万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

雑記10

〈イタリア料理店〉

 家から徒歩数分のところにある料理店が閉店していた。確かイタリア料理を提供していた店だった気がする。軒先に三本線のはいった国旗を掲げていたからそうに違いない。あれ、でもフランスだとかロシアだとか三本線の国旗だ。でもまあ、もう潰れてしまった店なのだから何料理を提供していたのだとしても私には関係のないことである。私とは関係のない場所でも常に時間は進行し、何かが勃興しては廃れていく。諸行無常とはこういうことであろうか。実に虚しいことである。と、思ったのだけれども、私はあの店にほんの僅かでも興味があったわけではなく、ただ、閉店して初めて興味を持ったわけなのだから、それほど虚しいとは思っていないのだろう。失って初めて気づくことが有る、というのはよく言われることだけれど、まあ実際そうなのだろうけれど、失ったところで自分とは何も関係が無いのであればどうでもいいことに変わりはない。きっと世の中の殆どは自分の興味外のもので構成されているのだから、全てに目を向けるのは不可能なわけで、とそんなことを考えているうちにも何かが失くなっていくのだろう。しかしやはりそれはきっと私とは離れたものなのでどうでもいいのだ。

 

〈信仰について〉

 どうしてか私は何かを信じるということができないでいるのだ。人が信じられない。愛が信じられない。善が信じられない。宗教が信じられない。すべてが信じられない。あるいは信じられるのは自分だけかと思ったのだけれど、自分は偽りに満ちていて、だいたい自分が自分に対して偽りの景色を見せたりするので信じようとしても信じられないのである。ああ、何を信じればいいのだろうか、ねえ、そこの無機物さん、僕になにかいい方法を教えてくれないだろうか、と机や椅子に話しかけてももちろん無視されるので何も信じられなくなる。なんだよ、普段は夜中になると話す時だってあるのにさ、こうやって私が意識を向けると黙ってしまうなんて、それは良くないことですよ、ええ、ええ、それは良くないことなんです。無視というのはですね、人を傷つけるんですよ。いじめも無視から始まるものですからね。まあ、そんなことはどうでもいいのです。話の主題は信仰についてなんですから、とそんなことを考えている自分が信じられないので私はいつも戸惑ってしまう。だけれども、信じたいという気持ちが強くあるので、私は信じることについて暇があれば考えてしまうのである。

 信じるということ。人間というのは何かを信じることが基本的であると、私は思っているのだけれど、それは自分自身であったり、未来だったり、愛であったり、友人であったりするのだが、ここのところ私にはそういったものに対する信仰が薄い、というよりも持てないでいるのである。大抵の人々はそれがいかに漠然とした形であろうとも信仰を持っているはずで、だけれども私には自分の中に信仰が見いだせなくて、いつも懐疑的になってしまうのだが、そのせいで最近は家から出るのも辛く感じてしまうのだ。だって外という世界に対して信じられないのだから家から出るのが辛くてあたりまえでしょう? 信じられないってことは全てが敵に見えるってことで、それは常にストレスで頭痛がすることと直結しているんです。ああ、でも頭痛と言えばロキソニンをよく飲むのですけれど、最近はそれの効能が薄くなってきた気がして、やはり信じることができなくなってきているのであるのだから、ああ、なんで僕は生きているのだろうなあ、薬に頼って生きているのは生きていることなのかなあ、というか最近は頼っているって感覚も薄くなっているから生きている感覚も薄くなっているように感じられるのだけれども、まあ、生きていようとも生きていなくともなんだか変わらない気もしてくるわけでありまして、でも生きているのならそのままであるのが一番なのだから、というか未来が信じられないので現状維持に甘んじるわけである。自分の全てが信じられないこの感覚は薄ら寒くて、不安でたまらなくて、ガタガタと震えてきて、絶望してしまう。絶望は罪だとかキエルケゴールは言っていた気がする。私は罪を背負っているのですか、そうですか。でも死に至る病は信仰によって救われるといった旨の話だったはずだ。あれ、だとすれば何も信じられない私に救いは訪れないではないか。まったく、困ったものである。信仰できないのだから絶望しているわけで、その絶望から快復するためには信仰が必要であると、まったくどこの笑い話だ。

 

〈愛について〉

 愛することとはどのようなことだろうか。セックスすることだろうか。まあ、たしかに愛の形の一種であるのだと思う。だけれども、愛というのはそもそもとして無形のものではなかっただろうか。それなのに、特定の行動に勝手に愛があるとタグ付けしてそれを称揚するのは間違ってはいないだろうか。そもそも愛なんて存在するのだろうか。そんなことを考えてしまう私ですけれど、愛というものを欲しがる人間ではあるのです。しかし決して愛を信じているのではなくて、愛を信じるために愛を知りたいという話なのだ。私だって一人のえろげーまーですから、愛を題材にした作品を多く目にしてきたわけで、でも私にはその素晴らしさが全く分からなくて、きっと愛とは傾倒することなんだろうなあ、なんて考えながら冷めた目で画面を見つめるわけなのだ。傾倒とは盲信である。盲信できる人はいいなあ、自分を忘れることができるのだもの、自分を信仰の中に埋没させて現実を見なくて済むのだから。私はと言えば、愛を冷めた目で見つめるような愛の殺人者でありますから、一向に自分を忘れることができなくて、ああ、なんで愛について語ろうとしていたのに自分について語っているのだろうか、気持ち悪いなあ、気持ち悪いと感じるのはそのに愛が無いからだろうか。自己愛がないから私は苦しいのか。探し求めたのは愛でした、夢見たものも愛でした。しかし愛は見つかりませんでした。無形のものを探すこと自体、馬鹿げたことだったんだと思います。無形のものであるなら、それをなにか型に閉じ込めてから見つけなくてはいけなかったのに、それを忘れて無形を探そうとしていたのだから当然でした。セックスとは愛を閉じ込めた形なのでしょうか。しかし私には一向にそう思えません。愛はなくとも、性欲さえあればセックスはできるのだから。性欲が愛なのではないか? 私にはよくわからないのだけれど、多分違うと思います。