万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

雑記7

 今日は江ノ島へと釣りに行ってきた(公開日は10/1ですけど、記事を書き始めたのが9/29なのでご了承頂きたく……)。江ノ島に行ったのは実に半年振りだろうか、そんな気がするけれど、よく覚えていない。私にとって江ノ島自体あまり印象に残る地ではないのだ。見慣れた、というわけではないのだけれど、あまり好きではない場所であることもその一因なのかもしれない。だって人がいっぱいいるから。私とは正反対の世界に住んでそうな人達がうじゃうじゃいる。1組のカップルを見つけたら20組のカップルがいると思え、とは私の経験から導き出された答えだ。それはもう、ゴキブリと同様にうじゃうじゃいるのである。これは偏見かもしれないけれど、男の方は大体肌が黒い。夏場に行ったこともあるけれど、その時など海水浴場には黒い肌をした人の群れが見える。遠くから見たこともあってか、それはまさに虫の集団という表現が最もしっくりきた。ミルワームの入った容器を遠目に見つめればそんな風に見えるだろう。あんなところで平気に過ごせる人は陽の者に相違ない。きっと陽の光をいっぱいに受けて脳まで活性化をしているのだ。だからあんな場所にいても痛痒を感じないし、むしろいきいきとしているのだ。向日葵かよ。

 さて、釣りの話に戻ろうと思う。別に釣りについて語りたいというわけではないのだけれども、折角釣りに行ったのだから言葉にしないのはもったいないと思うのである。その日は終日曇空で、時折雨が降った。台風が近づいていることもあったのだろう。雨が強くなることはなかったが、釣りをしている身としては非常に辛かった。目に雨粒は入るし、鞄は濡れるわ、散々である。台風のことをこれほど恨んだのは初めてかもしれない。小学生の頃までは台風の到来に一喜一憂していたものだが、この年になってくると台風というものはただただ迷惑は代物に過ぎないのである。別に大学の講義が休講になろうとも別の日に振り返られるし、交通機関は麻痺して外出もままならない。しまいには隣家の瓦が飛んでくるのだ。なんということだ。百害あって一利無しではないか。それなのにその台風を喜んでいた小学生の頃の私ときたら。今思えば微笑ましいことなのかもしれない。台風が及ぼす苦痛を知らずに、のうのうと過ごすことができていたのだから。確か、小学校が台風で休みになったのは一回だけ(大体土日に被った。というか休校(休講)になるほどの台風というものは大抵土日にやってくる様に思う。統計学的にも有意ではなかろうか)で、それでも当時の私は平日に休んでいるその特別感に浮かれていた。母親も台風の影響で仕事が休みだったこともあるかもしれない。その日は母親とともにクッキーを焼いて食べた。あの時の光景はまさに幸福であった。それは当時の周りの状況に関して無知であったからなのだろう。無知とは狭い視野の中で物事を考えることと同義だ。ごく僅かな世界しか知らないから、ごく小さな幸せでもそれが最大級の幸せに捉えるとこができ、その中で生きていけるから。ある意味で最も幸せな人間とは無知な者なのかもしれない。無知と言えば永山則夫の『無知の涙』を思い出す。未だに忘れられない作品の一つだ。永山則夫とは死刑囚(4人を射殺した)で、彼が獄中で書いた手記がこの『無知の涙』である。忘れられない作品ではあるが、別段好きな作品であるわけではない。それは彼の政治色の強い思考が好きになれない、というものあるのだけれど、彼が自分を悲劇の人として語っていることが解せないのである。確かにそういう一面はあるのかもしれないが、彼が大罪を犯した死刑囚であることは変えようのない事実であり、そこに同情の余地はない。しかしその書の中で彼は「何故あのような犯行をしたのか」「自分とは何だったのか」という疑問に真摯に向き合っている。それは自分で自分を拷問にかけているような光景を想起させ、読む人を唸らせる。

人間でありたくない

ありたくない人で

若しも

復活することが可能なら

私は私でありたい

 ―永山則夫無知の涙

 永山則夫は獄中の生活で、初めて「人間になった」。貧窮に喘いでいた彼は監獄という自分の身を保証してくれる場でもって、初めて自分の存在というものを客観的に捉えることができ、自分が人間であることを知った。また、同時に監獄という場所は「人間ではなくなる」場所であり、人間になったにもかかわらず、人間であることを否定された彼はその矛盾の中で人間の無意味さを知り、人間が人間ではないという矛盾した特性を備えていると考えたのである。だから彼は先に引用したように人間でありたくないが、私でありたいと願ったのだろうか。

ある日と永遠のなかでのこと――『ぼくは鯨の背に乗って呑気に世界旅行している際〔最〕中、食物が無くなった! 数日の目まい、かわき疲れ、食物への幻覚……、ぼくはこまりにこまった。そこで鯨に話すことにした。「君を食べていいかい……そのう……つまり……」鯨は超音波でぼくの脳波にこたえた「仕方無いよ」と一言だけ。もっと言って欲しかった……。ぼくは最初は遠慮して少しづつ、ほんの少しづつ背中から喰っていった。呻かなかった。鯨は何も言わなかったのだった。そして毎日が経過していった。当てのない世界旅行! ぼくが背中を喰っていって、それが大変悪辣極まる事だと気がついた時!! 鯨の三分の一を喰っていた。ぼくは鯨に謝った。鯨は…………何も言わなかった。鯨は屍体だったのだ……。ぼくはその日から孤独になったのだった。生きる事の無意味さを悟る時、ぼくは自分の喉に、それまで鯨を苦しめたナイフを刺していた。ぼくの脳味噌から最後の一滴の血がひく瞬間、鯨とは自分自身の精神と悟るのであった。』

 ―永山則夫無知の涙

  

 閑話休題

 

 と、適当に書き連ねていれば釣りとは全く関係のないことについて述べていた。これは私の悪い癖である。一つの物事に集中できず、話が右へ左へと逸れてしまう。小説を読んでいる時だって、頭の中で物語が再構築されて、いつの間にか全く違う話を読んでいることがたまにある。それは大抵眠い時に起こることだから、ただ単に集中できてい無いだけかもしれないが。とまれ、話を戻して釣りについて綴っていこう。

 私が釣りをしたところは海岸と隣接した堤防で、そこへ行く途中、港の波打ち際にはカツオの頭が落ちていた。多くのハエがたかっており、心なしか酷い腐敗臭が漂っているに思えた。あの後は蛆虫が成体となって空へと飛び立ち、また別のカツオの頭に群がるのかなあ、あんな風に生命が循環しているのだなあ、なんて感慨深げにカツオの頭見つめていたのだけれど、別の釣り人に奇異の視線を向けられたので居心地が悪かった。死骸を見つめる人がそんなにも可笑しいのだろうか。食卓にあがる牛肉のステーキだって、魚の塩焼きだって死骸であることは変わらないはずなのに。死骸と食物の間に何か境界線のようなものがあるのだろうか。もしあるのだとすればそれはなんだろうか? 皿に盛り付けられていることや美味しそうな匂いがすること、つまり調理を施してあることだろうか。だとすれば生肉に生卵を乗っけただけの生肉のユッケなんて調理と言えるのだろうか、死骸と大差ないのではなかろうか。どことなく腥そう。それなのにありがたがって食べる人もいる。生肉を食べて救急車で運ばれることなんてままにあることなのに、その上度々ニュースに取り上げられることもあるというのに未だに生肉を食す人がいる事自体可笑しいと思う。世の中が可笑しくて、私が可笑しくないのかもしれない。

 そういえば、家の近所に酷く腥い臭いを放つ魚屋? がある。中に入ったことはないのでよく知らないけれど、外から覗いた感じでは魚や刺し身を売っていたので、魚屋に違いないと思う。あまり繁盛している様子はないのだが。そもそも私の住んでいる辺りは閑静な住宅街なので、その魚屋の異物感といったらありゃしない。近くに駅があることはあるのだけれど、駅から徒歩5分はかかる上、駅の直ぐ側に鮮魚コーナーの入っているスーパーがあるのだから、よほどそこの魚が新鮮で安いというわけでもなければ繁盛しないのではなかろうか。大体腥い臭いがする時点で新鮮な魚が置いてあるのかは怪しいところである。と、またまた話が逸れていた。話を戻そう。

 釣り場からはサーファーの群れがよく見えた。黒々とした肌の者や、ぴっちりとしたスーツを着ている者まで多種多様で、サーファーにも種類があるのかなあ、なんてことを考えながら釣り糸を垂らしていた。そのうちあれだけサーファーがいるのだから一人くらい釣ってみたい、なんて思ったけれど、自分でもその意味がよく分からなかった。サーファーが魚に見えたのかもしれない。そんな馬鹿な。

 釣果としてはクサフグ一匹、(恐らく)ホシササノハベラ一匹、ゴンズイ一匹であった。これといって目的の魚を狙っていたわけではないのだけれど、こうも外道ばかり釣れてもあまり嬉しくはない。カサゴとか調理しやすくて食べても美味しい魚が釣りたかったものである。また、曇りということもあって海底が見づらく(そもそも江ノ島の海自体濁っていてとても綺麗とは言い難いのだが)、岩に引っかかることで、仕掛けをいくつも海に置き去りにしてしまったのは痛かった。主に財布的に。結局家に魚を持ち帰ることもなかったので、マイナスだ。しかし釣りというのは娯楽であり、娯楽とはつまりお金や時間を消費して快楽を得ることだ。外道とは言え引きを楽しんだ部分もあったので、一概にマイナスと言っては良くないだろう。まあ、次に釣りに行く時はもう少し引きの強い魚を狙いたいものである。

『親愛なる孤独と苦悩へ』を読んで Part1(Part2は未定)

 新生活への不安や恐怖が和らぎ一息つけた人も多いだろうゴールデンウィークが過ぎ去った今日此の頃。そんな一方で未だに人間関係や環境の変化、その他にも様々な事柄に関する懊悩を抱えている人も多いのではないだろうか。

 心の安寧を得られていない人、今にもストレスに押し潰されてしまいそうな人、そんな自分を責めてしまう人色々といるだろう。人というものは自分が思う以上に弱かったりするものだ。そんな生き辛さを抱えている人々に「幸せとは?」という問題に対する解答への些細な道標を提示したい。

 

『親愛なる孤独と苦悩へ』は同人サークルである楽想目(http://rakusomoku.web.fc2.com/)で制作されたヴィジュアルノベルである。

 

 この作品との出会いはTwitterにてとあるフォロワーがプレイした感想を投げているのを見て私もやってみようと思ったからであるのだが、予想を佳い意味で裏切る作品であったために多くの人にこの作品を知って貰えればと筆を執った次第である。まあともかく私なりの感想?を綴っていこうと思う。

 

 

f:id:Traum_Mizuha:20180511005911p:plain

 科白や独白がかなり内省的でリアルな印象を抱く本作。人間の不器用さや生き辛さ、不条理を扱った物語は私自身にとっても特別な作品であった。

 

 

 

・カウンセリングという名の視点変更〈人生を観よう〉

 

 本作の主人公は内田姫紗希、那古龍輔、都宮海の3人である。彼らはそれぞれが異なった懊悩を抱いていた。それを相談するために「カウンセラー」と検索をかけたインターネットの海の中、その39ページ目。簡素なHPと何故か無料のカウンセラー橘真琴(以下まこちゃん)と出会う。

 この3人に対してまこちゃんがカウンセリングを行うことを通して物語が進行する。が、このカウンセリングが彼らにのみ対応しているわけではない。私たち読者も同様にカウンセリングを受けることができるのである。是非とも”読み進める”のではなく”入り込んで”欲しい。

 

f:id:Traum_Mizuha:20180511010926p:plain

opのとあるフレーズ

 

f:id:Traum_Mizuha:20180511010346p:plain

 まこちゃんはカウンセリングを通して主人公らに心の声(観念)を深く、最果てまで見つめるように促す。その声の主は何者なのかどこからくるものなのか、最初はAだと思っていたことがBであることなど(自分でも自覚していない感情の正体)が分かり、彼らは自己を改めて捉え直すのである――と同時に私たち読者は彼らに自分を投射して同様に自己を捉え直すのである。

 ヴィジュアルノベルにカウンセリングを導入することはなるほど、熟読するのであるならば読者に感銘を与えるのであろう。

 

  私たちは案外自身のことを見つめきれていないのである。

 

 病気とまではいかないまでも悩みを持つ人がプレイして悩みが無くなるとは言わないし、悩みを解決する糸口になるとは断言しないが、プレイして損はない作品であることだけは断言できる。

 

 

以下からネタバレを含みますので、未プレイの方は読まない方がよろしいかと。

ですがその1では致命的なネタバレをできるだけ避けるよう書いているので読んで貰っても構いません。自己責任でお願いしますよ、自己責任。

 

 

 

 

・他者との関係と自分の役割、或いは自己同一性

 

case1.内田姫紗希

 内田姫紗希は優秀な姉と比較され、親に構って貰えないことを嘆いていた。一方で姉は何故自分ばかりが親から期待され続けるのだと不満を抱いていて、その不満をぶつけられた姫紗希は姉の懊悩を知るのであった。

f:id:Traum_Mizuha:20180512015220p:plain

 

 姉が出ていった後、親が姫紗希に求めたのは姉をいないものと扱い、姉の代わりになるよう勉学に励むことだった――ここで今までの自分を否定され、姫紗希の自己同一性が崩れ始めるのである(正確には姉の死ねの一言だろうが)。

f:id:Traum_Mizuha:20180512015330p:plain

 

 

  今までろくに家族の愛情を注がれなかった姫紗希が姉のように、いやそれ以上に優秀になれと歪んだ愛情を注がれた。最初の頃はその注がれる愛情に喜びを抱いていたのだが、なにをどう頑張ってもそれ以上を求められ認められることはなく、むしろそれでは駄目だと叱咤された。

「ある人間が、他の人間に、お前はなにかをなすべきだと伝え、同時にもう一つの水準でお前はそれをなすべきではないとか、お前はそれと相いれないほかの何かをなすべきであると伝える。状況は、さらに、彼もしくは彼女が、その状況から脱出したり、それについて批評することによってそれを解消したりすることを禁じる命令によって、<犠牲者>に対して封鎖される。<犠牲者>はそれゆえ、<安住しえない境地>に置かれる。彼は、破局を起こさずには身動きができない」(R.D.レイン『自己と他者』)

 

畢竟、姫紗希は親とその教育に対する恐怖と憎しみを抱き、それを正そうと教育者を目指したのである。

f:id:Traum_Mizuha:20180512015701p:plain

そうして歪な動機で教育者目指す彼女は思い通りに立ち回れず、(こうあればならないという強迫観念によって)憂鬱に沈んだのであった。

 

 

 

 case2.那古龍

 那古龍輔が格ゲーを続ける理由は妹を喜ばすためのものであった。幼いころ”兄として振る舞わねばならない”という意識のもと、あまり反応しない妹が唯一食いついたために格ゲーを続けていたのである。

 兄としての役割を妹の中に確立し続けるにはそれしか無かったのだ。

 

 龍輔が言っていたようにゲームで食べていくのは「現実的じゃない」。そこで格ゲーしか熱中できるものが無かった龍輔は(自分のやる気の淵源が妹だなんて知る由もない)将来のビジョンが見えなくなっていた。

 けど実際……。

未来に希望が持てなくて、いい気分じゃないのはかなりある

(就職ねえ……)

(やってみたいと思う仕事なんか別にねーよ……)

(とすれば、俺にとって仕事ってのは、ただやりたくないことを毎日強制されるためだけのものじゃねーか。誰がそんなの望むってんだよ)

「就職……全然したいと思わねーな……」

                        那古龍

 龍輔がいくら格ゲーが上手いといってもそれは現実的でなく、選ぶことに後ろめたさがあった。かといって就職する意欲もなかった。

 

 まこちゃんのカウンセリングを受けることでプロになりたいと願っても良いのだと龍輔は思えるようになった。その気持ちで臨んだ大会、そこで龍輔は初戦敗退してしまう。彼の口から出た言葉はいつもの台詞であった。

f:id:Traum_Mizuha:20180512013830p:plain

 

 龍輔のこの言葉は妹にも響いていて、彼女は自身の夢であった小説家を半ば諦めた。ともに小説を書いていた友人の方が彼女より上手かったのが原因だという。しかし切欠は彼のその言葉に他ならない。格ゲーを媒体にして兄妹として強固に結ばれてたが故に、格ゲーの敗北を切欠に才能が全てと切り捨てたその言葉は彼女に深く突き刺さったのだ。

 龍輔にとって格ゲーとはアイデンティティに他ならない。それを容易く踏み躙られていく姿は彼だけでなく妹にも大きな衝撃を与えたのだろう。

 自分の周りに技量が上の人がいる、そんな残酷な世界に彼ら兄妹は立っているのだ。 

「わたしはなくしてしまった なくしたって なにを? どこかで見かけましたか? 見かけたって なにを? わたしの顔を いいえ」(R.D.レイン『好き? 好き? 大好き?』)

 

 

 

case3.都宮海

 色盲の都宮が絵を描き、朽木がその絵を塗る。そんな共依存的な関係性を築いていたのだが、絵を描き続けたい都宮の一方で絵から手を引きたい朽木というすれ違いが起きていた。お互いの主張は平行線をたどるばかりで一向に解決に向かわなかった。

 これは都宮の上手い絵を自分の下手な塗りで穢してしまうという朽木の負い目から生じた問題であった。

f:id:Traum_Mizuha:20180512020908p:plain

 

 都宮は幼稚園児の頃から絵が上手かったが、自身が色盲なためにそれを恥じるようにモノクロで絵を描いていた。そんな時に色を塗ってやると提案したのが朽木であった。

f:id:Traum_Mizuha:20180512020506p:plain

 

朽木は個性的な絵を描く少年で周りから認められていなかった。そんな時に自分の絵を父親以外で唯一認めてくれた都宮に好感を覚え、そう提案したのだった。

f:id:Traum_Mizuha:20180512020520p:plain

 

 その時から「描く都宮」と「塗る朽木」という役割が形成されたのである。

 しかし現実というものは非情なもので、殊芸術という分野に関しては甲乙がはっきりとでてしまう。専門学校へ進んだ朽木はハイレベルな周りの姿を見て、自分は都宮の足を引っ張っているのではないかという疑問を抱くのだった。

f:id:Traum_Mizuha:20180512022606p:plain

 

 そこで朽木は他の人に都宮の絵を塗ってもらうことにしたのだ。結果、その塗ってもらった絵は準入選してしまう。朽木の存在意義が揺らいだ瞬間であった。

 

 そして朽木は自分がいなくても都宮はやっていけるのではないかという疑問を抱き、都宮の絵に手を加えずに提出した。そしてその絵も準入選してしまう。現実が朽木が都宮の足枷になっていると示してしまったのだ。それは朽木の死と表現してもいいだろう、絵で頑張ってきた今まで全てを否定されてしまったのだから。

f:id:Traum_Mizuha:20180512131737p:plain

  普段強気な朽木から流れ出た涙には様々な感情が込められているのだろう。悲痛、寂寞、悔恨、無念……

 この涙で吹っ切れた朽木は絵から――都宮と夢を追うことから――手を引くことを決意したのである。

 

 

 ここまで書いた内容のどこに「幸せとは?」に対する解答の道標があるのかと思う人がいるだろう。それはPart2にて書くことにする。

 

2019/10/10 追記

書こう、書こう、と思いつつ今に至る。が、記事を書けるほどの鮮明な記憶が無くなってしまったせいでPart2を書くことが出来なくなった。いつか再プレイすることがあれば書きたいと思うのだけれどそれがいつになるか分からない。