万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

憂鬱な日々に

 昔から僕は自分を虐める傾向にあったように思う。陸上の長距離を中高で続けていたのもそうだし、今は誰に課されたわけでもないにも関わらず自転車通学のタイムトライアルをしているのもそうだ。苦しいのに、どうして自分を虐め続ける。おかしいとは自分では思うのにやめられないのはもしかしてどこかおかしいのかしらん。苦しみに快楽を見出しているわけではない、断じて違うと僕は思っている。違うんだよ、ただ理由はわからないけれどなぜか僕は自分を損なってしまう。しかしそんなことをしたところで僕は満足できていない、常に虚無感があり、いつまでも空っぽな感覚を抱きながら生きている。苦しいなあ、そう思っても、言葉にしてみても、解決しない。いつまでこの気分が続くのだろうか、一生かもしれない、それなら嫌だなあ、僕は幸せに笑っていたいなあ。

 

 何かになりたい、何かになれさえすれば僕は生きていられるのではないだろうか。何かである自信の中で、僕であることを保ち続けることさえできれば僕は生きていられるように思う。でも、その何かが分からない。靄々する。苛々する。僕はまだ何者でもない、僕は透明だ。

 

 こんな悩みはどこにでもある普遍的なものだとは思う、でも、誰かが同じように苦しんでいるからと言って僕が救われるわけじゃない。僕が僕を救うためには、埒外を見下すのでは足りなくて、足りないと言うか無駄で、自分自身を新たにしなくてはいけない。新しいことに臨むのは酷く恐ろしいことだ、足が竦んでしまう。僕は昔から消極的な人間だった、既に持っている価値観に囚われて、新しいものが自分の内面を掻き乱してしまうことをとても恐れている。何かが壊れてしまいそうで、壊れた先に同一性があるのか分からなくて怖かった。でも破壊されない限り生み出されないものだってあるのは知っている、密生した森林で老木が倒壊しない限り若木が大きくなれないように。生まれたギャップからのみ発生する新たしさというものがある。でも新しいものは弱いから、周りにある強いものにいとも簡単に遮られて、潰されてしまうから。

 

 水面を眺めるのが好きだ。コップの水でも、川面でもなんでもいい、とにかく水であれば見るだけで落ち着く。揺れて、騒いで、しかしやがて元の形に戻って行く様子が。いや、元の形なんてないのだけれど、常に続いている感覚が好きだ。流れに思いを寄せ、水滴に心躍らせ、水分子を想像し、循環を感じながら僕は一体感というものを見る。それがとても落ち着くのだ。

 

 今年の一月に亡くなった(父方の)祖父に手を合わせるために近畿へ行ってきた。僕は乗り気ではなかったのだけれど、母がどうしてもというので仕方なく連れられて。祖母は酷く老け込んでおり、特に髪などは三年前に見た時よりも更に白く、また父の髪も白くなっていた(父と母は離婚しているのもあって三年ぶりに会ったのだ)。時の流れは残酷だと、なんとなく思った。父が僕の体つきや顔つきをみて正義感の強い(つまり自分の意見を正しいとする傾向がある)人だと言った。僕はそれを聞いてまあそうだろうなあと思ったのだけれど、少しだけ苛立った。もちろんユング的な分析を否定しているわけじゃあない。ただ人を外見で分析するのだとすれば、例えば体癖も見るべきだし、顔つきでも他に目の大きさや顎の形も見て、それらを踏まえて分析するべきだと思ったから。人はそんなに単純な生き物じゃあない。

 

 生きている目的や意味が分からない。自分の望まない苦痛から逃げることの叶わないこんな世界に意味はあるのか、こんな狭苦しい鳥籠からどうやって出ていけばいいのだろうか、そんなことを昔から考えて、しかし今もまだ答えは見つからない。自ら苦痛を求めて、傷ついて、楽しくもないのに笑みを浮かべて、ああなんてつまらないのだろうか。息苦しいなあ、内臓が死ぬ間際の小鳥みたいに鳴いているよ、気管の細い隙間からひゅるひゅると息を絶え絶えに出して、ああ死んでしまいたいなあ。でも怖いなあ。どうすればいいのでしょうか。

 僕はこんな苦しい世界から逃げるように本を読むようになった、それはドストエフスキーだったりサルトルだったりしたわけで、もちろん救われた部分もあったが完全に救われたわけじゃない。僕は先人たちの偉大な骨の山の上に立っているが、光明は酷く遠い場所にあるように思える。光が見えない。光のようなものは感じるけれど、しかしそれが本当に光なのかは怪しいものだ、これだけの遺骨が積み重なった場所にいるというのにまだまだ出口が分からない。いっそのことここから飛び降りてみようか、そうすれば新しい発見があるかもしれない。でも、こんな場所から飛び降りたら骨折してしまう、足が割れてしまってもう二度と動けなくなって、苦痛の中で絶望してしまうかもしれない。僕が登ってきたこの骨塚は間違いだっただなんて思いたくない。いよいよ僕は分からなくなってきた、深刻に、残酷に。僕はこのままこの骨の山の上で干からびて、彼らと同じように白骨死体となるのかもしれない。ありふれた骨の一つに。

 ありもしない幻想を求めているだけなのだろうか、本当はこの世界に緩和なんてなくて、常に藻掻き苦しむしかないのかもしれない。本に書かれていた蠱惑的な救いの言葉、それは僕を一部で救ってくれたが、一部ではまた更に深い恐怖を与えた。

 物語に埋没しているとは言え言葉は人の根幹をなすものだから、そして人は複雑なものだからか様々な感情を起こしてくる。

 人は物語を求める。例えば暗記などは単純な言葉の羅列よりも物語性を持たせた方が覚えやすかったりする。物語を求めるからとはいえ、ただ物語にもに没頭してしまったらきっと何かを見失ってしまうのだろう。最近はもっと現実に目を向けなければならない、と思う。苦しくても、その苦しい現実までをも愛してやらないといけないのだと。amare amabam 愛することを愛する 苦しい現実を愛する自分を愛することで初めて見えるものがあるのかもしれない。

 

 憂鬱な日々に、僕は死んでしまいたくなる。それでも僕はこの憂鬱も愛したいなあ。できるか分からないけれど、愛してやりたいなあ。