万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

寒い夜に

 蒼月エリさんの新衣装を見て、うわあかっこいいなあ、この衣装でタバコ吸ったら映えるんだろうなあ、なんて思う今日このごろ。世間はクリスマスで浮かれ気味だというのに、僕は憂鬱な感情に、浸っている。別にカップルが俗に言う性の6時間にセックスをしようが、それは僕には関係のないことなのだから憎む道理もなく、でも、キスをしている姿や、笑顔で寄り添い合っている姿を見せつけられると、こう、なんだか、僕が道理から外れた人間の気がして、憂鬱になる。まあ、確かにある意味で僕は悖った人間ではあるのだけれど、それを他者から自覚させられると、自分が否定されたような気がするのだ。そりゃ、そんなこと僕が勝手に思っていることなのだろうけれど、そう簡単に割り切ることができれば、こうして憂鬱ではないわけで、そういう人間だから、こうして沈んでいるのだ。沈んでいるというのに、空が、近い。冷たくて暗い空。手を伸ばす。指先が冷えて、痛んだ。冬は僕を排撃しようと、痛みをもって襲ってくる。まったく、ひどい季節だ。優しくない。

 特に意味もなく、ブログの編集画面を開いて、感情の赴くままに文字を綴っている。この行為に意味はあるのだろうか、そんな事を考え、水を僅かに口に含む。この時期の水道水は冷たいから美味しい。だけど、僕は、冬が嫌いだ。寒い時期は色々と悪い思い出があるから、嫌いなのかもしれないけれど、そもそも寒いのが苦手なのだから冬が嫌いなのは必然なのだと思う。夏は夏で、頭が働かないので好きではないのだけれど、冬の、あの突き刺すような寒さはもっと苦手なのである。そろそろ盆に張った水が凍りつく季節。子どもたちははしゃぐ一方で、大人たちは憂鬱に下を向いて、身体を縮める季節。それに、冬というのは負のイメージを連想させる。クリスマスや正月というおめでたい季節だと言うのに、全体としてみれば、暗い季節だ。それは寒さが寒色を連想させるからだろうか、それとも、日が短いから? 太陽という、信仰の対象が、姿を隠す時間が増える。それは、確かに、負のイメージだ。だから、寒いのだし。

 息を吐く。白い。家の中だと言うのに、息が白いのは全くおかしくはないかしらん。家というのは暖かい場所のはずなのに、僕の部屋は冷え冷えとしている。だから、今も指先の感覚が薄いのか。こうしてキーボードを叩いている瞬間も指先の感覚は鈍くなる一方で、さらには痛みさえ感じ始めてきた。いったい、この部屋は何度だというのだろうか。体感的には氷点下だけれど、僕の住んでいる地域では今冬、まだ、氷点下は記録されていない。だからこれは僕の錯覚なんだろうね。それとも、僕がキーボードを強く叩きすぎているから、指が悲鳴を上げているのだろうか。そうだとしたら指に対して悪いことをしているなあ、と思う。こんなに寒くて、ただでさえ動きたくないはずなのに、無理やり動かして、文字を打たせている。強制労働ではないか。ここはシベリアか。シベリア、美味しいよね。緑茶と合うので好きなんです。閑話休題。そういえば、『罪と罰』でラスコーリニコフがシベリア送りになってたなあ。ロージャの悲惨な顛末にも心踊ったけれど、それ以上にソーニャという救いがあることが、僕にとって、大切だった。『罪と罰』が僕の大切な本なのは、苦しい時に、救いがあり、それが見えるのだけれど、でも、それを受け取れないその残酷なところが、僕の柔らかいところにすっと収まったから。それに、聖書を読むきっかけになったのはこの本だしね。まあ、僕自身、聖書を読めど、神は信じないし、むしろ神様なんて唾棄すべきものだと思っているふしがあるのだけれどね。