万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

睦月の言葉

20230105, Thu

 年が新たになったということで月毎の日記のタイトルを少し変えた。これを始めたのは昨年の五月だったけれど、このまま書き続けていたら同じタイトルの記事が生まれてしまうということでこの形に。しかし僕はこのまま日記を書き続けるのでしょうか、当初はあまり長続きしないものと思っていたし、飽き性なので半年以上続いていることが驚くべきことなのだけれど僕はいつまで続ける気なんだ? 自分でも分からない。文章を書く練習、あるいは内面の言語化のために行っていることだけれどそれよりも作品の続きを書けと言いたいね、こんなところで文章を書いている間にも時間は進むし、一度進んでしまった時間は取り戻せないんだ。しかし何もせずに音楽の世界に浸っている時よりは遥かに有意義だろうしこのまま続けても良いかも知れないね。そう思ってタイトルを変えたのでしょう? でも前の方が好きだったなあという部分もあるのでもしかしたらまた変えるかもしれません。軸がぶれぶれの人間なもので。それが性というやつなもので。

 今年もよろしくお願いします。この独り言はまだ続けていくだろうし、また今年こそ新作を出しますので。あと今年はもう少し作品のレビュー記事を書きたいなあ。僕は感想を書く事に苦手意識を持っているので(読書感想文の類いが大の苦手な人間なので)中々筆を執れないのだけれど、それを克服するのも兼ねて今年は隔月でなにか書ければいいですね。少なくとも二本は書きたいと思います(でも余程の傑作でもない限りエロ同人作品はDLsiteの方に書きます)。僕の感想を読みたい作品があれば言って下さい。

 

20230106, Fri

 ペーペルコルンの死の場面が好きだ。ペーペルコルンの死体は身体こそ青黒く変色していたもののまるで生命が瞬間的に停止してしまったかのように生々しく不自然さを保っていた。彼は自らに非常に強い毒を打ち、(恐らく)苦しまずに死んだと思われる。それでもまるで何かを言い残そうとしたかのように薄く開いた唇からは苦悶が見て取れてる。そこから吐き出されるはずだった言葉(感情?)は一体?

 

20230109, Mon

 弔うという行為の必要性ついて考えたけれど、やはりピンと来なかった。生き物が生命活動を停止した時点でそれはモノなのだから墓に埋めようが焼却炉で燃やそうが同じで、弔いの念は死んだモノに届かず、ただ生者の領域で漂うだけ。酷い自己満足もあったものだ。可愛がっていたペットが、親愛の祖父が亡くなった時だって弔いの気持ちからは遠かったし、そのことで他人に引かれたとしても分からないものは分からない。理解しようとしたけれど、でも皆がそうしているからそうすべきという姿勢ということ以上のことは不明です。

 

20230110, Tue

 ハンスヨナスの責任という原理とアウシュビッツ以後の神、復刊してくれないかなあ。あとクルトルドルフのグノーシスも。

 

20230111, Wed

 僕は人に好意を向けられることに慣れていないのだと今になって思う。自分が空っぽな人間なのだと改めて思う。愛が欲しいとよく書くけれど、その実僕は他人に感情を向けられることが苦手で——向けることもそうだ——、こんな僕がどうして人から愛されようとしているのか、滑稽だね。だらか恋愛において相手が自分に興味があると分かった瞬間に醒めてしまう、止めてくれと思う、僕にはそんな価値がないんだよだから分かったならその感情を向けないでくれ。そして遠ざけてしまう。僕は一方的でありたい。ひとつのベクトルでありたい。愛玩動物に一方通行の愛情を注ぐように、人間にも同じように接したい。だって感情は暴力なのだから自分に向けられれば傷付いてしまうでしょう? 僕は傷付けたいし、傷付けられたい、けれども感じてしまうことは苦手でどうして忌避してしまう。矛盾しているのは重々承知で、身に沁みて理解している、でも変わらない、変えられない。僕は空虚なままだから。ある人に大学の頃やんちゃしなかったのかと聞かれた、やんちゃとは何を指すのか分からなかった。未成年で酒を飲むことですか? 身体に塞がらない穴を空け、消えない色をいれることでしょうか? それとも徹夜して遊び回ることですか? そもそも遊びも分からない。自分は昔から他人と遊ぶことが少なかったし、それはどこへ行ってもそうであったから結局今まで遊びらしい遊びといえばゲームセンターに行くことくらいのものだった——ああ小さな頃は指人形でごっこ遊びをしていたっけ。感受性が乏しいので楽しいことが分からぬまま生きてきた。アルコールで楽しい気持ちを感じたこともないし、賭博も熱を与えてくれないし、性欲も自分の管理下にある。楽しいがない。ある人に時には自分にご褒美をあげたくなるでしょうと聞かれた。よく分からなかった。自分を他人として見て頑張っていると感心して、だとしてもわざわざ何かを与えたくなるものなのでしょうか。欲しい物は欲しい、不要な物は不要、それ以上でもそれ以下でもなくて、欲しいなら言い訳をせずに買えばいいのではないですか。わざわざご褒美という大仰な名前で呼ぶ理由が分からない。褒美にする意味が理解できない。その人とはついぞ話が合わなかった。昔からすれ違いの多い人生であった。昔に付き合っていた人間には何を考えているのか分からないと言われたこともあった。ケンカ別れをしたことはないけれど、ケンカするほど親密になった経験が乏しかった。いつだって他人とは一線を引いてしまい、好意を、感情を拒絶してしまった。線を踏み越えてくれる人物を待ち望み、渡る素振りを見せればその姿を見て愉悦に浸り、しかし足が少しでもこちらに入ってくれば蹴落としてしまい、その落下する瞬間をみてまた愉悦に浸るような人生。終わっている。自分のことをどうでもいいと思っているから、他人にプレゼントを与えること(=自分を削ること)に躊躇がなく——たまに話す程度の顔見知りの異性にプレゼントが欲しいと言われた、それだけの理由でプレゼントを買い与えたこともあった——、しかし与えられること——彼女のお礼と称したクッキーが硬くて不味かったことは覚えている——には戸惑いを覚える。なんて不器用な人間なのだろう。介在する好意は無視してどうでもいいクッキーの味ばかり覚えているだなんて最低の人間だ。ああ、変わりたい。larvaからへpupa、pupaからimagoへの変態を望むが出来ず、まるで遺伝子が欠落しているかのよう、殻だけになった永遠の蛹。

 

20230112, Thu

 タイパ(タイムパフォーマンス)という概念が嫌いだ。その概念を初めて知った時酷く驚いた、趣味にまで時間効率を求める人間がいることが理解できなかった。効率的にエンタメを摂取して自分を満たそうとするそのさまはまるでフォアグラのガチョウではないか。人によっては動画や映画を倍速で視聴するらしい、読書もするが基本は本屋大賞などの話題になったものだけ、そんな氾濫する情報の快楽の上澄みを出来るだけ得ようとする傲慢さには醜さすら感じるね。富栄養化した情報の海の中でも慎ましく生きていければいいのにね。生き急いで、何がしたいのだろうね。少しも生産的でないのに、浪費ばかりして、つまらない人生ではないのかね。

 

20230115, Sun

 アポローン的なものとディオニューソス的なものについて考えていた。与える者と受け取る者、芸術的なものと音楽的なもの、散種する者と懐妊する者、夢と陶酔……

 

20230118, Wed

 書いては消して、書いては消してを繰り返し、僕の中にある言葉を引っ張り出そうとしているけれどなにもなくて、まるで泥の中を引っ掻き回しているみたいだ。川の砂から砂金を探し出すように、自分の中に見える煌めきや結晶を探してみてはいるのだけれど、見つからない。無尽蔵に声が湧き出てくることなんて今も昔もなかったし、いつだって苦しみを感じながら言葉を発してはいるけれど、遂に取り尽くしてしまったのか? そもそも僕に主張したいことがあるのかも分からなくなってきた。思考が空転し、内側に内側にと巻かれて出来た隙間には何も残っておらず、ああなんて虚無なのでしょう。僕は今日も何も成せない。

 

20230119, Thu

 泣けるほど何かに没頭できる人が羨ましい。人生の一瞬でもいいから完全に捧げる瞬間を感じたい。

 

20230122, Sun

 先日、かがみの孤城を観てきた。原作小説は読んでいないのだけれど教育的なニュアンスがこの歳になるとなんだか新鮮で、様々な問題を抱えた子供たちが現実に向き合おうとする過程が素晴らしかった。前半と後半の展開のスピード感に差があって追いつきにくい所もあったけれどこれはやっぱり原作が小説だからなのかなあ、終盤の怒濤の伏線回収も文章だともう少しゆっくり咀嚼できたのだろうね。映画のターゲット層は登場人物と同じ中学生くらいのちょうど思春期で自分に向けられる感情をより明確に受容できるようになってしまった多感な時期の子供かな。自分の感情の制御も、吐露の仕方もまだ分からない不器用な子供たち。感情や人と向き合って、言葉にして、観照して、かがみの外に踏み出せるようこの映画は背を押してくれるのかしらね。

 

20230125, Wed

 ツェランの詩を読むと感覚の内側に入り込んでくるような錯覚を覚える。

かつて、死は大繁盛だった、

お前は僕のなかに隠れた。

パウル・ツェラン全詩集Ⅱ 430p (かつて)

 内臓が収縮するような、皮膚を裏側から捲られるような、不快未満の奇妙な感じがぬるま湯のように広がる心地よさ。このような詩を書く作家を僕は彼以外に知らない。

 ボードレールパステルナークはもっと感覚的に訴えるし、クァジーモドやウンガレッティの暴力が変質して言葉になったかのような文章もやはり感覚に訴える。だから彼らの詩は分かりやすくてすっと入り込んでくる。ディキンスンの詩の臨在感とも違くて——ツェランとディキンスンはかなり方向性が似ているように思う——、そこに在ることへの目線ではなくて、そこにあったことを知る驚愕の感情、まるで体内に水が巡っていることを知るかのような、愛が内側に広がるような暖かくて冷たい不可思議な感覚。

誰にも頬寄せず——

お前に、生よ。

お前に、手の断端で

見つけられたものよ。

(中略)

お前たちを見つめていた

最後の語は

いまは自身のもとにあり そしてありつづけるがよい。

 パウル・ツェラン全詩集Ⅰ 418p (誰にも頬寄せず)

 

20230129, Sun

 キリスト教の隣人愛の思想は僕にとって好ましいけれど、だからといって信仰することはできないんだ。あなたは僕にとってあまりに遠く、近く、難しく、易しく、厳しく、優しいから。

 

20230130, Mon

 今月はそれなりに新作のシナリオが進んだと思う。あと三万字も書けば初稿完成じゃないかな。