万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

暑いから気分が滅入るんだと思ったんですが

 気分が逼塞しているのは夏の暑さのせいだろう、なんて思っていたのだけれど、しかし僕は日がな一日クーラーの効いた部屋に蟄居しているのだから暑さとは無関係なのであり、この裡で蠢く暗くて冷たくてドロドロとした鬱屈した感情は生来のものなのかもしれないと思うと怖くなり、怖くなるから不安で更に寂寥が胸を領すわけですが、だからといって逃げ道があるわけでもなく、いや、逃げ道はアルコール――僕は飲めないですが――やソラナックス向精神薬)があるわけで、でもそれを逃げ道にしたところで袋小路のような気がしますから、逃げ道とは見做さないので、さて僕はどうすればいいのかわからなくなるのです。生きているだけで苦しいのはきっと誰もが感じていることなのでいまさら、という感じですけれど、でも苦しいものは苦しいわけで、なにか僕のことを救ってくれるものはないかと心の暗渠の中を覗き込んでみたところでやはりそこには救いなんてものはなく、であれば空を見上げればいいと思い、見上げてみても見えるものと言えば重く垂れ込める鈍色の雲でありまして、ああ、僕の裡には救いなんてものは無いのだなあ、と半ばあきらめているところです。とまあこんな暗いことをうだうだと書いている僕だけれど、なんだかんだで明日は誕生日なんですよね、しかし誕生日といえこの歳になってくると特別感なんてものが稀薄で、ああまた歳を経てしまったなあ、と感慨に耽ることしかできないのであります。昔は誕生日で喜んでいたのだけれど、そんなのは本当に遠い昔で、今はまったく喜べないのは歳のせいか、はたまた僕の精神衛生が頗る悪いせいなのか。まあそんなことわかりっこねーですけど。誕生日なのだからもう少し喜ぶべきなのでしょうね、きっと周りもそう望んでいます。誕生日を期に未来に視線を据えて、人生に腰を据えて、これからの輝く未来に陶然とすべきなんです、しかし僕に見える未来なんてものはオニキスのような昏い輝きであって、どうもダイヤモンドのように鋭く、鮮明に輝いてくれるわけではなさそうです。いや、輝きを昏いと表現してしまうのが駄目なのでしょう、もっと明るく表現しなければなりません、でないと更に更に昏い方へ思考が靡いてしまいます。幼い頃、ピカチュウの誕生日ケーキで大喜びしていた頃の僕は、ああどれほど人間的であったか、それに比べて今の僕は希望なんてものがなく、後ろ向きで、まるで生気が感じられない……非人間的、あまりにも非人間的ではありませんか? ニーチェは感情は気まぐれだと言っていましたけれど、僕の感情ももう少し気まぐれになって明るくなってくれませんかね、僕は笑って生きたいんです。何も考えずに、ただ享楽の内に肯定したいんです。さあさあ、行動を起こそうではありませんか。今、直ぐに! たとえば、そう……小説でも書きましょう。しかし行動は約束できても感情は約束できない! ああ、そうですよ、全くに正しいことです。たとえ行動を約束したところで感情が変わってしまえば行動までも変化してしまう、常に揺らいでいるんです、だから行動を約束したところで、感情によっては約束は反故となってしまう。感情を制御することさえできれば……しかしそんなことは無理だ、神様でもないのに。あるいはロボトミー手術でもすれば感情を制御する必要がなくなるかもしれないが、しかしそれは感情を喪うことだから制御とは程遠い。

 今はサーキュレータが必死こいて僕のことを冷やそうと羽をぶんぶん回している。でも眼が乾燥するから、サーキュレータが僕になにか恨みを抱いているのではないかと思ってしまう。そんなことはないはずなのに。アニミズムに毒されて、サーキュレータにまで魂が宿っていると思っているのだろうか、たしかにサーキュレータは夏場しか働かないし――しかも酷使している――、冬場なんて押入れの中でホコリを被っているので恨まれても仕方がないと思うが、だからといってサーキュレータにまで気を使うのはどうかと思う。眼球が乾燥したので目薬を挿す、ロート製薬の少し高いやつ。高いだけあって効果は凄く佳いので重宝している。目に染みる感覚が爽快で、もはや手放せない存在となっている。ありがとう、ロート製薬。そういえばロート製薬の公式VTuberがいたけれど、彼女の動画は最初の数本だけ見て残りは見ていない。今も活動しているのだろうか、企業のVといえばサントリーにもいたけれど、サントリーのはロートの彼女とは違い随分積極的に活動しているように思う、動画は見たことがないけれど。ロートの方が先に活動を始めたというのに、サントリーの方が知名度も登録者数も上なのだから世知辛い。VTuberは前はよく見ていた――ハニスト(蒼月エリ)がほとんどだったが――のだけれど最近はあまり見ていない。というのも蒼月エリが引退して、それでハニストの配信を見るのが辛くなったからである。しかし今でも切り抜き程度なら見る。それでも配信自体を見ることはもうなくなってしまった……いや、周防パトラのASMRなら見たか。見る、というよりも聴くだけれど。ASMRは不眠症にもってこいと言いたいところだけれど、僕がおすすめするならASMRよりも音楽だなあ、ジャズとか結構寝れると思う(当社比)。僕が最近良く聴いているのはブラッドメルドーだけれど、彼は天才だと、いつ聴いても思う。

 そういえばコミケが開催されていますね、僕はサークル参加を二年前に一度したきり一般参加しかしていないのだけれど(サークルが崩壊したから)、そろそろサークル参加したいなあ、と思った。思ったと過去形なのは、サークル参加してもなあ、と思ったからである。新作を作ってはいるし、このまま作っていれば今年中には公開できるとは思うのだけれど、でもコミケにもって行くほどかなあ、と思ったから。僕の作品は文字と背景だけだし(しかも画面が文字に埋め尽くされる)、キャラクターの絵はないし、およそ手にとってもらえる作品ではないから。以前どこかの記事で同人ゲームについてかいたことがあったけれど、どれだけシナリオを頑張ろうとも、ゲームの第一印象は絵で決まるわけであり、絵すら無い作品は自ずと人を選ぶわけで、きっと手にとってもらえないだろうから。え、後ろ向きだって? でも仕方がないじゃないですか、自己肯定感があるのならば僕がこんな記事書いているわけないでしょう? コミケは明日、明後日と一般参加するつもりですが、サークルチェックをまだしていません。徐々にコミケに対する熱量というものが失われているのかもしれません、あるいはオタク文化に対する熱量の低下か? とにかくコミケに対して意欲が湧かなくなってきているのは確かですし、なんならエロゲに対するモチベが低下しています。最近は先月にアオイトリをクリアしたくらいで、それ以降は同人エロrpgしかしていません。あ、でも同人eroRPGに積極的に触れているのだからオタク文化への熱量の低下は虚構だと思います。きっと僕は二次元に囚われ続けるでしょうから。幽明界を異にするまで。

 僕は罪の意識にも常に囚われている、それは僕が今までに積み重ねた些細な罪の集積だけれど、時に当時の記憶がフラッシュバックして僕を苛む。どうして悪い記憶ばかりがフラッシュバックするのだろうか、人に備え付けられた機構だとでも? 罪を意識しないことには祈りを捧げない人間に対して神が与えたものだとでも? いいや、きっとそれは生物が損失回避をする上で必要な機構なのだろう。バラバのことを忘れさせないために神が定めたものなどではない、神聖ななにかではない、生物学的な何かに決まっている。

 バラバという強盗はナザレのイエス磔刑に処されたかわりに恩赦で釈放されたという。ただしバラバが処刑されていたのならばイエスは処刑されなかった。イエスはバラバの身代わりとなったわけだが、それは民衆がイエスの死を望んだからである。どうしてバラバとイエスの命が等価交換されたのだろうか、聖書が示しているのはイエスの死によりバラバの罪(人間の原罪)が贖われるということだが、たかが神の子の命で人間の罪が贖われるんだろうか? 僕はそうは思わない。そもそも命で罪が贖われるという考え方に嫌悪感がある。存在が消えればその罪も消える? しかも他人の存在の消滅によって? まさか、そんなわけがあるか……と、これ以上は延々と書いてしまいそうなのでやめにしておく。