万年筆と神経毒

浸潤する言葉を。

『真昼の暗黒』プレイした(追記あり)

 タイトルの通り、隷蔵庫(Summertime)様の『真昼の暗黒』をプレイした。簡潔に述べるのならばプレイできて良かった。文章がとにかく佳い、ドロドロとしていて、陰鬱な感じがたまらなかった。一々描写が丁寧で、何箇所も唸る部分があった。例えば

団地も、遊歩道も、等間隔に植えられた銀杏の木も、あんず色に溶けている。

夏の夕日はいつだってむせかえるような情景を作り出す。

密かな嬉しいため息を、蝉の鳴き声がかき消した。

夏の前では、私の話す言葉は、全てぬるい空気の中に消えてしまう。

私たちの会話も暴力も争いも、全て夏の1日となって、

コンクリートに撒かれた水とともに蒸発してしまうのだ。 

これとか。好き。嫉妬するくらい。儚いメランコリックな夏の一日の終わりという感じがする。 他にも好きな文章はあったけれど、まあ書くのは面倒だし、そんな引用ばかりしていても意味がないと思うので、これで終わり。はい、次に行きましょう。

 演出もかなり佳かった、色々と書いてしまうとネタバレになってしまうから書かないのだけれど、小説ではなくてゲームとして成立しているのが流石だなあ、何故あのような文章や構成になっているのかが、まさしくゲームだからこそできる表現って感じ。ひえー、よくフリーでこれ公開しているよね、完成させるまでの熱量を思うと目眩がする、僕だったら絶対にできないよね、ただただ圧倒されてた。

 あ、こういう作品にありがちなのだけれど(批判じゃない)(というか僕もそうだし)猫、殺してしまうよね。なんでだろうね、猫って作中で殺しやすいのは。そういうシーンを書くと悲しくなって、苦しくなって、ああ、なんで僕は作中だからと言っても猫を殺してしまったんだ! ごめんよ、本当はそんなつもりはなかったんだ、ごめん、ごめんなさい……ってなる。読んでても、そう。やっぱり辛くなる。僕はもう死んでしまったけれどペットを飼っていたから生き物に対する思い入れはかなりあるためなのかなあ、でも作中では猫を殺しました。ごめんなさい。で、なんで猫を殺してしまうかだったよね、僕が思うに犬よりも猫のほうが(人から離れたものとして)独立した生々しい生命としてありふれているから殺すんじゃないかなあ。生き物ってさ、気持ち悪いじゃん、可愛い可愛いと表象では思うけど、やっぱりどこか不気味で、自分とは別の存在で、無機物とは違って生きている、それで完全には受け入れられないんだよ。猫に限ったことじゃない、人間だってそうだ。他人が生きている、気持ち悪い。でも僕たちって他者がないと存在できないから、そう思うと自分って、生きてるのって、悍ましいよね。吐き気がする。実際には吐いていないけれど、心の中でげえげえ吐いて、喉の粘膜が爛れているんだ。この『真昼の暗黒』もなんだかそんな感じがする。血と、死体と、精液が入り混じった臭いがしているけれど、その奥に吐いた後の饐えた臭いがするんだ。

 物語の登場人物が皆、過去も性格も屈折し過ぎてて、ああやっぱりこの作者歪んでいるなあ(褒め言葉です)、と思った。人のことを言えない? 煩い、黙れ。で、別にこのブログで考察もネタバレするつもりも毛頭ないので、あまり書けないのだけれど、計の性格がかなり好きだった(ミサもだけど)。仮面を貼り付けて、他人の好奇の視線を飄々と躱す感じとか、仮面の下で常に思考していて、毒を吐いて、でもそれを決して表には出さないあの性格。実際にいるよね、ああいった人。僕も昔あったことがある、小学校の先生で、いつも真面目そうな顔をしていて、給食の時なんかは生徒と笑い合っているのだけれど、眼は笑っていなくて、それにしては周囲の人間に慕われていて、でもやっぱり空恐ろしくて、教室を出る一瞬に見せる真顔が凍てついていたあの人。名前は忘れてしまったけれど、僕はあの先生が嫌いだった。特に最悪だったのは家庭訪問で、僕の壊れやすい部分を見通された気がして恥ずかしかった、きっとあの仮面の下で嘲笑しているのだと思った。閑話休題。計で好きだったシーンは弱い部分を晒して、喘いでいるところ。自分の趣味に没頭して盲目的に愛しているところも佳かったけれど、やっぱり弱い部分を見せるのが一番よね、と僕は思った。……文章が滅茶苦茶なのは目を瞑って下さい、今はあまり頭が働かないんです。

 文章と言えば、作者さんかなりの本を読んでいるのだろうなあ、と思った。矍鑠とか普通使わないし……。あと、ヘリンボーンのリンネル(作中は漢字表記だっけ、忘れた)で聖骸布を表現しているところとか知識の深さに驚いた。語彙が豊富だからというのもあるのだろうね、鋭い比喩表現が読んでいて心地よかった。文章が巧いと読んでいて飽きない、内容が佳くても文章が悪いと読み続けるのが苦痛だったりするから、その点『真昼の暗黒』は読んでいて爽快感があった、内容は爽快とは言い難いけれども。小説を読んだ時みたいな読後感で、今もロキソニン飲んだ後みたいな余韻の中にいる。

 

 短いけれど、ここで終わりにしとく。追記するかもしれないけれど、その時はその時ということで。

 本当に佳い体験だった、読んで下さい。

freegame-mugen.jp

 

(2019/06/14 追記)

 

ここからはネタバレ込みで綴っていく。

 計と深沙の関係性がなんだか僕には『虐げられた人々』のワーニャとネリーを彷彿とさせてくれて、こういうのいいなあって、共依存というのかな、でも少し違うか、名前のない関係性。計は深沙が居なくても成立するのだろうし、深沙は……どうなのかな、計が居なければ成立しないと思うのだけれど(でも確実に駄目な方へ向かっているのだろう)、計が居なくなればそれはそれで破滅しそうな臭いがする。どこまでも終わった人間って感じで最高よね、人生が詰んでいる人間は救いを求めて突拍子もないことを行いそうだし、深沙からはひしひしとそれが伝わってきた。埃っぽくて暗くて狭いアパートの一室で、自分を慰めて、嫌悪して、でも計に捨てられたくないから泣いて、しかし計は自分の人生を滅茶苦茶に破壊した人だから憎悪しなければならない、しかし姉を殺されても自分の深い部分には響かなかったような子供であった深沙にとって今の計は(姉や友人を殺したという自己に深く関係する側面が大いにあるのだろう)(ある意味では唯一の理解者)姉以上に大切な存在となっていた、いや、深い部分に響いてなかったというのは嘘なのだろうね、ただ鍵をかけて深い部分に過去を眠らせていただけなんだ。あるいは死体として聖骸布を被せて記憶の川に沈めたとでも言おうか。斜に構えた可愛くない小学生だったミサにとって人生を巧く生きる方法は、人生をわかったふりをして、直接的な苦痛から逃れることだったのだけれど、姉の死や穣介の失踪を期に「私は捨てられた」とどこかで思ってしまった、でもやっぱりそれは受け入れきることの出来ない事柄だったから、深沙はミサとして過去を封じ込めた。ずるずると成人するまで計と不安定な関係性を保ちつつ生きてしまった深沙はもう正常な生き方というものが分からない。この関係性は駄目なのは頭では分かっている、でもそれを今更変えろって土台無理な話じゃない? だからせめて自分を変えようと、手記を綴っていた。幼少期のミサに戻って、過去を、あの自分のすべてを変えてしまった事件について書いていた。でもそれは過去に眠らせた記憶を引きずり出す行為で、傷口を抉って白い神経を取り出すような苦痛を伴うものだったから、混乱してしまい、徐々に深沙は自分が深沙なのかミサなのか分からなくなる、11歳、今度はちゃんと言えた。計もそのことは薄々と感づいていて、やがて深沙のミサとの決別の儀と共にそれは判明するのだけれど、計はそのこと(つまり深沙が告発文を書いていたこと)に関して発表するかは深沙に任せると言う。僕は計が惰性で生きていたからそう言ったのだと思った。計にとって生きることは屍姦することで、しかし年を経るごとに屍姦をする頻度は減少していった(あれ、そうだっけ、記憶が朧気で曖昧だ)、それが意味しているのは生きることへの執着が失くなってしまったからなんじゃないかなあ、でも計が本当に求めていたのは特殊EDや計の過去で語られるマゾヒズムへの傾倒、自分が虐げられることであって、僕が思うに計は生きた死人であったからそもそも生きることへの執着はなかった。計は暑い日だったという理由で(異邦人みたいよね)事件を起こすような少年であったから、僕はそんな論理が飛躍している計の気持ちなんてものは分からない、きっと深沙を引き取ったのだって論理が飛躍していたからだったのだろうなあ、明確な理由なんてものはなく、ただ漠然と引き取ってもいいか、というような理由だったのだと思う。……ああ、もう滅茶苦茶だよ、日を開けて書いているから文章の前後関係がわからなくなっている。とにかく僕が言いたかったのは、計と深沙の関係は最低で最高の関係だったということだ。

信憑性皆無のリークに踊らされて

 どこぞのリーク情報でCyberpunk2077の発売日が11月9日だと書いてあるのを見たのだけれど、それってDEATH STRANDINGと一日違いじゃないですか、やだー。両方とも楽しみにしてるゲームだから購入は確定しているのだけれど、同時にプレイするなんて芸当は出来ないわけで、どちらかを先にプレイするしか無い、するとプレイ出来てない方の情報がネット上に溢れるわけで、無垢なままでプレイしたい僕はどうすれば良いのだろうか。ネットから離れる? 馬鹿言ってはいけないよ、僕みたいな依存症の人間が簡単にやめられるわけないじゃないか。

 とまあ、こんな感じで不確かなリーク情報で悩んでいる僕なのだけれど、それ以上に今書いている新作の展開で悩んでいたりする。困ったものだよ、僕の作品であるというのに、登場人物は勝手に暴走して喋りまくるし、僕の制御下からすっかり離れてしまっている。そもそもプロットを書いていないことが駄目なんだろうね、でも僕はプロットを書いてもその通りに進行した試しがないから結局は好きなように書いて、神(信じてないけれど)とか無意識とかいうものが勝手に辻褄を合わせてくれるのを待っているのだ。実際、書いていて意識していないのに物語が繋がることなんてよくあるわけで、自分でも驚く。彼女の行動理由の裏にこんな思惑があったのか、みたいな感じにね。たぶん僕の頭の中の世界で彼ら登場人物は生きているんだろうね、生きているから勝手に行動するし、行動原理がはっきりしている。僕は外部出力装置にほかならないのだろうか 。でも外部出力装置だからといって悲観する必要はないのだ! だって頭の中でどれだけ世界や言葉で溢れていてもそれを取捨選択するのは僕の役割であって、僕の責任であるのだから。ところで僕がブログを書いているのは何故なのだろうかと思ったのだけれど、それって僕自身の怨嗟を吐き出すためでもあるし、またこの世界の片隅にひっそりと生きる、息苦しさを抱えた人に辛いのは自分だけじゃないんだと少しでも元気になって欲しいからなのだと思うのだよね、たまに綺麗事を並べたりするのはきっとそういう理由があるんだよ。でも実際のところ自分でも自分のことはよく分からない。何のために生きているか分からない、なんて言ってしまえば青年期特有のメランコリックな感傷だと、一笑に付されてしまうかもしれないけれど、本当のことなんだから仕方がないじゃないか。君たちだってどうして自分が生きているのかはっきりと述べることができるのかしらん? どうせ深いところを覗いてみれば何にもなくて、曖昧に笑うくらいしか出来ないんだよ。夢を持っている人はいると思うけれど、でも夢に到達したらどうするの? 夢って山の頂上だよね、山の頂上からの眺望はそりゃあ素晴らしく美しいものだとは思うけれど、山の上って空気が薄いし、生活できる環境を整える事もできないから一瞬しかいられない。下るしか無いんだ。下った後どう生きるかなんだろうね。別に夢を持つなと言いたいわけではないよ、僕だって自分に対して理不尽な期待をし、夢を見ているからね。だって僕はどこまでいっても僕自身なのだから僕を連れて生きていくしかなくて、でも生きていくには少なくとも目標というものが必要であり、じゃないと歩みを止めてしまう。僕は精一杯に生きて、後ろを振り返ってああ、でっかい山だったなあ、これを僕は登ったのか、と感傷に浸りたいんだ。そしてそこらへんで野垂れ死にたい、カラスとか野良犬だとかに死体を食われてしまい、そのまま消えてしまいたい。老後身体が動かせなくなって、家族や友人に看取られて逝くのは絶対に嫌だね、僕は酷く傲慢な性格だから自分の弱っている部分を親しい他人に見せたくないんだよ。自分が格好いいという幻想に抱かれたままに死にたいと思うのは不思議な事だろうか? そうだよ、僕はニヒリストで、ナルシストで、破滅願望のあるどうしようもない人間なんだ。性根が腐っている。それがいけないことだとは自分でも分かるよ、分かるんだ、でも理性で理解していても、それをやめれる気はしない、僕の無意識の部分がね、耳元で囁くんだよ、いけないことといってもそれは他人の意見であり、それがどれほど正しいことなのかは誰にもわからないって。そうだよ、正しさなんてものはまやかしに過ぎないんだ! 僕が今ここで自殺したとしよう、それはいけないことなのでしょうか? キリスト教的にはいけないことだし、多分世間一般でも自殺は悪とされている。最近あったよね、電車に飛び込もうとした少女を助けた青年が称賛されているというニュースが。なんだか少女の意志を尊重しろ(意訳)と非難していた人がいたけれど、多分、いやきっと彼の行動は正しいし、僕だってあの青年と同じ状況に立たされたのならば自殺しようとしていた少女を助けると思うよ、だって目の前で人に死なれるのは嫌なことだからね。人には人固有の正しさがあって、しかしそれは常に変化し続ける。僕がもし青年のような当事者ではなければ少女が自殺しようがしまいが関係ない、むしろ自殺したとしても彼女は自分の正しさの中で死んだのだろうなあ、と肯定的な意見を持つよ。

 こうして無意味な文章を綴っていると悲しくなってくるよね、無意味といえば嘘を吐くことって限りなく無意味だよね、まあ嘘を吐くことで保身となることがあるのは確かなことだけれど、もしも嘘が暴かれてしまった時のことを考えるとあまりにもリスキーな行為だ。こう言っている僕が言うのもなんだけれど、僕は結構嘘を吐くタイプの人間だし、虚言癖とまではいかないまでも自分を大きく見せるために、あるいは構ってもらうために嘘を平然と吐く。いや、平然とはしていないか。嘘を吐く時は過去の発言と矛盾がないかよく考え、暴かれた時のデメリットと今得られるメリットとを天秤にかけて嘘を吐いているからね、そこのところオオカミ少年とは嘘の質が違うよ。オオカミ少年、それは誰もが知っているお話だと思うのだけれど、たまにね、考えてしまうんだよ、オオカミ少年の心ってやつを。彼は自分が構ってもらうために、信用してもらえなくなるまで嘘を吐き続けた。何が彼をそうさせたのだろうか。僕は思うんだ、彼の幼少期は凄惨なものだったんじゃないかって、ネグレクトされていたんだと思うよ。親からの愛を貰えなかった少年は、少しでも構ってもらうためにことを大きく騒いだり、嘘泣きをしたんだ。そうすると愛がなくとも少しは構ってもらえる。そのことが少年のことを大きく歪めた。少年は常に孤独だったんだよ、少しでも孤独を紛らわそうと嘘を吐いて、構ってもらい、しかし充たされない。自分が欲しかったものは愛だったのに、嘘を吐いて得られるのは愛ではなかった。でも少年はそんなことに気が付かないわけだから、充たされるために嘘を吐き続ける。やがて信用されなくなって、誰にも構ってもらえなくなって、最期にはオオカミに食べられる。オオカミに食べられる前の少年は激しく後悔し、痛切な悲鳴を上げたと思うけれど、ある意味で幸福だったと思うんだ。嘘が本当になって、良かったなあって。嘘を吐いていた自分から開放されたのだから。でも少年がもし僕が邪推したように家庭に問題があったとしても、オオカミに食べられたことは自業自得なんだよね。眼の前にオオカミがいる、でも誰も信用してくれない、どうしてだ、それは僕が嘘を吐いたからだ、ああどうして僕は嘘を吐いてしまったのだろうか、僕はオオカミに食べられて死ぬ、誰か助けてくれないか、同情してくれないか、この不幸な僕を、誰か、助けておくれ! 叫びは誰にも届かない、それは彼が信用を失くしてしまったから。きっと少年オオカミに生きたまま喰われ、壮絶に死んだことだろう。嘘を吐いた自分を呪ったことだろう。でも既に遅いのだ。嘘付きである少年の言葉はあまりにも小さすぎた。世の中、声というものは大きくなければ届くことがない、嘘を吐いてもそれが大きければ影響を与える。真偽なんてものは関係ないよ、大きさだけが全てだ。だから部屋の隅で縮こまって、ブルブルと震えていてもなんにも変化しないよ、我慢したところで世の中は変化しない、たとえ偽りで塗り固められていたとしても声の大きな人の意見が通るのだ。つまり選挙には行きましょう。

 久し振り(実にひと月ぶり)のブログの更新ということもあってかいつもの二倍くらいの文量になっていることに気がついた。この文量を今書いている作品に回すことが出来たら良いのに。絶賛筆は止まっている。現在75,000字。今書いている話だけれど、春を売っている女と自閉症の義妹とのハートフル?ストーリーなんだよね、でも妹があまり話せないから会話でなかなか話が進まない。難しい。だからホテルでの話を軸に物語を進めている。……人と人が触れ合う時、互いの人生の断片が触れ合い、音を立てる。すると意図しなくとも物語が生まれる、そういう話を書いていきたい。内面に問題を抱えた人々が一瞬限りの関係だからこそ吐き出せるドラマを通して、主人公が本当の自分に気付いていく物語を。

 ……今思いついたけれど、タイトルは『ドッペルゲンガーの子供(仮)』にでもしようかな。

 

追記(2019/6/10)

 Cyberpunk2077の発売日が4月16日でしたね。杞憂に終わってよかった。

非生産的なGWを過ごしてしまいました

 もうゴールデンウィークは終わってしまったのだから、不規則な生活を改めなきゃあいけないんだよ、神無月君、と僕は言った。しかし彼はパソコンを眺めたまま動かない。何が楽しくてそうパソコンばかり見ているのかなあ、目がチカチカしてたまらないよ。だいいち同じページを開いては閉じてを繰り返してそれの何が楽しいのかな。僕は思うね、君のその行動はきっと君が暇を持て余していて、しかし暇をつぶそうにも能動的な行為をしたくないからしているんだ、ああなんたる怠惰、なんたる傲慢、時間を有効活用したいというのが君の口癖だと言うのに、まさに君の今の姿は時間を浪費する姿そのものではないか、聞いて呆れるよ。僕は彼に言い続けるも彼は僕の方を見向きもしない、ずっと画面を見続けている。まるで憑き物に囚われているようだ。僕はね君のことが心配だから言っているのだよ、君がそのままなにも生産的な行動ができずに一日を過ごしたらきっと後悔するって分かっているからね、僕は君のことなら何でも知っているんだよ、なんだって僕自身なんだからね。

 

 GWが終わって、5月病になるのかなあと思っていたのだけれど、そうでもないようで、僕としては忙殺されるような空間に身をおいた方が憂鬱な思考を追いやれるのだろう。GW中の悪い日なんかベッドから一歩の動けないときもあったのだから、なかなか強制力というものは馬鹿にはできないね。僕は昔から期限が迫らない限り行動を起こさない人だったし、そういう制約的なものがなければ行動できないタイプなんだろうね。でもその制約だってきっと自分で作ったものじゃあだめなんだ、これは本当に僕の駄目な部分を象徴しているのだけれど、自分に課した制約なんてものはあってないようなもので、ついつい甘えては期限を延ばしてしまったりする。自分のこういう部分が嫌だというのに、一向に治そうとしないのは自分でも馬鹿らしい。とことん自分には甘いんだ。

 

 ところで神無月君、君は新作を書いていると言ってたのになぜ全然筆が進んでいないのかな、結局GW中に一万字も書いていないじゃないか。ネトフリでシャーロックを観て、本を読んで、同人RPGをして、それで終わり? 執筆はどうしたんだい、と僕は言った。「別に義務じゃあないのだからするべきわけでもないでしょう、僕にだって僕の都合というのがあるんだよ、だからなかなかできないんだ」はあ、そう言ってるわりには新作の同人RPGをついさっき三週目をクリアしてエンディング回収も済ませているじゃないか、その労力を執筆には回せなかったなかなあ、いや別に非難しているわけじゃないよ、僕にだって怠け癖はあるし、君の気持ちも分かる、だけどね少なくとも一日に一文字くらいは書いてもいいんじゃないかと思うんだよ、だってね君の中にはもうある程度の物語の構想があるわけじゃないか、その構想だって常に思い浮かべていないと崩れてしまうんだよ、特に君の場合はプロットを書きたがらないからね、物語のそのほとんどを頭の中で構築して完結させる悪い癖があるからね、前作だってそうだったじゃないかだから後半になるに連れて息切れを起こして更に描写が必要な部分を分かっていたはずなのに書かなかった、書こうとしなかった……辻褄合わせが面倒だからと言ってね、それじゃあいい作品は作れないよ……いや、分かっているよ君はいい作品を作りたいんじゃなくて満足のいく作品を作りたいだけで、あくまで自慰行為の一つだってことくらいはね、でも消化不良の作品を書いたところでそれで満足できる君じゃあないだろう、僕には分かるんだよ、何回でも言うよ、君は僕自身なんだから。

 

 積読していたファストアンドスローを読んだ。良い読書経験になったと思うし、きっと統計の勉強にもなったと思う。僕は回帰性を意識して生きるべきなんだろうと思った。今はツルゲーネフのはつ恋を再読しているのだけれど、はつ恋ってこんなにも描写が美しい作品だったかしらん。まあ僕が最後にはつ恋を読んだのは高校生のときだったわけで、すでに5年も昔の話なのだから忘れていて当然なんだけどね。今だってこうして読んでいるというのにどんな物語だったかおぼろげだ。でも再読ということもあってか、読めば「ああ、こんなシーンもあったなあ」と思うので、やはり印象に強く残っている作品ではあるのだろうね、どうでもいい作品は再読しても(再読することもほぼないのだが)シーンを思い出しづらいから。さて、はつ恋を読み終わったあとには何を読もうかなあなんて考えている。別の本への浮気だ。でもそういうものだよ、プラトニックな恋愛を読んでいるからこそ浮気してみたくなってしまうんだ。僕にはそういう反対のことをしようとする癖があるからね。今の所敬愛しているドストエフスキーの悪霊でも再読しようかなあなんて思っている。今でも「生は苦痛です、生は恐怖です、だから人間は不幸なんです」というキリーロフの言葉は覚えている。再読しなくとも覚えている言葉なんだからやはりこの言葉は僕にとって大切な言葉なんだ。大切だけど、反抗したい言葉でもある。人間が不幸ならなにが幸福なんだ、人間は幸福になれないのかってね。でもキリーロフはこう言っているけれど、ドストエフスキーは書簡で人生は幸福だとも語っているからなにがなんだかわからないよね。人間と人生じゃあかなり違うと思うけれど、しかし非常に親しいものでもあるんだ。でも同時に相反する二つの意味を持っているものなんだよ思うよ、人生ってやつは幸福と不幸を同時に内包しているんだ。パルマコンなのさ。立場や見方、他にも様々な要因があって、それぞれの瞬間に人生というやつはその姿を幸福にも不幸にも変えるんだよ。まさに幽霊みたいなやつさ、ふわふわして、掴みどころがなくて、不安定で、僕の小さな力じゃどうすることも出来ないやつなんだよ。でも人生を投げ出すことは、投げ出すことを考えてみてもなかなかどうして実行に移せないのだから、きっと手放してはいけないものだってことを、深い部分では分かっているのだろうね。どれだけ人間に絶望しても人生だけは手放してはいけないのかもしれないね。死というのは終わりであり、永遠の停滞を意味することだからそこには幸福も不幸もなくて、きっと虚無しかないんだ。幸福の分だけ不幸になってしまう、逆もまた然りな人生だけれど、それでも幸福を感じられるその事自体に価値があるのだから停滞よりはいいんじゃないかと思うよ、だから生きるべきなんだ。さてちょっとだけ自分の書いてきた文章を眺めると、ぎゃあ、まるでメンヘラみたいじゃないか。嫌だなあ、僕はメンヘラじゃないからメンヘラみたいに思われたくないなあ。

 

 ところで神無月君はいったいどんな話を書こうとしてるのかなあ、いやまあ気になったんだよ、君の筆があまりにも進まないからね。一体何を考えているんだい。「何も考えちゃあいないんだよ、何も考えてないんだ。君が聞いているのは今僕が何を考えているか、ということだろう? あるいは僕は今、君に対して煩いなあと思っているのかもしれないし、やはり何も考えてないのかもしれない。聞くだけ無駄だよ」いや、そうはいっても人間というのは考える生き物なんだからなにか考えているんだろう?「煩いなあ! だいたいなんだよ、口を開けば人間、人間って、ああ僕だってもちろん人間だけどさあ、常にその事ばかり考えていたくはないんだよ。頭が割れてしまう!」そう怒らないでくれよ、怒ったところでなにも変わりはしないんだからさ。なあそろそろ教えてくれないかなあ、次回作はどんな話にするかって、僕だって気になるんだよ、君の中じゃあまだまだ構想の段階かもしれないけどさ、ある程度の形をとってきてはいるんだろう? ならそれを言語化して形に存在をあたえなくてはならないと思いはしないかな。「……一理あるね。まあこれはまだ構想の段階に過ぎないことだけれど、僕としては惨めなセックスを書きたいと思うよ、傷の舐め合いみたいな、惨めで、残酷で、だけど局所的で刹那的な救いのあるセックスをね。前作の主人公がKに誘われたけれどできなかったセックス。でもさそんな話を書いてしまったらそれはR18になるわけじゃない? だとすればどこに公開しようと思うわけ。まあ書いてからそんなことは考えればいいのだけれどね。別に公開できる場はたった2つというわけでもないし。で、セックスのこと以外にも書いてみたいことはいくつかあるのだけれど、やっぱりセックスがあるのだから愛を書いてみたいと思うよね、はつ恋みたいなプラトニックな愛をね。とにかく前作では描けなかったマグマのように熱くて、重くて、煌々と輝く愛を書いてみたいんだよ。人間なんて畢竟生物なのだから、性愛について掘り下げるのは人間について掘り下げるのと同義なんだよ。だから僕は愛を書いてみたいんだ」なるほど、でも筆は進んでないようだね、その理由はあるのかな。まあ君のことだからどうせゲームに忙しかったんだろう?「まあゲームばかりしていたのは認めるよ。セキロの修羅ルートめっちゃ大変だったし、なんかスマブラでジョーカー参戦しちゃったし、アサクリが無料で配布されてたし、まあいろいろとあったからね。でも物語を書く上で悩んでいることもあるんだよ、僕はまだ勉強不足だなあってね。今書いているのは主人公と脳神経外科医(まあ実質精神科医なのだけれど)の対話なんだけれどね、その脳神経外科医が哲学的な話をするんだよ、僕の場合登場人物は勝手に話すし、勝手に動くからね、どしようもないんだ、それで今はフロイトに関する知識を吸収している途中なんだ。他にも主人公は精神分析が趣味でね、精神分析に関する文献も読もうとしているところなんだ、まあフロイト精神分析の大家であるからね」へえ、勉強してるってこと? でもどうせ家ではゲームばかりしてるんでしょ、僕は分かるんだよ君のことはね。だって僕は……

 

 もう今週末はコミティアか。時の流れは早いなあ。

平成を振り返ってみようと思ったんだ

 今日はいわゆる平成最後の日なのだから、なにかそれっぽいことができないかな、なんて考えてブログを書こうかなあと思ったわけだけれど、でも平成を振り返るにしても僕は平成生まれなので、平成を振り返る記事を書いたとしてもそれはいままでの人生を振り返るのと左程変わらないんじゃないのかなあと思い、というかそもそも僕のブログのバックナンバーの初期の方なんて大抵僕の人生の振り返りだったわけで、わざわざ同じことを何度も書くのはちょっと違うなあ、しかしだとすれば何を書けば良いのだろうかと思い悩みながら、さてこのブログの読者の皆様におかれましては何を書けばいいと思いますか、僕の人生を振り返るべきでしょうか、それとも別に僕が何を書こうとも知ったことではない、ああ、そうでしょうね、それが正しいと思いますが、僕的にはわざわざ平成最後のなんて肩書を付けずにいつもどおりの益体のない文を綴ればいいんじゃないかなあと思っているわけで、でも益体のない文がどのような文なのか分からないのだ。

 昨日道路の端にカラスが落ちていた。落ちていた、と言ってもなかなか想像できないと思うのだけれど、カラスが、道路に、横たわっていたんだ。僕は最初黒いビニール袋の見間違いかなんかだろうと思っていたのだけれど、近づいてみればそれはカラスの死骸でびっくりしたわけ。どうしてこんなところにカラスが落ちているのだろうか、誰が落としたのだろうか、交番に連絡すれば良いんだっけ、ああ、でもこれってカラスの死骸だから連絡するべきなのは保健所か。いやしかしこのカラスが誰かのペットであり、たまたま脱走した先で死んでしまったのかもしれないのだ。だとすれば僕はどこへ連絡すれば良いのか、近所の家をまわって「カラス、落としました? 死んでるんですけど」と聞けば良いのか。そんなことできるはずもなく、というかそんなことをしていたら僕が警察に連絡されてしまう。僕は一応常識人だからそんなことをしたら変人に思われて通報されてしまうことは分かっているのだ。僕は、常識人だからね。ではどうしようかと考えてみれば保健所の連絡先を知っているわけじゃなかったし――調べれば分かることなのだけれど、わざわざ調べる手間をかけたくはなかった――それに放置していても僕以外の誰かが連絡してくれるはずだと思ったんだ。だからその場を去ろうと思ったのだけれど、なんだか惜しい気がした。カラスの死骸なんてなかなか見られるものじゃないし、しかも骨折しているかもしれないけれど外傷は見られなかったんだ。僕はせっかくだから持ち帰って骨格標本にしてみようかなあと思った。一応骨格標本は人並みに作れるんだ、昔田舎に住んでいた時に度々作っていたからね。でも内蔵を取り出すのはいつまで経っても慣れないからあまり好きではない、血の臭いがひどいのもそうだし、一番やっかいだと思うのは胃の内容物や糞尿で汚れることだね、死骸は基本的にその筋肉が弛緩してしまっているから――もちろん肛門括約筋も弛緩するからね――糞尿が垂れ流しになってしまうんだ。それが臭いし汚いしで、でもどうせ血みどろの内蔵を取り出す時点で汚れるのは決まっているので改めて考えるとそうでもないのかなあ。畢竟生き物の腹を割き、腑分けする行為はどうしても嫌悪感を伴うから慣れないのも当然のことかもしれない。でも骨格標本が白熱灯の下で白く輝く様はとても美しいから、嫌いでもないんだ。あと時間が経った死骸なんかだととてつもない異臭――いわゆる死臭ってやつだね――がし、しかも例えば腐敗した死骸の液なんかが付いてしまうとその臭いがなかなか取れないんだ。服の繊維の奥底にまで臭いのもとというやつが浸透してしまうのだろうね、一回や二回の洗濯程度じゃ臭いが落ちないなんてことはままある。だから骨格標本を作るのは臭いとグロに耐性がある人じゃないとできないのかもしれない。僕なんかはわりと耐性のない方だと思っているのだけれど、骨格標本を得るには自分で作るのが一番安価だからそうしているんだ。そういえば田舎からこちらへ引っ越してきてからは骨格標本を作っていなかった。まあ日常的に死骸が落ちている場所でもないし、そもそも死骸があってもそれは大抵車に轢かれてぐちゃぐちゃになっているし、すぐに近隣住民が連絡を入れるのか保健所が回収するのに時間はそうかからない。田舎――森が隣接している――なんかでは死骸が落ちているのが日常茶飯事と言えないが、というかそんな市街地にまでやってくる動物はそんなにいないから田舎も都会も道路に死骸が落ちている頻度なんてそう変わらないんじゃないかなあ。落ちている死骸って猫か鳥くらいのものだからね。でも森のなかには割と頻繁に動物の死骸があるわけ。人がなかなか踏み入らないから取り放題だしね。それに田舎なだけあって家には大きな庭があって、近隣住民の迷惑が考えずに標本作りができた。今住んでいるところは住宅街だし、そんな強烈な臭いを振りまくわけにはいかないからそもそも標本作りなんてできないのでした。そんなわけでカラスの死骸を家に持って変えるわけにもいかず、僕は後ろ髪を引かれながらも家に帰った。あのカラスはどうなっただろうか。まあ流石に回収されているのだろうなあ。

 平成の振り返りを書こうと思ったのになんか少しだけ血腥い話になっているのはどうなのかと思い始めた。生前退位なのだからもう少し明るい話題を書いていきたいところだよね、と思ったのだけれど最近明るい話題なんてあったかなあ、ケロ枕のくじだってうまい棒も3本セットはあたったのだけれど、参加賞の色紙の方はほぼかぶりだったし、サク刻の色紙はなかったりで踏んだり蹴ったりなのだから割と鬱気味なんだよね。気分転換に好きなものについてでも語ってみようかなあ。あ、僕はポテトチップスは堅揚げポテトのうすしおが好きです。それ以外は飽きてしまってあまり好きではない。でもふつうのポテトチップスならのり塩かなあ。うすしおは味気ないから好きではない。堅揚げとふつうのとで好みが分かれるのはなんか変な気分。あるいは堅揚げポテトに味の種類が少ないかななのかもしれない。だけれど、やっぱり堅揚げポテトはうすしお以外はあまり好きではないから、根本的なところで僕は薄味好きなのかもしれない。

 僕にとって平成の最後だとか、令和だとかどうでもいいんだよね。そんな年号が変わるだけで大きくなにかが変化するわけではないと思うし、とりわけ僕個人が変化するわけないんだから。いずれにせよ年号なんてしったことじゃあないんだよ。結局さ、年号が変わったところでなにか得られるわけではないのだしね。はあ、令和になって僕が変われるのならどれほどよかったことか。なんか新作を書いているとは言ったのだけれど、進みは微々たるものでもう二ヶ月くらいまともに書いてないので、これでいいのだろうか、こんな非生産的な日常をすごして僕に何の価値があるのだろうか、ああこれでいいのかなあ、少しでも動くべきなんじゃないのかなあ、こんな僕に生きている価値はあるのかなあ、と思う今日このごろですが、こうやってうだうだ悩んでいるよりさっさと動けと言う話なんだろうね、でもそう簡単に動くことができればこうやって思い悩むわけでもないし、本当のところ自分のことですら定かでないのだ。というかきっと僕は現実を直視できないでいるのだろうね、自分の惨めな姿をみたくないんだ。自分が惨めでその姿を見ると、ますます自分のことが嫌になってしまうから。そしてますます自分のことを嫌いになった僕はきっと自殺してしまう。自殺はよくないよ、でももう生きていられないって思ったら自殺するしか無いと思うんだ。で、僕は自分のことを直視したくないから薬を飲みます、ソラナックス。気分がちょっと落ちついて、ああ生きているんだなあって思えるんだ。生きていることは辛いことだけれど、薬飲んだときばかりはなんだか大丈夫な気がしてくる。でもそのままではいけないことも漠然と分かってはいるんだ。きっと明日も、明後日も、僕はソラナックスを飲んで、天井で眩くLED電灯をぼーっと眺めるんだ。網膜に張り付く緑色に対して煩わしく思い、電灯の下に溜まっている小さな虫を見て嫌悪して、自分の現状を情けなく思い、自分の罪を電灯に対して告白し、そんな自分も嫌になって、あらゆるものに呪詛を吐き出すんだ。告白と呪詛、シオランかよ、あはは。って何が面白いのだろうね、全然これっぽちも面白くはないのに、でも笑っていたいなあ、僕は笑っていたいんだよ。別にライムギ畑の捕まえ役になれなくてもいい、僕は笑っていきたいんだ。あははって、陽気な気分になって、握手をしましょう、ハイってね。ああ、笑っていたいなあ。なんでもいいよ、気狂いみたいにでも笑っていられればそれはそれで気分がいいのだろうなあ。まことに人生、一瞬の夢なんだから楽しく生きないと。でも楽しいってなんだろうね、笑っているだけでは楽しいとは限らないと思うんだ。冷笑って言葉もあるし、笑いにだっていろいろな種類があるのだから、ああ、煩いなあ。僕の隣の部屋、まあリビングなのだけれど、そこではGWということもあってか親戚が来ている。彼らは昼間からビールを飲んで、楽しそうに、それはもうとても楽しそうに高い声で笑っている。その声が扉を一枚隔てた僕の部屋にまで届いてくるんだ。というわけで僕はなにかひとつ文句でも言ってやろうと思ったわけ、思ったわけなのだけれど、思っただけで行動が起こせないのである。だから僕はヘッドホンを被って『血の決戦』(ランス10のBGM)を聞く。ああ、いい曲だなあ。ランス10一応終わったのだけれどやりこみはしてないから少ししようかなあ、でもそんなことしていたら書くスピードは更に遅くなるわけで、むしろ書かなくなってしまうからあまり良くないだろうなあ、でも毎月2本はR18同人RPGを崩しているのでそれを一本にすれば時間はあるのだろう。あ、『プロナントシンフォニー』はプレイして下さい、名作です。そういえばかなりの数の作品をしてきたわけだけれど、おすすめの作品を紹介する記事は書いていなかったなあ、そのうちおすすめのR18同人RPGを紹介する、なんてタイトルで記事を書いてみても良いかもしれない。でもそうなるとスクショとか用意したくなるわけで、それはなんだか面倒だから乗り気にならない。僕はなんというか面倒事が嫌いなんだ。いや、面倒事が好きという人の方が少ないのだと思うけれど、僕は度を越して面倒事が嫌いなんだ。エネルギーの消費を限りなく少なくしたい、省エネ思考の人間なんだ。動かなくて良いのなら限りなく動かないし、だから外出だって最低限に収めている。基本的には引きこもり基質の人間だ。だから気が塞ぐことが多いのかもしれない、僕の部屋には空気の淀みというものがあって、それが滞留しているから僕は窒息しそうになっているんだ。酸素を使い果たした先には死が待っている。でも僕は動きたくない、死んでも動きたくないわけじゃあないのだけれど、むしろ死ぬのはあまり気分の良いものじゃないから遠慮したいのだが、動きたくないんだ。死が面前に迫ってやっと動くような人間なんだ。死にたくないとか言っておきながら、頭の中は希死念慮でいっぱいになっているわけで、さてどうすればこの矛盾は解消されるのでしょうね、やはり笑えば良いのでしょうか、あはは。ああ、虚しいなあ。

 今日の昼ごはんはナポリタンでした。親戚が来ているためか底の深い大皿に載って、思い思いに自分の皿に取るという形式でした。ナポリタンにしては少し水分が多いように感じたのだけれど、まあ皿の影響のあるのだろうね、あとうちのナポリタンはケチャップじゃなくてトマト缶を使うから必然的に水分が多くなるんだ。真っ赤な液体に浮かぶパスタは血を吸っているようで、どことなく不気味だ。それに酸味が強いから僕は少し苦手なところがあるのだけれど、でも美味しいことには変わりないので食べます。美味しいです、でも真っ赤なのは目に悪いなあなんて思いました。僕は頭の中でナポリタンに話しかけます。

「結局さ君はナポリタンなんて姿になっているわけだけれど、それって屈辱なんじゃないの。だってナポリタンは日本の創作パスタだし、君みたいな生粋のイタリアっ子には汚されたって気分になるんじゃないの。僕だったら屈辱で泣きたくなるね、自分のアイデンティティを否定された気持ちになるのだもの。でもパスタに過ぎない君に反抗することはできないのだろうね、パスタは喋らないし、動かない。ああ、そういえば食べ物が動く映画があったなあ、あの下品なやつ。あれ最初はオモシロイと思っていたのだけれど、徐々になんか受け付けられなくなってきたんだよね、重い、というか胃にもたれる。もう一度見たいかと聞かれれば、もう見なくていいって映画。豚骨ラーメンみたいだ。博多とんこつラーメンズなんてアニメがあったなあ、見てないけれど。ラーメンと言えば僕は塩はなんだけれど、豚骨は苦手なんだ。脂っぽくって胃にもたれるし、あの濁ったスープを見ているとドブ川を見ている気分になる。食べ物にたいしてその表現はいかがなものか、でも僕は豚骨ラーメンは味はともかくとしてドブ川に見えるんだ。ドンブリに張り付いた海苔は苔を連想させるし、卵は腐卵臭、つまり腐敗したものを想起させるし、麺は底に溜まったヘドロだし、スープは言わずもがな。こう豚骨ラーメンをこき下ろしているけれど、別に嫌いってわけじゃあない、苦手意識はあっても美味しいことには変わりないのだから。ああ、君の、ナポリタンに対しての話だったね、ええとなんの話をしていたのかすっかり忘れてしまったのだけれど、ナポリタンって血って感じだよね。僕はたまーに動物の解剖をすることがあったのだけれど、鮮やかな赤はなぜだか動脈血を想起するし、ナポリタン、君に至っては小腸を想起するんだ。うげえ、気持ち悪いなあ。小腸を見せつけたあの獣医め許さないぞ、あれは割とトラウマだったんだ。死んでいる動物の内臓ならまだいいよ、でも生きている動物の内臓は嫌悪感しか湧かない。僕はきっと医者には向いていないだろうなあ。でもまあナポリタンは死んだパスタなので美味しく食べますよ、あはは」

 で、昼食を食べ終わったら僕はすぐに自分の部屋に引きこもってこのブログの続きを書く。書いている。でも別にネタがあってそれを言語化しようとこの記事を書き始めようとしたわけではないのでもうネタ切れだ。そもそも最初からなにを書くか決めずに、思いのままにブログを書くのが僕の基本だからいつもと変わらないのだけどね。最近はなんだか読んだ本の影響もあってか一文一文が長くなってきたように感じるし、それはきっと僕の言葉遣いのせいでもあるのだけれど、それでも冗長な僕の文章を読んでいる人がいることに感謝している。でも恥ずかしい。僕の脳内をそのまま文章にしたようなものなので、それは僕の内面を見られているのと同義な気がしてくるからだ。というか一日で60PVもあった日があったのだけれど、一体どこからこのブログをみつけてやってきているのだろうね。そうそう検索に引っかかるものでもないと思うんだ。別にタグ的なのも付けてないし、意図的に付けないようにしているからひと目にはつきにくいはずなんだ。あとこんな読みにくい文章、少なくともブログっぽい文章を書いているわけじゃあないからリピーターも少ないと思うんだ。あと更新頻度もそう多くない――ちなみに60PVがあったのは最終更新から一週間くらい経ってからのことだ――のに。まあ奇特な人がいるもんだ、程度に思っておきましょう。誰が僕のブログを見ているかなんてわからないのだしね。僕はブログこそこうやってうだうだと綴るわけだけれど、ツイッターだとあまり呟かない。呟いても2秒後に消してしまったりと、文章を残すことを嫌っているわけじゃないけれど、どうしてもツイート数は少ない。それに引き換えブログはどうしてこう、気分的に書きやすいのかなあ、と思えばやはり「いいね」の影響があると思う(ふぁぼにもどして)。最近話題になっていたけれど、いいねは承認欲求を満たすのもそうだし、一方でいいねにとらわれるという側面がある。僕はその側面が少しだけ気に入らないからツイートが少なくなってしまうんだと思うんだ。別にいいねをされて嫌な気分になるわけじゃないよ、むしろ僕なんかのツイートを見てくれているんだと嬉しくなるし、だから一概にいいねを嫌悪しているわけじゃあない。ただなんの気兼ねもなく綴れるブログという形が一番僕にあっているだけなんだ。ああ、そういえばツイートの文字数制限があるのもきっと僕があまりツイートしない要因でもあるんだろうね。ほら、僕はこうして長い文章を書くタイプの人間だから、いちいち考えて140字の中に収めようとする労力を疎ましく思うんだ。まあつぶやきなんだから140字制限はツイッターに合っているのだけれど。承認欲求と羞恥との間で僕の場合は羞恥の方がどうしても気になってしまうんだ。

 さて平成最後の日だから言うのだけれど、僕は今まで夢とか希望だとかそういったものをないがしろにしてきました。夢、といえば小学校の頃に卒業文集で考古学者になりたい、と書いていたような気がするのだけれど、小学校の頃の夢なんてものは彼らの見てきた狭い世界の中で見える輝きを夢と形容しているだけであって、本当の夢ではないことが大半なのですが、実際僕も考古学者になりたいと文集に書いたのは当時よくみていた「世界ふしぎ発見!」――あのー木なんの木で有名な――の影響があったからで、TVを通してみる世界の奥ゆかしさとか、神秘そういった輝きに惑わされていたから書いただけであって、それを本気と捉えてもらうのは正直侮辱に思ってしまう。だから小学校の頃に埋めたタイムカプセルみたいなのはあまり好きではないし、というかタイムカプセルに詰まっているのは過去の残滓であって、夢とか希望じゃあ無いと思うんだよね。夢というものは知識や自分の見える世界が大きくなる(増える)ことで往々にして変化するもので、常に一定の夢なんてものは、本当に愚直に自分のことを信じられる人しか持てないんだよ。僕の昔の同級生にプロボクサーになりたいと言っていた人が居たなあ、彼は今頃どうしているだろうか。僕とあまり関わりはなかったのだけれど、少なくとも僕にはない夢への渇望があって、その輝きに嫉妬していたことはあったからよく覚えているんだ。あの人の夢は今も続いているのだろうか、あるいは変わってしまったのだろうか。僕にそれを確かめるすべはない、だってその人の名前を忘れてしまったから。まあ存在自体はともかくとして、顔も曖昧なほどなのでやっぱりどうでもいいです。もしも僕に夢とか希望があればいまごろ変わっていたのかなあ、もっとキラキラとして人生を歩んでいたんじゃないかなあ。苦しくても前を向いて生きていられる、そんな人間。でもそんな僕は僕じゃない気がする。いや、僕じゃないんだ。でもifの自分も見てみたいような気もする。夢があれば、なんてことは何度も思った。夢があれば努力ができるようになっていたのではないか。夢があれば自分の方向性を明確に定められたのではないか、と。では今から夢を持てばいいと言う人もいるかも知れない。そう簡単に夢を持てればこうして夢について吐露していないわけで、夢アレルギーである僕からすれば夢を持たなくても生きているだけじゃだめなのかと言ってみたくなる。あれ、そもそも夢を話題を出したのは自分なのだから自分に言ってやればいいじゃないか。鏡に向かって、おい自分、いつまで夢にこだわっているんだ。そうやってうだうだこだわるから自分はいつまで経っても何者にもなれないんだと。うるせえ、お前に何が分かるんだ。あ、自分か、自分なら自分のことくらい分かるか。でも黙って欲しい。僕だって悩んでいるんだ。悩んでいるからこうして長ったらしく、シミったらしく文章を書いているんだ。本当は何も考えずにアハハって笑っていたいんだ。

 僕は、笑って生きたいんだ。

Lで始まる暗い川の水を中途半端に飲んでしまったのだろうか

 嫌な経験、例えばいじめられた経験なんてものはいつまでも残っているもので、しかし幸福な経験というものはなぜか思い出すことができず、思い出すことができたとしてもそのときの幸福な景色はぼやけていてほとんど見ることはできないが、嫌な経験に関して言えば、鋭い悪意の矛先が自分に向かっていることが手に取るようにわかる、そういった心象風景に限らず、フェンスの錆だとか、すっかり古びて哀愁を漂わせている東屋や風でそよいでいた草などといった取るに足らない物理的風景をある程度鮮明に覚えているもので、それは繰り返し嫌な目に遭うことを回避するための学習、つまり人間にもとより備わっている生理学的な反応と密接に関係しているのだろうけれど、でも僕としてはそんな動物としての機能がいまだに僕のことを苦しめることには納得がいかないのだが、しかし悲しいかな生得的な本能に意識してその本能の働きを停止することなどできないわけで、しかしできないからといってそこで思考停止はならないと思うのだけれど、でも考えればなにか変わるのかと言われれば、変わらないかもしれないので、でもできないならできないなりに僕たちは考えることで新たな発見、あるいは自分を納得させることのできる答えが見えるのではないのだろうか、なんて思い考えてみるけれども答えは依然として見つからないまま今日も苦痛な記憶を想起する。

 ところで嫌な経験についてよく思い出すーーそれは発作的なトラウマの想起の場合もあるし、意識して思い出すこともあるーーことがあるのだけれど、僕の場合はその僕に嫌なことをしている人の顔が見えない――顔だけが不明瞭で、周りの景色やどのような暴力をされたか、なんてことは分かるのだ。それは僕の中で経験の核となる行為の部分だけが色濃く残り、残りの人の部分だけが死んでしまったのからではないだろうかなんて思う。時間が経つに連れて記憶が薄れていっているのはあると思うのだけれど、しかし人の部分だけが消えているというのは、経験に重要なのがそれに何が関与したかではなくて、何が起こったかなのだという証左なのかもしれない。

 神話の話なのだけれど、例えばダンテの『神曲』やバイロンの『ドン・ジュアン』なんかでその名前が出てきたりする、冥界にある川のひとつにレテ(レーテー)というものがある。レテは忘却や眠りの象徴として扱われているのだけれど、それはレテの水を飲むと記憶を失うとされているからで、古代ギリシアなんかでは転生前にレテの水を飲まされるから前世の記憶を失ってしまうと信じられていたらしい。閑話休題

 僕の嫌な記憶からは人の顔が消えている、その人達はどこへ行ったのだろうか。いや、どこへも行ってはいなくて、もとより僕の中にはいなかったのかもしれない。思えば僕は人の顔と名前を覚えるのが酷く苦手で、やっと顔を覚えられたとしても、しかし服装が変わってしまうと少し分からなくなるので、生来の特性として人の顔を覚えることが苦手なのだろう、だから僕の記憶からは人の顔が度々抜け落ちる。それはもしかしたらレテの雫を口に含んでしまったからなのかもしれない。しかし中途半端にレテの水を飲んだから、完全には記憶が消えて無くて、人の顔、そういうほんの一部分だけ消えてしまうのだろうか。なれば僕は一体どこでその雫を口にしたのか。もしかしたら夢の中でかもしれない。夢の中での出来事は夢から覚めたあと直ぐに思い出さない限り、ややもすれば忘れてしまう。それは夢というものが、僕たちが寝ている最中、無意識がいわゆる神話の世界に飛ぶ現象なのではなかろうか。神話の世界から帰ってくる際(夢から覚める際)、僕たちはレテの飛沫を浴び、そのせいで夢の記憶というものは忘れやすいのではないか。そのレテの飛沫の蓄積がいわゆる忘却であり、しかし飛沫は飛沫でしかないため忘却はわずかにとどまるのだ。

 嫌な記憶を消したいと思えど、しかしその記憶があるからこそ今の僕があるのであり、記憶の蓄積がある意味で人間存在と言えるのだから安易に記憶を消したいなどと思わないほうが良いのかもしれないのだけれど、嫌なことは嫌なので、このトラウマというべき記憶を消すまでいかなくとも、その想起の頻度を和らげたいとは思う。

 だけど、その方法は分からない。

桜が咲いていた、蜜柑も実っていた

 春休み中は基本的に家に引きこもっていたので、久々に家を出、五分咲きの桜並木を見て驚いた。いつの間にか季節は移り変わり、春となっている。比較的寒い日が続いていたからか、それともただ引きこもりのせいなのかまだ冬という認識が抜けきっていなかった僕は季節に取り残されたかのような感覚を抱いた。僕の目の前では五分咲きだというのに桜を写真に収めようと革のジャケットを羽織った若い男がスマホを空に掲げている。彼もこの日初めて桜が咲いている事に気が付いた同族なんだろうか。でも、写真を取るという行為を意識すると彼と僕とでは大きな差があるように思えた。

 もしもこの桜が満開の時、僕が木の下を通り抜けたらゴーゴーと音が聞こえ、気が狂ってしまうのではないだろうか。桜の木々の隙間に見える冷ややかな虚空に囚われてしまうのではないだろうか。

 桜を見上げ続けていると、そんなことを思ってしまい、少し怖くなった。桜は一瞬の輝きを放つなんていうけれど、そういう儚さが僕にとって怖いのかもしれない。輝いたあとには散り、側溝なんかに溜まって茶色に変色し、見るも無残な汚らしい桜の残骸が出来上がる。輝きのあとに待つのはただただ醜悪な未来しか無いのだろうか。僕たちはきっとそんな桜の残骸に目を留めることもなく通り過ぎる、あるいはその汚らしさに舌打ちをするんじゃないかなあ。美しさで楽しませてくれたことなんてすっかり忘れて、嫌悪するんだ。

 桜といえば大学の敷地内の桜も咲いていた。僕の住んでいる地域の桜とは異なり、空高くまで聳える、大きな桜だ。きっと敷地があるから必要以上に枝を切る必要がなく育つことが出来ているのだろう。街の桜は大きすぎると建物やその下を通る人に迷惑がかかるから、適度な大きさに保たれるよう切られているんだ。仕方のないことだとはいえ、少しだけ悲しくなる。木が切られることに悲しくなるのではなくて、切られなかった場合の壮大な虚構の桜並木を想像し、その姿を見ることが出来ないことに悲しくなるんだ。

 はらりと散る一枚の薄桃色の花びら。くるりくるりと空を踊る様を眼で追って、なんとなく春の感傷に浸る。風で髪が僅かにそよぎ、煩わしく思っていれば桜の花びらのことなんて忘れてしまい、気が付いたらどれが眼で追っていた花びらなのか分からなくなってしまった。きっと春という季節はそういうものなんだという気がし、それは春が出会いと別れの季節であるということと密接に関係しているのではないかと思った。なんの根拠もない思考の断片。

 そういえば近所の蜜柑の木ではたわわに実った橙色の実が朝日に照らされて黄色く輝いていた。あの蜜柑は酸っぱいのだろうか、それとも甘いのだろうか。僕はなんとなく酸っぱい蜜柑のほうが食べたいと思った。冬は甘い蜜柑のほうが良いけれど、春みたいな温かい時には酸っぱいものが食べたくなるんだ。

 蜜柑の黄色と桜の桃色。その色彩の間に僕はなんとなく春の始まりと終わりを感じた。

公開したゲームについて少しだけ書きたいと思った

 「贖罪と命」の感想が嬉しくて飛び回っている僕ですが、まあ文章力が高いと評されれば自己肯定感の低い僕からしたら最上級の褒め言葉なので別におかしな行動ではないでしょう。一方でどの感想でも難解だったと言われているので、僕としては分かりづらかったのかなあと不安になるばかりです。でも僕が書きたかったエンタメではなくて文学寄りの作品が書けたのでその弊害かと思うと安心できるような、できないような。しかし難解だと言われたままわだかまりを残していくのもどうかと思ったので、でも作者が解説するのは蛇足だと思う僕ですから、解説未満の蛇足にならない程度のなにかを書こうとこうしてブログを開いたわけです。これは感想を読んだ感想なのだけれど、実際のところ皆さんの推察が鋭いことに驚かされてばかりだったりする。まあこの作品のプロットは40文字程度、短編を想定したもので、率直に言えば至極単純なので割と分かりやすいと思っていた自分がいたのは確かなのだけれど、難解だと言われたのできっと難解だったのだろう。でも構造としては本当に単純なんですよ。一つ目の手記が「悪」をテーマとして、2つ目の手記が「人間」をテーマにしていて、三つ目の手記は「救い」をテーマにしている。4つ目は結びなのでとくにテーマは無いのだけれど、あえて言葉にするならタイトルと同じだと思う。

 さて、ここから少し踏み込んだ話をするのだけれど、僕はあの作品を書くにあたって常に意識した言葉がある。これはツイッターでも呟いていたが

「もしも人類が生存し続けて行くとするなら、それは単に生まれてきたからというのではなく、その生命を存続させようという決意をするがゆえに存続しうるということになるだろう」

サルトル『大戦の終末』

 この言葉だ。この作品において主人公は死を(表面的には)願っていたのだけれど、死の間際に見え隠れする抵抗に困惑していた。最終的には(様々な意味で)抵抗することを選択するわけだけれど、その選択の決意に繋げるために僕はこの言葉を意識していた。

 僕はなんというかディレッタンティズムな姿勢で哲学を嗜んでいるわけだけれど、そのなかでもとりわけ僕の内面に強く響いている実存主義には思い入れがあり、その思考の一端がこの作品には現れているはずだ。そのことも思考の端にでも置いてもらえると理解の一助になるんじゃないかなあなんて思う。

 感想の鋭さに唸っている僕だけれど、どれかと言えばNaGISAさんの言及した死ぬような暴力を振るわれてきた主人公の自然な姿が死であるってところや、九州壇氏さんの言及した「『他者には理解しがたい自己』を愛する心」について等がそうだ。思考の余地を残すためにも明言は避けるけれど、そういうことです。

 ……ここまで書いてて不安になっているのだけれど蛇足になってないかなあ。作者が自作品を説明することほど興が冷めることはないと思うんだよね(考察ゲーでもない限り)。

 でもこれ以上は流石に蛇足かな。しかし最後にひとつだけ言わせてもらうと、作中にはいくつもメタファー(自分ではそう思っている)があるので(例えば熱帯魚のシーン)、そういうところも踏まえて考えてみれば発見があると思うのです。

 

 

チョコレートを食べたら無罪になると思ったのに無期懲役だったので水死体になりたい。

 甘いものは総じて好きなんだけれども、その中でもチョコレートは飽きずに食べることが出来ているので好きなのだと思う。正直本当に好きかどうかを問われると自信はないのだけれど、そもそも自分が好きなものって分かると思えない。好きだと思っていても常に好きのボルテージがマックスな状態に置かれることはないわけで、それは好きではないという感情が混じっているからでは無いかしらん。チョコレートだって食べ過ぎるともう食べたくないと思うし、チョコでも板チョコは最近飽きてきた。毎日バリボリ食べていたというわけでもないのに、板チョコはくどいように思う。味が単調なんだ。最近は「神戸ショコラ」と「生クリームチョコレート」にハマってる。美味しいからね。でもそのブームだってそのうち過ぎ去ってしまうのだろうし、過ぎ去ってしまったら僕が好きなものってなんだろうって思うわけで、数ヶ月前はじゃがりこにはまっていたのに今はもうそれほど食べたくはないのと同じ様な気持ちになるんだろうなあ。好きとは一体? 

 ユウという好きなキャラクターがいる。Re:LieFのサブヒロイン(僕としてはメインヒロインなのだけれど)。僕は彼女が好きだから時々FAを投稿したり、bot を作って話しかけたり、バレンタイデーだからと自分にチョコ味のたい焼きをプレゼントしたり(ユウちゃんはたい焼きが好きなんだ)と、まあオタクっぽいことをしている。いや、っぽいというかオタクなんだけれど。でも最近は彼女の顔を見るのが辛くなってきた。好きな気持は変わらないし、他のキャラにも靡かないくらいには愛していると思う。でも辛い気持ちが出てきてる。それは相手が二次元だから触れられないというのがあるのかもしれないし、でも僕は好きが行き過ぎて拒絶に転向してきたんじゃないかなあと思っている。限界というやつだ。困ったものであるけれど、それって僕が板チョコをくどいと思っているのと同じことなんじゃないかなあなんて思うのだ。彼女はゲームのキャラクターで、ゲームの中に存在しているから(現実世界にタペストリーがあるけれど)、不変だ。年も取らないし、新しい表情が追加されることもない。新作も発売されてないから、彼女の他の面を見ることも叶わず、僕は単調な彼女の存在を享受し、自分の中で膨張させている。板チョコは同じメーカーのなら常に同じ味で、僕みたいな貧乏舌にとってはリニューアルしたってきっと同じ味に感じられるのだろうから単調なんだ。どちらも単調で、僕の中でその好きを維持しなければならないものなんだ。

 好きとは感情であり、感情は波であり、波を維持するにはエネルギーを必要とする。僕は単調なものにはエネルギーを割きたくないと思っているのかもしれない。単調という永遠の暫定措置。僕はチョコを食べたら快感の中で溺れるものだと思っていたのに、実際は飽きという無期懲役が迫ってくるのみだった。でも飽きなんてのはチョコに限らずあらゆるものに付随してくるものなので、僕はエネルギーを注いで好きを好きのままにしなくてはならないのでしょう。一瞬の快楽ならばエネルギーを使ったことに気が付かないが、長い快楽を維持するのにはエネルギーが消費されているのだと気が付くのは当然のことに違いない。

 今も神戸ショコラを口に含みながら文章を綴っているのだけれど、前食べた時はもっと美味しかったように思う。香ばしくて、苦味と甘味の調和が快感をもたらしてくれたはずなんだ。きっと飽きが近付いているのだろうなあ。でも味に対する好きを維持しようと思ってもそれはなかなか難しいことで、むしろ不可能なのかもしれないので、僕は味ではないものを好きでい続けたいなあと思うのでユウちゃんのことを想い続けたい。早く新作が出てくれないかなあと心待ちにしている。

 好きに囚われた人間なので僕は好きに溺れて水死体になりたい。