万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

平成を振り返ってみようと思ったんだ

 今日はいわゆる平成最後の日なのだから、なにかそれっぽいことができないかな、なんて考えてブログを書こうかなあと思ったわけだけれど、でも平成を振り返るにしても僕は平成生まれなので、平成を振り返る記事を書いたとしてもそれはいままでの人生を振り返るのと左程変わらないんじゃないのかなあと思い、というかそもそも僕のブログのバックナンバーの初期の方なんて大抵僕の人生の振り返りだったわけで、わざわざ同じことを何度も書くのはちょっと違うなあ、しかしだとすれば何を書けば良いのだろうかと思い悩みながら、さてこのブログの読者の皆様におかれましては何を書けばいいと思いますか、僕の人生を振り返るべきでしょうか、それとも別に僕が何を書こうとも知ったことではない、ああ、そうでしょうね、それが正しいと思いますが、僕的にはわざわざ平成最後のなんて肩書を付けずにいつもどおりの益体のない文を綴ればいいんじゃないかなあと思っているわけで、でも益体のない文がどのような文なのか分からないのだ。

 昨日道路の端にカラスが落ちていた。落ちていた、と言ってもなかなか想像できないと思うのだけれど、カラスが、道路に、横たわっていたんだ。僕は最初黒いビニール袋の見間違いかなんかだろうと思っていたのだけれど、近づいてみればそれはカラスの死骸でびっくりしたわけ。どうしてこんなところにカラスが落ちているのだろうか、誰が落としたのだろうか、交番に連絡すれば良いんだっけ、ああ、でもこれってカラスの死骸だから連絡するべきなのは保健所か。いやしかしこのカラスが誰かのペットであり、たまたま脱走した先で死んでしまったのかもしれないのだ。だとすれば僕はどこへ連絡すれば良いのか、近所の家をまわって「カラス、落としました? 死んでるんですけど」と聞けば良いのか。そんなことできるはずもなく、というかそんなことをしていたら僕が警察に連絡されてしまう。僕は一応常識人だからそんなことをしたら変人に思われて通報されてしまうことは分かっているのだ。僕は、常識人だからね。ではどうしようかと考えてみれば保健所の連絡先を知っているわけじゃなかったし――調べれば分かることなのだけれど、わざわざ調べる手間をかけたくはなかった――それに放置していても僕以外の誰かが連絡してくれるはずだと思ったんだ。だからその場を去ろうと思ったのだけれど、なんだか惜しい気がした。カラスの死骸なんてなかなか見られるものじゃないし、しかも骨折しているかもしれないけれど外傷は見られなかったんだ。僕はせっかくだから持ち帰って骨格標本にしてみようかなあと思った。一応骨格標本は人並みに作れるんだ、昔田舎に住んでいた時に度々作っていたからね。でも内蔵を取り出すのはいつまで経っても慣れないからあまり好きではない、血の臭いがひどいのもそうだし、一番やっかいだと思うのは胃の内容物や糞尿で汚れることだね、死骸は基本的にその筋肉が弛緩してしまっているから――もちろん肛門括約筋も弛緩するからね――糞尿が垂れ流しになってしまうんだ。それが臭いし汚いしで、でもどうせ血みどろの内蔵を取り出す時点で汚れるのは決まっているので改めて考えるとそうでもないのかなあ。畢竟生き物の腹を割き、腑分けする行為はどうしても嫌悪感を伴うから慣れないのも当然のことかもしれない。でも骨格標本が白熱灯の下で白く輝く様はとても美しいから、嫌いでもないんだ。あと時間が経った死骸なんかだととてつもない異臭――いわゆる死臭ってやつだね――がし、しかも例えば腐敗した死骸の液なんかが付いてしまうとその臭いがなかなか取れないんだ。服の繊維の奥底にまで臭いのもとというやつが浸透してしまうのだろうね、一回や二回の洗濯程度じゃ臭いが落ちないなんてことはままある。だから骨格標本を作るのは臭いとグロに耐性がある人じゃないとできないのかもしれない。僕なんかはわりと耐性のない方だと思っているのだけれど、骨格標本を得るには自分で作るのが一番安価だからそうしているんだ。そういえば田舎からこちらへ引っ越してきてからは骨格標本を作っていなかった。まあ日常的に死骸が落ちている場所でもないし、そもそも死骸があってもそれは大抵車に轢かれてぐちゃぐちゃになっているし、すぐに近隣住民が連絡を入れるのか保健所が回収するのに時間はそうかからない。田舎――森が隣接している――なんかでは死骸が落ちているのが日常茶飯事と言えないが、というかそんな市街地にまでやってくる動物はそんなにいないから田舎も都会も道路に死骸が落ちている頻度なんてそう変わらないんじゃないかなあ。落ちている死骸って猫か鳥くらいのものだからね。でも森のなかには割と頻繁に動物の死骸があるわけ。人がなかなか踏み入らないから取り放題だしね。それに田舎なだけあって家には大きな庭があって、近隣住民の迷惑が考えずに標本作りができた。今住んでいるところは住宅街だし、そんな強烈な臭いを振りまくわけにはいかないからそもそも標本作りなんてできないのでした。そんなわけでカラスの死骸を家に持って変えるわけにもいかず、僕は後ろ髪を引かれながらも家に帰った。あのカラスはどうなっただろうか。まあ流石に回収されているのだろうなあ。

 平成の振り返りを書こうと思ったのになんか少しだけ血腥い話になっているのはどうなのかと思い始めた。生前退位なのだからもう少し明るい話題を書いていきたいところだよね、と思ったのだけれど最近明るい話題なんてあったかなあ、ケロ枕のくじだってうまい棒も3本セットはあたったのだけれど、参加賞の色紙の方はほぼかぶりだったし、サク刻の色紙はなかったりで踏んだり蹴ったりなのだから割と鬱気味なんだよね。気分転換に好きなものについてでも語ってみようかなあ。あ、僕はポテトチップスは堅揚げポテトのうすしおが好きです。それ以外は飽きてしまってあまり好きではない。でもふつうのポテトチップスならのり塩かなあ。うすしおは味気ないから好きではない。堅揚げとふつうのとで好みが分かれるのはなんか変な気分。あるいは堅揚げポテトに味の種類が少ないかななのかもしれない。だけれど、やっぱり堅揚げポテトはうすしお以外はあまり好きではないから、根本的なところで僕は薄味好きなのかもしれない。

 僕にとって平成の最後だとか、令和だとかどうでもいいんだよね。そんな年号が変わるだけで大きくなにかが変化するわけではないと思うし、とりわけ僕個人が変化するわけないんだから。いずれにせよ年号なんてしったことじゃあないんだよ。結局さ、年号が変わったところでなにか得られるわけではないのだしね。はあ、令和になって僕が変われるのならどれほどよかったことか。なんか新作を書いているとは言ったのだけれど、進みは微々たるものでもう二ヶ月くらいまともに書いてないので、これでいいのだろうか、こんな非生産的な日常をすごして僕に何の価値があるのだろうか、ああこれでいいのかなあ、少しでも動くべきなんじゃないのかなあ、こんな僕に生きている価値はあるのかなあ、と思う今日このごろですが、こうやってうだうだ悩んでいるよりさっさと動けと言う話なんだろうね、でもそう簡単に動くことができればこうやって思い悩むわけでもないし、本当のところ自分のことですら定かでないのだ。というかきっと僕は現実を直視できないでいるのだろうね、自分の惨めな姿をみたくないんだ。自分が惨めでその姿を見ると、ますます自分のことが嫌になってしまうから。そしてますます自分のことを嫌いになった僕はきっと自殺してしまう。自殺はよくないよ、でももう生きていられないって思ったら自殺するしか無いと思うんだ。で、僕は自分のことを直視したくないから薬を飲みます、ソラナックス。気分がちょっと落ちついて、ああ生きているんだなあって思えるんだ。生きていることは辛いことだけれど、薬飲んだときばかりはなんだか大丈夫な気がしてくる。でもそのままではいけないことも漠然と分かってはいるんだ。きっと明日も、明後日も、僕はソラナックスを飲んで、天井で眩くLED電灯をぼーっと眺めるんだ。網膜に張り付く緑色に対して煩わしく思い、電灯の下に溜まっている小さな虫を見て嫌悪して、自分の現状を情けなく思い、自分の罪を電灯に対して告白し、そんな自分も嫌になって、あらゆるものに呪詛を吐き出すんだ。告白と呪詛、シオランかよ、あはは。って何が面白いのだろうね、全然これっぽちも面白くはないのに、でも笑っていたいなあ、僕は笑っていたいんだよ。別にライムギ畑の捕まえ役になれなくてもいい、僕は笑っていきたいんだ。あははって、陽気な気分になって、握手をしましょう、ハイってね。ああ、笑っていたいなあ。なんでもいいよ、気狂いみたいにでも笑っていられればそれはそれで気分がいいのだろうなあ。まことに人生、一瞬の夢なんだから楽しく生きないと。でも楽しいってなんだろうね、笑っているだけでは楽しいとは限らないと思うんだ。冷笑って言葉もあるし、笑いにだっていろいろな種類があるのだから、ああ、煩いなあ。僕の隣の部屋、まあリビングなのだけれど、そこではGWということもあってか親戚が来ている。彼らは昼間からビールを飲んで、楽しそうに、それはもうとても楽しそうに高い声で笑っている。その声が扉を一枚隔てた僕の部屋にまで届いてくるんだ。というわけで僕はなにかひとつ文句でも言ってやろうと思ったわけ、思ったわけなのだけれど、思っただけで行動が起こせないのである。だから僕はヘッドホンを被って『血の決戦』(ランス10のBGM)を聞く。ああ、いい曲だなあ。ランス10一応終わったのだけれどやりこみはしてないから少ししようかなあ、でもそんなことしていたら書くスピードは更に遅くなるわけで、むしろ書かなくなってしまうからあまり良くないだろうなあ、でも毎月2本はR18同人RPGを崩しているのでそれを一本にすれば時間はあるのだろう。あ、『プロナントシンフォニー』はプレイして下さい、名作です。そういえばかなりの数の作品をしてきたわけだけれど、おすすめの作品を紹介する記事は書いていなかったなあ、そのうちおすすめのR18同人RPGを紹介する、なんてタイトルで記事を書いてみても良いかもしれない。でもそうなるとスクショとか用意したくなるわけで、それはなんだか面倒だから乗り気にならない。僕はなんというか面倒事が嫌いなんだ。いや、面倒事が好きという人の方が少ないのだと思うけれど、僕は度を越して面倒事が嫌いなんだ。エネルギーの消費を限りなく少なくしたい、省エネ思考の人間なんだ。動かなくて良いのなら限りなく動かないし、だから外出だって最低限に収めている。基本的には引きこもり基質の人間だ。だから気が塞ぐことが多いのかもしれない、僕の部屋には空気の淀みというものがあって、それが滞留しているから僕は窒息しそうになっているんだ。酸素を使い果たした先には死が待っている。でも僕は動きたくない、死んでも動きたくないわけじゃあないのだけれど、むしろ死ぬのはあまり気分の良いものじゃないから遠慮したいのだが、動きたくないんだ。死が面前に迫ってやっと動くような人間なんだ。死にたくないとか言っておきながら、頭の中は希死念慮でいっぱいになっているわけで、さてどうすればこの矛盾は解消されるのでしょうね、やはり笑えば良いのでしょうか、あはは。ああ、虚しいなあ。

 今日の昼ごはんはナポリタンでした。親戚が来ているためか底の深い大皿に載って、思い思いに自分の皿に取るという形式でした。ナポリタンにしては少し水分が多いように感じたのだけれど、まあ皿の影響のあるのだろうね、あとうちのナポリタンはケチャップじゃなくてトマト缶を使うから必然的に水分が多くなるんだ。真っ赤な液体に浮かぶパスタは血を吸っているようで、どことなく不気味だ。それに酸味が強いから僕は少し苦手なところがあるのだけれど、でも美味しいことには変わりないので食べます。美味しいです、でも真っ赤なのは目に悪いなあなんて思いました。僕は頭の中でナポリタンに話しかけます。

「結局さ君はナポリタンなんて姿になっているわけだけれど、それって屈辱なんじゃないの。だってナポリタンは日本の創作パスタだし、君みたいな生粋のイタリアっ子には汚されたって気分になるんじゃないの。僕だったら屈辱で泣きたくなるね、自分のアイデンティティを否定された気持ちになるのだもの。でもパスタに過ぎない君に反抗することはできないのだろうね、パスタは喋らないし、動かない。ああ、そういえば食べ物が動く映画があったなあ、あの下品なやつ。あれ最初はオモシロイと思っていたのだけれど、徐々になんか受け付けられなくなってきたんだよね、重い、というか胃にもたれる。もう一度見たいかと聞かれれば、もう見なくていいって映画。豚骨ラーメンみたいだ。博多とんこつラーメンズなんてアニメがあったなあ、見てないけれど。ラーメンと言えば僕は塩はなんだけれど、豚骨は苦手なんだ。脂っぽくって胃にもたれるし、あの濁ったスープを見ているとドブ川を見ている気分になる。食べ物にたいしてその表現はいかがなものか、でも僕は豚骨ラーメンは味はともかくとしてドブ川に見えるんだ。ドンブリに張り付いた海苔は苔を連想させるし、卵は腐卵臭、つまり腐敗したものを想起させるし、麺は底に溜まったヘドロだし、スープは言わずもがな。こう豚骨ラーメンをこき下ろしているけれど、別に嫌いってわけじゃあない、苦手意識はあっても美味しいことには変わりないのだから。ああ、君の、ナポリタンに対しての話だったね、ええとなんの話をしていたのかすっかり忘れてしまったのだけれど、ナポリタンって血って感じだよね。僕はたまーに動物の解剖をすることがあったのだけれど、鮮やかな赤はなぜだか動脈血を想起するし、ナポリタン、君に至っては小腸を想起するんだ。うげえ、気持ち悪いなあ。小腸を見せつけたあの獣医め許さないぞ、あれは割とトラウマだったんだ。死んでいる動物の内臓ならまだいいよ、でも生きている動物の内臓は嫌悪感しか湧かない。僕はきっと医者には向いていないだろうなあ。でもまあナポリタンは死んだパスタなので美味しく食べますよ、あはは」

 で、昼食を食べ終わったら僕はすぐに自分の部屋に引きこもってこのブログの続きを書く。書いている。でも別にネタがあってそれを言語化しようとこの記事を書き始めようとしたわけではないのでもうネタ切れだ。そもそも最初からなにを書くか決めずに、思いのままにブログを書くのが僕の基本だからいつもと変わらないのだけどね。最近はなんだか読んだ本の影響もあってか一文一文が長くなってきたように感じるし、それはきっと僕の言葉遣いのせいでもあるのだけれど、それでも冗長な僕の文章を読んでいる人がいることに感謝している。でも恥ずかしい。僕の脳内をそのまま文章にしたようなものなので、それは僕の内面を見られているのと同義な気がしてくるからだ。というか一日で60PVもあった日があったのだけれど、一体どこからこのブログをみつけてやってきているのだろうね。そうそう検索に引っかかるものでもないと思うんだ。別にタグ的なのも付けてないし、意図的に付けないようにしているからひと目にはつきにくいはずなんだ。あとこんな読みにくい文章、少なくともブログっぽい文章を書いているわけじゃあないからリピーターも少ないと思うんだ。あと更新頻度もそう多くない――ちなみに60PVがあったのは最終更新から一週間くらい経ってからのことだ――のに。まあ奇特な人がいるもんだ、程度に思っておきましょう。誰が僕のブログを見ているかなんてわからないのだしね。僕はブログこそこうやってうだうだと綴るわけだけれど、ツイッターだとあまり呟かない。呟いても2秒後に消してしまったりと、文章を残すことを嫌っているわけじゃないけれど、どうしてもツイート数は少ない。それに引き換えブログはどうしてこう、気分的に書きやすいのかなあ、と思えばやはり「いいね」の影響があると思う(ふぁぼにもどして)。最近話題になっていたけれど、いいねは承認欲求を満たすのもそうだし、一方でいいねにとらわれるという側面がある。僕はその側面が少しだけ気に入らないからツイートが少なくなってしまうんだと思うんだ。別にいいねをされて嫌な気分になるわけじゃないよ、むしろ僕なんかのツイートを見てくれているんだと嬉しくなるし、だから一概にいいねを嫌悪しているわけじゃあない。ただなんの気兼ねもなく綴れるブログという形が一番僕にあっているだけなんだ。ああ、そういえばツイートの文字数制限があるのもきっと僕があまりツイートしない要因でもあるんだろうね。ほら、僕はこうして長い文章を書くタイプの人間だから、いちいち考えて140字の中に収めようとする労力を疎ましく思うんだ。まあつぶやきなんだから140字制限はツイッターに合っているのだけれど。承認欲求と羞恥との間で僕の場合は羞恥の方がどうしても気になってしまうんだ。

 さて平成最後の日だから言うのだけれど、僕は今まで夢とか希望だとかそういったものをないがしろにしてきました。夢、といえば小学校の頃に卒業文集で考古学者になりたい、と書いていたような気がするのだけれど、小学校の頃の夢なんてものは彼らの見てきた狭い世界の中で見える輝きを夢と形容しているだけであって、本当の夢ではないことが大半なのですが、実際僕も考古学者になりたいと文集に書いたのは当時よくみていた「世界ふしぎ発見!」――あのー木なんの木で有名な――の影響があったからで、TVを通してみる世界の奥ゆかしさとか、神秘そういった輝きに惑わされていたから書いただけであって、それを本気と捉えてもらうのは正直侮辱に思ってしまう。だから小学校の頃に埋めたタイムカプセルみたいなのはあまり好きではないし、というかタイムカプセルに詰まっているのは過去の残滓であって、夢とか希望じゃあ無いと思うんだよね。夢というものは知識や自分の見える世界が大きくなる(増える)ことで往々にして変化するもので、常に一定の夢なんてものは、本当に愚直に自分のことを信じられる人しか持てないんだよ。僕の昔の同級生にプロボクサーになりたいと言っていた人が居たなあ、彼は今頃どうしているだろうか。僕とあまり関わりはなかったのだけれど、少なくとも僕にはない夢への渇望があって、その輝きに嫉妬していたことはあったからよく覚えているんだ。あの人の夢は今も続いているのだろうか、あるいは変わってしまったのだろうか。僕にそれを確かめるすべはない、だってその人の名前を忘れてしまったから。まあ存在自体はともかくとして、顔も曖昧なほどなのでやっぱりどうでもいいです。もしも僕に夢とか希望があればいまごろ変わっていたのかなあ、もっとキラキラとして人生を歩んでいたんじゃないかなあ。苦しくても前を向いて生きていられる、そんな人間。でもそんな僕は僕じゃない気がする。いや、僕じゃないんだ。でもifの自分も見てみたいような気もする。夢があれば、なんてことは何度も思った。夢があれば努力ができるようになっていたのではないか。夢があれば自分の方向性を明確に定められたのではないか、と。では今から夢を持てばいいと言う人もいるかも知れない。そう簡単に夢を持てればこうして夢について吐露していないわけで、夢アレルギーである僕からすれば夢を持たなくても生きているだけじゃだめなのかと言ってみたくなる。あれ、そもそも夢を話題を出したのは自分なのだから自分に言ってやればいいじゃないか。鏡に向かって、おい自分、いつまで夢にこだわっているんだ。そうやってうだうだこだわるから自分はいつまで経っても何者にもなれないんだと。うるせえ、お前に何が分かるんだ。あ、自分か、自分なら自分のことくらい分かるか。でも黙って欲しい。僕だって悩んでいるんだ。悩んでいるからこうして長ったらしく、シミったらしく文章を書いているんだ。本当は何も考えずにアハハって笑っていたいんだ。

 僕は、笑って生きたいんだ。