万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

12月の言葉

20221203, Sat

 W杯で湧く世間の一方で僕はサッカーに全く興味を抱けないでいる。日本がどこどこに勝っただとか、奇跡のような勝利だとか、たとえ過去に人生の一瞬が触れた同窓の人間が活躍しているとしてもどうでもいいと思ってしまう。もっともスポーツがそれほどまでに人を惹き付けること自体僕には遠い出来事のように思う。他人がボールを蹴り回る姿を見、どのような感情で過ごせばいいのかが分からない、それはサッカーだけでなく野球でもバスケットボールでも変わらず、僕の胸を躍らせることがない。僕だって昔はバスケや陸上をしておりスポーツの経験はある、その時だって人の動きや走りを見て大した感傷は抱けなかった、応援が面倒で怠いとすら思っていた。自分が動くのも正直面倒に思っていた、走ることが嫌いなのに、運動することが苦痛なのにスポーツをしていた。まあ苦しい時の内因性オピオイドエピネフリンの放出が気持ち良かったのでそれを楽しんでいたという節はあります。まあそんなことはどうでもいいのです、様は他人の健闘する姿にどうしてそんなにも感情を移入出来るのかが理解できないのです。日本が勝つことも、ドイツが勝つことも、韓国が勝つことも僕の中では限りなく等しくて、僕の人生の埒外で繰り返される球の跳ね返りに帰着します。どの球が誰の脚でネットに吸い込まれたかなんて些細な違いなんです。他人の活躍を誇らしげに掲げられるほどに僕は出来た人間ではありません、卑屈で矮小な奴ですからこうしてW杯の楽しみ方が分からないと吐き出してしまうのです。結句、人生に斜に構えているから楽しむことができないのでしょう、でも残念なことにこの生き方しか知らないのです。

 

 サッカーの活躍に託つけて夢を語る人間がいました。夢。子供の頃の願望。なりたい姿。僕は将来に実現したい欲望としての夢というものが好きではありません。というのも父親の口癖だった夢を言葉にしなさいという言葉が思い出されるから。自分が人生に挫折し掛かっていたから子供に自分の願望を託して夢を実現しろと言った、そうすれば幸せになれると言った。幼い頭の僕は嫌でも嫌と言えずに唯々諾々とぼんやりとした夢を語った、数年で二転三転、何度も変わって、酷い時には数日で変わってしまうような泡のような夢でなんにも残らなかった夢という名のその場凌ぎの夢想達。可哀想だね、あんな風に使われて、本来はもっと情熱に溢れた子供のところで大きくなりたかっただろうに僕は君たち夢の卵を蟻を潰すようにぷちぷちと潰し回ってしまった。だからでしょうか僕が人生に対して希望を見いだせないのは、夢を抱けないのはあらゆる夢の卵を壊してしまったからなのではないでしょうか。罰なのでしょうか。

 

20221204, Sun

 古代ローマの詩人オウィディウスが書いた唯一の悲劇[Médée]は現存していない。残っているのは僅か二篇の詩のみだ。

一つはクインティリアヌスが引用する形で残されていた

Servare potui, perdere an possim rogas ?

あなたを救った私が、あなたを壊すことができないと思いますか?

もう一つはセネカが残した次の一篇

Feror huc illuc, ut plena deo.

わたしは運ばれていく、あちらこちらに、神に満ちているように。

 どちらの文章も好きでたまらない。ああ、全編が残されていればどれだけよかったか。

 

20221207, Wed

 腐敗していく、腐敗していく、僕は日々腐っていく。脳髄が、思考が、情動が、どろどろに、タール状に黒くなっていく。酷い臭いだ、悪臭だ、これは蓄膿症だね。ああ嫌になってしまう。自分が嫌で嫌でたまらなくて、消えてしまいたい。そう云って実際の行動に踏み出せないのも嫌だね、気持ち悪い。だから君には友達が少ないんだ、だから君には愛してくれる人がいないんだ、多少なりとも君に近付けば分かるんだよ、君って奴がとんでもなく面倒で、だから遠くから硝子越しに見る分には面白いけれど傍には近寄りがたいんだ。ペンギンと同じだね、あいつらは臭くて近くに居るのはたまったものではないけれどアクリル板を隔てて泳ぐ姿はなんと美しいものか、ああ君はペンギンが好きだったね、でもそれは昔の話だろう? 今はほとんど好きと感じていないじゃないか。知っているよ君が水族館でペンギンの酷い臭いを嗅いでから好きではなくなったことを、結局その程度なんだよ愛情ってのはね、感覚に与える刺激程度で消えてしまうんだ。ああ、馬鹿馬鹿しいね、どうしたって愛せないね、何も与えてくれないね、終わってるね、腐っていくしかないんだよ。

 

20221209, Fri

 自分を愛することが出来ない人間が他人を愛せるはずがない。

 

20221211, Sun

 孤独を感じる時、熱を求めてしまいたくなる。誰かと体温を交換し、通奏低音のように広がる虚しさを溶かしたい。愛が欲しいのです。しかしこんなことを書いておいて僕は愛というものが少しも分かっていないのです。愛とは何なのか、情欲とどのようにちがうのか、そんなことをいつも考えてしまいでもしかし感じたことのないものだからいつになっても分からないまま。誰かとまともに交際したこともなく、誰かに愛情を向けることも出来ず、寄る辺の無い愛への希求はナルシシズムとして内側で静かに醗酵している。僕は自分のことが嫌いだけれど、きっと好きだと思っている部分も——無意識下には——あるはずで、脳に巣くう嫌気性微生物が腐らせているだけなんだ。濁った溶液から引き上げたキセリクプスの断面、海岸に打ち上げられた鯨の淀んだ目、草原に打ち捨てられたタイヤの中に溜まった雨水、発生途中で割れてしまった卵、僕の眼球譚

 

20221212, Mon

 体調が悪い。酷く吐き気がし、まるで病気のようだ。でもこれが身体の不調なのか、精神の不調なのかが分からない。自分を内側に倒していく感覚があり、嫌悪があり、内に湧くマグマがあり、吐き気がある。息とともに呻きが漏れる。お腹の底が重く、きりきりと痛む。頭も痛い。吐きそうだ、でも吐き出せるものがない。休みたいけれど、休むのも億劫だ。

 

20221213, Tue

 頭にすうっと入り込んでくる、浸潤してくる言葉を書きたい。鼓動、膜電位、DNAの並びのようなリズムを意識しながら書き連ねる文章の数々。存在の底に辿り着く感覚を言葉にしたいと思うが、僕の拙い語彙では足りないといつも感じる。ツェランやクァジーモドやディキンスンが遺した血の薔薇のような言葉の音律、リブヴォールトの下を歩みながら呟いてしまうような美しい反響。頭蓋の中は一つの教会だ、不明瞭な臨在を讚えるミサが、オルガンの荘厳な音が、あなたを象った白皙の像に向かって捧げられる。自己を言葉に満たしたい、美に溺れたい、窒息したい。誰もがいつかたとえ信じていなくても神のような存在にまっすぐに祈りを捧げることがあるように、僕もいつかは深甚と跪くことがあるのだろうか。あなたの抱擁の幻想の中で束の間の死に至れるだろうか。ああ、幸せになりたい、幸せを言葉にしたい。存在の底を幸福で溢れさせたい。

 

20221217, Sat

 普通に生きていて、予定表が埋まるということがないのだけれど、一般的には埋まるものなのでしょうか? カレンダーはまるで自分のことを反映しているかのように常に空白で、だから僕は手帳というものを持っていないんだよね。そもそも書き込むことがなければ必要ないじゃないか、ちょっとしたメモはスマホに書き込めばいいし、それだって大体買い物のメモになるし、その日その場の感覚で生きているせいか誰かと行動を共にする待ち合わせの時間なんて書き込まれた試しがない。僕はもしかして割と孤独な人間なのかなあ、無味乾燥とした人間なのかなあ、悲しいなあ、でも好きでこんな人でいるわけじゃあないんだよ、どうして僕の周りには人が集まらないだけで、集めようとしないだけで、自然とそうなってしまったんだ。人と話すことが苦痛だから外食には行きたくない、ショッピングも対面は苦手でネットで済ましてしまおうとする傾向がある、火急の用がなければ家から出ようともしない、人付き合いに付随する気を遣うという行為が嫌で気の置けない人とでもないと他人に会いたくもない。反面一度気を許したら付き纏うというか執着する傾向があるから気持ち悪いよね、僕という人間は人間社会に不適合で、さっさと消えてしまいたいよね。目的もなく、命を消費して、DNAが際限なく複製を続けているのは何のためだい? 何のために転写して翻訳してタンパク質を合成しているのか、馬鹿みたいだね、何も良いことなんてないというのに惰性で生きて、何を期待しているのかい? ああ、また文章が内面に潜り込んでくる、もっと溌剌としているものを書いて僕は明るい人間なんだよと言いたいのに、予定帳が白くとも充実していると言いたいのに。僕はただ卑しさから遠ざかりたいだけなんだ、ダイナミズムから亡命しあの小さな潮溜まりになりたいのです。ああ、もっと謙譲になりたいものです。自分の欲を捨ててもっと白くなりたい。謙譲は、何ものにも粗暴でないから、何ものも恐れない。謙譲は、一致であり、平和であり、喜びであり、安息なのだから。

 

20221218, Sun

 僕を嫌いにならないで。

 

20221220, Tue

 安楽死を僕は認めない立場にある。生命の終わりを個人の自由にしたいと思うけれども、それは安楽死という手段で唱えるべきものではないんじゃないかなあ。死ぬのなら自らの手のみで終わらせるべきであって、誰かの手を借りてしまったら個人の自由の範疇ではないだろう? 死刑制度にも安楽死にも反対なのは、それは誰かの手を汚さなくては成せない物事だから、だって死刑には執行者がいるように安楽死にもそれを行う医者がいる。簡単に身勝手な理由で他人に人生を奪わせて、それが本当に求めているものなのでしょうか? 人に人を殺めさせることを肯定している、そんな馬鹿げたことが当たり前のように掲げられるこの世の中は終わっているよ、狂気の坩堝だ。死にたい(苦痛から解放したい/させたい)ことにだけ目を奪われて、見せかけの自由の権利に惑わされて、他人が存在していることを忘れている。誰かに自殺をするなと言われ唯々諾々と従い、安楽死を認めろと愚痴をインターネットに投稿するくらいなら自分の身を岩礁に投げればいい、重力と海嘯に身を任せればいい。それが出来ない状況ならもうこの世を呪う他に術はないよ。

 

20221224, Sat

 キリストに思いを馳せた。

 

20221225, Sun

 Rainy Veil を聴きグリザイアの果実の記憶が蘇る。グリザイアシリーズはテレビアニメから入ったのだけれど、エンジェリック・ハゥルの衝撃は今も記憶に深く残っている。当時はエロゲが原作だとは知らなかった——というかもう8年も前のアニメなんですよね時間の経過は怖いなあ——だってそのころの僕はまだ高校生ですよ。嗚呼恐ろしきかな。

 アニメの衝撃があまりにも大き過ぎてPC版をプレイした時の記憶は薄い、天音√に至るまでの共通√が長かったのもそうだろうし、楽しみは後にとっておきたい性分のために最後に回してしまったのもあるのだろう、惜しいことをしたなあ、もっと早くにプレイして生々しい衝撃が欲しかったなあ。その点で言えばリアルタイムでアニメを追っていた時のわくわく感は忘れられない、毎週の楽しみであったし、だからこそ心を転落させる物語に酷く入り込んでいた。ああ、このような暗い物語を愉しんでしまうような青年だったんだね、僕は。

 

20221226, Mon

 愛とは何なのでしょう。僕は他人を愛したこともなければ愛されたこともないので分からないのです。性欲はあったとしてもセックスをしたいかと言えばそうではなく、愛が欲しいと思うけれども何が愛なのかが分からないでいるから、まるで星を掴もうとする気分なんです。愛について考えて物語を書いているけれど、書いている本人は分かっていないのだから困ったものだね、セックスしたことないのにその暖かさとか気持ち良さとか空隙を語って、愛について分かったふりをして、ああこれではガラスに水で絵を描いているようではないですか。でも分からないものは分からない、分からないから考える、それでいいのではないでしょうか。それでいいんだと言い聞かせてこんな風に文章を垂れ流して、全く僕というのは愚人です。傷付きたくないのに傷付けられたい破綻している僕はもう色々と分からなくなって、苦しい。苦しいから救って欲しい、救って欲しいけれど手を差し伸べられるのは嫌だと思う。振り払いたくなる。他人と接近することが恐ろしい。愛を知りたいのに知りたくない。無知のままで死にたくはないのに。