万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

11月の言葉

20221103, Thu

 この生命を存続させる意味を問う日々、なぜ自分の人生に保険を掛けなければならいのだろうか、それが責任だと人は言ったが、自然の摂理に任せて生命を終わらせることもまた責任の一つの取り方ではないのだろうか。なぜ、命を縛られているのだろう、なぜ、生き続けることが佳いこととされているのだろう、僕はいつまで経ってもその問いに答えを見いだせずにいる。不条理を許容し、絶望と和解するだけでは駄目なのだろうか、抗わなければいけないのだろうか、せめて自分の命の扱い方を自由にさせてはくれませんか、人の命を弄ばないでもらえませんか、生命に保険なんて必要ない、少なくとも僕には必要性を感じられない、病に冒され生命(人生)の極点に近付いたとしても治療は必要ない、そのまま自分の身体に殺して欲しい。他人に生命の手綱を握らせないでおくれ、そのままにしておくれ。自由に、自由に、僕はただ広大で寂寞とした荒地に居たいのです、造花に彩られた楽園は不要だ、そんなものは幸せでも何でもない。

 

20221104, Fri

 美徳とはなんだろう、人としての道理に適った行動とは一体何を差し示しているのか。人はよく他人の自己犠牲を褒め称える。立派だと、佳い行いだと。特にそれが報償を伴わない無償の挺身であれば人の鑑だと讚えられる。……本当に? 供物になることがそんなにも貴い行動なのでしょうか。狂っていると思う、犠牲なんて物は無いに越したことがないのに、それでも尊ばれてしまう。もしかして皆さん心の中では誰かの犠牲を望んでいるのではないでしょうか、だから他人が犠牲になることにほっとしてしまう、自分が供物の羊とならなかったことに対して安堵してしまう。だけどそんな自分に罪悪感を感じてしまうから犠牲者を褒め称えることで僕は悪くないんだと言い聞かせている。君の献身は素晴らしい行為だよ(僕は決してそんなことはしないけどね)、ここに盛大な拍手を送ろう。

 

 新作はもう暫く時間が掛かります。今年中にシナリオを書き上げられればと思います。もう少し、もう少しだけ時間を下さい。……僕は一体誰に頼んでいるのでしょう? 自分に対して? あなたに対して?

 

20221105, Sat

 次回作は無料頒布するのだけれど、有料でパッケージ版の販売も予定している。昔から自分の作品を現物として手に入れたかったから、それをするのだと気合いを入れて今日はそのデザインをしていた。しかし僕にはセンスというものが欠如しているので難しい、視認性とデザインの両立させるこのとできる人々を尊敬する。デザイナーの腕を食べたい。

 

20221106, Sun

 ごめんなさいという言葉がなづきの中をぐるぐると回遊する。指向性を失った言葉の死骸が回り続け、ああ腐ってしまうよ。いつも僕は謝罪している。外界に向けて、内面に向けて、存在していることの罪深さを謝り倒している。出来損ないでごめんなさい、暗い性格でごめんなさい、何も出来なくてごめんなさい。僕なんてという後ろ向きの言葉が浮かび、消そうとしても湧き出てきてしまう。あと三年、と思う。あと三年生きれば自死でも保険金が降りる。残したい相手はいないけれど、存在の精算はできるのではないでしょうか。この歳にもなってこんな無残な内面を持っていて、生き辛いだろうね、ごめんね自分よ、もう少しの辛抱だから、もう少しで開放してあげるからね。こんな解決策しか提示できなくてごめんね、もっと上手くできればよかったのだけれど、これが僕の小さな脳みそで考え出せた結果なんだ。ごめんね、ごめんね、怖いよね、悲しいよね、本当にごめんね。愛を与えられれば佳かった、幸せを与えられれば佳かった、でも出来ないんだよ、だからごめんね。

 

20221109, Wed

 明るい人間でありたい。自分の暗さで誰かを不快にしたくはない。

 

20221112, Sat

 aesopのカーストがとても佳い香りで気に入っている。潮風にやられた草木、腐った木造船に転がる浮き玉、砕けた波の欠片、それらが収められた白黒写真の海岸線を想起させる匂い。就寝前に枕へワンプッシュすると退廃的な気分になれてとても佳いのです——香水っぽさがやや強めなので付け過ぎるとくらくらしますが。僕はやはり視覚的な情報よりも嗅覚的な情報の方を好む傾向にあるのでしょう、アセトンやブタノールの甘ったるい匂い、ジオキサンやエーテルのやや甘い匂い、ジメチルホルムアミドやピリジンの魚が腐ったようなアミン臭、クロロホルムジクロロメタンの粘膜を刺激するツンとした匂い、潮風のジメチルスルフィド、桃のラクトン、チーズの酪酸……様々な匂いが記憶に浸透している。まるで匂いが染み込んで消えない香水瓶のように。

 

20221116, Wed

 書痙を抑えるためだったデパスを呑み込み、束の間人工的な幸福感に浸っている。特にここ最近は希死念慮が酷く、動くことすら困難を覚えてしまい脳の神経を騙してやらなければまともな状態になれない。不安が、諦念が、欲動が募る。指関節に痛みを感じる、まるで自分を罰しているかのように。眼窩の奥で苦痛が咲き、じっと耐え忍ぶように目を閉じる。逃げ場がないと思う。逃げたいと思う。僕はそう、逃亡者になりたいのです。社会から、自分から、あらゆる情報から離れて白い陋居の中で蝋燭に跪いて形のない信仰を捧げたいのです。壁龕に青一色、手のひら程度の大きさの絵画を据え付けて他の全ては捨て去ってしまいたい。境界の果てに逃げていきたい。

 

20221118, Fri

 透明になりたいと思った、他人の視線が怖いから。

 透明になりたいと思った、海を漂う水月のように。

 透明になりたいと思った、自分でいたくないから。

 透明になりたいと思った、死骸を漁る分解者のように。

 

 首句反復や結句反復のリズム感が好きだからよく使ってしまう。僕にとってリズムは最も重視する要素の一つで、流れや揺らぎと同じくらい大切にしている。波の満ち引き、振り子、正弦波、蛇口から落ちる液滴、32.768kHz……巨きなリズムの中に身体を置くことは安心を与えてくれる。揺らいでばかりでは不安になるから、流れに任せているばかりでは諦念してしまうから、時にはリズムを刻んでテンポ正しく握手しませう。

 

20221119, Sat

 僕たちにとって最も身近で、しかし最も遠い場所にあるものが死である。いつか僕たちは死ななければならず、多少の延命することは可能ではあるが、避けることの出来ない事象として個人の人生の極北に存在している。周囲に目を向けてみればどこかで生命の終わりがひっそりと告げられており、また一方で産声も聞こえることもある。産声とはこれから始まる人生への歓喜の声だと誰かが言った、産声とはこれから始まる苦難の途への怨嗟だと誰かが言った。誰かが死に、誰かが生まれる。祝福があり、呪いがある。生まれるとは決して胎内から吐き出された瞬間のみを指すものではない、個々人の歩みを自覚した時にもまた生まれがある。歩むとそこには道が生まれる。たった一つの足跡だとしても、その先が途絶えていたとしても道として機能する。誰かが歩く、別の誰かが歩く。生命の軌跡が偶然にも重なり合うことがある。それを人は邂逅と呼ぶ。幾百万の歩みの網目、これを社会と呼んでもいい。僕は『すずめの戸締まり』に死と、生まれと、道と、邂逅と、社会を見た気がした。

 映画館を出、後頭部に広がる痺れの余韻を確かめる。そこで僕は素晴らしい作品を観たと改めて感じた。上映中に何度も後頭部が痺れた、これは僕が感動している時に現れるサインで裏切ることのない感覚だ。なぜこのように痺れたのか言語化しようと簡単にだが今試みている。

 『すずめの戸締まり』以下"すずめ"の前半の繰り返される戸締りには単調さを感じていたし、後半の恋愛へ繋げる展開には正直見ていて飽き果てていたし、地方の凋落と震災の繋げ方に違和感を感じたし(過疎による土地のネクローシス地震という地球のアポトーシス的現象はそもそも別の問題だと思います)、監督本人の投影された自我が薄い点にも落胆していた("すずめ"には生々しさが足りないのだ)。だけれど前半のロードムービーの解像度の高さは感嘆したし、日本神話と物語の接合も巧く感心したし、ダイジンのキャラクターも人間の心を解さない感じがとても神様らしかったし、モブキャラクターの動きも咄嗟にスマホを掲げるなどリアリティがあって佳かったし、登場人物(名前を持たない彼らであっても)それぞれが生命活動を営んでいる描写は本当に素晴らしかった(焼きうどんにポテトサラダを入れるシーンはお気に入りです)。僕は"すずめ"を新海誠作品の最高傑作だと思ったわけなのだけれど、それはクライマックスと結論の提示に対してではなく(後頭部がじんとしましたが)、"すずめ"とそれ以前の作品群とで明らかに作風が異なっていたためにこちらの(作風の)方が単に好みであったというだけのことなのです——以前の新海誠作品では天気の子がいっとう好みです。これまでの作品ではどうしても閉じた世界という感覚がありました。秒速5センチメートルは遠野と篠原の二人の狭いコミュニティでの話でしたし、言の葉の庭も秋月と雪野二人の話でした。君の名は。はスケールが大きくなり地域の話でしたがやはり交差する二人の世界の話、天気の子は影響こそ都市全体に及ぶものでしたが行き着く関係は二人の世界でした。"すずめ"はしかし二人の関係で完結するものではなかった——むしろすずめと草太の関係には強引さすら感じた。"すずめ"の核心は主人公等の人生の埒外で営まれる無数の人間の生活や社会が存在していることで、それは前半のロードムービーやエンディングの止め絵、百万人の命という台詞が示している通りでしょう。……今作と今までの作品とではやはり作風が違うように感じられて、同じ土俵で語るのは憚れるような気がする。

 ああ、そういえば僕はなぜ後頭部が痺れたのか考えようとしていたのだっけ。難しく考えなくていい、単純な話で死があって(すずめの母)、生まれがあって(すずめの過去との決別)、道があって(ロードムービー)、人々の邂逅が作り出す豊かな感情の波があって、無数の人間が生きている社会があったからなんです。あとクライマックスの物語の運び方が巧かったからなんです。

 二回目を観たらまた考え方が変わるかもしれない。今はここで筆を置く。随分と雑文になってしまった。

 

20221121, Mon

 エントロピーについて思いを馳せた。

 

20221124, Thu

 シナリオが書き終わらない。今日はリーベストートについて書いていた。トリスタンとイゾルデ、死による愛の昇華。死によってのみ達成されうる愛の極北。今書いている章はどうにも進みが遅い、もう今年は一月しか残っていないというのに。

 

20221127, Sun

 締めつけのある衣類が苦手だ。タートルネックの首を絞められるような圧迫感、ジーパンの固く肉を縛るゴワゴワとした生地、靴下の貼り付く気持ち悪さ、これらの感覚が大層嫌いなのである。首元が寒くともマフラーもネックウォーマーも使わない——首の周りに何かがある感覚が嫌です、ネックレスも無理。スタイルが佳く見えると聞かされたところで脚に纏わりつくズボンを履かない——そもそもファッションへの関心が薄い。雪でも降らない限り冬でもビーチサンダルで過ごすことが多い——靴下は長年履いてきてまま慣れているのもあってそこまで抵抗感があるわけではない、革靴は可愛いので佳く履く。腕時計といった小物類を基本身に付けないのもこういった縛るような感覚が苦手であるから。このように書いていると僕は随分と拘りのある人間な気がしてくる。食べ物の好き嫌いは多いし、特定の質感(革、木、金属、ガラス)を好み——例えば安いテーブルの表面をコーティングしている樹脂やプラスチックといった質感を忌避する——傾向があり、狭くて暗い空間を好み——だから書物が好きでも図書館は広くて苦手だ——、ああ書いていて生き辛い奴だなと思う。家での服は基本スウェットかジャージで素足にサンダルを引っかけて、末端冷え性だというのに頑なに靴下は履かない。……一体皆さんどうして締めつけのある服を着れるのでしょう、苦しくはないのですか。