万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

Lで始まる暗い川の水を中途半端に飲んでしまったのだろうか

 嫌な経験、例えばいじめられた経験なんてものはいつまでも残っているもので、しかし幸福な経験というものはなぜか思い出すことができず、思い出すことができたとしてもそのときの幸福な景色はぼやけていてほとんど見ることはできないが、嫌な経験に関して言えば、鋭い悪意の矛先が自分に向かっていることが手に取るようにわかる、そういった心象風景に限らず、フェンスの錆だとか、すっかり古びて哀愁を漂わせている東屋や風でそよいでいた草などといった取るに足らない物理的風景をある程度鮮明に覚えているもので、それは繰り返し嫌な目に遭うことを回避するための学習、つまり人間にもとより備わっている生理学的な反応と密接に関係しているのだろうけれど、でも僕としてはそんな動物としての機能がいまだに僕のことを苦しめることには納得がいかないのだが、しかし悲しいかな生得的な本能に意識してその本能の働きを停止することなどできないわけで、しかしできないからといってそこで思考停止はならないと思うのだけれど、でも考えればなにか変わるのかと言われれば、変わらないかもしれないので、でもできないならできないなりに僕たちは考えることで新たな発見、あるいは自分を納得させることのできる答えが見えるのではないのだろうか、なんて思い考えてみるけれども答えは依然として見つからないまま今日も苦痛な記憶を想起する。

 ところで嫌な経験についてよく思い出すーーそれは発作的なトラウマの想起の場合もあるし、意識して思い出すこともあるーーことがあるのだけれど、僕の場合はその僕に嫌なことをしている人の顔が見えない――顔だけが不明瞭で、周りの景色やどのような暴力をされたか、なんてことは分かるのだ。それは僕の中で経験の核となる行為の部分だけが色濃く残り、残りの人の部分だけが死んでしまったのからではないだろうかなんて思う。時間が経つに連れて記憶が薄れていっているのはあると思うのだけれど、しかし人の部分だけが消えているというのは、経験に重要なのがそれに何が関与したかではなくて、何が起こったかなのだという証左なのかもしれない。

 神話の話なのだけれど、例えばダンテの『神曲』やバイロンの『ドン・ジュアン』なんかでその名前が出てきたりする、冥界にある川のひとつにレテ(レーテー)というものがある。レテは忘却や眠りの象徴として扱われているのだけれど、それはレテの水を飲むと記憶を失うとされているからで、古代ギリシアなんかでは転生前にレテの水を飲まされるから前世の記憶を失ってしまうと信じられていたらしい。閑話休題

 僕の嫌な記憶からは人の顔が消えている、その人達はどこへ行ったのだろうか。いや、どこへも行ってはいなくて、もとより僕の中にはいなかったのかもしれない。思えば僕は人の顔と名前を覚えるのが酷く苦手で、やっと顔を覚えられたとしても、しかし服装が変わってしまうと少し分からなくなるので、生来の特性として人の顔を覚えることが苦手なのだろう、だから僕の記憶からは人の顔が度々抜け落ちる。それはもしかしたらレテの雫を口に含んでしまったからなのかもしれない。しかし中途半端にレテの水を飲んだから、完全には記憶が消えて無くて、人の顔、そういうほんの一部分だけ消えてしまうのだろうか。なれば僕は一体どこでその雫を口にしたのか。もしかしたら夢の中でかもしれない。夢の中での出来事は夢から覚めたあと直ぐに思い出さない限り、ややもすれば忘れてしまう。それは夢というものが、僕たちが寝ている最中、無意識がいわゆる神話の世界に飛ぶ現象なのではなかろうか。神話の世界から帰ってくる際(夢から覚める際)、僕たちはレテの飛沫を浴び、そのせいで夢の記憶というものは忘れやすいのではないか。そのレテの飛沫の蓄積がいわゆる忘却であり、しかし飛沫は飛沫でしかないため忘却はわずかにとどまるのだ。

 嫌な記憶を消したいと思えど、しかしその記憶があるからこそ今の僕があるのであり、記憶の蓄積がある意味で人間存在と言えるのだから安易に記憶を消したいなどと思わないほうが良いのかもしれないのだけれど、嫌なことは嫌なので、このトラウマというべき記憶を消すまでいかなくとも、その想起の頻度を和らげたいとは思う。

 だけど、その方法は分からない。