万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

架空の存在がいたこともあった

 架空の存在を作り上げて話したり遊んだりした記憶があるのだけれど、今思えばそれは少しだけ普通より逸脱していたのだと思う。それとも僕が知らないだけで誰もが自分とは別の人格を作り出して会話をしたことがあるのかなあ、見えない存在と会話するのはおよそ世間では奇異の視線で眺められるから恥だと思い、ひた隠しにしているのかもしれない。それだったら少しだけ、救われるような気がする。自分だけが逸脱していたわけじゃないのだって、安心できるから。

 僕が作り出した架空の存在、それはイマジナリーフレンドのようで、少し違った。指人形。ソフビでできた、キャラクターを模したやつ。僕は幼い頃、指人形で遊ぶことに傾倒していたのだよね。例えばジェンガや積み木で街を作り、そこで指人形を配置して遊ばせるようなままごとをしたり、指人形同士で戦わせたりしていた。子供っぽいやつだよ。でも僕は指人形の中でも特にお気に入りだったモノに対して名前と、人格を与えていた。あまり外で遊ばない子供だった僕は、指人形で遊び、指人形と会話していたんだ。家には携帯ゲーム機もあったけれど、でもそれは一日の使用時間が限られていたから、僕は暇な時、指人形と遊んでいた。

 僕が人格を与えた指人形の名前は『I』とでもしておこう、『I』は僕が性に混乱する時期まで僕の側にいた。つまりは中学生に上がる直前まで僕の中には『I』がいて、僕と共に生きていた。彼?(性別はなかったように思う)はいつの間にか消滅してしまったわけだけれど、恐らく今でも僕の中に存在しているのだと思う。僕の作り出した存在だから、僕の一部だったものだから。僕は思い悩んだ時『I』とよく相談した。家族とは話せないような内容をよくベッドで布団を被りながら、誰にも話し声を聞かれないようにと。『I』は僕に答えを与えてくれたのだけれど、あれは僕が僕の内面と対話することで答えを出していたのだろうか、それとも『I』という人格が僕とは違った考え方をしてくれて答えを出したのだろうか、今でも疑問だ。『I』の出してくれた答えは、当時の僕にしてはとても思いつくものではなかったから。鍵っ子(Keyではない)だった僕は家に鍵を忘れて締め出されてしまうことが度々あった。その時も『I』と相談したわけだけれど、僕が親を待とうと答えた一方で『I』は排水管を伝って二階の空いている窓から入れと言った。僕は危険だと言ったのだけれど、『I』はその方がいいと急かした。そして僕は『I』の言う通りに排水管を登り、転落した。落ちた先はウッドデッキだったから軽い打撲で済んだのだけれど、もしもそこがアスファルトだったらと思うとゾッとする。あの日以降『I』の存在は薄くなっていた。あるいは僕の中にあった何かが『I』のことを僕に危険を及ぼすものだと認識して排除しようとしたのかもしれない。

 『I』の存在が確かだったのは僕が性に混乱する時期までだったのだけれど、それは『I』もまた僕と同様に性に疎かったからなのだと思う。『I』は決して、僕の性への興味に対して何も言わなかった。静観するわけでもなく、まるで性に興味を持つ僕は今まで『I』が会話していた僕ではないと言うかのように、『I』はただ静かに僕の中で固まっていた。その頃からだろう、僕が『I』の存在を意識しなくなっていったのは。あるいは不必要だと思ったのかもしれない、僕がこれよりも前に進むには邪魔な、過去の遺物だと。それに、その頃の僕はもう人形を遊びをしていなかったのだよね、一応『I』は僕の意識の中にいたけれど。

 今、『I』を思い出そうとしてみたけれど、しかし彼の口調も姿ももう思い出せない。ただ、『I』という存在がいたという霧のような認識だけがある。彼は今、僕のどのへんにいるのだろうか。今の僕は彼に感謝を述べたいと思っている、彼に危険な目に遭わされたこともあったけれど、それでも幾度となく助けられたから。『I』がいなかったら今の僕は存在していないから。だけれども『I』は姿を現さないのだと思う。無根拠だけれど、確信のようなものがある。