万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

『真昼の暗黒』プレイした(追記あり)

 タイトルの通り、隷蔵庫(Summertime)様の『真昼の暗黒』をプレイした。簡潔に述べるのならばプレイできて良かった。文章がとにかく佳い、ドロドロとしていて、陰鬱な感じがたまらなかった。一々描写が丁寧で、何箇所も唸る部分があった。例えば

団地も、遊歩道も、等間隔に植えられた銀杏の木も、あんず色に溶けている。

夏の夕日はいつだってむせかえるような情景を作り出す。

密かな嬉しいため息を、蝉の鳴き声がかき消した。

夏の前では、私の話す言葉は、全てぬるい空気の中に消えてしまう。

私たちの会話も暴力も争いも、全て夏の1日となって、

コンクリートに撒かれた水とともに蒸発してしまうのだ。 

これとか。好き。嫉妬するくらい。儚いメランコリックな夏の一日の終わりという感じがする。 他にも好きな文章はあったけれど、まあ書くのは面倒だし、そんな引用ばかりしていても意味がないと思うので、これで終わり。はい、次に行きましょう。

 演出もかなり佳かった、色々と書いてしまうとネタバレになってしまうから書かないのだけれど、小説ではなくてゲームとして成立しているのが流石だなあ、何故あのような文章や構成になっているのかが、まさしくゲームだからこそできる表現って感じ。ひえー、よくフリーでこれ公開しているよね、完成させるまでの熱量を思うと目眩がする、僕だったら絶対にできないよね、ただただ圧倒されてた。

 あ、こういう作品にありがちなのだけれど(批判じゃない)(というか僕もそうだし)猫、殺してしまうよね。なんでだろうね、猫って作中で殺しやすいのは。そういうシーンを書くと悲しくなって、苦しくなって、ああ、なんで僕は作中だからと言っても猫を殺してしまったんだ! ごめんよ、本当はそんなつもりはなかったんだ、ごめん、ごめんなさい……ってなる。読んでても、そう。やっぱり辛くなる。僕はもう死んでしまったけれどペットを飼っていたから生き物に対する思い入れはかなりあるためなのかなあ、でも作中では猫を殺しました。ごめんなさい。で、なんで猫を殺してしまうかだったよね、僕が思うに犬よりも猫のほうが(人から離れたものとして)独立した生々しい生命としてありふれているから殺すんじゃないかなあ。生き物ってさ、気持ち悪いじゃん、可愛い可愛いと表象では思うけど、やっぱりどこか不気味で、自分とは別の存在で、無機物とは違って生きている、それで完全には受け入れられないんだよ。猫に限ったことじゃない、人間だってそうだ。他人が生きている、気持ち悪い。でも僕たちって他者がないと存在できないから、そう思うと自分って、生きてるのって、悍ましいよね。吐き気がする。実際には吐いていないけれど、心の中でげえげえ吐いて、喉の粘膜が爛れているんだ。この『真昼の暗黒』もなんだかそんな感じがする。血と、死体と、精液が入り混じった臭いがしているけれど、その奥に吐いた後の饐えた臭いがするんだ。

 物語の登場人物が皆、過去も性格も屈折し過ぎてて、ああやっぱりこの作者歪んでいるなあ(褒め言葉です)、と思った。人のことを言えない? 煩い、黙れ。で、別にこのブログで考察もネタバレするつもりも毛頭ないので、あまり書けないのだけれど、計の性格がかなり好きだった(ミサもだけど)。仮面を貼り付けて、他人の好奇の視線を飄々と躱す感じとか、仮面の下で常に思考していて、毒を吐いて、でもそれを決して表には出さないあの性格。実際にいるよね、ああいった人。僕も昔あったことがある、小学校の先生で、いつも真面目そうな顔をしていて、給食の時なんかは生徒と笑い合っているのだけれど、眼は笑っていなくて、それにしては周囲の人間に慕われていて、でもやっぱり空恐ろしくて、教室を出る一瞬に見せる真顔が凍てついていたあの人。名前は忘れてしまったけれど、僕はあの先生が嫌いだった。特に最悪だったのは家庭訪問で、僕の壊れやすい部分を見通された気がして恥ずかしかった、きっとあの仮面の下で嘲笑しているのだと思った。閑話休題。計で好きだったシーンは弱い部分を晒して、喘いでいるところ。自分の趣味に没頭して盲目的に愛しているところも佳かったけれど、やっぱり弱い部分を見せるのが一番よね、と僕は思った。……文章が滅茶苦茶なのは目を瞑って下さい、今はあまり頭が働かないんです。

 文章と言えば、作者さんかなりの本を読んでいるのだろうなあ、と思った。矍鑠とか普通使わないし……。あと、ヘリンボーンのリンネル(作中は漢字表記だっけ、忘れた)で聖骸布を表現しているところとか知識の深さに驚いた。語彙が豊富だからというのもあるのだろうね、鋭い比喩表現が読んでいて心地よかった。文章が巧いと読んでいて飽きない、内容が佳くても文章が悪いと読み続けるのが苦痛だったりするから、その点『真昼の暗黒』は読んでいて爽快感があった、内容は爽快とは言い難いけれども。小説を読んだ時みたいな読後感で、今もロキソニン飲んだ後みたいな余韻の中にいる。

 

 短いけれど、ここで終わりにしとく。追記するかもしれないけれど、その時はその時ということで。

 本当に佳い体験だった、読んで下さい。

freegame-mugen.jp

 

(2019/06/14 追記)

 

ここからはネタバレ込みで綴っていく。

 計と深沙の関係性がなんだか僕には『虐げられた人々』のワーニャとネリーを彷彿とさせてくれて、こういうのいいなあって、共依存というのかな、でも少し違うか、名前のない関係性。計は深沙が居なくても成立するのだろうし、深沙は……どうなのかな、計が居なければ成立しないと思うのだけれど(でも確実に駄目な方へ向かっているのだろう)、計が居なくなればそれはそれで破滅しそうな臭いがする。どこまでも終わった人間って感じで最高よね、人生が詰んでいる人間は救いを求めて突拍子もないことを行いそうだし、深沙からはひしひしとそれが伝わってきた。埃っぽくて暗くて狭いアパートの一室で、自分を慰めて、嫌悪して、でも計に捨てられたくないから泣いて、しかし計は自分の人生を滅茶苦茶に破壊した人だから憎悪しなければならない、しかし姉を殺されても自分の深い部分には響かなかったような子供であった深沙にとって今の計は(姉や友人を殺したという自己に深く関係する側面が大いにあるのだろう)(ある意味では唯一の理解者)姉以上に大切な存在となっていた、いや、深い部分に響いてなかったというのは嘘なのだろうね、ただ鍵をかけて深い部分に過去を眠らせていただけなんだ。あるいは死体として聖骸布を被せて記憶の川に沈めたとでも言おうか。斜に構えた可愛くない小学生だったミサにとって人生を巧く生きる方法は、人生をわかったふりをして、直接的な苦痛から逃れることだったのだけれど、姉の死や穣介の失踪を期に「私は捨てられた」とどこかで思ってしまった、でもやっぱりそれは受け入れきることの出来ない事柄だったから、深沙はミサとして過去を封じ込めた。ずるずると成人するまで計と不安定な関係性を保ちつつ生きてしまった深沙はもう正常な生き方というものが分からない。この関係性は駄目なのは頭では分かっている、でもそれを今更変えろって土台無理な話じゃない? だからせめて自分を変えようと、手記を綴っていた。幼少期のミサに戻って、過去を、あの自分のすべてを変えてしまった事件について書いていた。でもそれは過去に眠らせた記憶を引きずり出す行為で、傷口を抉って白い神経を取り出すような苦痛を伴うものだったから、混乱してしまい、徐々に深沙は自分が深沙なのかミサなのか分からなくなる、11歳、今度はちゃんと言えた。計もそのことは薄々と感づいていて、やがて深沙のミサとの決別の儀と共にそれは判明するのだけれど、計はそのこと(つまり深沙が告発文を書いていたこと)に関して発表するかは深沙に任せると言う。僕は計が惰性で生きていたからそう言ったのだと思った。計にとって生きることは屍姦することで、しかし年を経るごとに屍姦をする頻度は減少していった(あれ、そうだっけ、記憶が朧気で曖昧だ)、それが意味しているのは生きることへの執着が失くなってしまったからなんじゃないかなあ、でも計が本当に求めていたのは特殊EDや計の過去で語られるマゾヒズムへの傾倒、自分が虐げられることであって、僕が思うに計は生きた死人であったからそもそも生きることへの執着はなかった。計は暑い日だったという理由で(異邦人みたいよね)事件を起こすような少年であったから、僕はそんな論理が飛躍している計の気持ちなんてものは分からない、きっと深沙を引き取ったのだって論理が飛躍していたからだったのだろうなあ、明確な理由なんてものはなく、ただ漠然と引き取ってもいいか、というような理由だったのだと思う。……ああ、もう滅茶苦茶だよ、日を開けて書いているから文章の前後関係がわからなくなっている。とにかく僕が言いたかったのは、計と深沙の関係は最低で最高の関係だったということだ。