万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

瞬間の暫定措置と墓

 なんか色々と駄目になってしまったので『慈愛と祈り』のDL販売を停止した。どうせ誰も手に取らないからどうでもいいと思うんですけどね。日に日に憂鬱が酷くなり、不眠からくる眠気が取れず、常に疲労困憊で頭痛と吐き気がする。生きていることを身体に拒否されているみたいだ、僕が僕のことを拒否してしまったらそれはもう終わりではないかしらん。どうしてこうも苦痛ばかりが続くのだろう、これは避けることができないのだろうか、もしも生きているだけで避けがたい苦しみについて回られるような人生だとすれば、そんな人生にしがみつく価値なんてあるのだろうか。多分無いのだろう、畢竟価値なんてものは見せかけの、砂上の楼閣のようなもので、あるように感じる、けれど本来は存在しないものだから。苦しい、苦しいとのたうちまわりながら生と死の壁にぶつかってしまい、混乱する。死にたくはない、されど生きていける気がしない。

 こんな行き場のなさの中では不安ばかりがぶくぶくと太り、何もかもが嫌になってしまって、もうどうしようもなくなってしまう。カフェイン錠で眠気を、ロキソニンで頭痛を誤魔化し、なんとか生きていく日々を続け、こんな薬漬けの無感覚の中で脳はこんなのは間違っていると呻き、声は頭蓋の空洞でこだまし、音楽だけがそれを紛らわしてくれるからとヘッドホンを付けてその声をぼかし、思考や意思を騙しながら空想に逃げて、もうたくさんだと声が大きくなるのを無視して、こんなものは瞬間の暫定措置でしかないことは分かりきっているけれど、それでもどうしようもないのだからと音楽のボリュームを上げ、あらゆる物事を音の向こうへと遠ざけ、自分を緩和しながらしかし声は消えてくれない。こんな生き方でいいのだろうか、こんな生き方しかできないのであれば、それは自殺と比べてどれほどまともに見えるのだろうか、こんな自分でも認めてあげなければならないのだろうか、愛してやらなければならないのだろうか、自分を愛する、それはとても正しいことのような気がするけれど、違和感を抱く自分がいる。もしも愛そうとして、しかし愛することができないのであれば、自分を愛さないことを肯定してやらなければ生きていけないだろう。生きる生きるってうるせえなあ、そんなに僕は生きたいのか? 生きたいのだ。だけどその方法が分からないのだ。何もかもが不明で、暗さばかりに惹きつけられるけれど、だからこそ生きてやる、という意志の力が必要なんだろうなあ、そうでもしないと落ちてしまうんだろうなあ。

 不意に思ったけれど、僕は彼女が欲しいのではなくて、適度に温かい、時には依存させてくれる相手を欲しているのだろう。自分だけでは抱えきれなくなったものを共有しなくてもいい、相手がいるという現実が負担してくれているという幻想さえ作り出してくれればそれで大丈夫な気がする。僕が昔彼女を作った時、僕はその人を好きだったから付き合ってほしいと言ったのではなく、ただ彼女という存在が欲しかったから告白したのだった。帰り道に、ただ何となく彼女が欲しいと思って、僕は〇〇のことが好きなんだと言った。彼女は驚いて、目を丸くしていたけれど本当に人の目というのは丸くなるもんだなあ、その目がなぜだか面白くて薄くだけど笑ってしまった。彼女と一回デートしたきり興味が薄れていったのは彼女としたいイベントを終わらせてしまったからなのだろう。そういえば未だに僕はキスをしたことがない、セックスもいわずもがな。当時はキスとかそういう性的なことにあまり魅力を感じていなかったのかもしれない、あるいはその彼女とはデートが僕の求める関係の上限で、それ以上を求めるつもりはなかったのかもしれない。今となっては当時の自分の気持は分からないけれど、クリスマスですら彼女から誘われないと出かけなかったのだから相当冷えていたのだろう。

 自分の酷い行いに嫌気が差す。本当に生きていてごめんなさいと、地に額を擦り付けで五体投地したい気分になる。こんな屑は生きている価値がないのです! 僕は女性の敵です! ろくな死に方をしないんだろうなあ、例えば心臓麻痺で自分でも知らないうちに死んでしまう、あるいは慣れない酒を飲んで気を失って頭を強く打ってそのまま死んでしまう、とか、あまりにもだらしない死に方。でもそれってなんかいいかもしれない、僕らしくないですか、何にも役に立たない、他人を不幸せにしてしまう僕にはぴったりでは? だらしなく死んだ僕は、ゴミ捨て場にだらしなく放置され、だらしなくゴミ処理場で焼かれるんですよ、火葬場なんて似合わない、ゴミと一緒の方が似合ってると思いませんか? ゴミと一緒に皮膚を糜爛させて、灰となるんです! 灰になれたら海に撒いてほしいなあ、海流とともに世界を旅したいなあ、というか墓って意味あるんですかね。僕には全く良さがわかんないんですよ、骨の上に夏になれば恐ろしく熱くなるギラギラに磨かれた石を乗せて、なんですか、鉄板ならぬ石板焼きでもするんですか、死者を弔うふりをしながらバーベキューパーティーですか、でもそれって一石二鳥かもしれない、故人を悼みながらもパーティーができるなんて、いっそのこと墓場をバーベキュー場に変えるのはどうでしょうか、いい考えだと思います。墓の存在意義が後世に自分の存在を後を刻むことだとしてもですよ、自分の名前を刻んだところで百年もすれば顔を覚えている人なんていないわけで、名前はただの識別記号と化し、そもそもの話、死んでしまったら当の本人は墓を見ることもできないわけで、自己満足にしたって無意味すぎやしないだろうか。本当に理解できないなあ、それに死んでまで名前を晒されるのって屈辱的だったりしませんか?

 こう思ってしまうのは僕が卑屈だからなのだろうか、まともではないからなのだろうか、でも墓なんかにこだわる姿がまともだとすれば、僕はまともでいたくはないなあ。屑として立派な星となって輝いていたいなあ、命を燃やして、消えていきたいなあ。