万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

視線と地獄

 今日は弟の友人が家に来て、ガレージでBBQをしている。一方の僕は部屋に引きこもってこうしてキーボードを叩いている。カタカタと鳴るキーボードとサーキュレーターのモーター音が虚しく響く。窓の外からは弟達のはしゃぐ声が聞こえ、なんだかみすぼらしい気持ちになった。今日一日はトイレと食事以外に部屋から出ることはなさそうだ。というかトイレに行く時に弟の友人と顔を合わせなければならないのだけれど、それが辛い、僕みたいな人見知りにとってはかなりダメージがある。初対面の人と目を合わせて話すことが出来ない人間だから、それは克服しなければならないとは思っているのに未だに無理なままでいる。

 視線というものを苦手になった契機は何だっただろうかと考えてみても思い浮かばない。恐らく僕は昔から人の目を見て話すことが苦手だった。物静かで、積極的にはなにも行動ができない子供だった。そういえば覚えがある、父親に「人の目を見て話しなさい」と何度も叱られたことを。父親が僕の側頭部を鷲掴みにし無理矢理振り向かせて眼を覗き込んできたことを。あの時ほど視線に恐怖を抱いた覚えはないかもしれない。

 昔いじめられていた頃にズボンを脱がされ衆目にさらされたこともあった、スボンを脱がしたのはまあ当然のようにいじめっ子(二人組)で、僕のようなクラスの輪の中に溶け込めないような人間をいたぶることでしか尊厳を保つことが出来ないような子供だった。あれはいつだったか……小学3年だっただろうか、図画工作の授業が終わった後の中休み(2限目と3限目の間にあった20分程度の長い休み時間)にクラスルームの外に呼び出された。その当時の僕は中休みと昼休みには図書室に行って漫画(学研のひみつシリーズ)を読むことが日課だったのだけれど、その行動が何故か癪に障ったらしい。彼らはとにかく僕に対して嫌がらせをしたいようだった。彼らがどのような要求をしたのかは覚えてないのだけれど、とにかくその要求は飲めなかったことを覚えている。そして彼らの一方が僕を押さえつけ、もう一方がズボンを脱がした。そして脱がしたズボンを持ち去り――確か女子トイレだったかな(当時の物を隠すようないじめでは物を女子トイレに投げ込むことが多かった。何度も上履きを女子トイレに投げ込まれ、どうすることも出来なくて泣いた覚えがある)――、僕は下着のままで放り出される羽目になった。とにかく他人に見られたらたまらないと僕は廊下の端で蹲った。そしてズボンを取り返すことが出来ないまま中休みは終わり、運動場へドッジボールをしに行っていた男子が戻ってきた。彼らは目ざとく蹲ったまま動こうとしない僕のところへ集まり、驚いた様子で僕の醜態を見、笑った。不躾な視線と嘲笑は未熟な僕の心をズタズタにした。それ以降のことはあまり覚えていない。僕がズボンを取り返したのか、はたまた保健室で体操着を借りたのかも分からない。とにかく羞恥のあまり泣いてしまったことだけは覚えている。それから視線が、他人が一層怖くなった。

 見田宗介の『まなざしの地獄』、読んだのはここ一年以内のことなのだけれど、強烈な印象だったので時折思い出す。連続射殺事件の犯人であり、死刑囚であり、獄中で『無知の涙』など幾つかの本を書いた永山則夫についての論考。永山則夫のついては以下の雑記7で少しだけ触れているので置いておく。jeuxdeau.hatenadiary.com

 『まなざしの地獄』では永山則夫の内面を考察することを通して社会について鋭い視点で論じていた。どの頁も読み飛ばすことが出来ないくらい濃密な言葉にあふれているのだけれど、そこから幾つか気に入っている部分を引用したい。

人の現在と未来とを呪縛するのは、この過去を本人の「現在」として、また本人の「未来」として、執拗にその本人にさしむける他者たちのまなざしであり、他者たちの実践である

ボヘミヤの箱は堅固な物質によって、成長する少年たちの肉体を成形してゆく。〈まなざしの地獄〉は他者たちの視線によって、成長する少年たちの精神を成形していく。ボヘミヤの箱とは異なって、それは少年の内面を成形するのであるから、 それは彼らの自由意志そのものを侵食せざるをえない。

 われわれの存在の原罪性とは、なにかある超越的な神を前提とするものではなく、われわれがこの歴史的社会の中で、それぞれの生活の必要の中で、見捨ててきたものすべてのまなざしの現在性として、われわれの生きる社会の構造そのものに内在する地獄である。

  僕たちを縛るのは社会という他者によるまなざしである。まなざし、視線、それはいつも僕たちを縛る。他者が存在しなければ存在し得ない僕たちであるから他者の視線に縛られるのは当然だとしても、やはり恐ろしいものだ。

 これらの言葉に対して僕はE・デュルケームの「神とは社会である」という言葉と通じるものがあると感じた。社会とは超越的なものではなく、私たち自身が創り出すものでしかない、そして時に社会が私から形成されたという酷い事実から眼を逸らす人が居て、そういう人びとが社会に神を見出してしまうのではないかと。

 

 まだ(23:45)弟と友人たちはガレージで騒いでいる。どうやら彼らはうちに泊まるらしい、憂鬱だ。彼らの視線から逃げて、僕は部屋に引き込まったままでいよう。視線に対して挑戦しても、きっと返り討ちにされてしまうから。静かに息を潜めていることにしよう。僕は無害だからと自分に言い聞かせながら。彼らは恐らく夜の間も騒ぐのだろう、僕は眠ることが出来るだろうか。寝なければならない、睡眠不足は全てのやる気を奪ってしまう。