万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

断片に関しての雑記

 

 何も起きないし、何も残らない。

 雑記そのものです。

 

  駅構内、エスカレーターの手すりの側面に張り付いたガム。元は何色だったのだろうか、黒ずんでいて今ではもう分からない。私はそのガムを見つめ、爪で表面を引っ掻いた。現れたのは薄い緑色の断面。そこで私はそのガムに対する興味を失くした。そしてガムが貼り付けられた背景を考えた。

 噛んでいたのは都内の会社に勤務する40歳の男性で、彼は口の寂しさからガムを噛んで通勤することが習慣となっていた。いつもなら会社と家を往復するまでに味が無くなることなどなかったが、この時は違った。電車の遅延によって帰る時間が大幅に遅れたていた。家の最寄り駅まであと数駅、彼はイライラしていた。それに口の中に留まり続けるガムは既に味を無くし、噛むことによる快感はおろか、その舌に触れる触感に吐き気を感じていた。もう一つガムを口に含んで味を付け足すことも考えたが、今は遅延の影響もあって電車は満員、手を動かすこともままならなかった。やがて駅に着き、男は安堵した。これでやっと家に帰れると思った。しかし口の中にあるガムがどうしても不快だった。男はイライラしていたこともあって、口から吐き戻すように取り出したガムを手元ーーエスカレーターの手すりーーにくっつけようとした。しかし男は小心者であった。堂々とガムを公共のものに貼り付ける行為はできなかった。だから彼は手の中にガムを隠し、後ろの人に悟れられないようにこっそりと手すりの側面に貼り付けたのだ。

 私はこうやって生活の中に落ちている意味の無い断片に触れ、夢想することがよくあった。何を得るでもない意味の無い創作、自分だけの物語。暇つぶしにしたってやることが地味すぎる。しかし私はそれで僅かな満足感を得ていた。他人の人生を覗き見する時に特有の奇妙な罪悪感と興奮とが混じり合った感情。それを擬似的に作り出していた。

 この世界には一見して無意味な断片が溢れている。それは服装や机に残された落書き、道に落ちているゴミひとつとってもそうだ。しかし、全て足跡であり、生活であり、人生のある。塵も積もれば山となる。その断片を集めた時、私達は他人の人生の一端を覗くことができるのだ。さっきのガムにしたって、それを噛んで貼り付けた人がいるのだから、その奥には生活があり、人生がある。それを意識すれば違う世界が見えてくる。少なくとも今、私達は一人で生きているのではなく、人が作り出した世界の間隙に生きているのだと思えるのではないだろうか。

 例え断片から他人の人生を覗き見したって何が起こるでもない。打ち寄せては去る波のように私の胸で僅かにさざめくのみだ。そのさざめきに何を見出すのかはその人次第。その音の波長と自分の持っていた音の波長があった時、自分を見ることがある。他人の人生に自分を見出すのである。

 しかし他人の人生を覗き見すると言っても、見えるのは断片を介したものであり、必然的に見える人生はほんの一部でしか無いことを留意しなければならないのではないだろうか。見えるのは全体像であったとしても面であり、多面体である他人のほんの1つの面しか見えない(いくつかの面にわたって見えることもあるけれど、決して裏側は見えない)。

 

 

 鋭い断片は自分を傷つけることもある。それはトラウマの想起かもしれないし、それ以外のものかもしれない。

 断片に触れるということは、他人の人生に触れるということであり、自分の柔らかい部分(指先とか)で触れることである。触れるものが鋭ければ鋭いほど自分が傷つく可能性は上がる。そしてついた傷が腫れるかもしれないし、膿んでしまうこともあるかもしれない。

 しかし私達は生きていく上で常に他人の人生の断片に触れているものだ。意識しなくても他人と関係している。だから生きているだけで傷ついてしまうことがある。傷口が膿んで病んでしまうことがある。自分では治療法がわからないから傷口が壊死してしまうこともある。生きていくのは難しいものだ。