万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

信憑性皆無のリークに踊らされて

 どこぞのリーク情報でCyberpunk2077の発売日が11月9日だと書いてあるのを見たのだけれど、それってDEATH STRANDINGと一日違いじゃないですか、やだー。両方とも楽しみにしてるゲームだから購入は確定しているのだけれど、同時にプレイするなんて芸当は出来ないわけで、どちらかを先にプレイするしか無い、するとプレイ出来てない方の情報がネット上に溢れるわけで、無垢なままでプレイしたい僕はどうすれば良いのだろうか。ネットから離れる? 馬鹿言ってはいけないよ、僕みたいな依存症の人間が簡単にやめられるわけないじゃないか。

 とまあ、こんな感じで不確かなリーク情報で悩んでいる僕なのだけれど、それ以上に今書いている新作の展開で悩んでいたりする。困ったものだよ、僕の作品であるというのに、登場人物は勝手に暴走して喋りまくるし、僕の制御下からすっかり離れてしまっている。そもそもプロットを書いていないことが駄目なんだろうね、でも僕はプロットを書いてもその通りに進行した試しがないから結局は好きなように書いて、神(信じてないけれど)とか無意識とかいうものが勝手に辻褄を合わせてくれるのを待っているのだ。実際、書いていて意識していないのに物語が繋がることなんてよくあるわけで、自分でも驚く。彼女の行動理由の裏にこんな思惑があったのか、みたいな感じにね。たぶん僕の頭の中の世界で彼ら登場人物は生きているんだろうね、生きているから勝手に行動するし、行動原理がはっきりしている。僕は外部出力装置にほかならないのだろうか 。でも外部出力装置だからといって悲観する必要はないのだ! だって頭の中でどれだけ世界や言葉で溢れていてもそれを取捨選択するのは僕の役割であって、僕の責任であるのだから。ところで僕がブログを書いているのは何故なのだろうかと思ったのだけれど、それって僕自身の怨嗟を吐き出すためでもあるし、またこの世界の片隅にひっそりと生きる、息苦しさを抱えた人に辛いのは自分だけじゃないんだと少しでも元気になって欲しいからなのだと思うのだよね、たまに綺麗事を並べたりするのはきっとそういう理由があるんだよ。でも実際のところ自分でも自分のことはよく分からない。何のために生きているか分からない、なんて言ってしまえば青年期特有のメランコリックな感傷だと、一笑に付されてしまうかもしれないけれど、本当のことなんだから仕方がないじゃないか。君たちだってどうして自分が生きているのかはっきりと述べることができるのかしらん? どうせ深いところを覗いてみれば何にもなくて、曖昧に笑うくらいしか出来ないんだよ。夢を持っている人はいると思うけれど、でも夢に到達したらどうするの? 夢って山の頂上だよね、山の頂上からの眺望はそりゃあ素晴らしく美しいものだとは思うけれど、山の上って空気が薄いし、生活できる環境を整える事もできないから一瞬しかいられない。下るしか無いんだ。下った後どう生きるかなんだろうね。別に夢を持つなと言いたいわけではないよ、僕だって自分に対して理不尽な期待をし、夢を見ているからね。だって僕はどこまでいっても僕自身なのだから僕を連れて生きていくしかなくて、でも生きていくには少なくとも目標というものが必要であり、じゃないと歩みを止めてしまう。僕は精一杯に生きて、後ろを振り返ってああ、でっかい山だったなあ、これを僕は登ったのか、と感傷に浸りたいんだ。そしてそこらへんで野垂れ死にたい、カラスとか野良犬だとかに死体を食われてしまい、そのまま消えてしまいたい。老後身体が動かせなくなって、家族や友人に看取られて逝くのは絶対に嫌だね、僕は酷く傲慢な性格だから自分の弱っている部分を親しい他人に見せたくないんだよ。自分が格好いいという幻想に抱かれたままに死にたいと思うのは不思議な事だろうか? そうだよ、僕はニヒリストで、ナルシストで、破滅願望のあるどうしようもない人間なんだ。性根が腐っている。それがいけないことだとは自分でも分かるよ、分かるんだ、でも理性で理解していても、それをやめれる気はしない、僕の無意識の部分がね、耳元で囁くんだよ、いけないことといってもそれは他人の意見であり、それがどれほど正しいことなのかは誰にもわからないって。そうだよ、正しさなんてものはまやかしに過ぎないんだ! 僕が今ここで自殺したとしよう、それはいけないことなのでしょうか? キリスト教的にはいけないことだし、多分世間一般でも自殺は悪とされている。最近あったよね、電車に飛び込もうとした少女を助けた青年が称賛されているというニュースが。なんだか少女の意志を尊重しろ(意訳)と非難していた人がいたけれど、多分、いやきっと彼の行動は正しいし、僕だってあの青年と同じ状況に立たされたのならば自殺しようとしていた少女を助けると思うよ、だって目の前で人に死なれるのは嫌なことだからね。人には人固有の正しさがあって、しかしそれは常に変化し続ける。僕がもし青年のような当事者ではなければ少女が自殺しようがしまいが関係ない、むしろ自殺したとしても彼女は自分の正しさの中で死んだのだろうなあ、と肯定的な意見を持つよ。

 こうして無意味な文章を綴っていると悲しくなってくるよね、無意味といえば嘘を吐くことって限りなく無意味だよね、まあ嘘を吐くことで保身となることがあるのは確かなことだけれど、もしも嘘が暴かれてしまった時のことを考えるとあまりにもリスキーな行為だ。こう言っている僕が言うのもなんだけれど、僕は結構嘘を吐くタイプの人間だし、虚言癖とまではいかないまでも自分を大きく見せるために、あるいは構ってもらうために嘘を平然と吐く。いや、平然とはしていないか。嘘を吐く時は過去の発言と矛盾がないかよく考え、暴かれた時のデメリットと今得られるメリットとを天秤にかけて嘘を吐いているからね、そこのところオオカミ少年とは嘘の質が違うよ。オオカミ少年、それは誰もが知っているお話だと思うのだけれど、たまにね、考えてしまうんだよ、オオカミ少年の心ってやつを。彼は自分が構ってもらうために、信用してもらえなくなるまで嘘を吐き続けた。何が彼をそうさせたのだろうか。僕は思うんだ、彼の幼少期は凄惨なものだったんじゃないかって、ネグレクトされていたんだと思うよ。親からの愛を貰えなかった少年は、少しでも構ってもらうためにことを大きく騒いだり、嘘泣きをしたんだ。そうすると愛がなくとも少しは構ってもらえる。そのことが少年のことを大きく歪めた。少年は常に孤独だったんだよ、少しでも孤独を紛らわそうと嘘を吐いて、構ってもらい、しかし充たされない。自分が欲しかったものは愛だったのに、嘘を吐いて得られるのは愛ではなかった。でも少年はそんなことに気が付かないわけだから、充たされるために嘘を吐き続ける。やがて信用されなくなって、誰にも構ってもらえなくなって、最期にはオオカミに食べられる。オオカミに食べられる前の少年は激しく後悔し、痛切な悲鳴を上げたと思うけれど、ある意味で幸福だったと思うんだ。嘘が本当になって、良かったなあって。嘘を吐いていた自分から開放されたのだから。でも少年がもし僕が邪推したように家庭に問題があったとしても、オオカミに食べられたことは自業自得なんだよね。眼の前にオオカミがいる、でも誰も信用してくれない、どうしてだ、それは僕が嘘を吐いたからだ、ああどうして僕は嘘を吐いてしまったのだろうか、僕はオオカミに食べられて死ぬ、誰か助けてくれないか、同情してくれないか、この不幸な僕を、誰か、助けておくれ! 叫びは誰にも届かない、それは彼が信用を失くしてしまったから。きっと少年オオカミに生きたまま喰われ、壮絶に死んだことだろう。嘘を吐いた自分を呪ったことだろう。でも既に遅いのだ。嘘付きである少年の言葉はあまりにも小さすぎた。世の中、声というものは大きくなければ届くことがない、嘘を吐いてもそれが大きければ影響を与える。真偽なんてものは関係ないよ、大きさだけが全てだ。だから部屋の隅で縮こまって、ブルブルと震えていてもなんにも変化しないよ、我慢したところで世の中は変化しない、たとえ偽りで塗り固められていたとしても声の大きな人の意見が通るのだ。つまり選挙には行きましょう。

 久し振り(実にひと月ぶり)のブログの更新ということもあってかいつもの二倍くらいの文量になっていることに気がついた。この文量を今書いている作品に回すことが出来たら良いのに。絶賛筆は止まっている。現在75,000字。今書いている話だけれど、春を売っている女と自閉症の義妹とのハートフル?ストーリーなんだよね、でも妹があまり話せないから会話でなかなか話が進まない。難しい。だからホテルでの話を軸に物語を進めている。……人と人が触れ合う時、互いの人生の断片が触れ合い、音を立てる。すると意図しなくとも物語が生まれる、そういう話を書いていきたい。内面に問題を抱えた人々が一瞬限りの関係だからこそ吐き出せるドラマを通して、主人公が本当の自分に気付いていく物語を。

 ……今思いついたけれど、タイトルは『ドッペルゲンガーの子供(仮)』にでもしようかな。

 

追記(2019/6/10)

 Cyberpunk2077の発売日が4月16日でしたね。杞憂に終わってよかった。