできるよう書いていきたいと思いますので見守っていただければ幸いです。自分よもっと机にかじりついてキーボードを叩きなさい、そうしなければ文章は、進捗は生まれないんですよ? 

 心残りはまだまだあって、ブログ(日記)の更新が昨年に引き続きあまり高頻度ではなかったことや忙しさにかまけて執筆からやや逃げてしまったことがある。いつまで経っても完成しない作品など意味がなく、だからこそ自分を追い込めればと思わずにはいられない。余力はあった、ただ持て余していた。余暇を読書に充てられれば多少なりとも有意義になったであろうに、僕は机に突っ伏したり、ベッドに横になったりとまるで有効に扱えなかったのだから。まあ過去の出来事を過度に反省するものよくありません、来年こそはと思います。今年は進捗報告用にFANBOXも開設しましたし、少しづつですがこの僕の怠惰な部分を矯正したいと思う。

 

 すみませんやや後ろ向きになってしまいました、もう少しだけ前向きな話をしましょう。Jeux bleuのことなのだけれど、えろすけの点数はともかくとして好意的な意見を幾つか頂けて大変励みになっています(否定的な意見も頂けるなら大変有り難いので是非お願いします)。実験的な作品を評していたように三人称形式でファンタジーという僕にとって初の試みはどのように転ぶか全く予想できませんでした。それでもスィニヤやラリサといったキャラクターたちに愛着を、魂を見出してくれた方々、本当にありがとうございました。僕はキャラクターの愛おしさを押し出すようなものを書けないと思っていましたが意外と書けるものだと気付きを得られました。また現実と幻想とを撚ることは難しいものでしたが、その点について評価して下さった方もおり、伝わったことを嬉しく思います。また少しだけ自信がつきました。Jeux bleuは、スィニヤとラリサの物語は幕を降ろしましたがあの世界についてもう少しだけ綴ると思います。内容はまだ詳らかにできませんがラリサの一人称的な話と、スィニヤが宿した命のその後——メリュジーヌ的なものや呪いについていつの日か書くつもりです。時間は掛かってしまうとは思いますが楽しみにして頂けるのであれば嬉しいです。

 

 今年もまた思うままに書いてしまったので雑文になってしまったのだけれど、ここまで読んで下さった方に感謝を、ありがとう。いつも僕のブログは読み難いとは思いますが付き合って下さる方にも感謝を。

 今年は多くのものに感謝をする年になった。作品を創り上げる上で多くの方々の助力を頂いたこともそうですし、期待して下さる方が、プレイして下さる方が、情報を拡散して下さる方がいなければ今の状況は生まれなかったでしょう。ありがとうございます。これも一つの運命でしょうか、選択の果てにあるものでしょうか、一つの扉を開いた先にあるものは決してその時が来るまで明らかにはなりませんがある程度決まっていると拙作のある人物は述べました。果たしてそのようなことがあり得るのでしょうか。少なくも一つの可能性しか観測することのできない僕たちは想像を巡らせる他ありません、期待しながら、不安に怯えながら。

 今年もまた騒乱の年になったと思う。東欧では今も争いが続いているし、停戦する気配があるのかないのか分からない。Jeux bleuを書いている時も常に東欧の問題は頭にあった。ロシアやウクライナベラルーシ周辺の民間伝承を取り上げて作品を作ったのは少なからず当該地域に対しての平和への思いがあったからだった。また中東の、特にパレスチナを起点とする問題は活火山のように常に怒りを噴出し、勢いが収まる気配がない。今でもどこかで誰かが涙を、血を流し、叫んでいるのでしょう。僕には想像するしか出来ませんが、それで心を痛めることしかできませんが、どうかこの世界に平和がもたらされるようにと願っている。綺麗事かもしれないが、誰が諍いを望むのだろう? 少なくとも僕は誰もが安心を得られるようにと祈っている。

 まだまだ火が収まる気配はありませんが、心が疲弊する日々が続くとは思いますが、どうか安寧であって下さい。苦しく悲しい事物に溢れる現実に痛みを覚える感性を捨て去ることなく在って下さい。僕はまだもう少し生きますから、どうか共にこの現実世界を生きましょう。

十二月と言葉

20241201, Sun

 冬の空気感を僕は好んでいる。温度を奪わんとするからりとした冷たさが、肺に入り込む寒気がどこか心地よく、特に夜の時間が止まったような感覚は他のどの時期にも得難いもので、孤独を深く感じ入る。月が出ているとなおのこと心寂しくなる、あの幽寂たる氷輪の光は冬だからこそ美しいと思うし、同時に苦しいとも思う。この時期になると思い浮かぶのは蓮如崇徳院の暮らしぶりを嘆き詠んだ次の一首。

幽思窮まらず 深巷に人無き処 愁腸断えなむとす 閑窓に月のある時

 暖房をつけることなく網戸にし、もっとも今日は新月で月は出ていないけれども街灯の淡い光を見るともなく眺め憂愁に心を浸らせる。

 

20241202, Mon

 贖罪と命、慈愛と祈りのリメイクはFelix culpa(幸いなる罪戻)とする予定。Child of Doppelgänger制作の合間にぼちぼち作っていくかなあという感じで、もちろんリメイクなので新規シナリオも書くし、絵も恐らく描くと思う。目標は来年中には完成というところかしら。

 しかしここ数日は特に作業ができており、精神的に参っていると筆が進むのは僕の特性なのだろうか。冬という季節がまた寂寥に浸らせてくれるのも理由かもしれない。思えば寒さを覚える時にこそ僕は何かを書いていた気がするし、夏生まれだけれど精神的には冬の子供なのかもしれない。寒いのは酷く嫌いだけれどね。

 

20241203, Tue

 Flowersのオーケストラコンサートが来年4月にあるのだけれど今から既に楽しみ。しかしドレスコードがないとはいえ多少は綺麗目の格好をしなければならないので服装に困るなあ。僕は衣服に興味がないまま大人になってしまった人間なのでこれを期に多少は佳いものに目を向けるべきなのかもしれない。

 

20241208, Sun

 身体を壊していた、また。高熱の中の孤独で思う。自分は幸福になれないと、なってはならないと。どうして自罰的になってしまう。

 

20241210, Tue

 急にせせりが食べたくなり肉屋に寄ったのだけれど二キロの冷凍された袋しかないとのことで仕方なくそれを買い求めた。いわば二キロもある氷の固まりなのでまず溶けない。悲しいかな今日がその気分だったけれど明日に持ち越しです、でも何にして食べようかしら。湯がいて水晒しした薄切りのタマネギと共に柚子胡椒ポン酢であえようかしらん。

 

20241214, Sat

 目が腫れている。なんだろう。

 

20241217, Tue

 母はよく「ウチは貧乏だから」と口癖のように言った。僕がまだ幼い頃から、ある程度金銭が絡む出来事がある度に彼女は言い聞かせるように言っていた。彼女自身に、僕たちに。だから僕はウチにはお金がないのだと思い、多少金銭については敏感になっていた。貧乏だから我慢しなければと思い生きてきた、だからある休日に母が突然ディズニーに僕を連れていった時には酷く驚いて大丈夫なのかと思った。こんなことにお金を使って一体何をしたいのだろう。気でも違ったか? 僕は気が気ではなく、園内で母がターキーレッグを勧めたけれどその値段が気になって欲しいとは言えなかった、要らないと言った。食べたくないと。その日は値段のことが気になってアトラクションを心から楽しむことなど出来なかった。

 母は外食が好きで、連れていかれることが度々あった。彼女は値段など気にせず頼んでいた気がするけれど、僕は店を選ぶでもバイキングなど高くて無理だと思ったし、メニューで千円を越えているものも躊躇した。だってウチは貧乏なのでしょう?

 衣服に興味を持ずに育ってしまったのもこのためなのだろう、興味がないから僕は自分から服が欲しいと言い出すことなどまずなく、服はみかねた母が季節ごとに連れていくユニクロで成長に合わせて買ってもらっていた。ユニクロ以外のブランドも僕はまず知らなかった。辛うじてユニクロと同じフロアにあったGAPは知っていて、だけれども高級ブランドだと思っていたし(実際当時の価値観で服一枚に一万円を超えるのはとんだ高級品だと思っていた)、安いと知っているGUやしまむら以外のブランドに興味を持つことも憚られた。いつだったかユナイテッドアローズに連れていかれたことがあった、いいなと思うデザインの服もあったけれどシャツ一枚で2万円もしているのを見たら欲しいとは思えなかった。ありえない。こんな布きれにお金を出すだなんて信じられないと思った。

 そんな価値観をずるずると引き摺ったまま僕は大人になってしまい、結局今でも自らの外見を飾る事物に興味を持てないでいる。辛うじて革靴には興味があるのは下ばかり向いて歩くため目に入るからなのだろう。きっとこのまま変わらないのだろうね、幼少期より形成されてしまった価値観はもう固まりきっている。

 

20241222, Sun

 ちょっと前から少しずつ作っていた英字フォントをやっと完成させた。

異形試作フォント Mizuha-1 - 万年筆と神経毒 - BOOTH

 50に満たない数だったけれど、フォントを作ることの難しさを痛感した。アルファベット(しかも大文字だけ)作るだけでも一苦労だったのだから、日本語のフォントを作る苦労は余程のものだろう。ひらがな、カタカナ、それに何千とある漢字の数々、僕はきっと作らないし、作れるとも思えない。フリーでフォントを公開して下さっている方々には頭が上がらない。

 今回作ったフォントはイースターエッグに使えるかもしれないから作ったものだ。僕は前々から自作のゲームにモールス信号の形式でちょっとした文字を組み込んでいたのだけれど、そろそろマンネリを感じてきていたのでまた別で暗号のように組み込めるものがないかと考えフォントに行き着いた。文字を、その形を歪めて一見して意味を失わせようとする試みで、しかしある程度は読み取れるものをと考えながら作った。流石に始めてフォント制作だったので粗は数多くあるけれどこれが今の僕の限界だ。使うかどうかはまだ分からないし、1とナンバリングしているようにいつか別のものも作るだろう。あるいはアップデートするかもしれない。

 少なくとも僕が公開するフォントはフリーで提供するから遊んでみたい方がいればダウンロードしてみて欲しい、言葉の形に意味を与えて頂ければ幸いだ。

 

20241224, Tue

 次回作のUI周りを考えているのだけれど、どうにもしっくりこず悩んでいる。ノベルゲームとなるとどうしても文章を前面に出す必要があるからUIは似通ったものになりがちで、ウィンドウいっぱいの画像(立ち絵orスチル)と下部の約1/4を占める文章の表示スペースは簡単に思い浮かぶでしょう? これはこれである意味完成されているのだけれど、とはいえ完全にそれに倣ってUIを作るのは少し抵抗感がある。だって自分で言うのはあれだけれど僕の作品は決してヴィジュアルが強くない、むしろ弱い方だ、その自覚はある。だから絵という圧倒的なヴィジュアルに抵抗するように僕はUIのデザインで多少の印象を与えたいのです。まあそう言っても美術系の勉強をしていた人と比べれば抽出は少ないし、デザインに強いかと問われれば首を振るしかない。……単に僕は作品に違いを持たせたい、文章の持つ色に合わせて変えていくことで何か出来るのではないかと探求している最中なのですから。

 

20241227, Fri

 今年の総括をしないと。

 

20241229, Sun

 コミケに参加しないというだけで心理的にかなり楽で、毎年自分をかなり追い込んでいたのだなと実感する。来年の夏コミか冬コミには参加する予定なのでどうぞよしなに。

誰でもない者の薔薇たちに、幽霊たちに。【For the GHOSTs 初感】

 For the GHOSTsが僕にとって大変刺さった作品だったから文章に残そうと思った、でもプレイ直後ではないから当時得られた感覚の言語化ではない、暫く間隔が開いてしまってもなお漂う残滓のような言葉です。

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 本作で特に印象深く残っているのはやはりツェランの引用だった、というのも僕はパウル・ツェランという詩人が好きでまさかノベルゲームで彼の詩が言及されることがあるとは思ってもいなかった。気付いたのは彩度が「誰でもない者の薔薇」にある詩編の一節を口にしていたところで、かなり最後の方でのことだったからもっと前からツェランの詩が引用されていたかもしれない。詩編からの引用はAcrylもそれこそ本作のほとんどラストの部分でしていた。と僕はここで何度か詩編と言っているけれど次に引用する。

誰もぼくたちを再び土と粘土から捏ねない、

誰もぼくたちの塵に言葉を吹き込まない。

誰も。

 

お前が讚えられるように、誰でもない者よ。

お前のために

ぼくたちは花咲こう。

お前に

向かって。

 

ひとつの無

だった ぼくたちは、である、でありつづける

だろう、咲き誇りながら——

あの無の、あの

誰でもない者の薔薇。

 

そこには

魂の明るさの花柱が、

天のように荒れ果てた花糸が、

花冠は

深紅の語によって赤く、それをぼくたちは歌ったのだ

うえで、おお

茨の上で。

パウル・ツェラン Paul Celan [誰でもない者の薔薇 Die Niemandsrose]-詩編 Psalm 中村朝子訳『改定新版 パウル・ツェラン全詩集 Ⅰ』2012

 ここで引用したのは中村朝子訳の全詩集からだけれど、本編では恐らく

パウル・ツェラン詩文集 頌歌

こちらのサイトのものを引用していたんじゃないかなあ。besprichtを言祝ぐと訳すのはこちらしか知りません。※なお手持ちのツェラン関係の本をあたったところ飯吉光夫は「呪文を唱える」、今井美恵は「言葉を吹き込む」、関口裕昭は「息を吹き込む」、生野幸吉は「呪を唱える」と訳しておりました。

 さて単にツェランの詩が引用されていただけではこれほどに僕の記憶に鮮明と焼き付くことはなかっただろう、重要なのは本編の内容との共鳴。あまりにもねずみ、さかな、彩度、Acryl彼女ら幽霊たちへのPsalm——頌歌——であったように思えた。誰でもないものとはまさしく彼女らのことで、彼女らはひとつの無で、薔薇であった。彼女らはたしかに画面の中で生きていて、そして死んでいて、非在という在り方で存在していた。溜め息が溢れるほどに僕は感動していたように思う、祈りを感じていたように思う、だからプレイ後に次の様なツイートをしたのだろう。

 ちなみにPsalmとは旧約聖書詩編を指し示す言葉ですがツェランの引用を読んだ皆様ならこう思うのではないだろうか、Psalmというには詩の中には神は存在せず、誰でもない者がいるのみではないかと。まさしくこの不在こそが祈りの場となるのだろう、だから僕は引用を通じて更にこの物語に祈りを感じたし、Psalmist=作者に敬意を覚えた。

 誰でもない者の薔薇がユダヤキリスト教的な色を強く帯びているように、本作もまたその色を帯びていたように感じた。背景画像として十字架が何度か登場したことや、言葉=ロゴスが幽霊たちを規定し、肉を与えている構図は最たるところではありませんでしたか? そうでもないですか、そうですか。でも僕は勝手にそう思ったし、"さかな"の名前からキリストを連想したし——初期キリスト教では第二戒のためにキリストを記号や象徴で表し、隠れシンボルとして魚の図形が使われる事もあったと言う(詳しくはΙΧΘΥΣ イクトゥスで調べてもらえればと思う)——、様々な瞬間にそのような色を見て取っていました。……いや、本当に戯言なので気にしないで。

 十字架の写真と言えば僕の制作した作品で用いたものと同じ写真が背景として使われており酷く驚いた覚えがある。

 当時は酷く見覚えのある画像が出てきて目を疑った、本作にはプレイヤー側からゲームフォルダ内に画像を入れることで一部背景を設定することが出来るのだけれど、僕が誤って入れてしまったかとも思った。まあそんなことはなく、単にゲームの背景として夕日に照らされる八端十字の写真が用いられていただけのことです。

 本作をプレイ中に上記以外でも何度か感嘆した覚えがある、例えばthigmotropism(屈触性、接触屈性)という単語を目にした時は作者の植物への造形の一端を垣間見た気がしたし、また思い返せばこの点からもツェランとの奇妙な一致があったように思う。なぜならツェランは植物を愛していたし——だから彼の詩には薔薇を始めとして様々な植物が登場する——、彼には少年の頃から植物の標本を作っていたという逸話もある。

 また本作では薔薇がかなり象徴的に登場していたのは明らかだろう、ツェランの詩もそうだし、単純に薔薇が何度も登場した。薔薇と詩でいえば思い浮かぶのはリルケの墓碑銘ではないだろうか。

薔薇、おお純粋な矛盾の花、

そのように多くのまぶたを重ねて

なんびとの眠りでもない、よろこび。

リルケ Rilke [墓碑銘 Grabschrift] 高安国世訳『リルケ詩集』2010

 この詩でも「なんびとの眠りでない」と非在について示されている。だから僕はこの詩を連想したし、またここから更にディキンスンの詩も思い浮かぶ。

わたしは誰でもない人! あなたは誰?

あなたも——また——誰でもない人?

それならわたし達お似合いね?

だまってて! ばれちゃうわ——いいこと!

 

まっぴらね——誰かである——なんてこと!

ひと騒がせね——蛙のように——

聞きほれてくる沼地に向かって——六月じゅう——

自分の名前を唱えるなんて!

エミリ・ディキンスン Emily Dickinson [288; c. 1861] 亀井俊介訳『対訳 ディキンソン詩集』1998

※底本はジョンソン版 近年主流のフランクリン版の場合番号は260となる

 誰でもないことを肯定することは本作においてメタ的な構造においても示されていた。デジタルの存在でしかない、何者でもない幽霊の彼女達はしかしそこに存在したし、今でも僕の脳内で息づいている。誰でもないことへの讃歌。

 

 大分とっちらかった事を書いているのは承知だけれど、もう少しだけ書きたいことを書きます。本作で僕がいいなと思ったことの一つに紅茶がある。彩度が最初に出してくれたのはニルギリのカイラベッタだっただろうか。ニルギリでこれを選ぶの狡いと思う、カイラベッタのスペシャリティーを飲んだことがある人なら分かるの思うのだけれど想像するニルギリとは全く別物なのだから。味わいはダージリンのファーストフラッシュに似ているけれど、もっとミネラルぽくて柑橘感のある青い味がする、ニルギリと言われて出されても嘘でしょと言いたくなる。でも美味しい、僕は大好き。それに紅茶に砂糖を入れないのは分かるなぁと、ミルクティーでもない限り甘くないのがいい。いやまあここは個人の好みなのですけど。また僕はあまりフレーバードが好きではないのだけれど——アールグレイは別——、作中では割合フレーバードの話も出ていたので今度飲んでみようかと思った、だって彼女達があまりに美味しそうに飲むものですから。

 

 雑多に書いてみましたが要は大変佳い作品なので皆様是非プレイして欲しいということです。それと気に入ればぜひツェランも読んで。白水社パウル・ツェラン詩文集が手に入りやすいのでお薦めです。

 

十一月と言葉

20241104, Mon

 夏の姿がすっかり死に絶え、冬の吐息が首筋にかかるこの頃。コミティアの準備はほぼほぼ終わり(まだ一部グッズの製作が残っている)、Steamでの公開はもう待つだけとなりようやく一息つける。Jeux bleuを頒布した夏コミより約三ヶ月、OSTのデザインであったりとやることが多かったなという印象。Child of Doppelgängerの方はコミティアが終わった頃から本格的に着手していこうと思っている。並行してJeux bleuの続編?地続きの話?を書くかもしれないけれどまだ分からないし、ノベルゲームの形式とするかも構想は固まっていない。やりたいことがまだまだあって僕は苦しい、したいという欲望はなんと際限ないのだろう、肥大してしまうのだろう。そして自分に向き合うほどに至らなさを自覚することになり疲れを覚える。もう終わりにしたいと切に思いながらも触手を伸ばさずにいられないのはもはや業です。生きられないと思いながら生きてしまうようなものです、幕を引いて欲しい、誰か、何か、どのような物でもいいから止めて欲しい、いや引き留めないでくれ、ぐらぐらとした自分を打ち付けながら今日も矛盾を抱えています。このミルクを落とした紅茶のマーブル模様めいた水色めいた心持ち、でも決してこの矛盾は完全には混じり合わない。ブタノールと水が溶ける程度のものです。

 

20241106, Wed

 For the GHOSTsを読んで以降ツェラン欲が高まっていて、ここ最近は寝る前に全詩集を朗読している。消尽した言葉を口にして、耳朶に響く自分の声に嫌悪を覚えつつも浮かび上がる断片的なイメージ。意味を掴むのは何度読んでも難しいものだけれど、その灰のような言葉が渇いた心に心地よい。やはり彼の詩が好きだなと思う。

 

20241107, Thu

 僕という人間は幽霊のようでありたい、誰からも記憶されない、忘れ去られてしまう存在でありたい。消え入りたい。

 

20241109, Sat

 雨の音を聴いている。録音の、今この瞬間に夜を濡らす現実のものではなく過去のどこで降っていたのかも分からない雨の音を。ぼたぼたとトタン屋根を叩き、ばたばたとタイヤに跳ね散らされ、硬いアスファルトに落ち砕け、遠く木の葉に滑らかに弾ける音を。雷が鳴る、ごろごろと身体の中のような音、無数の音が重なり川のようだと思う、流れている、音が、声が。乳のように白いものが頭の中に立ちこめる。眼を閉じても面前には決して情景は現れないけれど——僕はあまり景色を想像するのが得意でないのです——、近くで雨が降っていると錯覚させてくれる。現実の、全てを濡らす雨は憂鬱で好きではないけれど、それらが奏でる自然の交響楽はどうして嫌いになれない、ゆるやかに好きだとすら感じる。……音が強くなる、急流のようにざらざらと走っている。どこへ行くのだろう、一粒一粒の、億万も水滴が集まった一つの流れはどのように分岐していくのだろう。土に染み込むものがあれば、暗渠に流れてるものもある。草の根に吸われるものもあれば、野ざらしになって朽ちかけた人工物の窪みに囚われるものもあるだろう、どこへ行く、どこへ行きたい? 頭の中でまだ雨は降り続けている。

 

20241110, Sun

 ふと読んでいる途中だったなと思いシンボルスカの『瞬間』を本棚から引っ張り出してきた。過去の僕が気に入ったためだろう、付箋の貼ってある頁に目を通し、栞の挟んでいた所から読み進めた。[九月十一日の写真]を締める言葉に胸がきゅっと苦しくなる、[一覧表]の答えの出ない質問の一覧に寂しさと自分に響くものを感じる。彼女の詩はどれも嘆きがあって読んでいて哀しくなってしまうけれど、ウサギの眼のような奥ゆかしい優しさも潜んでいて奇妙な暗さを覚える。真夜中の二時くらいの深くて、静かな夜の中で最も表情の薄い暗さ。顔形は見えなくとも、そっけなくともたしかにそこにあると感じられる冷ややかな暗さ。シンボルスカは真夜中に読むのがいいと思います。

 

20241111, Mon

 他人を愛することが出来ない、だから愛されないのだと思う。人間を一個の他人として心の底から好きになったことが、愛していると思えたことがない。思える気がしない。遠い。愛はまるで別の惑星での出来事のよう、スクリーンの先にしかないもののよう。昔は他人を愛そうと意識していたこともあったけれど、どうしたって血道を上げることなど出来ず失望してしまう、されてしまう。僕は何故このような人間なのだろう、愛されたいと思ってはいる、でもそもそも僕が何も与えられないのならどうやって愛されていることを理解できるのだろう。好きという言葉、その単語が示すレイヤーに僕が求めているものはなく、ならば僕は一体何を求めている? 無形の物をどうして認識する? 心など水のように簡単に移ろいゆくものだろう? 一時の感情を永遠に出来なければそれはなかったものと同義ではありませんか。粘性を帯びているかのような吐息が漏れる、気道の辺りが軽い熱を持っている。切ない。痛みはない。痛みを覚えるような血流めいた感情は僕にはないのでしょうか、でも愛したいという意志はあるのです、心の底から色の違う熱を求めているのです、教えて下さい、教えてもらえませんでしょうか、内在する僕の神は沈黙しており決して回答は与えられない。いつまでも、いつまでもただ僕の呼吸ばかりが聞こえます。傍にあるのは沈黙するあなたばかり。

 

20241112, Tue

 寒くなると気分が落ち込む、だけれども憂鬱であると気分が透徹としている気がする。前頭部が重い、何をするにしても気分が乗らない、でも暑い季節よりも何かを書きたいという気分にはなる、書かなければこの鬱屈を発散できないとでもいうように。

 机の上を片付けた、いや正確には並べていたものの幾つかを別の場所に収納した。今机上にあるのはランプが三つとインセンスホルダー、ディフューザー新約聖書、メモ用紙、万年筆、眼鏡、PC、無線イヤホン、それに加えて片手で足りる程度の小物があるくらい。慎ましやかではないけれど、決して賑やかにならない程度のものたち。

 ああ、それにしても気分が重い。

 

20241114, Thu

 起伏のない日々だ。自分が擦り切れていくようで、本当は目を凝らせばノイズのような凹凸はあるのだろうけれど、すっかり僕は疲弊してしまって拡大鏡を通して事物を見ることが出来ていない。楽しいことがない、かといって辛いこともない、何も無い。魂がすっかり片づいてしまったかのようで震えが消えてしまった。じっとりとしたタスカーに身を委ね、虚ろに中空を眺めているばかり。

 

20241115, Fri

 排したい。自分が気持ち悪い、存在が苦しい。想像の中で全方面に対して額を地面の擦り付けながら謝り続けている。ごめんなさいと、このようになってしまう大変申し訳ないと。

 

20241118, Mon

 罪と罰を読み返し、ラスコーリニコフがソーニャにラザリの復活を読ませる場面でふと僕は運命について考えた。仮にイススがラザリの復活という奇蹟をもたらさなければ彼は謀殺されなかったのではないかと。イススがあのように並外れた行いを示さず、神もまた静観していればカイアファが彼を犠牲にしようとは考えなかっただろうと。でも、とも思う。イススの死があらかじめ定められていたのであれば、神がそうするように仕組んでいたのであれば、どのみちイススは全人類の救いの礎として犠牲になったのだろう。少なくとも解釈の上ではイススは死ぬ運命にあった。……まるで操り人形ではないかと思う、あらかじめ死を定められていることはあらゆる生命の必然ではあるけれど、子の死によって信仰を強固にするという神の惨たらしい行いは違うのではないか? 僕は決して受け入れられない。運命があるのだとすれば、ある程度まで定まっているのだとしても、僕は唯々諾々と許容したくはない、この今の僕の考えも神経ダイナミズムのもたらす一つの予期されうるものだとしても受け入れたくはないのだ。抗い方が分からなくとも、否定だけはしたいのだ。僕は矮小で、卑屈で、どうしようもない存在だけれども、だからといって運命という名の風雲に塵芥のごとくあしらわれたくない、風に吹かれ飛ばされようとも薄弱でも行き先を決める程度の意志は持っていたい。

 

20241123, Sat

 Jeux bleuをSteamで配信開始してから一週間が経過したけれど、9本も販売数がありその上1/3は海外ユーザーだったのでSteamで出して佳かったなと思う今日。販売プラットフォームってやはり大事なんですね、頭では理解していたつもりでしたがこうして数字が表れると強く実感する。ただまあ登録は酷く面倒だったので他の作品を登録するかは微妙なところ、Child of Doppelgänger-Prequel-に関してはあれR18作品だし——しかもR18要素は文章表現だけ——なので出したところで手に取ってもらえるかが怪しい。気が向かない限りしないかなあ。

 そういえばChild of Doppelgänger本編のシナリオに着手し始めた、まだ粘土を捏ねるように抽象的な外見を形成している最中なのだけれど書く前にPrequelのプレイが必要かもなあ。暗い気分とあの文章を書けるように自分を調整しないと。自分の精神を削らないと。深くならないと。

 

20241124, Sun

 別に今日そういうことがあったわけではないのだけれど、この年齢になってくるとちらほらパートナーがいないのかだとか、どのような人が好みなのかと聞かれることが多くなる。厭というほどでもないし、そのような話題を気にする人が多いのは分かっているから別にどうとも思わない。ただ実際僕が誰かと将来を共にするかどうかを考えてみると特に意欲はないのだよね、まあ自分を好いてくれる人がいれば嬉しいとは思うし、愛して欲しいとは思うけれど、誰かと生活を共に出来るかといえば話は別なんじゃないかなあ。僕はきっと誰かと暮らすことに向いていない、一人でも十分暮らしていけるし、不自由もほとんど感じたことはない。平日は仕事で、夜は一人分のご飯を作る。休日には掃除に洗濯をし、スコーンを焼いてお気に入りの紅茶を淹れて一息つく。加えてインセンスを焚いて文章を書いたり本を読んだりしてそれで十分ではないだろうか。丁寧な暮らしだとかは求めていない、誰かに見せるものではないのだから自分が不快でなければそれでいい。僕は誰かに縛られる人生など求めていないし、誰かを縛りつけたくもない。僕たちは幸福に生きるべきなんだ、だから自分の好きを、美しいと思うものを追い求めればいいし、妥協せざるを得ないのならば適度な部分で満足していると思えばいい、誰も否定できないし、否定させてはならない。幸福を求めるべきだから僕は赦したい、憎みたくない、平静に在りたい。昔どこかの記事に父親が不倫をして別のパートナーを選んだといったことを書いたけれど、仮に僕に寄り添う人が現れたとして、その人が自分の幸福を求めて別の人生を選び取ったところできっと赦してしまうだろう、自分は悲しくなるかもしれないけれど、憎めないだろう。そのように出来ている、そのようにしか生きられない、そのようにしか生きたくはない。僕は赦しの中で生きたい、愛を与えられたいけれどそれ以上に与えたい、奉仕の気持ちで在りたい。ひっそりと小さな幸福を愛でながら、十分だと思った瞬間に命を手放したい。僕は身勝手でありたい。でも誰も悲しませたくはない。きっと生きるにしても、死ぬにしても、誰かを悲しませてしまうことは避けられない、だから忘れておくれ、僕という存在を刻まないでおくで、君たちはただ純粋な生命としての刻印だけを愛でていて欲しい、そこに不要なものを介在させないで欲しい。僕は在りたい、純粋でありたい、赦しでありたい、美でありたい、生でありたい、死でありたい、石でありたい、水でありたい、僕でありたい。どうか、どうか、この世に神と呼ばれるべきものが存在するのならば僕を放っておいてくれ、ただ視線を送るに留めておくれ、傍には立たないでおくれ、足にならないでおくれ、いつまでも冷酷な絶対者として君臨しておくれ。

 

20241128, Thu

 創作に関することだけを書く場を作ろうか迷っている。

十月と言葉

20241003, Thu

 依頼のデータを諸々提出したので一息つけるかと思っているのだけれど、コミティアまで時間がない。SDは書いたのでアクリルと木のキーホルダーは作ろうと思っている、でも他にも用意したいものがあるのでもう少し頑張ろう。どうして行動しているのに時間が足りなくなってしまう、なにがいけないのだろう、分かっている別のことに逃避しているのだよね僕は。やらなければいけないことから目を逸らして、頭の隅には残っているけれど封をしてしまう。昔からこうだったからすっかり悪い癖として残っている。自分をもう少し矯正したい、追い込みたい、苦しませておくれ。

 そういえばJeux bleuのSteamでの展開を考えている。でもやはり面倒だという思いが首を擡げてなかなか重い腰を上げられない、DL数というか販売数が欲しければ窓口を広げるべきなのは分かっているのだよ、特にSteamなんて巨大なプラットフォームを活用しない手はないことも。でも面倒なのだよなあ、方法を調べてもいないのに思ってしまう。……やるべきなんだろうなあ。 

また話は変わるけれど9月 | あさぎん空想力学というブログに拙作をプレイしてくれたとの記載があった。大変有り難いことです。記事には恐らく機械翻訳であろう各章のタイトルが記載してあったのだけれど改めて以下に訳を載せておきます。

1. Into deep water 深い水の中へ(≒苦境)

2. ночь и снег 夜と雪 ※露語

3. Le rire de l’eau 水の笑い ※仏語 ツァラの詩からきています

4. Русалка ルサールカ ※露語 機械翻訳だと人魚となってしまうのだけれど西洋のMermaidとスラヴのRusalkaは区別されるべきでしょう

5. Good night おやすみなさい

6. L'Eau et les âmes 水と魂 ※仏語 バシュラールのL'eau et les revesからきています

7. Wormwood, wormwood 苦い、苦いぞその言葉(直訳ならニガヨモギ、ニガヨモギ) ※『ハムレット』の台詞からきています

8. これは作中で確認して下さい

なお英語はともかく仏語と露語も入り交じっているのは青い血だからです。

 

20241006, Sun

 ひとまずキーホルダーのデータを入稿した。あとはパッケージの再生産ともう一種類のグッズ作りと新規に絵を描くことかなぁ。やらなければならいことが多くて苦しいけれど何かをやっていなければ窒息してしまうそうでああ、この苦痛がどこか愛おしい。

 

20241009, Wed

 このところずっと雨模様で気分が塞いでしまう。重く広がる雨雲は泣くように水滴を落としてぽたんぽたん、ぱたぱたと音が響く。雨の音は好きだけれど、雨という気候はそれほど好きではない。じめっとしていて、暗くて、憂鬱で、まるで自分のようだから。しかしここ数日の天候はまるで梅雨の再来かと見紛うほどで今は神無月ですよ、どういうことですか。水無月から多少は日が経ってはいるけれど、縁から溢れるような雨は今日までに空に溜まった水分が落ちているとでも言うのでしょうか。はあ、少々太陽が恋しいです。

 

20241010, Thu

 ハンガンがノーベル文学賞に選ばれた、好き作家が高く評価され、より多くの人々に知られることは大変喜ばしい。ハンガンとの出会いは菜食主義者だった、暗鬱として狂気的な内面を描き出す力のなんと衝撃的だったことか。読み進めていく内に暗く深く沈んでいく文章だったけれど、内面の深淵に広がる沈黙に対して思わず胸を鷲掴みにしたくなったけれど、どこか優しかった。……僕の忘れられない本の一つだ。

 

20241015, Tue

 コミティアに向けて作業をしている、アクリルのグッズを作ろうとしているのだけれど、データの作り方がほとんど分からず苦戦している。

 

20241022, Tue

 For The GHOSTs、大変佳いゲームでした。散文のような言葉が開く痛みを伴うかのような関係の話は孤独に染み入り、ひとときの安寧がありました。僕たちの存在は規定されているのでしょうか、されていたとしてこの考えが、脳に走る神経の発火が徒なものだとしても、人と人とが触れ合った瞬間に生ずる揺らぎは否定できるものではないでしょう。クオリアを無意味だと、存在しないものだと断ずることは愚かしいでしょう。この出会いに感謝を。傑作だと思う、皆さんにもプレイして欲しい。

 

20241025, Fri

 Jeux bleuのSteamでの公開を進めている、来月中頃にはできるのではないかしら。

 

20241027, Sun

 喜びが少ないと感じる、脱落してしまったように感じる。眼に映るものが全て灰色をしているかのようだ。気分が塞いでいるとまではいかないけれど、どことなく気持ち悪さがある閉塞感、解放されない、何からも、何も無いのに。苦しさは存在を肯定してくれるが、同時に気力を奪い去ってしまう。何のためだろう、僕は自分に何度も問いかけた。どうしてなのだろう。穏やかに光を放つ掘削されたステンレスが、褐色瓶が、空っぽのインク壺が目を伏せるかのように沈んでいる。息が重い、身体が冷たい、指が硬い。何かをしなければと思う、吐き出さなければと。窒息してしまう、そうしなければ死んでしまうのだから。ベンゼンのような鱗がはがれ落ちる、魚の、その無数の鱗が。輪郭が薄れていく、苦痛の中で存在を感じながら。暗いと思う、どうしてこんなにも暗くなってしまうのだろう。

 

20241031, Thu

 コミティアのグッズ用のデータを入稿し終えた。疲れた。

九月と言葉

20240903, Tue

 結局冬コミには申し込まなかったので気楽な心持ちだったのだけれど、昨日滑り込むようにコミティアに申し込んだ。どうして僕は何かに追われるような、心に余裕のない瞬間の方がしっくりくるようでさながらマゾヒストだね。

 もしコミティアに受かったら何かJeux bleu関連のグッズを用意するつもりです、多分絵を書き下ろすことになるでしょう。まだ何にするかは考えていないのだけれどポストカードとか作ってみたいと思っている、憧れだったので。素材の紙や印刷も拘りたいなあ。定番のアクリルスタンドはうーん、あっても嵩張るだろうし要らないかなあ。どうせ諸君だって飾りもしないアクスタを大量に引き出しの中に眠らせているのでしょう? あとは間に合えばだけれどサントラも頒布できたらと思っている。余裕があれば文章も何か書き下ろそうかしら。

 

20240906, Fri

 ちょっと希死念慮が強めの時期になっている。頭が重く、暗く、窒息しそうな心持ちで僕はなんと厭な奴なのだろうと思わずにはいられない。価値のない人間だとしか思えない。今すぐに消えてなくなってしまい、自分の罪深さと恥ずかしさに頭を垂れずにはいられない。響かない。

 

20240908, Sun

 超ぬくもりについて考えた。……なんだろう。僕には分からない。

 あたりまえのように僕たちは他人の中にあって、なぜか無意識に自他を区別している。まるでそうあることが当然とでもいうように、そうであることが機能として備わっているように。確かに自己というものは他者がなければ成立しないだろう、参照できるものが単一の事物であればそれが絶対唯一の真理となって自己の萌芽は立ち上がりかけても瞬く間に消尽されてしまうだろう。僕たちが一個としてあるには、孤独を知ってしまうためには、別の存在が必要とされる。対象は猫でもいいかもしれない、あれは話しかければニャンと鳴き声を返してくれるかもしれないし、慌てて逃げ去ってしまうかもしれない、それでも自分の意識下にない動きをする存在という事象はそれだけで自己の存在を仄めかしてくれる。畢竟、対象は樹でもフィギュアでも佳いのかもしれない、人は身勝手に対象化してしまうから。だけれども自分が人であることを認識するためには、自分と似た何かがなければならないのだと思う。それは虚像でも、鏡像でも佳いのかもしれない、ただ自分とよく似た特性を示す何らかの事象を自分とは別物だと認識しなければ成立しえない。そして自分と他人が立ち現れた時になってようやく理解し得なさを理解する。与えたいものが与えられない、与えられたいものが与えられない、無限に続くと思える自他の衝突が、その時に生じる振動が、波紋が、存在に輪郭を与える。形を得ることはきっと苦しくもあたたかいことだろう。他人の存在を認めることはつまり他人から与えられる何かを何であろうとも、痛みを伴うものだとしても受容する姿勢を示すということ、(それが不可能なことであることを無意識下で理解しながらも)相互理解を希求するということ。そして一つになりたいと願うこと。内在化され、コントロールしえないそのような欲望を——いや欲望というのは少々言葉が過ぎるかな——、機能を、僕たちは持ってしまっている。そう、僕たちはどうして取り入れたいと願ってしまうのだろう、他人同士でありたいと思えないだろう、一つになった先に本当の意味でのぬくもりなど存在しないと言うのに。ふとカツオノエボシを思い浮かべた。あれは幾千幾万ものヒドロ虫によって形成された群体であり、一個でありつつも一個体ではない。カツオノエボシを構成するヒドロ虫はそれぞれが身体の部位に応じて異なる機能を有し、気胞体から触手、その刺胞に至るまで形態は様々だ。個々のヒドロ虫(個虫とも言う)は個であることが剥奪され、体壁は融合し、機能であることを運命付けられている。このような生物に心があるかは分からないのだけれど、僕は不思議に思ってしまう、個虫は何を思って機能としての役割を果たすのだろうと。脳がないから感じない? そうかもしれない、いやきっとそうなのだろう、それでも思わずにはいられない。なぜ君たちは個々であるのだろうかと。

 

20240911, Wed

 先日カツオノエボシがどうだとか書いていたけれど、取り入れるという意味ではチョウチンアンコウが思い当たる。メスの腹食いつき精子を送るだけの機構と成り果てるオス。

 

20240915, Sun

 コミティアに向けてグッズを作ろうとしている。今考えにあるのは万年筆と神経毒というサークル名要素も含めてインク瓶を用いた物を作ろうとしている。中に水とオイルとアクリルフィギュア等を封じ込めたものにしようと考えている。サイズの調整とか大変だし形に出来るかは分からないけれどもなんとなく出来そうな気がする。

 

20240919, Thu

 毎年恒例のユウちゃんの絵を描き始めた。CoDではややリアルめの厚塗りをし、JBではデフォルメ強めの絵を描いて、どちらもまあ僕の描ける絵で描いていた訳だけれど、もう少し自分らしい絵を探求したいという気持ち。デフォルメとリアルさの狭間をもう少し追求できるような気がしている、したいなあ。でも基本的に線(輪郭)を描かないという方向性は変わらないだろう、人間の外と内を分かつ部分に明確な線などないのだから。

 

20240922, Mon

 先日描き始めた絵は描き終えて、次はティアに向けてグッズ用の絵を考えているところ。既にSD絵を描いたのでもう十分な気もしているのだけれどあと一枚は描いておきたい気持ちではある。しかし絵を描いている一方で文章は書いていないなあ、どうして両立できないのだよね。一方ばかりに集中してしまう。

 

20240923, Mon

 毎日何らかの文章に触れていないと感性が死んでしまうような気がしてまともに触れられない日には酷く焦りを覚えてしまうけれども、そうして義務感のように物事に着手しても佳い影響を得られるとは全く思えない訳で、近頃の僕は全く駄目になっている。文章が読めていない、書けていない。特に小説、専門書の類いはまあちょくちょく目を通してはいるけれど物語を摂取することがめっきり減じていて、かといって一度読もうとすれば読める訳で、読むまでの一頁がなかなか遠く感じられてしまう。もうずっとそのような状態で、自分の中の何かにひびが入ってしまったようだ。せめてもの日記も書こう書こうと思いながら大した文章を綴ることが出来ず書くという行為に怯えを感じてしまうそうだ。といっても他に何が出来る訳でもない僕は虚無感を抱きながら縋るようにモニターを前にしてキーボードを叩くのです。日常が充実していれば文章に縋る必要はないと思うけれど、僕のこれはそうではなくただ忙殺されている、すり減らされている、簒奪されているような感覚で一体恢復するものなのでしょうか。ああ、虚しい。

 でも、それでも、物語を書きたいという気持ちはある——Child of Doppelgängerをカーテンコールに人生の幕引きにしたいと思っていた。まだ書きたい話が浮かんでしまうもので、JBのその後の話もテーマ的に向き合いたいと思っているし、CoDだってまだまだ書き終えていない。自分の人生に最良の決着をつけるために僕はまだ足掻きたいのです。

 

20240930, Mon

 時の流れが速い。何も成せない。