万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

2019/1/1

 目が覚めると、朝の9時。休みの日、特に年末年始は精神的にも緩和しているからか起きるのが遅くなる。かといって気分の良い目覚めでも、気分の悪い目覚めでもない、中庸な目覚めだった。風邪が長引いているのだろうか喉が依然と痛く、声も掠れている。新年早々病気とはなかなかどうして幸先の悪いことだろうか。まあ、これも風邪を引いているのに出掛けていたからなんだろうけれども。

 朝食に雑煮と栗きんとん食べて、風呂に入る。昨日沸かしたけど入らなかったから、追い焚きした風呂。細菌が繁殖したのだろう特有の、饐えた臭い。僕は顔を顰めながら肩まで浸かる。心なしか、皮膚がピリピリと痛んだ。水面には昨日入った家族に皮脂や髪の毛が浮かんでいて、汚らしく思った。この風呂に入っても、僕は綺麗にならないのではないだろうか。逆効果で、更に汚れてしまうのではないだろうか。そう思ってしまうと、この風呂場全体の汚れが気になり始める。壁のゴム部分の黒カビ、滑り止めの小さな凹凸のある床のその間に溜まった赤い汚れ……僕は急に掃除したくなり、風呂から上がり、床をブラシで擦り始める。執拗に、何度も、床を擦る。手が痛くなっても、擦り続ける。赤い汚れが、落ちていく。何か、僕に溜まっていた、穢のようなものが落ちていくと思った。しかし完全な白にはならない。元の、綺麗な色にはならない。僕は落胆しながらも床を擦り続けた。いつの間にか30分が過ぎていた。もう一度風呂に入って、シャワーを浴び、温まってから風呂場を後にした。

 火照った身体のせいか、それとも風邪のせいでのどが痛いからか、無性にアイスクリームが食べたくなった。冷凍庫を漁っても、何もない。仕方なくコンビニに向かった。外は正月ということもあり閑散としている。疎らな通行人のの中では親子が目立つ。初詣にでも行くのだろうか。子供が母親に笑いかけ、それに応えて母親も微笑む。幸せな光景だと思う。僕はその光景を直視できずに、早足で抜き去った。コンビニに入ると無機質な音が響いた。なぜかその音が僕を威圧しているように思った。この正月の朝という時間帯に迷惑だと言いたげに。店の中も閑散としている。店員もいなかった。バックにいるのだろうか。手早くアイスを見繕って、レジに向かう。いつの間にか店員がレジに立っていた。けだるげな顔で、僕を見つめている。ボソボソと何か呟いているが、聞き取れない。

「えっ?」

「だから、それ、買うんでしょ?」

「あ、ああ」

そこで僕が商品を持ったままでいることに気がついた。慌ててレジに置く。店員は再び聞き取れない言葉を呟いた。彼のネームプレートにある店長の文字を眺めながら、正月から働くだなんて大変だなあと思った。しかしこういう人がいるから、僕がアイスを買えるので、感謝しなければならないのだろうか。

 アイスは、森永のビスケットアイスを買った。僕のお気に入りのアイス。手軽に食べれるから好きだというのもあるのだけれど、手頃な値段なのにバニラビーンズが入っていることが好印象なのだ。バニラなら、バニラエッセンスではなくバニラビーンズだよね。僕はバニラアイスだというのに、ビーンズを使わないものはバニラアイスだと認めない主義だ。あのつぶつぶがあるからバニラなのであり、それ以外はバニラ風のなにかなのだと思う。

 ああ、そろそろ課題のレポートを書かなくてはならない。あと数日、冬休みが終わるまでに書かなければならないものがいくつかある。憂鬱だ。

2018年に寄せて(あけましておめでとうございます)

 2018年ももう終わりが近づいている。この記事を書き始めた23:30現在、隣の部屋から紅白の音が聞こえてくる。僕は騒がしいと思っている。騒がしいと思ってはいても、僕にはそれを止めることができないから、いつものようにヘッドホンを被り、外界の音を遮断する。僕だけの空間。ヘッドホンからは「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」がパイプオルガンの荘厳な響きで聞こえる。バッハは、寒い夜に聞くと気分が落ち着く。バッハの曲を初めて聞いたのは何歳のときだっただろうか。恐らくとても小さな頃だったと思う。何か特別な所へ連れて行かれて、その場所で聞いた。昏くて、でも輝いていたそんな場所。記憶が曖昧だからかその時の記憶は靄がかかったようでどこか危うく、それでも綺麗だった。その特別な場所は教会ではなかったはずだ。僕の両親は、クリスチャンではなかったから。クリスマスも特にお祝いという風ではなく、ただ、子供にプレゼントを贈るだけ、そんな日だったから。プレゼントと言えば、僕が唯一思い出せるプレゼントに黄色い電車がある。ドクターイエローと呼ばれる車両だ。僕は幼い頃、電車にものすごい執着を持っていた時期があるらしく、その頃にサンタにねだったものらしい。今ではそのドクターイエローのおもちゃは現存していないのだけれど、今でも僕の記憶に残っているのだから大切ななにかだったのだろうか。でも、ドクターイエローとともに思い浮かぶのは、外の景色。暗い、寒空の下で、僕が詰問されている景色。たしか、あの時僕は……そう、僕はサンタからのプレゼントを盗み見したのだ。クリスマスから数日前に、父親に部屋に隠してあったそのドクターイエローを発見したのだ。その事を僕は、夜、父親が帰宅するのとともに彼に聞いた。彼は恐れたような、怒ったような不思議な表情をして、僕を外に連れ出した。それから先のことは何か問いただすように言われた以外よく覚えていない。でも、あまり良い記憶ではないのはたしかだ。

 年末だからだろうか、いつにもまして目が冴える。今日はコミケに行き、肉体疲れているというのに。ああ、確かサカナクションにバッハの旋律を夜がなんとかという曲があった気がする。その曲のことを無意識に思い出して、その中身を模倣しているのだろうか。でも、僕がサカナクションの曲を聞いたのはもう何年も前だから記憶も曖昧で、メロディすら思い出せそうにない。それにしても冷える夜だ。

 ここを書いている途中で年越しそばを食べ始める。天麩羅蕎麦。天麩羅は恐らく近くのスーパーで買ったであろう既成品で、衣が厚く、歯ごたえが悪い。硬いと思ったら、妙に軟らかくて気持ちが悪い。ゴムを食べているみたいだ。それに、今は海老天を食べているのだけれど、その海老が細く、衣の半分くらいの太さだ。これでは海老を食べているのか、衣を食べているのか分からない。でも、どちらかと言えば衣を食べているのだろう。海老天なのに。次に食べるのはイカ天。こちらを食べて改めて思ったのだけれど、油が悪いのか胃もたれしてきた。吐きそうだ。それでも、蕎麦は半分程度しか食べていない。僕は天麩羅と蕎麦を交互に見て、ため息をつくと、蕎麦をかき込んだ。蕎麦もすっかり伸びてしまっていて、あまり美味しくない。蕎麦味のする何か、柔らかいもの。僕は一体何を食べているのだろう。天麩羅蕎麦を食べていたはずなのに、ゴムと蕎麦味のなにかを食べている。気持ち悪い、吐きそうだ。

 思い返すと短い1年だと思ったのだが、8月頃は長い1年だなあとか思っていたので、長くも短くもない1年だったのだと思う。時間は流れるものだから、いや、僕自身が時間という軸に沿って移動しているから、その両方なのかな。だから過ぎ去った後だと短く感じてしまう。

 過去を想起することは痛みを伴うことだと思う。良い思い出はもちろんあるのだけれど、嫌な思い出がその姿を強調して現れるから。まるでお前の過去は悪いことしか無かったと言いたげに。だから僕はあまり過去を思い返すことが好きではない。でも人は過去があって、痛みを経験することで、成長する生き物だから、たまには過去を想起することも必要なんだと思う。だから、2018年を改めてみたい。

 生きていく中で様々なことが身に降りかかる人生。思い返してみると今年だけでなく、今までも色々なことがあった。だから今の僕があるんだけれどね。さて、今年は何があっただろう。比較的大きなことで言えば、ショート100への参加があると思う。ちなみにショート100はショートショートを複数人で100作品作り上げようという企画だ。創作初心者の僕を受け入れてくれたメンバーの方々及び、僕のツイートを見て声を掛けてくれたさつきちさんには感謝しかない。

 さて、ここまで書いて時間はもう12時を30分も過ぎている。もういくつ寝るまでもなく正月だ。

 他に何があったか思い出そうとしているのだけれど、どうも今年――いやもう去年か――の後半のことしか思い出せない。それに、そろそろ眠くなってきた。いや、眠いから思い出せないのか。頭が朦朧としているから。……そろそろ締め括ろう。

 

では、改めて。

あけましておめでとうございます。

今年もどうぞ、よろしくお願い致します。

憂鬱な言語と不在

 なんだか最近、気分が重い。いや、僕が気分の重くなかった時期なんて瞬間的なものを除けば無かったとは思うのだけれど、とりわけ最近は憂鬱だ。あらゆることに対して、意欲がない。三大欲求だってなんだか薄らいでいるような気がする。もしかしたら最近良く見る夢のせいかもしれない。夢とは、睡眠が浅いときに起こる現象だから、僕の睡眠が浅いのが原因なのだろうか。でもしっかり毎晩眠剤を飲んでいるし、毎朝起きてもすっきり……はしていないか。悪いときは寝汗をかいて、動悸がしている。僕は、焦っていたのだろう。夢の大抵は後味が悪いものだ。その細部は思い出せないのだけれど、幸福があって、その先に不幸があるそんな夢だ。一見すると幸せなはずなのに、夢の物語が進行するうちに、まるで泥濘にはまるように、不幸に足をとらわれる。そして、抜け出せなくて、さらに深みへとはまっていく。最後はどうしようもなく動けない状況で、終わりが唐突に訪れる。まるで、その先に待ち受ける顛末を見せることを躊躇うかのように。恥じているかのように。もしかしたらその先は自分の目で、現実で確かめろという意味なのかもしれない。夢だというのに、何か意志のようなものを感じる。この夢は僕の無意識から生まれた存在であるから、もしかしたら僕の意志が何か、僕に対して訴えているのかもしれない。だけど、僕はその訴えが分からない。

 僕の中に何かが足りないという感覚。周りの景色に何かが足りない感覚。僕はそういった「不在」の感覚を昔から感じてきた。居場所のなさ、というのもある種の「不在」の感覚に属するものなのだろう。最近友人らとカラオケに行った。最初こそ久々の遊びに浮かれていたのだけれど、カラオケルームで過ごす内に、孤独感を感じ始めていた。なぜ僕はこの場にいて、楽しくもないのに歌を歌い、他人の歌を聞いているのだろうか。そういった疑問が頭を擡げていた。楽しまなければならないという意識が僕を興奮させ、麻痺させていたから、浮かれているように錯覚していたのかもしれない。例え友人であったとしても、他者の脳にまで訪れることはできないのだから。畢竟、人間なんて孤独な存在ではある。だから孤独感を感じるのも仕方のないことではあるのだが。それなのに、孤独を悪とする風潮が、僕の周りには存在している。人は人と関わり合うことで、存在する。自己と他者の認識が絡み合い、交錯することで新たな認識が得られること、それは確かに一つの真理かもしれないけれど、自分の存在が自分の中で完結していること、それも一つの真理だ。僕は、僕を連れて生きていくことしかできないのだから。他者を完全に巻き込んで、一体化して生きていくことは不可能なのだから。

 鳥はその住処となる森から、基本的に離れることはない。渡り鳥だって、季節になれば、故郷の森へ帰ってくる。サケのような魚だって、母川回帰という習性を持っている。それは、世代を経ても変わらない本質的な、遺伝子に刻まれた本能なのだろう。だが悲しいかな、本能に従うがゆえに、環境の変化に翻弄されていく。森は、人間の手で伐採され、小さくなっていく。それでも鳥は森へ戻ってくる(に留まる)。川は、人間の手で堰き止められ、住めなくなっていく。それでも、魚は川へ戻ってくる。やがて、森や川がなくなったとしても、鳥や魚は「不在」へ回帰する。なにもないはずなのに、本能によって回帰させられる。そこでは繁殖すらできないというのに、本能はそこを指し示しているから、回帰せざるを得ない。本能が矛盾を引き起こす。種を絶やさぬことが根本的な行動原理であるはずなのに。僕たちはその姿を見て「哀れ」と思うだろうか。それとも「滑稽」だと思うだろうか。

 多かれ少なかれSNSに於いて、僕たちは乖離している。SNSで見える個人像はその人の乖離した人格の像であるから、現実のその人と全く同じとは限らない。もちろん、そういう一面を持っているのだろうが、それはネットの中をはじめとするの現実の自分を隠せる空間でなくては存在できない。だからこそ同じような現実には表出できない人格を持つ者同士惹かれ合う。現実世界では見つけることの叶わなかった同族がそこにいること、それはどれほど幸福なことなのだろうか。自分の存在の肯定。「不在」の消滅。SNSは「不在」の感覚を誤魔化してくれるものである。だが、僕はふとした瞬間に「不在」の感覚を得ることがある。それはきっと、画面の向こうの人が他者が僕とは遠い存在であると改めて認識してしまうからなのだろう。SNSの世界は広いように見えて、狭い。だけどその狭さも個人にとって、広漠としている。例えれば、砂丘。僕はSNSというあたり一面が砂に囲まれた地に立っていて、周りには集落がある。確かに集落一つ一つを見ていれば狭いのだろうが、砂丘全体を見回そうとすると、あまりの広さに目が回る。しかしその砂丘だって、大陸からすればほんの僅かな部分に過ぎない。

 たしか、シオランの『告白と呪詛』において「祖国とは国語だ」と述べられていた。僕は僅かばかりだが分析哲学に興味があり、その延長線上で彼の本に行き着いた。この「祖国とは国語だ」その意味を今一度咀嚼してみよう。残念ながら僕にはフランス語に関する教養がないので、独力で原文から改めてその意味を確かめることなんて芸当はできないのだけれど、今はグーグル翻訳という人類の英知があるのでそれを利用してみよう。原文の[on habite une langue]を翻訳してみると、「私たちは言語に住んでいます」となる。私たちは住むが祖国と対応していて、言語が国語と対応しているのは一目瞭然であろう。また、祖国と国語をフランス語にしてみると、前者は[Patrie]で、後者は[language nationale]となる。住む場所が祖国なのは「国語」という言葉に引っ張られたものだと仮定して、なぜ[une langue]は祖国と訳されたのだろうか。ここでシオランについて一つ知っておきたいことがある。彼はルーマニア出身の作家であるが、この『告白と呪詛』はフランス語で書かれている。それは何故だろうか。彼がフランス語を母語と呼ぶ程にフランス語に陶酔していたからであろうか? シオランはまた、『告白と呪詛』にてフランス語を称揚している一方で、フランス語を卑下している。これは一体? ……頭がこんがらがってきた。巧く、言語化できない。この続きはいつか。

 「不在」の感覚の中で僕は酩酊している。僕はこの不在を抱えた僕を疎ましく思っているのと同時に、気に入っている。これは僕なのだから、肯定しなくてはならないという強迫観念のようなものがないといえば嘘になるだろうが、僕は僕を抱えて離さない。生きることは酔うことだと思う。生に酔いしれるから、生きていられるのだと。もしも酔わずに完全に理性だけで生きていようとすれば、狂ってしまうだろう。

 

寒い夜に

 蒼月エリさんの新衣装を見て、うわあかっこいいなあ、この衣装でタバコ吸ったら映えるんだろうなあ、なんて思う今日このごろ。世間はクリスマスで浮かれ気味だというのに、僕は憂鬱な感情に、浸っている。別にカップルが俗に言う性の6時間にセックスをしようが、それは僕には関係のないことなのだから憎む道理もなく、でも、キスをしている姿や、笑顔で寄り添い合っている姿を見せつけられると、こう、なんだか、僕が道理から外れた人間の気がして、憂鬱になる。まあ、確かにある意味で僕は悖った人間ではあるのだけれど、それを他者から自覚させられると、自分が否定されたような気がするのだ。そりゃ、そんなこと僕が勝手に思っていることなのだろうけれど、そう簡単に割り切ることができれば、こうして憂鬱ではないわけで、そういう人間だから、こうして沈んでいるのだ。沈んでいるというのに、空が、近い。冷たくて暗い空。手を伸ばす。指先が冷えて、痛んだ。冬は僕を排撃しようと、痛みをもって襲ってくる。まったく、ひどい季節だ。優しくない。

 特に意味もなく、ブログの編集画面を開いて、感情の赴くままに文字を綴っている。この行為に意味はあるのだろうか、そんな事を考え、水を僅かに口に含む。この時期の水道水は冷たいから美味しい。だけど、僕は、冬が嫌いだ。寒い時期は色々と悪い思い出があるから、嫌いなのかもしれないけれど、そもそも寒いのが苦手なのだから冬が嫌いなのは必然なのだと思う。夏は夏で、頭が働かないので好きではないのだけれど、冬の、あの突き刺すような寒さはもっと苦手なのである。そろそろ盆に張った水が凍りつく季節。子どもたちははしゃぐ一方で、大人たちは憂鬱に下を向いて、身体を縮める季節。それに、冬というのは負のイメージを連想させる。クリスマスや正月というおめでたい季節だと言うのに、全体としてみれば、暗い季節だ。それは寒さが寒色を連想させるからだろうか、それとも、日が短いから? 太陽という、信仰の対象が、姿を隠す時間が増える。それは、確かに、負のイメージだ。だから、寒いのだし。

 息を吐く。白い。家の中だと言うのに、息が白いのは全くおかしくはないかしらん。家というのは暖かい場所のはずなのに、僕の部屋は冷え冷えとしている。だから、今も指先の感覚が薄いのか。こうしてキーボードを叩いている瞬間も指先の感覚は鈍くなる一方で、さらには痛みさえ感じ始めてきた。いったい、この部屋は何度だというのだろうか。体感的には氷点下だけれど、僕の住んでいる地域では今冬、まだ、氷点下は記録されていない。だからこれは僕の錯覚なんだろうね。それとも、僕がキーボードを強く叩きすぎているから、指が悲鳴を上げているのだろうか。そうだとしたら指に対して悪いことをしているなあ、と思う。こんなに寒くて、ただでさえ動きたくないはずなのに、無理やり動かして、文字を打たせている。強制労働ではないか。ここはシベリアか。シベリア、美味しいよね。緑茶と合うので好きなんです。閑話休題。そういえば、『罪と罰』でラスコーリニコフがシベリア送りになってたなあ。ロージャの悲惨な顛末にも心踊ったけれど、それ以上にソーニャという救いがあることが、僕にとって、大切だった。『罪と罰』が僕の大切な本なのは、苦しい時に、救いがあり、それが見えるのだけれど、でも、それを受け取れないその残酷なところが、僕の柔らかいところにすっと収まったから。それに、聖書を読むきっかけになったのはこの本だしね。まあ、僕自身、聖書を読めど、神は信じないし、むしろ神様なんて唾棄すべきものだと思っているふしがあるのだけれどね。

雑記11

  今日も耐え難い虚しさを抱えながら文章を綴る。いや、これは文章というよりも文字の羅列に過ぎないのかもしれない。別に私は何かを残したくて綴っているわけではないし、ただ書き散らしたいから、その気分の赴くままに書いているだけなのだ。子供の頃の印象的な出来事を夢に見た。おそらくだけれど、それは私が小学校低学年の頃の記憶だと思う。もちろん脳なんて代物は記憶を都合よく改ざんするものだし、だからその記憶が完全に現実に起こったことと同一なんてことは無いと思うし、現に私だってその夢に見た出来事が本当にあった出来事なのか分からないのだけれども、まあ、印象に残っているのだから文字に残そうと思ってブログを開いたわけで、でもブログを開いたところで別に面白くもなんともない、しかも脳による創作かもしれないこの出来事を書くことは必要なのかと思い始めたのだけれど、そもそもとしてブログを書くこと自体が別に必要なことかと言われれば必要ではないのだから思い悩む必要はなく、こうしてうだうだと言い訳がましく文字を綴ることに何の意味があるのだろうか?

 庭に置いてあった木片をどかすとそこには小指の先ほどの小さな白い物体が三四個あった。恐る恐る人差し指で突いてみると、柔らかく、私はぎょっとして仰け反った。蜥蜴の卵だった。白くザラザラとした表面には結露が付いていて、一見するとキノコの一種に見えた。多少の恐怖を感じながら、私はその卵を手にとって、転がしてみた。ころころと手のひらの上で転がる白い塊は、生命の息吹を感じさせることもなく、ただ転がるだけだった。私は最初こそ好奇心でその様子を眺めていたのだけれど、急につまらなくなって、元の場所に戻した。木片も戻しておこうかとも考えたのだけれど、でもそれではこの発見が意味のないものになってしまうように感じられて、私は何か、自分の事を刺激してくれるようなことができないかと考えた。白い卵を見つめたまま何分も経って、ようやく私はあることを思い付いた。私は嬉しくなって、直ぐあたりを見回し、手近な木のを拾った。私が思い付いたことはこうだ。

「卵に穴を開けて、その中を覗いてみよう」

 子供というのは好奇心の権化と言うべき生き物で、こうした残酷な行為もまったく意に介さずに行う。私も一人の子供であったから、なんの躊躇もなく卵に枝を突き立てた。中からはどろりとした液体が流れてきて、私はそうなることが分かっていたはずなのに驚いた。卵が生命だということに改めて気付かされたのだ。まるで血が流れ出るかのように液体を垂らす卵に対して、私は恐怖し、その場に投げ出してそこを去った。後日その場を見てみると枝の突き刺さった卵は依然としてそこにあり、なんだか私のことを恨んでいるかのように思えた。生命に対する冒涜を感じた。と同時に私はなんだか神聖な気分になって、恐怖と恍惚が入り混じった気分でその卵を踏み潰した。はっきりとした感触はなかったはずなのに、私はなにか大きなものを潰している気がしていた。気が済んでから卵のあった場所を見ると、そこにはぐちゃぐちゃになった土しかなかった。残ったのは虚無ばかりであった。 

雑記10

〈イタリア料理店〉

 家から徒歩数分のところにある料理店が閉店していた。確かイタリア料理を提供していた店だった気がする。軒先に三本線のはいった国旗を掲げていたからそうに違いない。あれ、でもフランスだとかロシアだとか三本線の国旗だ。でもまあ、もう潰れてしまった店なのだから何料理を提供していたのだとしても私には関係のないことである。私とは関係のない場所でも常に時間は進行し、何かが勃興しては廃れていく。諸行無常とはこういうことであろうか。実に虚しいことである。と、思ったのだけれども、私はあの店にほんの僅かでも興味があったわけではなく、ただ、閉店して初めて興味を持ったわけなのだから、それほど虚しいとは思っていないのだろう。失って初めて気づくことが有る、というのはよく言われることだけれど、まあ実際そうなのだろうけれど、失ったところで自分とは何も関係が無いのであればどうでもいいことに変わりはない。きっと世の中の殆どは自分の興味外のもので構成されているのだから、全てに目を向けるのは不可能なわけで、とそんなことを考えているうちにも何かが失くなっていくのだろう。しかしやはりそれはきっと私とは離れたものなのでどうでもいいのだ。

 

〈信仰について〉

 どうしてか私は何かを信じるということができないでいるのだ。人が信じられない。愛が信じられない。善が信じられない。宗教が信じられない。すべてが信じられない。あるいは信じられるのは自分だけかと思ったのだけれど、自分は偽りに満ちていて、だいたい自分が自分に対して偽りの景色を見せたりするので信じようとしても信じられないのである。ああ、何を信じればいいのだろうか、ねえ、そこの無機物さん、僕になにかいい方法を教えてくれないだろうか、と机や椅子に話しかけてももちろん無視されるので何も信じられなくなる。なんだよ、普段は夜中になると話す時だってあるのにさ、こうやって私が意識を向けると黙ってしまうなんて、それは良くないことですよ、ええ、ええ、それは良くないことなんです。無視というのはですね、人を傷つけるんですよ。いじめも無視から始まるものですからね。まあ、そんなことはどうでもいいのです。話の主題は信仰についてなんですから、とそんなことを考えている自分が信じられないので私はいつも戸惑ってしまう。だけれども、信じたいという気持ちが強くあるので、私は信じることについて暇があれば考えてしまうのである。

 信じるということ。人間というのは何かを信じることが基本的であると、私は思っているのだけれど、それは自分自身であったり、未来だったり、愛であったり、友人であったりするのだが、ここのところ私にはそういったものに対する信仰が薄い、というよりも持てないでいるのである。大抵の人々はそれがいかに漠然とした形であろうとも信仰を持っているはずで、だけれども私には自分の中に信仰が見いだせなくて、いつも懐疑的になってしまうのだが、そのせいで最近は家から出るのも辛く感じてしまうのだ。だって外という世界に対して信じられないのだから家から出るのが辛くてあたりまえでしょう? 信じられないってことは全てが敵に見えるってことで、それは常にストレスで頭痛がすることと直結しているんです。ああ、でも頭痛と言えばロキソニンをよく飲むのですけれど、最近はそれの効能が薄くなってきた気がして、やはり信じることができなくなってきているのであるのだから、ああ、なんで僕は生きているのだろうなあ、薬に頼って生きているのは生きていることなのかなあ、というか最近は頼っているって感覚も薄くなっているから生きている感覚も薄くなっているように感じられるのだけれども、まあ、生きていようとも生きていなくともなんだか変わらない気もしてくるわけでありまして、でも生きているのならそのままであるのが一番なのだから、というか未来が信じられないので現状維持に甘んじるわけである。自分の全てが信じられないこの感覚は薄ら寒くて、不安でたまらなくて、ガタガタと震えてきて、絶望してしまう。絶望は罪だとかキエルケゴールは言っていた気がする。私は罪を背負っているのですか、そうですか。でも死に至る病は信仰によって救われるといった旨の話だったはずだ。あれ、だとすれば何も信じられない私に救いは訪れないではないか。まったく、困ったものである。信仰できないのだから絶望しているわけで、その絶望から快復するためには信仰が必要であると、まったくどこの笑い話だ。

 

〈愛について〉

 愛することとはどのようなことだろうか。セックスすることだろうか。まあ、たしかに愛の形の一種であるのだと思う。だけれども、愛というのはそもそもとして無形のものではなかっただろうか。それなのに、特定の行動に勝手に愛があるとタグ付けしてそれを称揚するのは間違ってはいないだろうか。そもそも愛なんて存在するのだろうか。そんなことを考えてしまう私ですけれど、愛というものを欲しがる人間ではあるのです。しかし決して愛を信じているのではなくて、愛を信じるために愛を知りたいという話なのだ。私だって一人のえろげーまーですから、愛を題材にした作品を多く目にしてきたわけで、でも私にはその素晴らしさが全く分からなくて、きっと愛とは傾倒することなんだろうなあ、なんて考えながら冷めた目で画面を見つめるわけなのだ。傾倒とは盲信である。盲信できる人はいいなあ、自分を忘れることができるのだもの、自分を信仰の中に埋没させて現実を見なくて済むのだから。私はと言えば、愛を冷めた目で見つめるような愛の殺人者でありますから、一向に自分を忘れることができなくて、ああ、なんで愛について語ろうとしていたのに自分について語っているのだろうか、気持ち悪いなあ、気持ち悪いと感じるのはそのに愛が無いからだろうか。自己愛がないから私は苦しいのか。探し求めたのは愛でした、夢見たものも愛でした。しかし愛は見つかりませんでした。無形のものを探すこと自体、馬鹿げたことだったんだと思います。無形のものであるなら、それをなにか型に閉じ込めてから見つけなくてはいけなかったのに、それを忘れて無形を探そうとしていたのだから当然でした。セックスとは愛を閉じ込めた形なのでしょうか。しかし私には一向にそう思えません。愛はなくとも、性欲さえあればセックスはできるのだから。性欲が愛なのではないか? 私にはよくわからないのだけれど、多分違うと思います。

 

断片を見ゆ〈VA-11 Hall-A 感想・レビュー〉

◆はじめに

 『VA-11 Hall-A』について語る前に1つ個人的な話をしておきたい。題で興味を持ってこのブログを閲覧した方には申し訳ないのだけれど、しばし付き合って欲しい。

 

 愛してやまない本がある。小説ではない。それは決して何かを教えてくれる本ではなく、ただ読者を深淵へと導き、惑わせる本である。だけれども、その惑いが残した違和感が私を惹きつけてやまない。

 その本の名を『断片的なものの社会学』という。

 社会学者である岸政彦氏が書かれた本で、内容はというと、テーマも統一感もないため内容らしい内容はない。彼は社会学者として様々な人々から聞き取り調査を行ってきたのだが、その中には分析も解釈もできないものがある。そんなとりとめのない「人々の語り」、言い換えれば一般化も全体化もできない人生の断片、そんな語りを言葉にしたものである。内容がないこと、それ自体が内容なのかもしれない。

 人生とは様々な断片が積み重なったものである。その断片1つ1つは無意味で、一見すると取り上げるには値しないものかもしれない。しかし、世界というものはそんな無意味な断片が積み重なってできていることを想像して欲しい。道端に転がっている石1つにしたって、そこに存在するまでに過程があったはずだ。瓦礫を大量に積んだトレーラーから零れ落ちたのかもしれないし、もしかしたら小学生の集団が石蹴りをしてそこまで運んできたのかもしれない。途中、アスファルトによってその身を削られたことだだって想像がつく。こんな風にどれほど無意味そうなものにも背景がある。この本はそんな道端に転がる石に焦点をあてたような物語の集成なのだ。

 そんな一見すると無意味だけれど魅力に溢れる本、その中の数ある話から1つ私が好きなものを選べと言われると困ってしまう。どれも不可思議で、だけれども魅力のある話なのだ。しかし、1つ取り上げるとすれば……「海の向こうから」であろうか。

 私たちには、「これだけは良いものである」とはっきり言えるようなものは、何も残されていない。私たちができるのは、社会に祈ることまでだ。私たちには、社会を信じることはできない。それはあまりにも暴力や過ちに満ちている。

 私たちはそれぞれ、断片的で不十分な自己のなかに閉じこめられ、自分が感じることがほんとうに正しいのかどうか確信が持てないまま、それでもやはり、他者や社会に対して働きかけていく。それが届くかどうかもわからないまま、果てしなく瓶詰めの言葉を海に流していく。

 岸政彦『断片的なものの社会学

 これは「海の向こうから」から一部抜粋したものだ。この文章を読んで何を思っただろうか。何も感じないし、何も思わなかった? それでもいい、何を思うかどうかなんて人それぞれだ。

 

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 

 

 

 

 ◆『VA-11 Hall-A』について

 その退廃的な世界観だけでなく、当意即妙な会話や示唆に富んだ台詞が魅力的な本作。私は最近、ふとしたきっかけで再プレイしたくなり再プレイした。そこで何か文字に残したいと思い筆を執ったわけだ。

 『VA-11 Hall-A』についての感想・レビューを綴っていくその前に本作について軽い説明をしておきたい。『VA-11 Hall-A: Cyberpunk Bartender Action 』は2016年にSukeban Gamesが発売(日本語版は2017年に発売)したVisual Novelである。

 政府は腐敗し、大企業(財閥)は癒着し、民衆は暴徒と化し、犯罪は蔓延している、そんなサイバーパンクディストピア「カラカス」グリッチシティ」の片隅に存在するバー「VA-11 Hall-A」が本作舞台だ。また、そこに務めるバーテンダーのジルが本作の主人公である。このバーには世の中の喧騒から逃れてきた人々が、まるでオアシスを求めるかのようにやってくるのだが、このゲームでは主人公となって、そんな彼らにカクテルを振る舞うことで進行する。いわゆるサイバーパンクものにありそうな、主人公に降りかかる不条理な厄災や手に汗握る熱い展開はない。ただ客にカクテルを提供し、彼らの話を聞き、たまには自分の話をする、それだけである。これだけ聞くと、つまらない、と思う人もいるかもしれないが、その結論に達するのは些か早計であろう。人には人それぞれのドラマ(歩んできた人生)があり、それはもちろん主人公にしたってそうだ。私たちプレイヤーはそんな彼らを覗くことで彼らの人生に入り込み、そこに介在する生への欲求を目のあたりにするのである。

 

 できるだけネタバレは防ぐつもり……と言いたいところだが、残念ながらできそうにもない。だが、恐らくこのゲームに致命的なネタバレというものはほぼ存在しないと思うので多少は安心して欲しい。前述のようにこのゲームには主人公に降りかかる不条理な厄災も無ければ、手に汗握る熱い展開もない。あるのは彼ら登場人物達の人生とそこから派生する祈りだけである。もしも彼らの人生を、そして祈りをその目で見たいという方がいれば、ここでお引き取り願いたい。ではそろそろ本題を綴ろうか。

 

 

 

◆VA-11 Hall-Aとはどのような場所であるか

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 バーという空間は不思議なもので、自分の秘密をポロリと零してしまうことがある。それはお酒が入っているからなのかもしれないし、その空間(雰囲気)がそうさせるのかもしれない。あるいは、対面している相手が赤の他人であるからこそ話せる秘密があるのかもしれない。

 「VA-11 Hall-A」には様々な客がやってくる。ハッカー、賞金稼ぎ、大企業の令嬢、治安部隊の隊員、犬、アンドロイド、ガラス容器に入った脳など……。彼らは彼らの赴くままにこのバーにやってきて、カクテルを飲み、語る。その語りは彼らの人生の断片そのものだ。誰しも過去があり、悩みがあり、欲求があり、 希望があり、想いがある。もちろん主人公にだってそうだ。主人公のジルは彼らの人生の断片を汲み上げ、雰囲気に沿ったカクテルを提供することで相手の語りを促す。バーカウンターという境界があるからだろうか、客は彼らの抱えている何か、柔らかい部分を見せてくれることもある。その姿を俯瞰する私たちプレイヤーは何を思い、何を考え、何を想うだろう。

 

 薄々お気づきの読者の方もいらっしゃるだろうが、はじめに『断片的なものの社会学』を取り上げたのは、この『VA-11 Hall-A』というゲームがまさに断片的なものの社会学であったからだ。内容らしい内容はなく、存在するのは登場人物らの人生とほんの少しのストーリー。だけれども、この鬱屈とした街の片隅で紡がれる群像劇が惹きつけてやまないのだ。閑話休題

 

  例えば、序盤(一日目)から登場するキャラクターでイングラムという男がいる。正直はじめの印象は良くないのだが、その理由が分かれば見方も変わってくる。彼は娘を亡くし、その原因であるGNB(ボリバル国軍)ホワイトナイト(治安部隊)を憎んでいた。そんな彼は殺し屋を雇ってそのホワイトナイトを殺害、だが彼が充たされることはなかった。全ての感情を失ってしまっていた。憎しみを燃やし尽くした先には何も残っていなかったのである。

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  そこで彼は何でもいいから感情を抱けないかと少女を雇った。彼女に娘と同じ服を着させ、同じ振る舞いをするようにと。

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  悲痛な嘆きを吐き出すイングラムに対してジルは慰めの言葉をかけるのだが、その後彼は今の話は真っ赤な嘘なのかもしれないとジルをからかい、店を去ったのであった。

 彼の話の真偽はどうでもよい(進めればおのずと分かるので)。私が言いたかったのは、このように「VA-11 Hall-A」には悩みを抱えた人(だけでないけれども)がやって来ては、懺悔をするかのように自分の過去や悩みを語る。それを引き出すのがジルなのだ。が、ここで読者に対して質問がある。あなたがたはバーテンダーについてどのようなイメージをお持ちだろうか。カルテルを作るのが巧い人? なるほど確かに間違いではない。しかしそれだけだろうか、カクテルを作ることが巧ければそれでバーテンダーであると言えるのだろうか。欧米ではどうやらそうではないらしい。もちろん日本が劣っていると言いたいわけではないのだが、日本は技術を重視する傾向にある一方で、欧米では客の機微を察して(たとい技術が稚拙だとしても)カクテルを出すことを重視する傾向にあるそうだ。このゲームは海外製であり、バーテンダーに対するイメージもそれに準拠するのだろう。ときには客が頼んだカクテル以外のカクテルを出すものバーテンダーの務めなのである。

 「VA-11 Hall-A」とは、抑圧的で緊張が絶えない世界において、鬱屈した感情を抱えた人々がカクテルを飲んで気分を紛らわし、過去を吐露することで瞬間的だがしがらみから開放される場なのだろう。少しメタな発言をすると、開発元のSukeban Gamesはベネズエラのインディーズであるのだが、ベネズエラという国は現在進行系で政治や経済が混乱しており、治安が悪い。崩壊へ向かっているのだ。そのせい、いや、だからこそだろうか、本作で描かれる狂った世界でも普通の生活を送ろうとする人々の苦悩や生への渇望はリアルで、読者に感銘を与える。

 リアルといえば、主人公であるジルの生活もリアルだと思う。彼女は有望な学生だったのだが、恋人とのとある諍いで「VA-11 Hall-A」へと逃げてきた(正確には飛び出してたどり着いた)。彼女の現在へ至るまでの経緯とその悩みもリアルだがそれは置いておこう。実際にプレイしてもらうのが良いと思う。彼女はバーテンダーという将来性のない仕事(しかし仕事ではあるのだ)をしており、決して裕福とは言えない。例えば、ゲーム中でクリスマスパーティがあるのだが、(ジルだけではないのだけれど)ふさわしい服装として仕事着を着てきている。ここから彼女が高価な服を買う余裕が無いことが伺える。しかし、ちょっとしたインテリア程度なら買う余裕はある(この散財癖が彼女を家賃滞納という窮地に立たせているのだが)ようだ。裕福ではないけれど、小さな満足を買う彼女の姿は、私たち読者も思うところがあるのではないか?

 なお、ジルの最初の所持金がゼロなのはフォア(ジルが飼っている黒猫)の去勢手術をしたためである。

 

 ベネズエラについて興味のある方はこちら(https://venezuelainjapanese.com/)のサイトを覗いてみるとベネズエラに関する見識が深まることだろう。また、『VA-11 Hall-A』を別のperspectiveから読むことができ、穿った見方ができるかもしれない。

※約2年前で更新は止まっているが、ゲームの開発当時のベネズエラの情勢は分かるだろう。

 

 

 

◆ドロシー・ヘイズ

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 ドロシー・ヘイズはリリム(アンドロイドのこと)であり、セックスワーカーだ。作中ではロボット3原則は廃止されており、そのことについてドロシーが言及するシーンがあるのだが、そのシーンが本作に於いて私のお気に入りのシーン1つ――そのシーンに限らず、ドロシーの過去や悩み、それに性格までも気に入っている。要はドロシーがお気に入りのキャラの1人――なのだ。

 

「ロボットは人間に危害を加えてはならない。人間に危害を加えろという命令でないかぎり人間に服従しなければならない……人間に危害を加える結果にならない場合にかぎりロボットは自らの身を守ることができる」

まったく…。最初のAIっていうのは人間にとってただのお役立ちツールだった。

でも、AIが自我に目覚めたあとも同じ原則を使い続けるなんて無茶だよ。

マトモな神経の人は古い本に書いてあることだけが正しいだなんて思わないでしょ?

 この台詞を初めて読んだとき、私は感動して思わず唸った。その頃はたしか、AIに関する本を多く読んでいた時期だった。私の興味はAIの有視点的世界の獲得と自我の成立にあり、AIが自我を持ったその後のことにはほぼ無関心であったように思う。なるほど確かに3原則という旧態依然とした考え方に固執しているのは改めて考えると馬鹿らしい。いつまでも特定の考え方から離れられないのは宗教めいた思考であるとも言えるのではないだろうか。

 また、ジルはドロシーの話を聞いて、3原則に関して以下のように言及している。

(前略)後世の作家たちはそれを物理の基本原則か何かのように崇めた。そして他の例に漏れず自分にとって都合のいい箇所だけを精選し、誇張し…その3原則を利用した。 

 3原則とは過去の遺物であり、それ自体人間のエゴによるアンドロイドを組み敷くためのものであった。やはりそのような考えはアンドロイドにとって許容できないものであったに違いない。アンドロイドがリリムとして成立するまでにどのようなことがあったのかは想像するしかない。しかし私は、この『VA-11 Hall-A』という世界観の断片から深い部分を想像することこそ本作の醍醐味だと思うのだ。

 

「何だかユーウツになってきたから、話題を変えよう」

 

 私は『VA-11 Hall-A』をプレイした後、(かなり期間は開くが)『トリノライン』※R18 というVNをプレイした。この作品でもアンドロイドが登場するのだが、その世界では3原則が適用されていて、アンドロイドには人権がなかった。私は『VA-11 HALL-A』をプレイした余韻がまだ残っていたこともあってか、アンドロイドが危険な存在であるとされている『トリノライン』はどうにも肌に合わなかった。「機械と人間の差をいかに超えるか」がメインテーマにあったと思われるので致し方のないことなのだろうが。閑話休題

 

 また、ドロシーはリリムとして視点から死や自分の存在について考える場面があった。そのことがドロシーが本作の中で生きていると思えたのだ。

リリムの全データベースは定期的に〈コレクティヴソース〉にバックアップされてる。

リリムは、肉体が破壊されても元の性格と記憶を完全に保持したまま再稼働できる。

だから…あたしたちが考える”死”はちょっとかわってるかもしれない。

でも、死への恐怖はあるんだよ…

 

 アンドロイドと死……そういえば『トリノライン』でもそんな話があったなあ、生きている時間の差を埋めようとして……

 

 

 

 

◆フォア

 ジルは本作の主人公であり、基本的に彼女の主観に基づいてゲームは進行する。もちろん読者は彼女に移入すると思うのだが、ときには別視点からジルを見ることがあるのも本作の特徴と言っていいのかもしれない。ジルにはフォアという黒猫のペットがいるのだが、彼女が家にいる時、彼女はフォアと話をする。例えば掲示板で「ヴァルハラとかいうバー」というスレを覗くのだが、その際に

ジル:私って自己中?

”フォア”:だね。

  と短いながらも会話をする。この会話がジルの妄想なのか否かは判断がつかない。が、犬がしゃべる(なお、そのための装置がある模様)世界なのだから猫が話しても何の不思議もないだろう。

 さて、このフォアなのだが、彼は本作に於いてジルというキャラクターの客観視という非常に重要な役割を果たしている。もちろん作中での他キャラとの会話でジルというキャラクターの輪郭は形作られているが、フォアによってジルがより濃く描写されるのである。それがよく分かるのはゲームが始まってから直ぐ、バーへ出勤する前の部屋での会話だろう。ジルは手紙を発見するのだが、

”フォア”:で、誰からの手紙?

ジル:誰でもない。

 と会話するのである。この些細な会話からジルが何かを隠しているのが分かる上、それが人ではないフォアにすら話せないことだと想像できるのだ。

  

 このようなキャラを立たせるための丁寧な作りは他のキャラにも当てはまり、物語を重厚なものに仕上げている。

 

 

 

◆ 終わりに

 「VA-11 Hall-A」ではカクテルの提供を介してその相手話を聞き、内面を見る。そこにあるのは歪められた自己であり、断片である。バーテンダーとなった私たちはその断片を拾い集め、重ね合わせる。何が見えるかは実際にプレイして確認していただきたい。きっと、少なくとも1つは、自分の琴線に触れるものがあることだろう。

 他者が存在し、彼らにも生活があるとすれば、そこには社会が形成される。『VA-11 Hall-A』は「グリッチシティ」という架空の未来都市を舞台に、そこで形成されている社会を、人々を通して描写している。そこにあるのは世界に対する絶望や憂悶の物語ではない、前を向いて生きようとする人々の祈りの物語である。

 

 最後に、そこに生きる彼らと、この生きづらい世界に住む私たちに、この一言を捧げたい。

 

「一日を変え、一生を変えるカクテルを!」

 

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断片に関しての雑記

 

 何も起きないし、何も残らない。

 雑記そのものです。

 

  駅構内、エスカレーターの手すりの側面に張り付いたガム。元は何色だったのだろうか、黒ずんでいて今ではもう分からない。私はそのガムを見つめ、爪で表面を引っ掻いた。現れたのは薄い緑色の断面。そこで私はそのガムに対する興味を失くした。そしてガムが貼り付けられた背景を考えた。

 噛んでいたのは都内の会社に勤務する40歳の男性で、彼は口の寂しさからガムを噛んで通勤することが習慣となっていた。いつもなら会社と家を往復するまでに味が無くなることなどなかったが、この時は違った。電車の遅延によって帰る時間が大幅に遅れたていた。家の最寄り駅まであと数駅、彼はイライラしていた。それに口の中に留まり続けるガムは既に味を無くし、噛むことによる快感はおろか、その舌に触れる触感に吐き気を感じていた。もう一つガムを口に含んで味を付け足すことも考えたが、今は遅延の影響もあって電車は満員、手を動かすこともままならなかった。やがて駅に着き、男は安堵した。これでやっと家に帰れると思った。しかし口の中にあるガムがどうしても不快だった。男はイライラしていたこともあって、口から吐き戻すように取り出したガムを手元ーーエスカレーターの手すりーーにくっつけようとした。しかし男は小心者であった。堂々とガムを公共のものに貼り付ける行為はできなかった。だから彼は手の中にガムを隠し、後ろの人に悟れられないようにこっそりと手すりの側面に貼り付けたのだ。

 私はこうやって生活の中に落ちている意味の無い断片に触れ、夢想することがよくあった。何を得るでもない意味の無い創作、自分だけの物語。暇つぶしにしたってやることが地味すぎる。しかし私はそれで僅かな満足感を得ていた。他人の人生を覗き見する時に特有の奇妙な罪悪感と興奮とが混じり合った感情。それを擬似的に作り出していた。

 この世界には一見して無意味な断片が溢れている。それは服装や机に残された落書き、道に落ちているゴミひとつとってもそうだ。しかし、全て足跡であり、生活であり、人生のある。塵も積もれば山となる。その断片を集めた時、私達は他人の人生の一端を覗くことができるのだ。さっきのガムにしたって、それを噛んで貼り付けた人がいるのだから、その奥には生活があり、人生がある。それを意識すれば違う世界が見えてくる。少なくとも今、私達は一人で生きているのではなく、人が作り出した世界の間隙に生きているのだと思えるのではないだろうか。

 例え断片から他人の人生を覗き見したって何が起こるでもない。打ち寄せては去る波のように私の胸で僅かにさざめくのみだ。そのさざめきに何を見出すのかはその人次第。その音の波長と自分の持っていた音の波長があった時、自分を見ることがある。他人の人生に自分を見出すのである。

 しかし他人の人生を覗き見すると言っても、見えるのは断片を介したものであり、必然的に見える人生はほんの一部でしか無いことを留意しなければならないのではないだろうか。見えるのは全体像であったとしても面であり、多面体である他人のほんの1つの面しか見えない(いくつかの面にわたって見えることもあるけれど、決して裏側は見えない)。

 

 

 鋭い断片は自分を傷つけることもある。それはトラウマの想起かもしれないし、それ以外のものかもしれない。

 断片に触れるということは、他人の人生に触れるということであり、自分の柔らかい部分(指先とか)で触れることである。触れるものが鋭ければ鋭いほど自分が傷つく可能性は上がる。そしてついた傷が腫れるかもしれないし、膿んでしまうこともあるかもしれない。

 しかし私達は生きていく上で常に他人の人生の断片に触れているものだ。意識しなくても他人と関係している。だから生きているだけで傷ついてしまうことがある。傷口が膿んで病んでしまうことがある。自分では治療法がわからないから傷口が壊死してしまうこともある。生きていくのは難しいものだ。